第四幕


 第四幕



 私を乗せたティルトローター式の軍用輸送ヘリコプターはアラスカを脱出し、悪天候の中を飛び続ける。機内の壁際に設置された椅子は金属パイプの骨組みに布が張られただけの簡素な物で、あまり座り心地はよろしくない。また私の左右の座席には雪上迷彩服に身を包んだアーロンの部下達が着座し、正面の座席には膝を突き合わせて向かい合う格好で、アーロン本人が腰を下ろしている。当然ながら碌に身動きもとれず、逃走や抵抗を試みる事は全くの無意味だった。

 ふと窓の外に視線を向ければ、眼下には流氷が浮かぶ北極海が広がっている。どうやらこのヘリコプターは、北に向けて針路を取っているらしい。

「暇だねえ、ロジオノフ博士。目的地に到着するには未だ暫く時間がかかるから、こんな時は、ご歓談タイムとまいりましょうか」

 向かいに座るアーロンが、ニコニコと無邪気な笑顔をその顔に張り付かせながら提案した。また提案と同時にクチャクチャと噛んでいたチューイングガムをぷうと膨らまし、緊張感の欠片も無い。

「歓談?」

「そう、ご歓談の時間だ。もしかしたらこれから永い付き合いになるかもしれないし、なるべく早い段階から、互いの親睦は深めておいた方がいいだろう? 残念ながら俺はホモセクシャルじゃないが、それでもあんたみたいな色男と親密になるのは大歓迎だ。それにあんたは、俺に聞きたい事が山ほどあるんじゃないのかな? ついでに俺もまた色々と、あんたには聞いておきたい事があるんでね」

 そう言い終えたアーロンの膝の上には私が発掘した遺物が納められたトランケースが置かれているが、いつの間にかその上に、ノート大のタブレット端末も置かれていた。そしてアーロンはそのタブレット端末を起動させると、そこに表示された情報を参照しながら、私との会話を開始する。

「ヴァシリー・アドリアーノヴィチ・ロジオノフ。男性。一九七七年生まれの三十九歳で、独身。生まれはロシア連邦西部のスモレンスクだが、大学進学と同時にサンクトペテルブルクに移り住む。卒業後は同大学の研究員を経て、現在は史学部の客員教授。新米の考古学者として経験を積む一方で、ロシア科学アカデミーの準会員でもある。専門はエーゲ文明と古代ギリシャ文明。特にクレタ島での発掘作業に力を入れ、現在の主たるスポンサーはオリファー財団のロシア支部。これまでのところはこれと言った功績は無かったが、今年二月に古代ミノア文明の大規模な邸宅跡を発掘して、一躍脚光を浴びた。……とまあ、あんたの略歴をざっくりと紹介するとこんなところだが、これで間違い無いかな、ロジオノフ博士?」

「ああ、間違い無い。よく調べたもんだな」

 私は頷きながら肯定した。

「それなら結構。このくらいは、どこの国の諜報機関だって朝飯前さ。さて、ここで問題になって来るのが、今年の二月にあんたがクレタ島で発掘した遺物の正体だ。まずは石棺の中に納められていた、謎の巨人の死体についてだが……。いや、死体と表現するのは正確じゃないのかな? そもそもアレは、純然たる生物ではないからね。しかしまあ、生体部品を使っていると言う意味では、既に活動を停止したアレは死体なのかもしれない。勿論その生体部品の正体も、今の我々には謎のままだ」

「言い方が、回りくどいな」

「仕方が無いさ。このトランクケースの中身もそうだが、あんたが発掘した遺物に関しては、あまりにも情報が少ない。少な過ぎる。だからそれらを如何なる言葉で表現したものか、我々も計りかねているんだよ」

 そう言ってタブレット端末を操作しながら、アーロンは再びチューイングガムをぷうと膨らませて無邪気に笑う。その表情は新しい玩具を与えられた幼児の様に純粋な喜びに満ちており、文字通り、まるで邪気が無い。

「話を戻させてもらうが、問題なのは、その石棺に納められていた巨人の正体だ。ロジオノフ博士、あんたもそれに関しては、薄々気付いているんだろう? ええと、何て言ったかな? ヒュペ……ヒュペル……」

「ヒュペルボレイオス」

「そう、それだ。ヒュペルボレイオス。それにしても、何度聞いても発音し辛い言葉だよね。もっと簡単な英語にしてくれないと、アメリカ人である俺には馴染みが薄くって、いつまで経っても覚えられやしない。『マイケル・ジャクソン』くらい分かり易い英語にしてくれないと、世間の人気者にはなれないよ?」

 自分の発言が面白かったのか、アーロンは手を叩きながらケラケラと笑った。しかし私には、一体何が面白いのか理解出来ない。また彼の部下達もアーロンのこのような振る舞いには慣れているのか、アサルトライフルを脚の間に立てた姿勢のまま背筋を伸ばして前方を見据え、無関心を決め込む。

「さてと、それじゃあ博学なロジオノフ博士には、そのヒュペルボレイオスとやらが何なのかを解説していただこうか」

 こちらを指差しながらのアーロンの要請に、私は口を開く。

「ヒュペルボレイオス。ギリシャ神話に登場する、遥か北方の、北風の彼方の土地に住むとされる伝説上の種族の名称だ」

「そうそう、その通り。いいよ、続けて続けて」

「ヒュペルボレイオスは光明神アポロンを崇拝する敬虔な種族で、自由に空を飛び回り、豊かな知識を有すると同時に不死であったとされている。また彼らが住む土地は温暖な気候に恵まれて夜が無く、肥沃で生命に満ち溢れ、永遠の平和が約束された理想郷であったらしい。また一説には、巨人であったとも言われている」

 ひゅうと、アーロンが口笛で囃し立てた。彼の本当に無邪気な笑顔が、胸糞が悪くなるほど癪に障る。

「いいねえ、ヒュペルボレイオス。ギリシャ神話。光明神アポロン。理想郷。いやあ、夢があってワクワクするよ。まるでテレビでヒーローが大活躍するアニメを観ながら、全てが現実に存在するものと信じて疑わなかった子供の頃の様な気分だ。そうは思わないかい、ロジオノフ博士?」

 再び手を叩きながら嬉しそうに笑い、アーロンは喜びを隠そうともしない。

「さて、それではついでにお聞きしようか。そのヒュペルボレイオスが住む地に入ろうとした者がどうなるのか、それも教えてもらえるかな?」

 一通り笑い終えたアーロンが、興味深げに身を乗り出しながら返答を求めた。

「神話によれば、ヒュペルボレイオスが住む地に侵入しようとした者の前には絶壁が立ちはだかり、生命を得たその絶壁が侵入者を滅ぼすと伝えられている。……まあ、あくまでも神話で語られている内容だがね」

「なるほど、確かに神話で伝えられている内容なんてものは、眉唾だ。しかしその眉唾な代物を、あんたはクレタ島で発掘してしまった。ヒュペルボレイオスそのものと思われる巨人の死体と、そして何より、その腹部に納められていた決定的なブツだ。そのブツが、今はこのトランクケースに納められている」

 そのアーロンの言葉に、私は思い出す。クレタ島での発掘調査で、謎の巨人の腹部に空いた穴から発見された、明らかに異質な存在の事を。

「それではここで、このトランクケースの中身について議論する前に、肝心の謎の巨人であるヒュペルボレイオスがどうなったのかについて確認しよう。それではロジオノフ博士、質問です。あなたが発見したヒュペルボレイオスと思われる巨人は、今現在はどこの誰が所有、及び管理しているのでしょうか? 三秒以内にお答えください」

 そう言うと、アーロンは楽しそうに指を三本突き立てて私を急かすが、そんなお遊びに付き合ってやるほど私はお人好しではない。

「残念ながら、その答えは私には分からない。肝心の巨人は発掘作業の途中でギリシャ政府によって強制的に接収され、それ以降の行方は、今現在をもってしても謎のままだ。出来れば無傷のままロシアかアメリカの研究機関に輸送したかったが、何分にも物が大き過ぎた。極秘裏に輸送するのは、私個人の力では不可能だったよ」

「ビンゴ! その通りだ。世界中の研究機関や諜報機関が喉から手が出るほど欲しがったヒュペルボレイオスだが、発掘調査のスポンサーであったオリファー財団に先んじて、ギリシャ政府が文字通り横取りしてしまった。そしてその後の行方だが、我々CIAが調べた範囲では、未だにギリシャ軍の倉庫の中で手付かずのまま保管されているらしい。つまり、強引に接収してはみたものの、結局はギリシャ政府の手に余る代物だったようだ。まあ、あの国は政治的にも経済的にも瀬戸際に立たされているから、今はそれどころじゃないんだろうさ」

 両手を広げて肩をすくめ、やれやれとでも言いたげなジェスチャーと共に、深い溜息を吐くアーロン。彼はチューイングガムをクチャクチャと噛みながら、微笑みを絶やさずに言葉を並べる。

「だがとりあえず今は、あのヒュペルボレイオスについては考えない事にしよう。どっちみちあれは、ボロボロに劣化した死体に過ぎない。仮に手に入れたとしても、得られる情報はたかが知れているよ」

「……まるで、どこか別の場所に、生きたヒュペルボレイオスが現存しているかのような言い方だな」

「さて、どうだろうね」

 私の疑問に、アーロンは意味深な笑みを浮かべながら言った。

「それでは改めて、このトランクケースの中身についての話に戻ろうか、ロジオノフ博士。あんたは発掘したヒュペルボレイオスの死体をギリシャ政府に横取りされたが、その死体の腹部から発見された別の遺物を回収する事には成功した。なにせ、サイズが小さかったからね。他の荷物に紛れ込ませてしまえば、国外へと持ち出す事も比較的容易だったんだろうさ」

 そう言うと、アーロンはトランクケースの蓋をコンコンと叩いて、ほくそ笑む。FSBのソゾンもそうだったが、果たして私の行動は、どこまで世界の諜報機関に筒抜けなのだろうか。

「その通りだ、アーロン。確かにキミの言う通り、私はその遺物をギリシャから持ち出し、一度はサンクトペテルブルクの自分の研究室へと持ち込んだ。だが、今はその事を後悔している。あの時早々にオリファー財団に遺物を供出していれば、FSBに追われて故郷を失う事も無かっただろうし、今こうしてキミと一緒にヘリに乗っている事も無かっただろう。自分の手で謎を解明したいと言う名誉欲に負けた結果が、この有様だ。笑いたければ、笑うがいい」

 自嘲気味にそう答えた私を見据えながら、アーロンはニコニコと微笑んでいる。果たしてその笑みが私を嘲笑ってのものなのか、それとも単に彼の地の表情なのかは、判別が付かない。

「後悔する事は無いさ、ロジオノフ博士。結果としてこの遺物は、我々CIAの手に落ちた訳だからね。勿論今のあんたは、その事実に不満を抱いているだろう。しかし時を待たずして、その不満も霧散する。何故ならFSBやオリファー財団よりも我々CIAに協力する方が得策だった事を、思い知る日が来るだろうからさ」

 何を根拠にしているのかは分からないが、自信に満ちた口振りでアーロンはそう言うと、膝の上に置いたトランクケースのナンバーロックに手をかけた。

「それじゃあ、そろそろ待望のご開帳タイムと行こうか。番号は?」

「……9125」

 私から聞き出した番号を、ナンバーロックに打ち込むアーロン。すると彼の手の中で、カチャリと言った金属音と共に、ロックが解除された。

「それではメインイベントです! オープン、セサミ!」

 能天気な掛け声と共にアーロンはトランクケースの蓋を開け、その中身を肉眼で確認すると、ひゅうと口笛を吹いて叫ぶ。

「イエス! これだよ、これ」

 興奮を隠そうともしないアーロンの隣に座る彼の部下が、正面に顔を向けて姿勢を正したまま、横目でチラリとトランクケースの中身を盗み見た。

「これが、ヒュペルボレイオスの住む地へと赴くための『鍵』か。いやあ、事前に資料を見て知ってはいたけれど、本当に気持ち悪いな、こりゃ」

 そう言うと、アーロンはトランクケースの中に納められていた遺物をそっと手に取って持ち上げ、興味深げにまじまじと観察している。私がクレタ島でヒュペルボレイオスの死体の腹腔から発見し、FSBに追われながらもロシアから持ち出す事に成功した、謎の遺物。それは人間の新生児よりも二回りほど小さいくらいの、奇妙な生物のミイラだった。

「気持ち悪い。本当に、気持ち悪いねえ」

 その言葉とは裏腹に、アーロンはニコニコと嬉しそうに笑いながら、そのミイラを観察し続けている。ミイラの一部は死蝋化し、ほぼ生前の姿を留めている箇所も多い。また人間のミイラにしては異常に頭部が大きく、頭頂部が隆起し、先端が鋭く尖っていた。

「アーロン、質問だ」

「何だい、ロジオノフ博士?」

「キミはその遺物を『鍵』と呼んでいるが、一体それが、何の鍵だと言うんだ? そして鍵と言うからには、それで開けられる、対になった『錠』が存在するんだろう?」

 私の問いに、アーロンは待ってましたとばかりに解答する。

「その通りだよ、ロジオノフ博士。あんたもなかなか、勘がいいじゃないか。確かにあんたの予想通り、このミイラで開けられる『錠』が存在する。まあ、未だ開けられるだろうと予測されている段階でしか無いんだがね。それでもこのミイラが現状を打破してくれる希望の光になるだろうとの期待を込めて、我々はあえて、この気持ちの悪い干物を『鍵』と呼んでいるんだよ」

 抽象的で、よく分からない説明だった。そこで私は、更に問う。

「もう少し、具体的に教えてくれないかい? その開けられるかもしれない『錠』と言うのが、果たしてどこの何だと言うのかと言う点を、ハッキリとさ」

「急かすな急かすな。慌てる乞食は貰いが少ないよ、博士。それにそんなに焦らなくても、このヘリが向かっている先こそが、まさにその『錠』が存在する場所なんだ。だからもう少しだけ待ってもらえれば、あなたの疑問は自然と氷解する事になる。それまではワクワクドキドキしながら、期待に胸を膨らませていてくれよ」

 回答を故意に先延ばし、無邪気な笑みを漏らしながら私の反応を楽しんでいるアーロンの態度が、正直に言って気に食わない。しかし彼の言う通りに、このヘリコプターが目的地へと到着するのをじっと待つ事しか、今の私に残された選択肢は無いのだろう。

「さて、ロジオノフ博士。これであんたが発掘した二つの遺物であるヒュペルボレイオスの死体とこのミイラに関しての話は、今は一旦、終わりにさせてもらおう。だがあんたには、まだまだ俺に聞きたい事がある筈だ」

 そう言うと、アーロンは謎の遺物であるミイラをトランクケースの中に納め直してから、シートベルトを外して立ち上がった。

「歓談タイムを続ける前に、少し休憩にしようか。プライムタイムの大人気トークショーにだって、コマーシャルの時間は必要だからね。そうでないと、トイレで小便をする暇もありゃしない。それに何よりも、俺は腹が減った。そろそろ何か食べないと、これ以上は働く気がしないね」

 ヘリコプターの内部に設置された座席に向かい合う格好で座る部下達の間を、アーロンは長身痩躯な身体を横にすると、すり抜けるようにして通過する。そしてすり抜けながら陽気な鼻歌を歌い、踊るように尻を振って歩く彼の姿は、本当に吐き気がするほど楽しそうだった。

「博士、あんたは何が食いたい? とは言っても、ここには米軍の不味いMREか、カップラーメンしか無いけどね」

 アーロンに尋ねられて初めて、私は自分がひどく空腹である事に気付き、腹を撫でる。考えてみれば、今朝早くにヤコネとバノックを食べて以降は、ネイサンの店での紅茶しか口にしていない。大切な人を失った直後でも腹は減るのだと言う事実に、人間の生理現象の非情さを痛感した。

「……カップラーメンにしてくれ」

「ほいきた、ラーメンをご所望だね。それじゃあ準備が出来るまで、ちょっと待っててくれよ」

 私の返答を確認したアーロンは、コクピットの背後に設置されたカーゴを漁る。そしてカーゴ内からカップラーメンを二つ取り出すと、ペットボトルに詰められた水を電気ケトルに注ぎ、機内の電力を使って湯を沸かし始めた。当然ながら湯が沸くのを待っている間も、彼は鼻歌を歌い続けている。

「お待たせしたね、博士。揺れるヘリの中で食うには危ないかと思って湯は少なめにしたが、それでも零さないように気を付けてくれよ? ああ、未だ湯を注いだばかりだから、もう三分ほど待ってくれ。それと、どこか贔屓にしているメーカーはあったかい? 俺は、この台湾のメーカーがお気に入りでね」

「特に贔屓のメーカーは無いよ。強いて言えば、チリ味が好きだ」

「それは丁度良かった。チリ味とチキン味を作ったんで、博士にはチリ味の方をあげようじゃないか」

 熱湯が注がれたカップラーメンを両手に一つずつ持ったアーロンは、再び部下達の間をすり抜けて戻って来ると、私にチリ味のカップラーメンとプラスチック製のフォークを手渡してから自分の席に腰を下ろした。そしてスマートフォンの時計で正確に三分を計ってから上蓋を剥がして、暖かな湯気が沸き立つ麺にフォークを突き立てる。

「部下達には、食べさせなくてもいいのかい?」

 麺をすするアーロンに私が尋ねると、彼は一瞬だけきょとんとした顔をした。そしてすぐに無邪気な笑顔を取り戻すと、隣に座った部下の一人の耳元に口を近付けてから、おどけたような口調でもって問いかける。

「親切なロジオノフ博士が、お前達にも食事を与えなくてもいいのかと心配してくださっているぞ? ほらほら、ぼくちゃん、食べたいでちゅか? 食べたくないでちゅか? 正直にお答えくだちゃいな」

 幼児言葉でそう言って部下のヘルメットをコンコンと叩きながら、アーロンはこれ見よがしに麺をすすってみせた。しかしスープが頬に撥ねかかるほどの至近距離で挑発されているにもかかわらず、部下は瞬き一つせずに前方を見据えて姿勢を正したまま、まさに微動だにしない。

「ほら、いらないってさ。だからロジオノフ博士、あんたもこんな消耗品の捨て駒どもの心配なんかしてないで、さっさとラーメンを食べちゃってくれよ。麺が延びちまったら、せっかくこの俺が作ってやったのに、その甲斐が無い」

 ニコニコと微笑みながらそう言うと、食事を再開するアーロン。彼の部下達に対する態度に人間的な暖かさは無く、私はその事実にゾッとすると同時に、よく訓練された部下達の仕上がり具合にも恐怖した。

「……それじゃあ、いただくよ」

 ボソリと呟いてから、私は麺をすする。途端にチープなジャンクフードの味が舌の上に広がるが、そのジャンクさに慣れ切った都会育ちの私にはやけに懐かしい味であり、正直言って美味い。しかし今はその美味さが、やけに味気無く感じる。と言うか、食っている気がしない。

「ん? どうした、博士? このメーカーは、お気に召さなかったかい?」

「いや、何でもないよ」

 フォークを持つ手を止めた私をアーロンが訝しんだので、私は麺をすするのを再開した。しかしやはり、美味い筈のラーメンの味が、舌の上を素通りして行く。こんな所でアーロンなんかと向かい合いながら食うラーメンよりも、凍れる雪原でヤコネに半ば無理矢理食べさせられたカリブーの生肉の方が何倍も美味く感じられたし、今はむしろあの味の方が懐かしい。

「いやあ、やっぱり寒い場所で食うカップラーメンは美味いねえ、博士。そうは思わないかい?」

「……そうだな」

 満面の笑みを浮かべながら美味そうにカップラーメンを食うアーロンが同意を求めて来たので、私は上の空のまま、適当に相槌を打った。やはり美味い筈のチリ味のカップラーメンを幾ら胃に収めても、まるで食った気がしない。

「さて、それじゃあロジオノフ博士、食事を終えたならご歓談タイムを再開するとしようか。コマーシャルの時間はもう終わりだよ? トイレには行って来たかい? 残念ながら、ポップコーンとコーラは売り切れだ」

 何が楽しいのかケラケラと笑いながらそう言ったアーロンは、スープの最後の一滴まで飲み終えた私のカップラーメンの容器とフォークを回収すると、自分の分も含めたそれらを隣に座る部下に渡して廃棄させた。そして改めてこちらへと向き直ってから、まるで邪気の無い朗らかな笑顔をその顔に張り付かせたまま、私との質疑応答を再開する。

「まずは、あんたが疑問を抱いている事に関して、質問を受け付けようか。そしてその質問に、俺が答えられる範囲で答えてやろう」

「それなら、是非にも聞きたい事がある。何故CIAが私の発掘した遺物を欲しがり、あまつさえ、私自身を拉致するのかについてだ。よりにもよって、オリファー財団が籍を置くアメリカの諜報機関である、CIAがだ」

「ビンゴ! それだよそれ、まさにその点について質問してほしかったんだ。いやあ、ロジオノフ博士。あんたは男女間のいざこざに関しては無粋な童貞くんだが、いざビジネスの話となれば痒い所に手が届く、なかなか仕事上手な人間の様だね。いちいち会話を誘導する手間が省けて、助かるよ」

 パチパチと手を叩き、アーロンは私を賞賛した。しかし当然ながら私は、そんな彼の態度が癪に障って会話に集中出来ない。

「博士、FSBに追われたあんたは合衆国に本拠を置くオリファー財団に保護を求め、その結果として合衆国に亡命する事を許可された。だからこそFSBさえ排除出来れば、誰も手を出さずとも自動的に、あんたが発掘した遺物もあんた自身の身柄も合衆国へと渡る。ところがそこに、我々CIAが割り込んで来て、遺物とあんたを横取りした。これは果たして、何故なのか。オリファー財団が全てを手に入れた後に、CIAが協力を求めるなり情報を共有するなりすればいいのではないか。同じ合衆国の組織であり、CIAはむしろ亡命を許可した体制側なのだから、そうした方が手間も省けるだろう。この点について、聞きたいんだね?」

「そうだ、その通りだ。何故同じ合衆国のCIAとオリファー財団とが、私の遺物と身柄を奪い合う?」

 私の問いに、アーロンは再び両手を広げて肩をすくめ、深い溜息を吐く。勿論、その表情は無邪気に微笑んだままだ。

「ロジオノフ博士、やっぱりあんたはロシアの人だ。そしてロシアは、なんだかんだ言っても、未だに旧ソ連時代の思想から脱却し切れていないのさ。つまりロシアは、いくら市場経済を導入しようと政党が多様化しようと、企業や民衆が国体に管理されていると言う主従関係は変わらない。要は、いつまで経っても共産主義の亡霊から逃れられていないんだよ。その証拠に、旧ソ連崩壊後の新興財閥であるオリガルヒもロシア国内では政府の言いなりだし、そうはなりたくないオリガルヒは西側諸国に脱出している」

 ここまで語り終えたアーロンは革ジャンの内ポケットから財布を取り出し、一ドル紙幣を一枚抜き出すと、こちらに向けて拡げてみせる。

「だが、合衆国は違う。合衆国で力を持つのは、常に金を持つ者だ。それは、このおっさんが国家元首だった時代から変わらない」

 そう言って笑いながら、アーロンは手にした一ドル紙幣をパチンと指で弾いた。彼の言っているおっさんとは、紙幣の肖像に描かれた、ジョージ・ワシントン初代合衆国大統領の事だろう。

「だから合衆国では金さえ持っていれば企業だろうと個人だろうと、国家体制と同等か、もしくはそれ以上の権力を掌握する事が出来る。そして幸か不幸か、オリファー財団はその国家体制並の権力を掌握する企業の一つだ」

「そこまでは、私にだって理解出来る。しかしそれは、オリファー財団とCIAが協力し得ないと言う理由にはならない筈だ」

 私の言葉に、アーロンは天を仰いだ。そして呆れたような、それでいて楽しんでいるような口調でもって、私を小馬鹿にする。

「ロジオノフ博士、あんたはロシア人である以上に、どうやら筋金入りのガリ勉くんらしい。本ばかり読んでいる学者さんとは得てしてそう言うものなのかも知れないが、あまりにも政治に対して疎過ぎる」

「それはすまない。キミと違って、考古学一筋の人生なもんでね」

 自虐を込めた皮肉の言葉が、ついつい私の口から漏れた。

「まあいいさ。とりあえず今はそんな博士にも分かり易いように、状況を単純化して教えてあげようじゃないか」

 再びアーロンは革ジャンの内ポケットから財布を取り出すと、今度は二十ドル紙幣と五十ドル紙幣を抜き出し、そこに描かれた肖像の人物をこちらに向かって提示する。

「合衆国と言う国は、ロシア連邦と違って、一枚岩じゃない。現在の合衆国の議会政治の実権は、事実上、民主党と共和党の二大政党によって掌握されている。つまり、このおっさんどもの後継者達によってだ」

 二十ドル紙幣の肖像はアンドリュー・ジャクソンで、五十ドル紙幣の肖像はユリシーズ・グラント。近代合衆国の歴史は専門外なのでよく知らないが、アーロンの口振りからすると、どちらかが民主党で他方が共和党に所属していたらしい。

「勿論他にも政党は存在するが、今はそれらの事は考えなくてもいい。とにかく現代の合衆国では民主党と共和党の二つの政党が、絶えずいがみ合っていると考えてくれ」

 紙幣を戻した財布を、内ポケットに納め直すアーロン。しかし私も、人を小馬鹿にしたかのような彼の口振りに抗する。

「合衆国が二大政党制である事くらいは、いくら私が政治に疎いとは言え、さすがに知っているよ。重要なのは、CIAとオリファー財団との関係だ」

 改めて問い直した私に向かって、アーロンは落ち着くように手振りで促した。どうやら気付かない内に、私の語気が荒くなっていたらしい。

「まあまあ、落ち着いてくれよ、ロジオノフ博士。ここまでは、最低限の基礎知識を確認させてもらっただけだ。本題はここからだよ。……あ、ガム食う?」

「……いや、結構。ガムは嫌いだ」

「ガムが嫌い? ほんと? 珍しいね。ロシアでは、あんまりガムは食わないのかい?」

 不思議そうにそう言いながら、板ガムを一枚口に放り込むアーロン。私に言わせれば、こんな状況下でも平気でガムをクチャクチャと噛んでいる彼の精神構造の方が、信じられない。

「それでまあ、オリファー財団は民主党を支持しているんだよね。それはもう、豊富な財力でもって熱心にロビー活動を行い、実質的に民主党議員の半数以上を影響下に置いている。自分達にとって有益な法案を数の力で押し通し、今では第二のロスチャイルド家と言われるほど、合衆国の経済界ではやりたい放題さ。いくら金を持っているからと言っても、近年ではその影響力が目に余る」

 一旦言葉を切ったアーロンは、新しく噛み始めたチューイングガムをぷうと膨らませてみせた。

「だがCIAは米軍や国防総省と同じく、伝統的に共和党支持だ。その結果として我々CIAとオリファー財団とは同じ合衆国内の組織でありながらも、真っ向から対立している。特に民主党が政権与党である今現在は、CIAもFBIも米軍も、表立ってはオリファー財団に手が出せない有様だよ」

 アーロンは、深く嘆息する。

「とまあ、これでだいたいの事情は分かっただろう、博士? あんたが発掘した遺物とあんた自身の身柄が欲しければ、それらがオリファー財団の手に渡った後では手遅れなんだ。だからその前に、横から掠め取らなきゃならないのさ、哀しい事にね」

 一通り説明を聞き終えた私は、概ね得心した。私の発掘作業のメインスポンサーであるオリファー財団が民主党支持である事は以前からそれとなく知ってはいたが、CIAが共和党支持だと言うのは、恥ずかしながら初耳だったと白状する。そして一度オリファー財団の庇護下に入ってしまえば、たとえ国家権力であるCIAや米軍であっても容易く手が出せないと言うのは、正直言って驚きだ。

「当然だが詳細を語り始めれば、状況はそんなに単純なものじゃない。二つの政党を支持する様々な団体や企業や個人の事情や思惑が複雑に絡み合って、CIAとオリファー財団の二者だけで全てを決定する事は、既に不可能なのが現状だ。特に、オリファー財団の創始者とキリスト教福音派、それに全米ライフル協会の仲が険悪でね。だが今は、そこまで深く理解する必要は無い。FSBとCIAとオリファー財団が三つ巴になってあんたを確保するために奔走し、惜しくもFSBは脱落して、今現在は我々CIAがトップを独走している事だけを覚えておいてくれ。そして、そのトップランナーに協力する事こそが、あんたにとっても最良の選択だと言う事もな」

 そう言うと、ニコニコと無邪気に微笑みながら、アーロンは私に向かって意味深なウインクをしてみせた。その気色悪さと薄ら寒さに、私は怖気立つ。

「……くだらん」

 膝の上に置いた手をわなわなと震わせながら、私は呟いた。

「ん? 何か言ったかい、博士?」

「くだらんと言ったんだ。民主党がどうとか共和党がどうとか、そんなくだらん政治的な理由のために、ヤコネは死んだと言うのか? そんなくだらん大人の事情に巻き込まれて、未だ子供だったヤコネの命が失われたと言うのか?」

 私は頭を抱えて、怒りと悲しみと空しさのあまり、今や手だけでなく全身をがたがたと震わせる。気付かない内に両の瞳から零れ落ちていた涙が眼鏡のレンズを濡らし、噛み締めた唇からは血の味がした。そしてヤコネの名前を口にした事によって、改めて彼女がもうこの世にはいない事を実感し、喉の奥から搾り出すような嗚咽が漏れ続ける。

「ヤコネ? 誰それ? ……ああ、あのエスキモーのお嬢ちゃんか。まあ、確かにあんたの言う通り、政治的な理由で子供が死ぬなんて言うのはくだらない事だ。しかし残念ながら、そのくだらない事を中心として回っているのが、今の文明社会なんだよ。アフリカでは鉱物資源の利権を巡って少年兵が殺し合っているし、北朝鮮では太った独裁者の権威を守るために子供達が餓死している。しかも後進国だけに限った話ではなく、先進国でも権力を独占した害悪老人どもの都合に振り回されて、失業した若者は貧困層へと凋落するばかりだ。だからロジオノフ博士、あんたがいくら世を儚んだところで、所詮世の中なんてのはくだらない事が蓄積された糞の山の様なものなのさ」

 無邪気に笑いながら事も無げにそう言ってのけたアーロンは、右のポケットから小型の自動拳銃を取り出すと、左のポケットから裸のままの銃弾を六発ほど取り出した。そして自動拳銃の空になった弾倉に銃弾を詰めると、グリップ内に再装填してから、スライドを引いて初弾を薬室へと送り込む。彼の手中に収められた自動拳銃によってヤコネの命が奪われたのかと思うと、私は吐き気をもよおす事を禁じえない。

「しかし博士、悲観するばかりじゃ能が無い」

 自動拳銃を革ジャンのポケットに納め直したアーロンは、窓の外を見遣りながら言う。

「世の中はくだらない糞みたいな事ばかりだが、時として愉快で楽しい、ワクワクドキドキするような面白い玩具と出会える事もあるからね。そして今から向かう先に、その面白い玩具が転がっている。だからその玩具を、俺達は心行くまで楽しもうじゃないか。……ほら、そろそろ目的地が見えて来る頃だ」

 アーロンに倣って、私もまた窓の外を見遣った。戸外は未だ暗く、眼が慣れるまで暫しの時間を要する。そして闇夜に慣れて来た視界の中に浮かび上がって来たのは、広大な北極海にポツンと浮かぶ、氷に閉ざされた小さな島。一見すると巨大な流氷の様なその島が、私達を乗せたヘリコプターの針路上に鎮座していた。

「あの島が、目的地か?」

「その通り。直径一㎞にも満たない小さな島で、正式な名前も無く、地図にも載っていない。だがとりあえず俺達CIAは、ニッカネン島と呼んでいる。フィンランド人のニッカネンと言う男が最初に発見したんで付けられた、便宜上の名前だがね。ああ、スキー選手のマッチ・ニッカネンとは無関係だ」

 そう言って笑うアーロンの声を聞いている最中にも、そのニッカネン島と呼ばれる小島にヘリコプターは接近し、やがてその全貌を露にする。

 アーロンの言う通りに、その島の海上に露出した部分は最も距離が確保出来る箇所でも一㎞に満たず、垂直離着陸機でなければ滑走路を確保する事もままならない。そして島の基部には鉱物によって成る土壌が存在するのかもしれないが、それらは永久凍土によって厚く覆われ、その外観は巨大な流氷とまるで区別が付かなかった。

「さて、着陸だ」

 独り言の様にボソリと呟いたアーロンの言葉に従うかのように、島の直上へと辿り着いたティルトローター式の軍用輸送ヘリコプターは、左右のローターを九十度回転させて着陸態勢へと移行する。そしてゆっくりと下降を開始すると、多少機体を震動させながらも、やがて氷と雪に覆われた島の平原へと着陸した。

 エンジンが停止されたヘリコプターの後部ハッチが開き、アーロンの部下達が我先にと地表に降り立つと、私達を迎えるように左右に並んで捧げ銃の姿勢を取る。

「さあ、ロジオノフ博士。メインイベントの待つ会場へと赴こうじゃないか。言っておくが、一応はあんたとこの遺物が今日の主賓なんだから、堂々と胸を張ってヴァージンロードを行進してくれよ? そうでないと、ホストを務める俺の面目が丸潰れだ」

 おどけてみせるアーロンの言葉を無視して、私はヘリコプターの後部ハッチから雪原へと降り立った。白一色の島の地表には所々に投光機が点在し、ぼうっと幻想的に光り輝いている。ハッチの左右に立ち並ぶアーロンの部下達が一様にかしこまっているのが、なんだか出来の悪いコメディ番組の出演者になったようで、ひどく落ち着かない。そして空を見上げれば、今が一体現地時間で何時なのかは分からなかったが、闇は深く、夜明けまでは未だ暫く時間が必要に感じられた。

「寒いな。海に囲まれている分、アラスカ以上か」

 骨の髄まで凍りつくかのような寒風に身を晒されて、私は身をすくめる。ここは北極海の只中の、永久凍土の上。アラスカよりも更に北極点に近い、まさに極寒の地だ。しかも今の私は、アラスカでは幾度もお世話になったアティギもアノガジェも、ましてやアザラシ革のブーツも身に付けていない。スーツの上からダウンコートを羽織っただけの軽装ではそうそう長時間戸外に出ている事は出来ないし、特に革靴を履いただけの足先からは、瞬く間に体温が奪われて行く。

「いやあ、やっぱり北極は糞寒いな、博士。しかし寒さなんてものは、ちょっと身体を動かせば、すぐに慣れるもんさ。それに今は寒さなんかよりも、あんたに紹介したい人物がいる。ほら、噂をすれば影とはよく言ったもんで、ちょうどその人物がこっちに来るところだ」

 馴れ馴れしく私の肩を抱きながら、そう言って白い息を吐くアーロン。彼が指差す先に眼を向けると、投光機の光の中をこちらへと小走りで駆けて来る小柄な人影が一つ、雪原の上に確認出来た。

「ようこそいらっしゃいました、ロジオノフ博士。首を長くしてお待ちしてましたよ。ここは外界から閉ざされた、文字通りの絶海の孤島なもんでしてね。こうしてお客様を迎える機会でもなければ、刺激が少なくって仕方が無い」

 駆け寄って来た小柄な人影はそう言いながら身を寄せると、たじろぐ私の右手を掴み取り、半ば強引に握手を交わす。ゴアテックス製の防寒着の上から無理矢理白衣を羽織った彼はニグロイドの男性で、外観から推測出来る歳の頃は、六十代前半。度の強い銀縁眼鏡を掛けており、半分以上が白髪となった髪も髭も伸び放題で、身だしなみに気を使っているとはお世辞にも言い難い。

「ああ、申し遅れました。私は、レナード。レナード・ルジャンドル。ファーストネームの方が気に入っているので、レナード博士と呼んでください。三流大学の出身ですが、博士を名乗っているからには一応は博士号を持つ学者の身で、専門は工学と物理学、それに神秘学です。以前は市井の貧乏研究者でしたが、慮外の縁から今はCIAの命令でこのニッカネン島に逗留し、コモリオムの研究をしております」

「コモリオム?」

 レナード博士と名乗った小男の発した聞き慣れない単語を、私は聞き返した。

「そうです、コモリオムです。おや? もしかして、未だアーロンから聞いていませんでしたか?」

 想定外の事態に、少し驚いている様子のレナード博士。彼の表情はその実年齢よりも、随分と幼く見える。

「おっとレナード博士、その発言はちょっとばかりタイムアウトだ。ロジオノフ博士には未だコモリオムの詳細については話していないんだから、ネタばらしはご法度だよ? 分かった?」

 手をTの字に組んだアーロンが私達の間に割って入り、まるで約束を守れなかった子供を諌めるような口調でもって、レナード博士に釘を刺した。するとやはり怒られた子供の様に、レナード博士は気を落としてしゅんとなる。

「……何を隠しているんだ、アーロン? コモリオムとは、一体何だ?」

「ヘリの中で話した、あんたが発掘した『鍵』と対になる、『錠』の事さ。言葉で説明するよりも実物を見てもらった方が話が早いし、驚いてもらえると思ってね。俺は、サプライズパーティーってやつが大好きなんだよ。もっとも好きなのは驚かす方で、驚かされる方は御免だがな」

 私の問いをはぐらかすようにそう言ったアーロンは、右手に持ったトランクケースをコンコンと叩いて、『鍵』の存在を暗示してみせた。するとレナード博士が眼を輝かせながらトランクケースを奪い取り、雪原の上に跪いてそれを抱き締めると、興奮し切った様子で歓喜の声を上げる。

「おお、これか! これが『鍵』か! これが手に入ったと言う事は、待ちに待ったコモリオムの中へと入れる日が遂に来たのか! 果たして今まで何年間、この日が訪れるのを待ち焦がれた事か……」

 トランクケースと熱い抱擁を交わしながら感極まったレナード博士は、喩えではなく本当に涙を零して打ち震えていた。そして子供の様に泣きじゃくる彼を見て溜息を漏らしたアーロンは、肩をすくめながらこちらを向いて弁解する。

「あんたのトランクケースが汚い老人の涙と鼻水でベチャベチャになっちまったが、許してやってくれよ。なんせこのレナード博士は、この『鍵』が到着するまでもう三年間も、こんな辺鄙な場所で待たされ続けて来たんだからさ」

「別に、トランクケースが汚れるのは構わん。それよりもこのレナード博士は、一体何者なんだ?」

 私の問いに、アーロンはよくぞ聞いてくれましたとでも言いたげにほくそ笑んだ。

「彼は、レナード・ルジャンドル博士。こう見えても工学と物理学の分野では最先端の技術に基く特許を幾つも有する才人で、フランスの学会ではちょっとした有名人だ。ただし、異常なまでのオカルト好きでね。先端技術と神秘学を融合した研究に没頭するあまりに財産の大半を失ってしまったと言う意味でも、学会にその名を残している。……まあ、よく言えば業界の異端児。悪く言えば、ただのオカルトマニアさ」

 アーロンはこめかみの周りに指で円を描いてレナード博士を異常者扱いするが、私に言わせれば二人とも、気が触れていると言う点では大差は無い。

「それで、そんなフランスの学会で有名なレナード博士が、何故CIAに協力を?」

「そうそう、あれはもう五年前かな? いや、それとも六年前? とにかくそのくらい以前に、このレナード博士は我が合衆国の国防高等研究計画局、俗に言うDARPAの一般公募に企画書を応募して来てね。その企画書の内容はあまりにも荒唐無稽なんで不採用だったが、たまたまそれを閲覧する機会に恵まれたウチの科学技術本部が興味を抱いて、博士を研究スタッフの一員としてスカウトしたのがそもそもの馴れ初めだ。そして幾つかの研究で成果を挙げた後に、三年前から今日までは、このニッカネン島でコモリオムの研究に従事してもらっているってのがレナード博士とCIAとの関係さ。……ああ、ちなみに博士がDARPAに応募して来た企画書の内容は、たしか宇宙人を安全に捕獲する方法とか、そんなのだったかな?」

 私の問いに、アーロンは何が楽しいのか、ニコニコと満面の笑みを浮かべながら答えた。どうやらレナード博士の企画書の荒唐無稽さに同意を求めているらしいが、そんな彼を無視した私は、改めて周囲を観察する。

 ニッカネン島は永久凍土に覆われた小さな孤島で、その厚い氷の層の上に降り積もった雪が月と星の光を反射し、漆黒の闇に沈む北極海の只中にぼうっと白く輝いていた。そして島の中央部の雪原のそこかしこにはアーロンの部下である武装した兵士達が警護に立ち、吐く息を白く輝かせながら、極寒の外気温にじっと耐えている。また島の東側の一角は垂直離着陸機のためのヘリポートになっており、現在は五機のヘリコプターが待機状態でエンジンを休ませていると同時に、西側の一角には兵士達の宿舎らしき簡素な建築物が見て取れた。

 しかし島を観察する上で何よりも注意を引くのが、雪原のやや南側に位置する、緩やかな傾斜角を維持しながら地下へと向かって延びる大きな穴。まるで永久凍土を刳り貫くように開けられたその穴の直径は十m前後であり、真っ直ぐ下りていけばおよそ二百mも前進した箇所で、ちょうど島の中央部の真下に到達する。そして島の各所に点在する投光機が特にこの穴の周囲に集中している事から、これがこの島の主たる要所である事は、疑いようが無い。

「さて、それじゃあそろそろロジオノフ博士にも、お待ちかねの『錠』を見てもらおうかな。二人とも準備が出来たら、こっちについて来てくれ。ああ、レナード博士はトランクケースを落とさないように注意しろよ? ここまで来ておいて肝心の『鍵』が破損するなんて事になったら、笑うに笑えない」

 その言葉と共に先陣を切って歩き出し、追従する私とレナード博士の二人に向かって手招きをするアーロン。彼の進行方向から察するに、やはり目的地は地下深くへと続く穴の奥らしかったが、そんな事よりもアーロンが鼻歌交じりに尻を振って踊りながら歩いているのがひどく癪に障る。しかもガムをクチャクチャと噛みながら踊っているのだから、尚更だ。

「滑るから気を付けてくれよ、ロジオノフ博士。定期的に雪を掃ってはいるんだが、掃っても掃っても、すぐに積もりやがる」

「え? あ、ああ」

 地下へと続く穴の入り口に辿り着いた私は、アーロンに注意されて、改めて足元を確認する。穴の断面の形状は真円に近いが、人が歩く足元だけは平らに均されており、坂の傾斜角に合わせた階段状の鉄板が敷かれていた。そして敷かれた鉄板には滑り止めのためと思しき凹凸が隙間無く刻まれていたが、アーロンの言葉を信じるならば、それでも雪で滑って転ぶ者が後を絶たないのだろう。ちなみに階段の隣には資材運搬用らしき傾斜エレベーターも設置されていたので、どうせならそちらで地下まで運んでくれれば楽なのにとも思うが、エレベーターはあくまでも資材の運搬専用らしい。

「風が無い分だけ、戸外よりは穴の中の方が幾分か暖かいな」

 氷の天井を見上げながら、アーロンが言った。先頭に立つ彼に続いて一番の軽装である私が二番手で階段を下り、そのすぐ背後には、愛しき恋人を抱き締めて放さない淑女の様にトランクケースを胸に抱えたレナード博士が続く。そして更に背後にはアーロンの部下である武装した兵士達が十名ほど続き、全員の吐く息が白く凍って、まるでヘビースモーカーの一団が行進しているように見えなくもない。

「時間も無い事だし、目的地である穴の底へと到着するまでの道すがらで、ロジオノフ博士にももう少し詳しくこの島の事を教えてあげようか」

「それはまた、ありがたくて涙が出るね」

 私の皮肉が面白かったのか、アーロンは無邪気な笑顔をこちらへと向けた。彼の笑顔の恐ろしいところは、その余りの邪気の無さに、ついついこちらも笑い返してしまいそうになる点に凝縮されている。自分の意思に反して笑わされるのがこれほどにまで気色が悪い行為だとは、この歳になるまで考えが及びもしなかった。

「事の発端は、十六年前だ」

 アーロンが語り始める。

「とある地質学者の男が、北極海で海底地質調査中に偶然、地図にも載っていない小さな島を発見した。しかし不幸な事に、フィンランド人のニッカネンと名乗るこの男とその助手は、島の存在を公にする前に不慮の事故で命を落とす。……ああ、言っておくが、別に俺達CIAが殺した訳じゃない。地質調査の帰路で船が難破して、本当に不慮の事故で死んだんだ」

 くっくと笑うアーロン。

「そしてニッカネンを乗せたまま難破した調査船は合衆国の沿岸で発見され、彼の調査結果は遺族にも知らされずに、我々CIAが秘匿した。とは言っても当初のCIAの狙いは、彼が発見した島とその周辺から何らかの鉱物資源なり海底資源なりが発見される事を期待していただけで、仮にそれらが発見されなかった場合には、順当に島の存在を公表するつもりだったらしい。それにはっきり言ってしまえば、期待値は相当に低かったそうだ。もっとも俺はその頃は未だハイスクールの学生だったから、上司からの伝聞でしか知らされていないがね」

「何も発見されなければ、公表されていた。と言う事は、何かが発見された訳か」

「ビンゴ! その通りだ」

 私の推測を、アーロンは大袈裟に手を叩いて肯定した。

「島の中央に、微量ではあるが、周囲に比べて放射線の線量が高い箇所が発見されてね。それで当初は、ウラン鉱脈の存在が示唆された。まあ結果としては、そこに存在していたのはウラン鉱脈なんかじゃない、もっととんでもない代物だったのさ」

 そう言って歩き続けるアーロンと共に、私もまた一段一段階段を下りて、歩を進める。すると前方に、投光機に照らし出された巨大な人工物がその姿を現し始めた。

「……何だこれは?」

呆気にとられた私が思わず驚嘆の声を漏らしたのも、無理は無い。永久凍土に掘られた穴の先には広大な氷穴が広がっており、自重で圧縮されて青く輝く氷の世界の中央には、あまりにも巨大過ぎて遠近感が狂うほどの黒い金属質の物体が、まるでフットボールのスタジアムの様に堂々と鎮座していた。いや、正確にはその物体の色は、黒一色ではない。黒色と銀色の中間の様な艶やかな光沢を発し、それでいて見る角度によっては青色や緑色とも受け取れる、不思議な色調を具現化している。喩えるならば、南国のジャングルに生息する神秘的な甲虫の外骨格の様な質感とでも表現すれば適切だろうか。

「驚いたかい、ロジオノフ博士? これを発掘した当時の作業員達も、きっと今のあんたみたいな顔をしていた事だろうよ」

「驚いたな……。これは一体何なんだ、アーロン?」

 驚愕する私に、アーロンの説明は続く。

「発掘された当初は、これが一体何なのか、誰にも分からなかった。しかし発掘作業を開始してから一年後に、こちらから、新たな遺跡が発掘される」

 そう言うとアーロンは、黒い巨大な物体から少し離れた氷穴の一角を指し示した。そしてそちらを見遣れば、私も見慣れた様式の石造りの簡素な小屋が数軒、半ば朽ちた状態で立ち並んでいる。

「専門家であるロジオノフ博士ならば、この遺跡が何なのか、分かるだろう?」

「ああ。エーゲ文明、それもキクラデスからミノアにかけての建築様式だ。だがここまで原形を留めている物は、世界的にも珍しい」

「そう、その通りだよ博士。そしてこの遺跡の中から発掘された遺物に記された単語に、我々は注目した。それが、『ヒュペルボレイオス』さ」

 その顔に、本当に無邪気な微笑みを湛えながら、アーロンは嬉しそうに伝説上の種族の名称を口にした。そしてその伝説の種族であるヒュペルボレイオスと思われる巨人の死体を、私はクレタ島で発掘している。

「さて、ロジオノフ博士の頭の中では、点と線が繋がりつつあるようだね。そしてそれは、当時この地で発掘に勤しんでいたスタッフ達もまた、同様だった。……だがね、実はここから急に、発掘作業は難航するんだよ。と言うのも、この黒い謎の物体の外郭は、現在の人類の技術力では傷一つ付ける事が出来ない。それどころか、近付く事すら危険だ。ああ、何が危険なのかは、後で実証してあげよう。とにかく発掘作業が行き詰まってしまって、ここは閉鎖寸前に陥ったのさ」

 そう言って、肩をすくめるアーロン。しかし次の瞬間、彼はその場でくるりと一回転すると、ポーズを決めながら楽しそうにこちらを指差した。そして指差されたのは私ではなく、私の背後に立っていたレナード博士に他ならない。

「今から三年前、閉鎖寸前のこの現場に、レナード博士が派遣されて来た。そして博士は大胆な仮説を打ち立てると、どこから持って来たのかも分からないような怪しい資料と照合した結果、その仮設を実証レベルにまで引き上げる事に成功する。それは簡単に言ってしまえば、ヒュペルボレイオス異星人説だ」

 私は自分の耳を疑い、眼鏡を外して目頭を押さえた。異星人と言う言葉の陳腐さに、頭が痛くなると同時に鼻の奥に疼痛が広がる。

「……馬鹿か」

 私はボソリと呟いた。そしてアーロンもまた、その呟きに同意する。

「その通り、本当に馬鹿みたいだろ、ロジオノフ博士? あんたの後ろに立っている俺の部下達も、全員が全員、こんな馬鹿みたいな任務に従事している事を鼻で笑っているんだ。だって考えてもみろよ、異星人だよ? 宇宙人だよ? エイリアンだよ? そんなモンがこの世に実在するなんて、今時はチンコの毛も生え揃わない童貞の小学生だって、信じていやしないさ」

 まるで興奮したチンパンジーの様に手を叩きながら、アーロンは本気で大爆笑している様子だった。だが一通り腹を抱えて笑い終えた彼は、こちらに近付いて来ると、馴れ馴れしく私の肩を抱きながら耳元で囁く。

「ところがね、ロジオノフ博士。ほんの一ヶ月ほど前に、他でもないあんたが、ヒュペルボレイオスの実物をクレタ島で発掘してしまったんだ。それは図らずも、レナード博士の仮説が正しい事を、半分方だが実証してしまったんだよ。しかもヒュペルボレイオスの中に眠る、『鍵』まで一緒にと来たもんだ」

「……アーロン、そろそろ教えてくれないか? 何故キミ達CIAは、そのトランクケースの中身を『鍵』と呼ぶのかを」

 私はここに至るまでのヘリコプターの中でも一度尋ねた疑問を、改めて問うた。

「そうだな、その点に関しては、仮設を打ち立てた当事者であるレナード博士に直接答えてもらおうか」

 アーロンの言葉に、待ってましたとばかりにレナード博士が一歩前に出ると、私の眼前に立つ。距離が近い。どうやらこのレナード博士と言う人物は、物理的な面でも精神的な面でも、他人との距離感が掴めないタイプの人間の様だ。

「私は、この黒い巨大な遺物が異星人の宇宙船、もしくはそれに類する長期居住ユニットであるとの仮設を打ち立てた」

 トランクケースを胸に抱えたレナード博士が、訥々と語り始めた。その口元は感動に打ち震えているのか、若干だが滑舌が覚束無い。

「しかし確証が得られている事実は、この黒い遺物が休眠状態とは言えまだ生きている事と、そこの石造建築物から発掘された遺物にヒュペルボレイオスの記述が残されている事。そしてもう一つ残されていたのは、やがて現れるであろう最後の仲間をヒュペルボレイオス達は待ち続けていると言う、曖昧な記述だけだった」

 レナード博士は更に一歩近付くと、彼が声を発する度に私の眼鏡に唾が撥ねかかって汚れるほど、その顔を接近させる。

「そこで私は、更に仮説を発展させた。神話に登場するヒュペルボレイオスとは異星人か、もしくはその異星人が操っていた人型機械の総称であると。そして何らかの理由でヒュペルボレイオス達が休眠状態に入るにあたって、合流出来なかった個体が存在し、今もこの遺物はその個体を待ち続けていると」

 そこまで言い終えたレナード博士は、年甲斐もなく興奮し過ぎたのか、息を切らせて咳き込んだ。するとそんな彼に代わって、未だに私の肩を抱いたままのアーロンが、横から解説を続ける。

「そしてレナード博士は、この黒い巨大な遺物と、その中に広がっているであろうヒュペルボレイオスの住む地を『コモリオム』と呼んだ。また同時に、いつか合流するであろう消息不明のヒュペルボレイオスを、コモリオムへと至る扉を開いてくれる『鍵』とも呼び始める」

「……そうだとも、アーロン。私はコモリオムと、そこに至る鍵に想いを馳せた。しかし残念ながら、全ては私の頭の中で組み立てられただけの、根拠の薄い仮説に過ぎない。そして仮説を立証する方法が何一つとして見出せないまま、こんな極北の僻地で、私は二年間を無為に過ごしたんだ」

 呼吸を整えたレナード博士が、落胆したかのような口調でもって、俯きがちにそう言った。しかし次の瞬間には私の手を強引に掴み取ると、涙と鼻水でもって顔をグシャグシャにしながら、嬉々として感謝の言葉を述べる。

「だからロジオノフ博士、あなたには本当に、心から礼を言わせてくれ。あなたが消息不明だった最後のヒュペルボレイオスを、つまりはコモリオムへと至る鍵を発掘してくれたおかげで、変人扱いされ続けて来た私の仮説が正しかった事が証明される。市井の学者として四十年近くを研究一筋に費やして来た私だが、こんなにまでも努力が報われる充足感に満たされたのは、これが生まれて初めての経験だ」

 右手で私の手を握り締め、左手でトランクケースを胸に抱いたレナード博士は、おいおいと泣き始めた。その一方で私の肩を馴れ馴れしく抱いたままのアーロンはと言えば、ニコニコと邪気の無い笑みを漏らしながら、革ジャンのポケットからスマートフォンを取り出して自撮り撮影を試みる。

「ほら、ロジオノフ博士もレナード博士も、カメラの方を向いた向いた。せっかくこの発掘現場で三人揃ったんだから、コモリオムをバックにして、記念撮影と行こうじゃないか。ほらほら二人とも、もっと顔を寄せて寄せて、はい、チーズ」

 強引に顔を寄せたアーロンとレナード博士に挟まれて、私は自撮りによるスリーショットの記念撮影を強要された。笑う異常者二人に左右から頬を密着されるのは気色が悪かったし、特にレナード博士の頬は涙と鼻水で濡れていたので、彼の体液が付着した際には背筋に怖気が走る。

「うーん、ロジオノフ博士は表情が硬いね。もっと笑ってくれないと、記念撮影をした甲斐が無い」

 撮り終えた写真を液晶画面で確認しながら、アーロンが残念そうに言った。しかしそんな彼には構わずに、私はコモリオムと呼ばれた眼前の黒い物体を、改めて眺める。

 それは見れば見るほど、形状もサイズも、フットボールのスタジアムに似ていた。しかもその規模は、ヨーロッパか南米の有名ビッグクラブが所有する、ワールドカップの決勝戦でも開催出来るほどの大規模スタジアムと大差無い。ただし来客を歓迎するスタジアムとは違って、このコモリオムには容易に内部へと侵入出来るような隙間が無く、来訪者を無言で拒絶している。果たしてその拒絶を乗り越えた先には何が待っているのだろうかと、私の知的好奇心が疼いた。

「なあ、アーロン」

「なんだい、ロジオノフ博士?」

「異星人なんてものが、本当に存在すると思うのか?」

 私が問うと、アーロンはくっくと笑いながら答える。

「存在するかどうかなんてのは、これから検証すれば判明する事だし、それはたいした問題じゃあない。重要なのは、異星人が存在した方が、世の中は愉快で興味深いって事だけさ」

「愉快で興味深い、か。確かにそうだな」

 実際問題として私自身も、クレタ島でヒュペルボレイオスの死体とその腹腔内に収められていたミイラを発見した際には、異星人の存在とその関与を疑った事は事実だ。勿論現実主義的な判断からそんな疑念は論外と切り捨てたが、それでも頭の片隅には可能性の一部を考慮し続けるほどにまで、あの遺物は突拍子も無い存在だった。しかしいざ、その異星人の宇宙船かもしれないなどと推測される物体を眼の前にしては、自分の頭がおかしくなってしまったのではないかと言う不安感にも苛まれる。だがその一方で、学者としての知的好奇心と探究心、それに自分の中の幼心が、未知の存在との邂逅に際して興奮を隠し切れない事もまた事実だった。

「コモリオムか……」

 その呼称の由来は分からないが、改めて発音すると、なにやら禍々しい空気を感じる。そしていざコモリオムに近付こうと私が一歩を踏み出すと、アーロンが背後から肩を掴んで押し留めた。

「おっと、迂闊に近付いちゃ駄目だよ、ロジオノフ博士。さっきも言っただろう? そいつは危険だって」

「危険?」

 アーロンに問い返すと、彼は私の進行方向を指差して解説する。

「今しがたあんたが近付こうとしていた箇所は、このコモリオムに出入りするための門と推測されている箇所だ。見てごらん、ここだけが他の外郭と違って、開閉するための継ぎ目らしきものが存在するだろう?」

 言われてみれば確かに、私が近付こうとしたコモリオムの外郭には、他の箇所には見られない継ぎ目と段差、そして見た事も無い意匠による装飾が確認出来た。

「我々は、この門を『絶壁』と呼んでいる。そう、『絶壁』だ。聞き覚えは無いかい、ロジオノフ博士?」

「そうだな、勿論聞き覚えがあるよ。ギリシャ神話によれば、ヒュペルボレイオスが住む地に侵入しようとした者の前には絶壁が立ちはだかり、生命を得たその絶壁が侵入者を滅ぼすとされている。その話だろう、アーロン?」

「ビンゴ! その通りだ。そしてまさにこの門こそが、その神話に語られた絶壁に他ならないのさ」

 そう言うと、アーロンは周囲を見渡す。コモリオムを囲む私達の視界内には、彼の部下である兵士達と、ヘルメットと蛍光色の反射ベストを身に付けた採掘作業のスタッフらしき人影が、総勢で二十名ほど確認出来た。

「おい、未だミニタンクが一台残っていただろう。急いで持って来い」

 アーロンに命令された兵士は敬礼でもって了解の意思を示すと、足早にその場を立ち去る。そして暫しの間を置いた後に、倉庫と思しき小屋から、作業用のマニピュレーターが搭載されたキャタピラ駆動の車輌を伴って帰還した。車輌の大きさは直立した成人男子よりも少し小さいくらいで、特に武装や装甲は見られない。

「これは本来、人間が立ち入れない原子炉の中などで作業するための、遠隔操作式ロボットだ。今からこのロボットでもって、あの絶壁に触れた者がどう言った目に遭うのか、実証してあげよう」

 その言葉と共に、アーロンは車輌を遠隔操作するためのコントローラーを、兵士から受け取った。そして彼の操作によって前進を開始した車輌は、絶壁と呼ばれたコモリオムの外郭へと接近する。

「……何も起こらないが?」

「そう急かすなよ、ロジオノフ博士。確かにあんたの言う通り、近付いただけでは何も起こらない。しかし一定以上の圧力で絶壁に触れると、話は別だ」

 疑問を呈する私の隣で、アーロンがコントローラーのジョイスティックを押し込んだ。すると車輌に搭載されたマニピュレーターが反応し、絶壁と呼ばれたコモリオムの外郭に触れると同時に、その表面を叩く。

 次の瞬間、絶壁に刻まれた継ぎ目の一部が閃光と共に鈍い金属音を発し、それと同時に外郭の一部が剥離して宙に浮いた。そして剥離した外郭はまるで壁から生えた蜘蛛の脚の様に滑らかに脈動すると、その先端から細い光線を発し、絶壁に触れた車輌の表面を舐め回す。

「ほらね、凄いだろう?」

 アーロンの言葉を聞いている間に、剥離していた外郭は再び絶壁の中へと納まって、活動を停止した。すると音も無く、光線によって舐め回された遠隔操作の車輌が、まるで微塵切りにされたジャガイモの様にバラバラになって地面に散華する。その切断面は赤熱しながらも異様なまでに鋭利で、人智を超えた技術によって瞬間的に切り刻まれた事は明らかだった。

「ミニタンクがまた一台無駄になってしまったが、これで絶壁の何が危険なのか、分かってもらえただろう? それにしても、こう言う時に映画かアニメに出て来る悪の組織の幹部なら、ミニタンクなんかじゃなくって自分の部下を実験台にして切り刻ませるんだろうね。しかし残念ながら、ここは映画やアニメの中じゃないし、CIAは悪の組織じゃない。それにこの場には実験台にするのに適した人材は存在しないようだし、部下を無駄死にさせても俺の査定に響くだけだ」

 アーロンはそう言うが、この男の事だから、無駄死にさせても構わないような人材がこの場に居合わせていたならば躊躇い無く実験台にしただろう。

「ああ、ちなみにこの絶壁は、これまでに三人の人間をミンチ肉に変貌させている」

 邪気の無い笑顔で本当に楽しそうにそう言ってのけたアーロンは、やはり人体実験を望んでいたとしか思えない。

「とにかくこれで、この外郭が侵入者を滅ぼすとされている絶壁である事。そしてその絶壁を制御するためのシステムが未だ生きている事は、分かってもらえただろう?」

「この眼で見てもまだ信じ難いが、それは理解した。それでアーロン、この触れるだけでも危険な絶壁に対して、キミ達は何をするつもりなんだ?」

 私の問いに、アーロンは意味深な笑みをその顔に浮かべると、隣に立つレナード博士の肩を抱いてそそのかす。

「さあ、レナード博士。前人未到のコモリオムの中へと足を踏み入れる最初の人類に選ばれた栄誉を、あんたに与えよう。だからその『鍵』を持って、迷わずに信じた道を進むといい」

 耳元でそう囁かれたレナード博士は、アーロンの顔を二度見した後に、額に薄く汗を滲ませながらゴクリと唾を飲み込んだ。そして恐怖と緊張によって表情を強張らせたまま、胸にトランクケースを抱えて、コモリオムへの入り口と推測される絶壁に向かって前進を開始する。

「おい、危ないぞレナード博士。アーロンの言葉を信じるのか?」

「心配しなくても、彼なら大丈夫だよ、ロジオノフ博士。……多分ね」

 警告する私を制しながら、アーロンが無責任な言葉を吐いた。そしてその間も、レナード博士は一歩また一歩と、絶壁に向かって接近を続ける。どちらに傾くか分からない天秤にかけられた、死と栄誉。その天秤を眼前に吊るされた彼の呼吸音と心臓の鼓動が、ここまで聞こえて来そうだった。

「私は、大丈夫だ。この日をずっと、夢見て来たんだ。だから決して、死ぬような事は無い。そうだ、私は私の仮説を信じているんだ。絶対にコモリオムの中へと至り、そこに何が眠っているのかを、この眼で確かめてやるんだ」

 ブツブツと呟きながら前進を続けたレナード博士は、遂に絶壁の寸前へと辿り着くと、トランクケースを開けて謎の生物のミイラを取り出す。そして『鍵』と呼ばれたそのミイラを胸元に掲げながら、絶壁の表面を、掌でもってそっと撫でた。彼の足元には、つい先ほど切り刻まれたばかりの、アーロンがミニタンクと呼んでいた車輌の残骸が転がっている。レナード博士もまたそのミニタンクと同じ運命をたどるのではないかと、私は気が気ではない。

 すると次の瞬間、再び閃光と共に絶壁の一部が剥離して宙に浮き、その剥離した外郭の一部から赤色に輝く光線が照射された。そしてその光線は、ミイラを手にしたレナード博士の全身を、一瞬でもって舐め回す。

 正直に言えば、光線に舐め回されるレナード博士の姿を眼にした瞬間に、私は彼の死を確信した。しかしその確信に反して、彼はバラバラになって散華する事も無く、その場に立ち尽くすばかりで傷一つ負っていない。どうやら先ほどの光線はミニタンクを切り刻んだものとは別種の光線らしく、私は安堵の溜息を漏らして汗を拭う。そして一瞬の静寂の後に、一拍の間を置いてから、ゴウンと言う鈍い音と微かな震動と共に、侵入者を阻む絶壁であった筈の外郭が継ぎ目から剥離し始めた。しかも今度は一部が剥離するだけではなく、絶壁の全体が下から上へと向かって、分解されるように剥がれ落ちて行く。

 まるで日本の折り紙の展開図の様に複雑な幾何学模様を描きながら剥離し、折り畳まれ、周囲の外郭の内部へと収納されて行く絶壁。やがてその全てが収納されると、そこにはコモリオムの内部へと侵入するための門が大きな口を開けており、更に奥へと続く通路も見て取れる。

「イエス!」

 私の隣でアーロンがガッツポーズを決めながら、勝利の言葉を叫んだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る