第三幕


 第三幕



 迫り来る犬の気配を察知して、私は眠りから覚醒した。そして、今まさに私の顔を舐め回さんとしていたトゥングルリアの口吻を掴み取り、可能な限り自分の顔から遠ざける。いくら鈍臭い私であっても、アラスカンマラミュートに起こされるのもこれで四度目ともなれば、慣れたものだ。

「起きたか、ヴァシリー」

「ああ。おはよう、ヤコネ」

 口吻を掴まれても遊んでもらっていると勘違いして、無邪気に擦り寄って来るトゥングルリア。そんな雌犬の腹を撫でてやりながら、やはり私よりも先に起きていたヤコネと起床の挨拶を交わすと、私はゆっくりと半身を起こしてあくびを漏らした。

「なんだか、良い匂いがするな」

 狩猟小屋に漂う甘い匂いに、私は目脂まみれの眼を擦りながら眼鏡を掛ける。視界がクリアになったおかげで気付いたが、今朝のヤコネはまだ防寒着を着込んではおらずに、就寝時の服装であるシャツと下着姿のままだった。

「今朝はバノックを焼いた。お前が好きなバノックだ」

「そうか。それはありがたい」

 昨日一昨日と朝食を摂らずに猟に出かけたので、てっきり今朝も朝食は期待出来ないものと諦めていたのだが、どうやらそうではないらしい。しかもそれが、この地に来てから食べた物の中でも一・ニを争う美味であったバノックともなれば、自然と心躍らざるを得なかった。

「紅茶も煎れた。食え」

 そう言いながら板の間に潰したダンボール箱を敷いたヤコネは、その上に二人分の焼きたてのバノックとベリーのジャムの瓶、そして煎れたての紅茶が注がれたプラスチックのコップを並べる。

「ありがとう、遠慮無くいただくよ」

 ヤコネと向かい合わせで板の間に座ると、私はジャムをたっぷりと塗ったバノックを手掴みで頬張った。サクサクとした食感と甘味が口一杯に広がり、やはりバノックは美味いと実感させられる。

「どうした、ヴァシリー? コップに何か付いているのか? それとも、紅茶が不味いのか?」

「いや、こいつとも今日でお別れだと思ってね」

 ヤコネの疑問に答えながら、私は紅茶の注がれたプラスチックのコップにプリントされた、ファストフード店のマスコットキャラクターに別れを告げた。どこの店の何と言うキャラクターなのかは知らないが、きっと彼は私が去った後も、このアラスカでコップとしての役目を全うする事だろう。

「美味いな」

「ああ。本当に、美味いな」

 頷き合いながら、私達二人は香ばしいバノックと甘い紅茶の朝食を満喫した。そして食事を終えると、暫し食後の満腹感と虚脱感に身を委ねながら、何をするでもなく無為に時間を潰す。

 可能であれば、もう少しだけ、ここに居たい。もう少しだけ、ヤコネと共に過ごしたい。そんな思いが私の胸に去来するが、今の私には、そんな子供の様なわがままを言っている暇は無いのだろう。

「それじゃあヤコネ、そろそろ行こうか」

「そうだな。行こう」

 そう言って重い腰を上げると、私とヤコネの二人は出発の準備を始めた。

 今日はこのまま街へと向かい、そこでヤコネと別れる予定なので、まずはこの二日ばかり出番の無かったワイシャツとスーツを着てからネクタイを締める。そしてスーツの上からカリブー革のズボンを穿き、更に防寒着のアティギとアノガジェも着込んだ。後はアザラシ革のブーツとミトンの手袋を履けば外出の準備は整い、残されたのは私のダウンコートとトランクケース、それにアラスカでは殆ど何の役にも立たなかったビジネス用の革靴だけだ。

「ヴァシリー、これを使え」

「ああ。ありがとう」

 ヤコネが手渡してくれたのは、何かの獣の革で作られた、肩掛け鞄。ダウンコートと革靴を納めたそれを肩に掛けた私は、トランクケースを手錠で左手首に繋ぐと、ヤコネの準備が整うのを待つ。

「それではトゥクトゥ、これでお別れです。ほんの三日間だけでしたが、お世話になりました」

 小屋の片隅に座ってタバコをふかしながら、ニヤニヤと湿った笑みを漏らし続けるトゥクトゥの爺様に、私は深々と頭を下げて別れの言葉を述べた。イヌピアット族の作法を知らないので、感謝の表現としてこの方法が正しいのか否かは分からない。しかしとりあえずは同じモンゴロイドのアジア人の作法を参考にして、年長者に対する敬意を表してみた。少なくとも、無礼にあたると言う事は無いだろう。

 それにしてもこの三日間、私は遂に、トゥクトゥの爺様が寝ている姿も食事を摂っている姿も目撃する事は無かった。やはり彼の正体は中国の仙人か、もしくは東欧の妖怪なのかもしれないと言う私の疑念も、ここに来ていよいよ真実味を帯びて来る。

「準備が出来たぞ、ヴァシリー」

「よし。街に向けて、出発だ」

 防寒着を着込み、ライフル銃を肩に吊ったヤコネを従えて、私は狩猟小屋から出て行こうとした。しかしそんな私の背中に、少しばかり呆れたような調子の彼女の声が届く。

「ヴァシリー、これを忘れているぞ」

「え?」

 振り返ってみれば、ヤコネが何かを投げ渡して来たので、私はそれを慌てて受け取った。果たしてそれは、この小屋における唯一の精密機器である、型遅れの携帯電話。この携帯電話で通話する事が街に行く最大の目的だと言うのに、それをすっかり忘れていたとは、私の愚鈍ぶりもここに極まれる。

「それを忘れたら、意味が無い。しっかりしろ、ヴァシリー」

「そうだな。本当に、その通りだ」

 私達二人は、クスクスと笑い合った。最後までヤコネに呆れられっぱなしと言うのも、それはそれで、私らしいのかもしれない。そして携帯電話をスーツの胸ポケットに納めると、とうとう待ちに待った出発の時が訪れた。

「雪か……」

 狩猟小屋から戸外へと足を踏み出せば、空は曇り、小雪が風に舞っている。三日前に私が遭難していた時の様な猛烈な吹雪ではないが、午後以降に天候が崩れないか、それだけが少しばかり心配だ。

「街へ行くのにも、ライフルを持って行くのかい?」

「そうだ。ライフルは、常に手放さない。ホッキョクグマを見つけたら、殺される前に殺す」

 アウカネックとトゥングルリアの二匹を犬ゾリに連結しているヤコネに素朴な疑問を問うと、彼女の返答はやや不穏当なものだったが、大自然に生きる狩人らしい返答である事に違い無い。そして犬達の準備が整うと、ヤコネは操縦席に立ち、私は荷台に腰を下ろして出発の時を待つ。荷台には昨夜の内に、三頭分のアザラシの毛皮と二頭分のカリブーの肉と毛皮、それに立派なツノの生えたカリブーの頭蓋骨が二つ積み込まれており、これらはヤコネにとっての貴重な収入源だ。

「アウカネック! トゥングルリア!」

 二匹の犬の名を叫ぶ、ヤコネの声。そしてそれを合図に急発進する犬ゾリ。聞き慣れたこの声と加速を体験するのもこれが最後かと思うと、全身に浴びる雪礫の痛みもまた心地良い。

「ヤコネ、これから向かうのは、何と言う名前の街なんだい?」

 雪原を海沿いに疾走するソリの上で、私は背後に立つヤコネに問うた。

「バローだ。北東に向かって走る」

「そのバローと言うのは、大きな街なのかい?」

「この辺では、一番大きな街だ」

 ヤコネの返答に納得すると、私は前方を見据える。北東に向かって走り続けるソリの右手には多少の起伏が確認出来るツンドラ地帯が広がり、左手にはひたすらに平らな凍れる北極海が広がっていた。そして陸と海とを隔てる海岸線はほぼ一直線で、途中で障害物を避けるために迂回するような事も無く、仮にここが高速道路だったとしたら居眠りするドライバーが続出するに違い無い。その証拠に、極寒の地でソリに揺られながらも、私は少しばかりの睡魔に襲われていた。昨夜はオーロラ鑑賞のために睡眠時間が削られたので、おそらくはそれも原因の一つだろう。何にせよこの三日間で、私が北極圏の気候に馴染みつつある事は間違い無い。


   ●


「ヴァシリー、そろそろバローが見えて来るぞ」

 ヤコネの声に、私はハッと目を覚ました。どれ程の時間をうたた寝に費やしてしまったのかは分からないが、眼鏡にうっすらと雪が積もっている事から、結構な時間が経過している事は想像に難くない。そして自分の頬を軽く叩いて睡魔を退治し、眼鏡に積もった雪を掃うと、私は再び前方を見据える。

「街だ……」

 地平線上にぼんやりと、明らかに天然の造形ではない、人工の建築物のシルエットが確認出来た。すると距離が縮まるに連れて次第にそのシルエットの数は増え、大きくなり、遠目にだが人々の暮らす集落がその姿を現す。しかし何よりも文明の息吹を感じさせたのは、街の手前に横たわるように存在する小規模な空港と、その滑走路に離発着する航空機の数々だった。

「着いたぞ。バローだ」

 そう言って犬ゾリを停めたヤコネは、操縦席から降りてソリを先導するように歩き始めると、私にも荷台から降りるように促す。すると二匹の犬達はヤコネが歩く速度に合わせて追従し、ゆっくりと街への進入路を歩き始めた。どうやらバローの街の中心部はまだ遠いようだが、よく見ると足元には舗装された道路が確認出来る事から、もう既に街の敷地内には足を踏み入れているらしい。ちなみに道沿いの看板には、『アパヨーク・ストリート』と表記されていた。

「この先に、知り合いの店が在る。お前はそこで、電話をかけろ」

「知り合いの店?」

「小さなレストランだ。熱い紅茶を飲む」

 先導するヤコネに従い、私達は歩き続ける。やがて北上していたアパヨーク・ストリートが東に伸びるピソカック・ストリートと交差する地点に姿を現したのは、そこそこ大きな食料品店。そしてその食料品店の隣に、本当に小さな、まるで玩具の様なレストランが店を構えていた。

「レストラン、ワールズ・エンドか……」

 看板に掲げられた店名は、『ワールズ・エンド』。アメリカ大陸最北端の地の店としては理に適った店名なのかもしれないが、店先には幌馬車の車輪や馬具が飾られ、あまりアラスカらしさは感じられない。そして店先に犬ゾリを停めたヤコネと共に足を踏み入れた店内は、やはり西部開拓時代を連想させるような小物や写真、そして大きな星条旗が壁一面に掲げられていた。どうやらこの店は、古き良きハリウッドの西部劇をモチーフにした店構えが売りらしい。

「いらっしゃい。……なんだ、ヤコネか」

「やあ、ネイサン。紅茶をくれ。二人分だ」

 店内には私達以外の客はおらず、カウンターの中に立っていた店主と思しき肥満体の男が、指を二本立てながら紅茶を注文するヤコネと気怠げに挨拶を交わした。顔立ちからすると店主もまたヤコネと同じくイヌピアット族か、もしくはそれに類するアラスカの先住民で、歳の頃は五十代後半くらいだろうか。店の雰囲気に合わせてカウボーイ気取りのテンガロンハットとネッカチーフを身に付けているが、正直に言って、あまり似合ってはいない。

「そちらの男性は、知り合いかい?」

「こいつはヴァシリー。あたしの友人だ」

「友人ねえ……」

 ネイサンと呼ばれた店主は訝しげな目付きでもって、まるで値踏みするかのように、私をジロジロと睨め回した。年端も行かない少女が四十間近の中年男を、しかも見慣れない外国人を友人だと紹介すれば、何か裏があるのではないかと勘ぐるのも無理は無い。

「初めまして、ネイサン。私はヴァシリー。ヴァシリー・ロジオノフ。故あって、ヤコネの家に世話になっている者です」

 努めて朗らかに、可能な限り社交的な紳士を装って、私はネイサンに挨拶の言葉を述べた。慣れない作り笑顔が不自然だったかもしれないが、少しぐらい大袈裟な方が、アメリカ人に対する所作としては適当だろう。

「ふーん……。初めまして、ヴァシリー。それで、紅茶を二人分だったね」

 どうやらこれ以上深く追求する気は無いらしく、ネイサンは注文された紅茶を煎れるために、湯を沸かし始めた。私とヤコネの二人も全身に積もった雪を掃ってからカウンター席に腰を下ろすと、暖かい店内で人心地つく。店の中央に置かれたガスストーブが吐き出す温風が、冷えた身体に心地良い。

「ヴァシリー、電話をかけろ」

「え? ああ、そうだな」

 ヤコネに促されて、私は改めて電話をかけるために、胸ポケットに納めていた携帯電話を取り出した。そして電源ボタンを押すと、狩猟小屋で試した時とは違って、通話が可能である事を示すアンテナマークが液晶画面に表示される。

「よし!」

 年甲斐も無く小さくガッツポーズを決めると、今度は内ポケットから財布を取り出して、飲食店のレシート等と一緒に束ねられていた名刺の中から目当ての一枚を取り出した。それはオリファー重工サンクトペテルブルク支社に所属し、ロシアから合衆国へと向かう私を送り出してくれた恩人でもある、ハーゼンバイン支社長の名刺。その名刺に記載された番号をダイアルした私は、携帯電話の受話口を耳に当ててじっと待つ。

「もしもし、ハーゼンバインだが」

 受話口の向こうから聞こえて来た声に、私は少しだけ泣きそうになった。

「もしもし、ハーゼンバインさんですね? 私です。ヴァシリーです。ヴァシリー・ロジオノフです」

「ロジオノフ博士? 今どちらに? ご無事だったんですか?」

「私は無事です。しかし残念ながら、私と一緒にヘリに乗っていたパイロットと兵士は亡くなりました。ですが、とりあえず私も、例のブツも無事です」

「そうですか。合衆国の本社から、原因不明のエンジントラブルに見舞われてアラスカ上空で消息を絶ったと聞いていましたので、てっきり亡くなられたものとばかり思っていました。それで、今はどちらに?」

 とりあえずハーゼンバイン支社長と連絡が取れた事に安堵した私は、深く嘆息してから呼吸を整える。

「アラスカです。アラスカの、バローと言う街に居ます」

「アラスカの、バローですね。それでは本社に連絡して救援部隊を派遣させますので、落ち合うための詳細な場所を教えてください」

「バローの街の、アパヨーク・ストリートとピソカック・ストリートが交差する地点から程近い、ワールズ・エンドと言うレストランに居ます。空港の眼と鼻の先なので、すぐに分かるでしょう」

「落ち合う場所はレストランで、店の名前はワールズ・エンドですね。分かりました。それでは至急、救援部隊を派遣させます。おそらくは到着するまでに暫しの時間を要するかと思いますが、それまではその店でお待ちください、ロジオノフ博士」

「よろしくお願いします、ハーゼンバインさん」

 私は通話を終了させようとしてから、ある事を思い出して、ハーゼンバイン支社長に追伸する。

「ああ、そうだ。申し訳無いのですが、出来ましたら救援部隊に、ある程度まとまったお金を持って来るように頼んでもらえないでしょうか?」

「お金? それはまた、どうして?」

「実はヘリが墜落してから遭難していたところを、現地の女性に助けられて、今まで保護してもらっていたんです。それで彼女にいくばくかの謝礼をしたいのですが、この状況では、私の手持ちが少ないものでして。後日返却いたしますので、ご用意願えますでしょうか?」

「そう言う事でしたら、喜んでご用意いたします。ご安心ください、ロジオノフ博士」

「それでは、よろしくお願いします」

「それでは」

 携帯電話の電源ボタンを押して、私は通話を終了させた。一仕事終えた達成感と緊張感で、額にはうっすらと汗が滲んでいる。するとそこに、ネイサンが煎れたての紅茶とミルクが入ったポットを持って来てくれたので、早速ミルクティーを拵えて一口飲み下した。狩猟小屋でヤコネが煎れてくれた甘い紅茶も美味かったが、新鮮なミルクの風味が、今はありがたい。

「現地の女性とは、あたしの事か?」

 隣に座って紅茶を飲んでいたヤコネが私の脇腹を肘で小突くと、不機嫌そうに尋ねた。

「え? ああ、そうだよ。聞いていたのかい?」

「聞いていた。不愉快だ。あたしは、謝礼なんか要らない。そんな物のために、お前を助けたんじゃない」

 どうやら彼女は、私がハーゼンバイン支社長に謝礼を用意してくれと頼んだ事が、気に食わないらしい。

「そうは言われても、キミは私の命の恩人なんだ。キミに助けられなければ、私は吹雪の雪原で確実に野垂れ死んでいたんだから、感謝の気持ちだと思って受け取ってくれないかい?」

「断る。金のために、人助けはしない」

 謝礼を受け取る事を、断固として拒否する姿勢のヤコネ。彼女の一本木な性格から判断するに、おそらくは説得は不可能だと早々に判断した私は、無駄な交渉を試みる事無く妥協する。

「分かったよ、ヤコネ。金銭での謝礼は支払わない。その代わり、私が無事にサンノゼに辿り着いたら、キミに何か贈り物をさせてくれ。それなら、構わないだろう?」

「……そうだな。贈り物なら、受け取ろう」

「よし、決まりだ。それとせめて、ここの支払いくらいは私にさせてくれ。女性とのデート代を男が支払うのは、当然のマナーだからな」

 そう言うと私は、カウンターの上に置かれていた伝票を手に取り、二人分の紅茶代を支払うために代金を確認した。そしてそこに記載されていた額面に少しばかり驚き、眉根を寄せる。

「……高いな」

 決して法外と言うほどではないが、上流階級向けの高級レストランとは思えない店の値段にしては、やけに高い。今の米ドルと露ルーブルの為替レートなら、ロシアの喫茶店で茶菓子付きの紅茶が三杯は飲める。

「あんた、アラスカは初めてだね?」

 私の呟きを耳ざとく聞いていたネイサンが、カウンターの中から尋ねた。そして高額な紅茶代の秘密を、異邦人である私にも分かり易く教えてくれる。

「この辺は農業も牧畜も出来ないし、雪と氷で道も寸断されているからね。殆どの物資の需要を満たす方法が、アメリカ本国からの空輸しか無いのさ。だから輸送費が単価に上乗せされて、慢性的に物価高なんだよ」

「……なるほど」

 ネイサンの論理的な説明に、私は納得せざるを得なかった。決してこの店が悪徳なぼったくりレストランであり、私がその被害者と言う訳ではないらしい。

「しかし紅茶がこの値段だとすると、税金がかかる酒はもっと値が張りそうだな」

 再び私が呟くと、やはりこれも聞き漏らしていなかったネイサンが教えてくれる。

「やっぱりあんた、アラスカは初めてなんだな。ここはドライ・カウンティー、禁酒郡だよ。酒類の販売は、一切禁止さ」

「禁酒って、ビールも禁止なのかい? 子供も大人も関係無く?」

「ビールでもウイスキーでも、大人も子供も男も女も関係無く、一切の酒類が販売禁止だ。外国人は申請すれば、少しだけ持ち込めるがね」

 信じられない。禁酒郡とは、恐れ入った。大人は真昼間からウォトカを呷り、子供でも堂々とクワスをジュース代わりに飲むようなロシアでは、考えられない制度だ。いや、かつてのソヴィエト政権時代に禁酒政策が施行された事はあったが、少なくとも今のロシアでは想像も出来ない。

「まあそれでも、酒を手に入れる方法が皆無って訳じゃない。どうしても飲みたいと言うのなら、缶ビールくらいは売ってあげられるよ。勿論、相応の手数料をもらうがね」

 その言葉に、私は自分の財布の中身を確認した。そして紅茶代を支払ってしまうと、手持ちの米ドル紙幣の残りが心許無い事を思い知らされる。

「いや、結構。酒は我慢する」

 どう考えてもこの店で、露ルーブル紙幣が使えるとは思えない。それに頼みの綱のクレジットカードも、私の銀行口座はとっくの昔に、ロシア当局によって凍結されている。街に出たらビールの一杯も飲もうと考えていたのだが、計画を先送りせざるを得ないようだ。

「ヴァシリー、迎えが来るまでは、未だ時間があるのか?」

 紅茶を飲み終えたヤコネが尋ねて来たので、私は答える。

「え? ああ、もう暫くは時間が必要だそうだ。さすがに日を跨ぐ事は無いと思うが、まだこのまま、数時間は待つ事になるだろう」

「そうか。それなら、あたしの買い物に付き合え。行くぞ」

 そう言うと、ヤコネは席を立った。そして店を出て行こうとする彼女の後を、反射的に私は追ってしまう。勿論彼女の要請を無視してハーゼンバイン支社長の言葉に従い、この店で救援部隊が到着するまで待ち続けると言う選択肢も、私には残されていた。しかしヤコネの有無を言わさない命令口調に、私は本能的に従わざるを得ない。それに今の私は、少しでも永く彼女の傍に居たいと言う願望が芽生えつつあった。

 会計を終え、二人揃ってワールズ・エンドから退店しようとする、私とヤコネ。その背中に、カウンターの中からネイサンが声をかける。

「ヤコネ、これから社会福祉センターに行くのなら、うちのホンダを使うかい? 使うのなら、キーを貸すよ」

「いらない。あれは苦手だ。それじゃあネイサン、後でまた来る。トゥクトゥの荷物を準備しておいてくれ」

 振り返りもせずにそう返答すると、店から出て行くヤコネ。私も急いで彼女の後を追って戸外に出ると、再びアラスカの寒風に身を晒しながら、ふと気になった事をヤコネに問う。

「ヤコネ、ネイサンが言っていたホンダと言うのは、何の事だい?」

「あれだ。あたしは、ホンダが苦手だ」

 そう言いながら彼女が指差した先には、店の脇に停められたスノーモービルが鎮座していた。

「あれがホンダ? スノーモービルじゃないのかい?」

「この辺では皆、あれの事をホンダと呼ぶ」

 どうやらこの辺りでは、スノーモービルの事をホンダと呼称するらしい。おそらくはこの地で最初に普及したスノーモービルが、日本のホンダ社製だったのだろう。ビデオゲーム機のニンテンドーと同じで、メーカー名が製品名と混同されるのはよくある事だ。ちなみにこの店のスノーモービルは、日本のヤマハ社製だった。

「行くぞ、ヴァシリー」

 犬ゾリを引くアウカネックとトゥングルリアの二匹をお供に従えたヤコネに促され、私もバローの街の凍れる舗装道路を歩き始める。そしてピソカック・ストリートを東に進んでから少し北上し、再び東に進むエイコバック・ストリートに足を踏み入れると、右手には空港の正面エントランスが見えて来た。そこに掲げられた看板によれば、ここはウィレイ・ポスト=ウィル・ロジャース・メモリアル空港と言うらしい。私の故郷のサンクトペテルブルクに在るプルコヴァ国際空港に比べるとまるで玩具の様に小さな空港だが、この地に住む人々にとっては、貴重な交通と輸送の要なのだろう。

 それにしても、静かな街だ。おそらくはこのエイコバック・ストリートも比較的大きな通りなのだろうが、今が冬だと言う事を差し引いても出歩いている人は少なく、商店の数も数える程しか無い。それに高層建築と呼べるような背の高いビルは一棟も見当たらず、その代わりに地下にケーブルを通せないせいなのか、やけに電信柱が目に止まる。とにかく私が見慣れたヨーロッパの街並みとは、まるで景観が異なっていた。

「着いたぞ。ここでカリブーの肉を売る。ここでは、観光客にカリブーの肉を焼いて食わせる」

 そう言うと、一軒の建物の前で不意にヤコネが足を止めたので、私も立ち止まる。建物の正面に掲げられた看板によれば、ここはキング・エルダー・イン。民宿に毛が生えた程度の規模だが、なかなかに立派なホテルらしい。

「裏口に回る。ついて来い」

 ヤコネは手招きをしながら私を先導すると、迂回して辿り着いたホテルの裏口をノックもせずにいきなり開け放った。そしてずかずかと中に入り、何やらホテルの経営者だか従業員だかと交渉しているようだが、私は少し離れた場所から静かに様子を見守る。道を一本挟んでホテルの向かいに広がる空港の滑走路では、ちょうど旅客機が離陸する瞬間が垣間見え、ジェットエンジンの吐き出す轟音と震動が空気を震わせた。

「ヴァシリー、肉が売れたぞ。次は、隣の土産物屋だ」

 ホテルの従業員と共にカリブーの肉を厨房へと運び入れ終えたヤコネは、右手に持った米ドル紙幣を誇らしげに掲げながらそう言うと、ホテルの隣に立つ木造平屋建ての建物を指差す。そしてそちらを見遣れば、ホテルの宿泊客の需要を見込んだのであろう土産物屋が店を構えていた。

 店の名前は、バロー・スーベニア・ショップ。ほんの十数mばかり歩いてその店舗の正面に辿り着くと、今度はヤコネと共に入店し、再び彼女が店主と交渉している間に私は商品を物色する。

 店内にはここアラスカに生息する様々な獣の毛皮、骨格標本、剥製、ぬいぐるみ、先住民の伝統的な衣服や道具、楽器、それに石で出来た彫刻や版画やタペストリー等の土産物が、所狭しと並べられていた。勿論観光地では定番の絵葉書も沢山売られており、今が非常時でさえなければ、私も旅の記念に一枚買っていたに違い無い。

 そんな店内の片隅に少し気になる商品が陳列されていたので、ふと手に取って、値踏みする。それは長さ二m余りの、見事な螺旋模様が刻まれた、細長い棒。全体的に白い色をしており、触ってみると硬くてひんやりと冷たく、どうやら動物の骨で出来ているらしい。

「イッカクか」

 値札に書かれていた説明によると、それは雄のイッカククジラの牙で、値段は三千ドルだそうだ。この値段が高いのか安いのかの判断は難しいが、アラスカ旅行の記念品としては、なかなか見栄えが良い。しかしこの大きさと長さだと、商品本体の値段もさる事ながら、購入者の家までの配送料が馬鹿にならないだろう。

 それにしても、三千ドル。仮にヤコネがイッカククジラを仕留めたとしたならば、きっと彼女にとってのその牙は、貴重な収入源となるに違い無い。そして今現在彼女が持ち込んでいるカリブーの頭蓋骨が果たして幾らで売れたのか、私は少しばかり興味が沸いて来た。

「ヴァシリー、終わったぞ。毛皮も骨も売れた」

 私の名を呼ぶヤコネの声に振り返ると、やはり彼女は米ドル紙幣を手にして、勝ち誇ったかのような笑顔をその顔に浮かべている。毛皮と頭蓋骨の原価率が気になるところだが、あまり追求するのも無粋な気がしたので、今は聞かない事にした。

「それでヤコネ、次は買い物かい? それとも、まだ売る物が有るのかい?」

「今日は、もう売る物は無い。だが買い物の前に、社会福祉センターに行く。ちょっと遠いが、歩くぞ」

 土産物屋を後にしながら言葉を交わした私達は、荷台が空になったソリを引く二匹の犬達をお供に従えて、再びエイコバック・ストリートを東に向かって歩き始める。荷物が無くなった事によって犬達の負担は随分と軽減されたが、それをアウカネックとトゥングルリアの二匹は喜んでいるのか、それとも仕事が減ってしまった事を物足りなく思っているのかは定かではない。

 するとエイコバック・ストリートは次第に北に向かって針路を変え始め、一度学校と思しき施設の前を通り過ぎてからは完全に北上する道となり、そこそこに大きな湖を縦断する。看板によれば湖の名称は、イザットコーク・ラグーン。湖とは言ってもこの時期は完全に凍結していて、湖面には雪が降り積もり、一見すると平野と区別が付かない。そして湖を越えた先に建ち並んでいた倉庫の様な建物の一つが、ヤコネの目的地である社会福祉センターのようだ。

 公立図書館と、図書館に併設されたイヌピアット・ヘリテイジセンターの前を通過し、その隣の社会福祉センターに足を踏み入れる。センターの中は清潔で、暖房が効き過ぎるほど効いていて、やけに暖かい。そして見渡した限りでは来訪している住民の影も疎らで、何の用でヤコネがここに立ち寄ったのかは定かではないが、それほどの長時間は窓口で待たされる事も無いだろう。

「あ、ヤコネ。さすがにそのライフルは置いて行った方がいいんじゃ……」

 呼び止めようとする私に耳を貸す素振りも無く、ヤコネはすたすたと、並んだ窓口で住民の申請を処理している役人の元へと歩み寄ってしまった。彼女の肩には実弾の込められたライフル銃が抜き身で吊られたままなので、通報されて警察沙汰にでもならないかと心配するが、彼女に応対している役人にも周囲の住民達にも警戒している様子は無い。この辺りでは銃を携帯したまま公共施設に立ち入る事が珍しくないのか、それとも武装するヤコネの姿に住民達が既に慣れ切ってしまっているのかは定かではなかったが、とにかく私の心配は杞憂に終わったようだ。

「待たせたな、ヴァシリー。金が手に入った。これから買い物に行く。ついて来い」

 結局数十分ほど待たされたが、用事を終えたヤコネが窓口から戻って来たので、私達は社会福祉センターを後にする。特に詮索する気は無いが、おそらくは彼女が手にした金と言うのは北方の先住民を保護するための福祉金と、もしかしたらトゥクトゥの年金も含まれているのかもしれない。何にせよ、ヤコネには猟での収入以外にも金のつてはあるらしい事が判明したので、私は少しばかり安堵した。

「買い物をしてから、ワールズ・エンドに引き返す。来た道を戻るぞ」

「了解です、お姫様」

 少しおどけて返事をした私を咎めるでも笑うでもなく、ヤコネは脇目も振らずにエイコバック・ストリートを南下し始めたので、ソリを引いた二匹の犬達と私はその後を追う。そして特に会話も無いまま湖を縦断すると、湾曲する道に沿って、私達二人と二匹は西へと針路を取った。

 やがて脇道に入ってから暫く歩き、辿り着いたのは一軒のスーパーマーケットの前。店先に犬ゾリを停め、自動扉を潜って暖房の効いた店内へと足を踏み入れれば、実にアメリカらしく色とりどりの派手な包装が施された商品がずらりと並んでいる。

 食品や衣料品はもとより、家電やスノーモービルまで商品棚に陳列されているが、その中でも特に圧巻なのが冷凍食品と清涼飲料水の品揃えだ。そしてやはりアメリカらしく、売れ筋商品は脂肪分がたっぷりのピザとフライドチキンにフライドポテト、そして糖分がたっぷりの炭酸飲料らしい。

 そう言えば店内の客を観察すると、老若男女を問わず、やけに肥満体の人間が多い事に気付いた。思い出してみれば、社会福祉センターで窓口に並んでいた住民達も、その半数ばかりが肥満体だったようにも思う。ヤコネの様な伝統的な食生活を捨て、筋肉の代謝率が低いモンゴロイドの先住民がアメリカナイズされた食事を摂り続けた結果としてブクブクと太ってしまったのなら、これ以上の皮肉は無いだろう。

「あれ? ヤコネ?」

 冷凍食品の棚に眼を奪われている内に、私はヤコネを見失ってしまった。そこで慌てて店内を急ぎ足で歩き回りながら目を凝らせば、彼女はレジから程近い一角でショーケースの中の商品を店員から取り出してもらっている最中だったので、私は急いで彼女の元に駆け寄る。

「ヤコネ、ここにいたのか。何を買っているんだい?」

「弾だ。狩猟小屋の在庫が、残り少ない」

 ヤコネの返答に、私はここが狩猟道具の売り場であり、ショーケースの中には各種のライフル銃や拳銃、それに弾丸やナイフが所狭しと陳列されている事に気付いた。そして彼女は店員から取り出してもらったライフル弾が詰まった紙箱を、買い物カートのカゴの中に四つほど放り込む。よく見ればカゴの中には既に、砂糖や塩や小麦粉、ラードや紅茶や粉ミルクと言った食料品が放り込まれていた。

 それにしても、スーパーマーケットの一角で誰でも簡単に実銃が買えてしまう光景もまた、実にアメリカらしい。

「ナイフもそろそろ買い換えたい。次に金が手に入ったら、買う」

「今使っているナイフじゃ、駄目なのかい?」

「今のは気に入っている。しかし、かなり研ぎ減りして来た。そろそろ使えなくなる」

「ふうん」

 一本のナイフを使えなくなるまで研ぎ減らした事の無い私には今一つピンと来なかったが、狩猟生活を送るヤコネにとってのナイフとは、頻繁に買い換えるべき生活必需品なのだろう。そしてショーケースの中に陳列された各種のナイフを物色しながら、彼女は私に尋ねる。

「なあ、ヴァシリー」

「ん? なんだい、ヤコネ?」

「これは、デートか?」

「は?」

 唐突かつ想定外な問いに、私は頓狂な声を上げた。しかしそんな私の反応などお構い無しに、ヤコネは語り続ける。

「あたしは、デートをした事が無い。家族以外の男と買い物をするのも、これが初めてだ。だから、これがあたしとお前のデートなのかが分からない。でも、さっきワールズ・エンドで、お前はこれがデートだと言った。しかしあたしは、仮にこれがデートだとしても、何をするべきなのかも分からない」

「……そうだな。デート、かもしれないな」

 私は躊躇いがちにそう答えたが、本音を言ってしまえば、親子ほども歳の離れた私とヤコネの買い物がデートとは考えられない。ワールズ・エンドで紅茶代を支払う際にデートと言う言葉を使ったのも、単に彼女をからかってみただけだ。しかしおそらくヤコネは、年頃の少女らしく、異性とのデートと言うものを体験してみたかったのだろう。そう考えると、不器用だが純粋な彼女の願望を、無下に否定する事は出来なかった。

「そうか。これはデートか。デートは楽しいな」

 そう言うとヤコネは顔を綻ばせ、本当に嬉しそうに微笑んだ。しかし彼女の満面の笑顔に精一杯の作り笑顔でもって応える私の胸の内は、言い知れない罪悪感に苛まれる。こんなしがない中年オヤジと田舎のスーパーマーケットで買い物をするのが人生初の異性とのデートだなんて、あまりにも寂し過ぎるではないか。勿論、私の良く知る都会育ちの少女達とヤコネの様なアラスカの片田舎に住む少女とを、単純に比較すべきではないのかもしれない。しかしそれでも、同年代の少女達と比べて、ヤコネの青春はあまりにも選択肢が少な過ぎる。

「最後に、トゥクトゥのタバコを買う」

 私の抱いた罪悪感など知る由も無く、ヤコネは買い物カートを押しながら、タバコが販売されているレジへと向かった。そして年齢が証明出来るIDカードを提示すると、残りの所持金で買えるだけのマルボロの赤箱をカートンで注文し、まるで買い占めるかのような勢いで買い物カゴに突っ込む。そしてレジで会計を終えた彼女は、私と共に商品が詰め込まれた買い物袋を抱えて、スーパーマーケットから退店した。自動扉を潜るのと同時に、アラスカの寒風が再び私達二人を襲う。

「雪が少し、激しくなって来たな」

 戸外へと出た私は空を見上げながらボソリと呟くと、積もっていた雪を掃ってから、ソリの荷台に買い物袋を積み込んだ。朝は小雪が舞う程度だった天候が少し荒れ始め、気温が下がり、ハッキリとした雪粒が視界を白く霞ませる。店外で待たされていたアウカネックとトゥングルリアの二匹はまるで寒さなど感じていないかのように元気だが、アラスカンマラミュートとは違って、人間の耐寒能力ではそうも行かない。

「ヴァシリー、買い物は終わった。ワールズ・エンドに行くぞ」

「そうだな。運が良ければ、そろそろ迎えが来ているかもしれない」

 さすがに救援部隊が到着するには未だ早いと思うが、ついつい過剰な期待をしてしまって、心が逸る私。そんな私の手を、不意にヤコネが握り締めた。

「ヤコネ?」

 戸惑う私の瞳を、彼女はジッと見つめる。

「本当に、もうすぐお前とはお別れなんだな、ヴァシリー」

「……ああ、そうだな。もうすぐお別れだ」

「寂しいな」

「そうだな、寂しいな」

 そう言うと、私はヤコネの小さな手をギュッと握り返した。するとヤコネもまた、より一層の力を込めて、ギュッと私の手を握り締める。

「なあ、ヴァシリー。このままワールズ・エンドに到着するまでは、手を繋いでいてもいいか?」

「勿論さ、ヤコネ」

 私達二人は、固く手を繋いだまま、雪と氷に覆われたワールズ・エンドまでの路程を静かに歩き始めた。背後ではアウカネックとトゥングルリアの二匹が、ソリの荷台に積まれた買い物袋を運びながら、我々の歩幅に合わせてゆっくりと追従する。雪の降りしきるバローの街を歩き続ける最中、私とヤコネの間に、特に会話は無い。しかし私達が共に、少しでも永くこうして手を繋いで歩き続けたいと願っている事だけは、間違い無いだろう。


   ●


「着いたぞ」

「ああ、着いたな」

 歩き続ければ、良きにつけ悪しきにつけ、いつかは目的地へと辿り着いてしまう。ピソカック・ストリートからアパヨーク・ストリートに至り、無情にもワールズ・エンドに到着してしまった事で、私とヤコネのささやかなデートは終焉を迎えた。そして犬ゾリに積まれていた買い物袋を回収すると、私達はその小さなレストランの店内へと足を踏み入れる。

「戻ったぞ、ネイサン」

「お帰り、ヤコネ。それと、ヴァシリーも」

 帰還を告げるヤコネの言葉に、カウンターの中のネイサンが返事を返す。やはり何度見てもこの肥満体の男は、テンガロンハットとネッカチーフが似合っていない。

「ネイサン、トゥクトゥの荷物は、準備出来ているか?」

「ああ、とっくに出来てるよ。ほら」

 返答と共に、ネイサンはカウンターの上にDVDケースよりも少し大きいくらいのビニール袋を置いてから、それをヤコネに向かって差し出す。透けて見えている袋の中には薄緑色の固形物が幾つも入っており、私はそれが乾燥大麻である事にすぐに気付いたが、ネイサンに対価を支払ってその違法薬物を受け取るヤコネを諌める気は無かった。私自身も若い頃には大麻に手を出した時期もあったし、少なくとも常用しているのがトゥクトゥの爺様だけならば、老い先短い老人のささやかな娯楽として目を瞑るべきだろう。

「ところでネイサン、買い物に行っている間に、私を訪ねて来た客はいたかい?」

「いや、まだ来てないね。あんたら以外には、客はお茶を飲みに来た男が一人いただけだよ」

「そうか。それじゃあすまないが、もう少しだけここで待たせてもらうよ」

 そう言うと、私は再びカウンター席に腰を下ろした。隣の席に、ヤコネも腰を下ろす。それにしてもこんな街中のレストランで堂々と乾燥大麻の密売とは、おそらくはこのネイサンと言う男も、カタギではない裏の顔があるに違い無い。

「それでお二人さん、何か注文するかい? お得意様のヤコネとその連れだから、今日も商品を買ってくれた礼として、紅茶の一杯くらいだったら無料でサービスするよ」

「それなら、紅茶をくれ」

「私もヤコネと同じで、紅茶を頼む。出来ればステーキの一枚も注文したいところだが、残念ながら、今は手持ちが心許無いんでね」

 注文を受けて、ネイサンは紅茶を煎れ始めた。私は雪で濡れた眼鏡を拭き、ヤコネは買い物袋の中の商品が揃っている事を何度も確認して、持て余した時間を潰す。静かな店内で、三人の間に特に会話は無い。するとそうこうしている内に、紅茶の注がれたカップとミルクの注がれたポットが我々の前に並べられ、私とヤコネは熱いミルクティーで冷えた身体を温めた。

「なあ、ヤコネ……」

 手持ち無沙汰になった私が何か適当な話題をヤコネに振ろうとした、その時。店の正面扉が開いて複数の人影が入店して来たので、私は言葉を切って、そちらを見遣る。

 入店して来たのは、黒いダウンジャケットに身を包んだ、三人の男達。まず顔に大きな疵のある髭面の中年男が入店し、その後ろにはニット帽を被った坊主頭の若い男が続く。そして最後は長い金髪の若い男が店内に足を踏み入れると、後ろ手に正面扉を閉めた。ちなみに三人とも白人で体格が良く、特に先頭の髭面の中年男は、大男と表現するのが適切なほどの巨体を誇っている。

「いらっしゃい」

 ネイサンが気怠げに挨拶するが、三人の男達は無言のまま店内をぐるりと見渡すと、私達が座るカウンターに向かってズカズカと歩み寄った。そして髭面の中年男は私の隣に、ニット帽の男はヤコネの隣に腰を下ろし、我々を左右から挟み込んで動きを封じる。更に三人目の金髪の男は正面扉を塞ぐように立つ事によって、誰一人としてこの場からの逃走を許さない構えだ。

「あの……」

 私は口を開いたが、その後の言葉が続かない。すると隣に座った髭面の中年男が、低くドスの効いた声でもって問いかける。

「ロジオノフ博士だな?」

 その言葉に、私は安堵した。私の所在を把握し、この店まで迎えに来てくれたと言う事は、彼らがオリファー財団の救援部隊で間違い無いだろう。見かけが厳つくて少々威圧的だが、肉体労働者、中でも軍事組織に等しい職務に従事している人間と言うのは、得てしてそう言うものだ。てっきり地元のチンピラにでも絡まれたのかと思ったが、その心配は杞憂に終わったらしい。

「助かったよ、キミ達がオリファー財団の救援部隊だろう? もっと待つ事になると予想していたんだが、随分と早く来てくれたんだな。それで、ここからサンノゼにはヘリコプターで向かうのかい? それとも、そこの空港からジェット機で? まさか、陸路じゃないよな?」

 救援部隊が到着した事に気が逸り、がぜん饒舌になる私。しかし次の瞬間、私は自分の脇腹に、何か硬い物が押し当てられている事に気付いた。

「え……?」

 驚く私の眼に止まったそれは、一丁の自動拳銃。いつの間にか髭面の中年男が手にしていたその鋼鉄の塊の銃口が、私の生殺与奪の権限が他人に握られている事を教える。

「オリファー財団じゃなくて残念だったな、ロジオノフ博士」

 髭面の中年男の口から発された言葉は、ロシア語だった。

「FSB……。ロシア連邦保安庁か」

「正解。話が早くて助かるよ、博士」

 男達の正体を看破した私に向かって、髭面の中年男は不敵な笑みを漏らす。

 ロシア連邦保安庁、略称はFSB。旧KGBを母体とするロシア連邦の治安維持と諜報活動を取り仕切る機関であり、私の身柄と発掘物を確保しようと奔走していた組織だ。ロシア国外であるアメリカ合衆国領まで逃走すればさすがに諦めると思っていたのだが、どうやらスラブ人の往生際の悪さは、私の想像以上らしい。

「どうした、ヴァシリー」

 ロシア語で言葉を交わす私達を不審に思ったヤコネが、カウンターから身を乗り出して、こちらで何が行なわれているのかを確認しようとした。そして私の脇腹に押し当てられた自動拳銃の存在に気付くと、素早く腕を背後に回し、肩に吊っていたライフル銃を構えようと試みる。だがヤコネが動いた時には既に遅く、隣に座っていたニット帽の男がライフル銃の銃身を掴み上げており、そのまま反対の手でもって彼女をカウンターの上に押さえ込んだ。

「放せ! あたしのライフルに触るな!」

 叫ぶヤコネの頭に、ニット帽の男は懐から取り出した自動拳銃の銃口を押し当てるが、彼女は抵抗を続ける。

「やめろ! ヤコネに触るな!」

 私は叫びながらニット帽の男に飛びかかろうとするが、椅子から腰を浮かせると同時に、髭面の中年男によって襟首を掴まれてしまっていた。男の並外れた膂力によってギリギリと首が絞まり、一歩たりとも動く事が出来ない。そしてよく見れば、金髪の男もまた自動拳銃を構えており、その銃口はカウンターの中のネイサンを狙っている。

「三人とも、そのまま動かないでいてくれるかな? じっとしていてくれれば、乱暴はしない。ああ、お嬢ちゃんのライフルは没収させてもらうがね」

 どうやら三人の中ではリーダー格らしい髭面の中年男が、今度はヤコネとネイサンにも理解出来るように、英語で警告した。

「ヤコネ、ネイサン、二人ともこの男の言う事に従ってくれ。こいつらは、逆らう相手は平気で殺す連中だ」

 投降を要請する私の言葉を受けて、ネイサンは両手を頭の後ろで組み、ヤコネもまた押さえ込まれたカウンターの上から脱出しようと試みるのを止める。そしてニット帽の男はヤコネのライフル銃を取り上げて弾倉を抜くと、彼女を解放し、髭面の中年男もまた掴んでいた私の襟首を放した。突然身体の自由を取り戻した事で体勢を崩し、私は膝から床に倒れ込む。

「ご協力ありがとう、ロジオノフ博士」

「それは、嫌味か?」

「いいや、私の本心だよ。いくら私でも、女の子を殺すのは夢見が悪くてね」

 締め上げられていた首を押さながら咳き込む私に、髭面の中年男はそう言うと、再び不敵な笑みを浮かべた。男達の手にした自動拳銃の銃口は、私達三人それぞれに照準を合わせている。

「大丈夫か、ヴァシリー? こいつらは誰だ?」

 心配するヤコネに支えられて立ち上がった私は、男達が何者なのかを説明しようと口を開いた。だが私よりも先に、髭面の中年男自身が語り始める。

「一応、自己紹介をさせてもらおう。私の名は、ソゾン・ニキーチン。FSBの工作員だ。そしてそれ以上の素性を明かす気は無いし、お前達もそれを知る必要は無い。何故ならすぐに、お前達は私の自己紹介の内容を忘れなくてはならなくなるからだ」

 ソゾンと名乗った髭面の中年男は、カウンターの上に置かれていた私の飲みかけのミルクティーが注がれたカップを手に取ると、その中身を飲み干して喉を潤わせた。そして今度はロシア語で、私に向かって命令する。

「さあ、ロジオノフ博士。そのトランクケースをこちらに渡してもらおうか。言っておくが、無駄な抵抗はしないように。一応我々は、あなたの身柄も拘束するように命令されている。だが最悪の場合にはあなたを射殺し、その手首を切り落としてトランクケースを回収する許可も得ているのでね」

「悪趣味だな」

 その言葉を精一杯の抵抗として観念した私は、胸ポケットから鍵を取り出すと、トランクケースと左手首とを繋いでいた手錠を外した。そしてジュラルミン製のトランクケースを、心の中で悪態を吐きながらソゾンに投げ渡す。

「番号は?」

「……9125」

 私から番号を聞き出したソゾンは、投げ渡されたトランクケースのナンバーロックにその番号を打ち込んだ。すると何の抵抗も無くあっさりと、トランクケースの蓋が開いて、その中身が白日の下に晒される。しかしソゾンが立っている位置からでは、彼が手にしたトランクケースの中身は、私も含めた他の五人には見えていない。

「……何なんだ、これは?」

 唯一トランクケースの中身を確認したソゾンが、眉をひそめながら私に聞いた。

「それが、私が発掘した謎の遺物だ。聞いていないのか?」

「回収するブツの外観は聞いている。だがそのブツを、上の連中が一体何に使おうとしているのかと言った詳細に関しては、私も知らされていない。どうやら一応、これで間違いは無いようだが……。こんな物を、一体何に使うんだ?」

「さあな」

 ソゾンの問いに私は答えをはぐらかしたが、実際問題として、私もこの遺物が何に使われるべき物なのかを半分程度にしか理解していない。

「まあいい。とにかくブツは回収したんだ。後はロジオノフ博士、あなたをロシアに連れ帰るだけだ」

 中身を確認し終えたトランクケースの蓋を閉めたソゾンはそう言うと、手にした自動拳銃の銃口で店の正面扉を指し示し、私に同行を促した。私は両手を頭の後ろで組んで彼の指示に従いながらも、ヤコネやネイサンにも理解出来るように、最後の要求を英語で突きつける。

「待ってくれ、ソゾン。ここにいる女性は、遭難していた私を助けてくれた命の恩人だ。だからせめて、彼女が無事に自宅まで辿り着くのを確認したい。それに、自宅で待っている彼女の曽祖父にも、最後に別れの挨拶を述べたいんだ」

 突然の私の要求に、ソゾンは自身の顎に生えた髭を弄びながら逡巡していた。そして喉元に生えた髭を一本毟ってから、彼もまた英語で応える。

「なるほど、いいだろう。あなたをロシアまで連行するのは、そのお嬢さんを自宅まで送り届けてからにしても構わない。約束しよう。そのくらいの温情は、我々も持ち合わせている。FSBの懐の深さを、感謝する事だな」

「それはまた、涙が出るほど嬉しいね」

 恩着せがましいソゾンの口調に、私は皮肉を込めた言葉でもって返した。

「ところでソゾン、最後にもう一つだけ聞きたい」

「何だね?」

「どうして、私がこの店にいる事が分かったんだ?」

 私が問うと、ソゾンはほくそ笑みながら嬉しそうに答える。

「簡単な事だよ、ロジオノフ博士。あなたがサンクトペテルブルクのハーゼンバイン宛にかけた電話の内容を、我々が傍受していただけの事だ。ロシア国内で、しかも暗号化されていない携帯電話の通話内容なんてものは、盗聴してくれと言っているようなものだからね。そしてサンクトペテルブルクからもたらされた情報を元に、このバローで待機していた我々が、この店まで急行したと言う訳だ。あなたがロシアを脱出する際に乗っていたヘリが、だいたいこの辺りで消息を断った事も傍受していたのでね。……しかしまさか、待機していたバローにあなたの方から姿を現してくれるとは、予想が的中したとは言え手間が省けたよ」

 ソゾンの返答に、ハーゼンバイン支社長への迂闊な連絡が裏目に出た事を知った私は、自分の愚かしさに舌打ちをした。考えてみれば、携帯電話からの通話など盗聴されて当然なのだから、最低でも固定電話を使うべきだったのだろう。今更悔いても詮無い事だが、自分の危機感の無さが恨めしい。

「さて、それじゃあロジオノフ博士とお嬢さんは、店の外に出てもらおうか。……それと、そこの似合わない帽子の店主。命だけは奪わないでおいてやるから、お前はここで見た事も聞いた事も、全部忘れるんだ。お前だって、そのカウンターの中に隠しているブツの存在を、警察に知られたくないだろう?」

 私とヤコネとネイサンの三人に、ソゾンが要請した。その口ぶりからすると、どうやらネイサンが大麻の密売に手を染めている事も、既に彼らは把握しているらしい。

 ソゾンとその部下達の三人に囲まれて、私とヤコネはワールズ・エンドを後にした。そして戸外へと出てみれば、店はスノーモービルに乗った十人ほどの男達に遠巻きに囲まれており、どうやらその全員が武装したソゾンの部下と思われる。

「それで、お嬢さんの自宅と言うのは、どの辺りなのかな?」

「遠い。犬ゾリで向かう」

「なんだ、この近くじゃないのか」

 ヤコネの返答に、ソゾンは眉根を寄せた。おそらく彼は、ヤコネの自宅がバローの街の近辺だと予想しており、私の要求を受け入れたのもそれを根拠にしての判断だったのだろう。予想が外れた彼が悔しがるのを見て、私はほんの少しだけ溜飲を下げた。

「仕方が無い。それではお嬢さんの自宅へと向かう犬ゾリを、我々はスノーモービルで追う事にしよう。それとロジオノフ博士、一応忠告しておくが、途中で逃げ出そうなんて事は考えないように。さっきも言ったが、我々はあなたを射殺する許可を得ている。勿論、あなた以外の人間を射殺する事も躊躇しない」

 そう言うと、自動拳銃の銃口をヤコネに向けるソゾン。私はそんな彼を睨み据えたが、ソゾンはほくそ笑むばかりで、示威効果は微塵も得られない。

「すまん、ヤコネ。こんな事に巻き込んでしまって」

 ソゾンが部下達の乗るスノーモービルの方へと歩み去るのを確認した私は、既に犬ゾリの操縦席に立っていたヤコネに小声で謝罪した。

「構わない。お前の問題は、あたしの問題だ。それにあたしも、あいつらは嫌いだ。あいつらは、あたしのライフルを奪った。そして、お前の鞄も奪った」

 小声での返答の、語気が荒い。どうやら私に負けず劣らず、ヤコネもまた、ソゾン達の行為に対して並々ならぬ怒りを覚えているようだ。そして彼女の言う通り、ヤコネはライフル銃をニット帽の男に、私はトランクケースをソゾンに奪われている。私のトランクケースは最悪失っても構わないが、曽々祖父の形見であるヤコネのライフル銃だけは、何としても取り戻したい。

「それでヤコネ、犬ゾリで奴らを撒く事は出来るかい?」

「それは無理だ。犬ゾリより、ホンダの方が早い。それに犬は疲れるが、ホンダは疲れない」

 ヤコネに耳打ちした私の希望は、あえなく否定された。確かに犬ゾリではスノーモービルには敵わないし、しかも多勢に無勢な状況の上、相手は武装している。どうやらここは、ソゾン達に従うしか生き延びる道は無いようだ。

「しかしヴァシリー、何故お前は、あたしを自宅まで送り届けたいと言い出した? トゥクトゥへの挨拶も、既に終えているのに」

「ただの時間稼ぎだよ。重ね重ね、キミ達を巻き込んだ事は申し訳無く思うが、少しでも時間を引き延ばせばオリファー財団の救援部隊が到着してくれるかと考えてね。残念ながら、そう上手く、事は運んでくれなさそうだが」

 小声で会話する私とヤコネの背後で、ソゾンの乗ったスノーモービルが、一際盛大にエンジンを空ぶかしした。どうやら早く出発しろと、我々を急かしているらしい。

「アウカネック! トゥングルリア!」

 私が荷台に腰を下ろすと、ヤコネが二匹の犬達の名をいつもよりも少しだけ小声で叫び、犬ゾリがゆっくりと発進した。そしてワールズ・エンドの店先からバローの街の敷地外へと出ると、徐々に速度を上げ始め、その後ろを七台のスノーモービルが等間隔で追跡して来る。スノーモービルにはそれぞれ二名のFSBの工作員が乗車しており、後方のタンデムシートに乗る工作員は全員、こちらに向かってカービンライフルを構えていた。いざとなれば射殺する事を躊躇わないと言うソゾンの言葉も、決して口先だけの脅しではないのだろう。

「これは、逃げ切れないな」

 背後にピタリと張り付いたスノーモービルの一団を振り返りながら、私は呟いた。しかも街外れの方角から、タンデムローター式の輸送ヘリコプターが二機、FSBの一団に加わる。結果としてちょっとした一個中隊を引き連れた犬ゾリは、元来た道を引き返し、トゥクトゥの爺様の待つ狩猟小屋への帰路に就いた。

 全身に雪粒を浴びながら、私は自分達が逃走、もしくは敵を撃退する方法を模索する。しかし有効な回答が何一つとして得られないまま、一時間以上もの間、犬ゾリは雪原を走り続けた。

「そろそろ、狩猟小屋だ」

 追跡して来るスノーモービルとヘリコプターのエンジン音にも負けない大声でもって、ヤコネが叫んだ。前方を見遣れば確かに、見慣れた木造平屋建ての狩猟小屋が、次第にその姿を露にする。また雪が舞い落ちて来る空を見遣れば、ゆっくりと東の地平線から宵闇が迫りつつあり、日暮れの時も近い。

 やがてアウカネックとトゥングルリアの二匹は狩猟小屋の少し手前で足を止め、停車したソリの操縦席と荷台から、ヤコネと私は雪原へと降り立った。背後ではスノーモービルの一団も停車し、二機のヘリコプターも雪煙を巻き上げながら、地上へと降下する。

「随分と遠かったな。想定外の時間のロスだ」

 スノーモービルから雪原へと降り立ったソゾンが、自動拳銃を構えたまま私達に近付くと、不機嫌そうに呟いた。

「約束通り、お嬢さんを自宅まで送り届けたんだ。次はさっさと、彼女の曽祖父とやらに別れの挨拶をして来てくれないかな、ロジオノフ博士。これ以上待たされたら、いい加減に我々も、堪忍袋の緒が切れそうでね」

 自動拳銃で狩猟小屋の出入り口を指し示しながら、私に向かって指示を出すソゾン。彼の背後では七台のスノーモービルと二機のヘリコプターが鎮座し、我々に逃げ場は無い。

「その前に、ヤコネのライフルを返してやってくれないか? あれは彼女の大切な、曽々祖父の形見なんだ」

「いいだろう。ただし、弾は抜かせてもらう。……ニコライ、返してやれ」

 私の要望をソゾンは受け入れ、ニコライと呼ばれたニット帽の男が一歩前に出ると、ヤコネのライフル銃と弾倉から全ての弾丸を抜き捨てた。そして殺傷能力を失った空のライフル銃を、ヤコネに向かって投げ渡す。抜き捨てられたライフル弾はニコライの足元の雪に埋もれ、拾って装填し直すような猶予は無い。

「さあ、それではロジオノフ博士は、彼女の曽祖父に別れの挨拶を。そしてお嬢さんは、そのままそこを動くな。馬鹿な真似をすればあなた達二人だけでなく、その曽祖父も死ぬ事になる」

 ソゾンの言葉に、私は観念した。このまま小屋の中へと入り、トゥクトゥに別れの挨拶を告げるフリをしてから、大人しくFSBに拘束されよう。それが今現在の私が為し得る、最善の選択だ。

 そう覚悟を決めて一歩を踏み出そうとした、次の瞬間。私とソゾンとの間の雪原に、何か金属製の筒の様な物がぽとりと落ちて来た。その物体の色は黒く、大きさも形も、殺虫剤のスプレー缶に似ている。しかもそれは一つだけではなく、FSBの一団を取り囲むようにして、空から次々と落ちて来た。そしてその場に居合わせた全員がそれに注目した、まさにその時。その金属製の筒が閃光と爆音を発しながら炸裂し、私の視界は眩んで白一色に包まれ、鼓膜が麻痺して何も聞こえない。

 視覚も聴覚も奪われた私は、平衡感覚も失い、気付けば雪原に倒れ伏していた。そして次第に感覚が回復し始めた視界の中では、隣に立っていた筈のヤコネもまた、雪原に倒れ伏している。また視覚と共に聴覚も回復し始めると、鼓膜に届くのは絶え間無く響き渡る銃声の雨と、二匹の犬達の攻撃的な咆哮。それらの騒音に鼓膜を蹂躙されつつ身を屈めながら前方を見遣れば、ニコライと呼ばれたニット帽の男が首から上を吹き飛ばされた無残な死体となって雪原に転がり、血で真っ赤に染まった脳漿まみれのニット帽だけが無傷で残されていた。

「駄目だ! 囲まれている!」

「糞! 待ち伏せか? 敵はどこだ!」

 ロシア語の罵声が飛び交う中で、一人また一人と、ソゾンの部下達が血飛沫と肉飛沫を撒き散らかしながら雪原に転がって息絶える。勿論彼らもまたスノーモービルの影に身を潜めながらカービンライフルで応戦しているのだが、敵の所在が把握し切れずに、無意味な盲撃ちを繰り返しているだけらしい。どうやらFSBは周囲を取り囲んだ正体不明の武装集団と交戦中であり、ここは銃弾飛び交う戦場の真っ只中のようだ。

「撤退だ! 全員撤退! ヘリに急げ!」

 私の眼前で、ソゾンが部下達に撤退命令を下すと、私から奪ったトランクケースを小脇に抱える。既に半数以上が物言わぬ死体と化しているFSBの工作員の残党が、二機のヘリコプターへと撤収を開始し、機体上部に設置されたエンジンが起動してローターが回転を始めた。

 だがそこに、数本の炎の矢が、高速で飛来する。

 軍事関係に疎い私にはそれがミサイルなのかロケット弾なのかは判別出来なかったが、その炎の矢の直撃を受けたFSBのヘリコプターは轟音と共に爆発炎上し、巨大な二本の火柱となって雪原をオレンジ色に染めた。燃え盛る搭乗ハッチから炎に包まれた人間が二人ほど飛び出し、もがき苦しみながら雪原の上をのた打ち回ると、静かに絶命して黒焦げの消し炭に成り果てる。

 戦闘開始から一分か、せいぜい二分。不意に銃声が止んだ戦場に残されたのは、身を屈めて状況を見守る私とヤコネ、そして呆然と立ち尽くすソゾンの三人だけだった。

「何だこれは……」

 眼前の現実を受け入れ切れないソゾンがロシア語でそう呟くのと同時に、再び私の視界は白一色に染まった。あまりの眩しさに、とっさに手で顔を覆う。そして手指の隙間から覗き見ると、どうやら今度の光は爆発物による閃光ではなく、上空を飛ぶヘリコプターから照射されたサーチライトの光らしい。にわかには信じ難い事だが、我々は合計四機ものティルトローター式の軍用輸送ヘリコプターに囲まれていながらも、その存在に全く気付いていなかった事になる。

「ロジオノフ博士と他二名、そこから動かず、両手を頭の後ろで組め。抵抗は無意味だ。繰り返す。そこから動かず、両手を頭の後ろで組め」

 サーチライトを照射していたヘリコプターの内の一機が、高度を下げながら、拡声器でもって我々に警告した。その警告に従って私は両手を頭の後ろで組み、ソゾンもまた同様に投降の意思を示すが、ヤコネだけは大事なライフル銃を捨てる気が無いらしい。そこで仕方が無く私が彼女の脇腹を小突くと、ヤコネは渋々ながらライフル銃を雪原に投げ置いてから、両手を頭の後ろで組んだ。また威嚇の咆哮を上げ続けていたアウカネックとトゥングルリアの二匹も、主人であるヤコネが命令すると、吠えるのをピタリと止めて大人しくなる。

「ヴァシリー、あいつらは何者だ?」

「おそらく、私を迎えに来てくれたオリファー財団の救援部隊だ。どうやら、時間稼ぎが功を奏したようだな」

 私はヤコネの問いにそう答えると、ほくそ笑んだ。隣で口惜しそうに歯噛みするソゾンの姿に、溜飲が下がる思いが止まらない。己の勝利を確信していた強者をその座から引き摺り落とすと言うのは、かくも気分が良いものだろうか。

「……何がおかしい」

「いや、別に」

 ほくそ笑む私をソゾンが苦々しげに睨み付けて来たので、誤魔化しながら視線を逸らす。勝敗が確定しているとは言え、この大男を怒らせるのは得策ではない。

 やがて悲喜こもごもな我々の十mばかり前方に、ティルトローター式のヘリコプターは静かに着陸し、エンジンを停止させた。そしてその搭乗ハッチが開くと、数人の人影が雪原へと降り立ち、それと同時に照射されていたサーチライトの灯も消える。

 ヘリコプターから降り立ったのは、分厚い革ジャンを着込んでプラチナブロンドの髪を短く刈った若い男が一人と、その部下らしき、雪上迷彩服に身を包んでアサルトライフルで武装した兵士が十名ほど。彼らは我々三人の元へと歩み寄ると、先頭に立ったプラチナブロンドの男が私の眼を見据えながら、口を開く。

「初めまして、ロジオノフ博士。ようやくお会い出来ましたね」

「こちらこそ、初めまして。ええと……」

「アーロン。アーロン・ウェイクマンです。以後、お見知りおきを」

「初めまして、アーロン。助けてくれた事を、心から感謝するよ」

 アーロンと名乗ったプラチナブロンドの男は、妙に背が高かった。決して小柄ではない私よりも、更に頭一つ分は大きい。しかし身長に対して手足が長く細身で、その外観は、まさに長身痩躯と言う表現がしっくり来る。そしてその身長もさる事ながら、彼の顔に張り付いた妙に子供っぽい無邪気な笑顔に、私は妙な違和感を覚えた。

 だが何にせよ、彼が私とヤコネをFSBの手から救い出してくれた事には変わりは無い。私は感謝の気持ちを込めて、アーロンと握手を交わすべく右手を差し出す。

「ヴァシリー、こいつは変だ」

 隣に立つヤコネが言った。確かに彼女の言う通り、アーロンは私が差し出した右手と握手を交わす気が無いらしく、革ジャンのポケットに手を突っ込んだままニコニコと無邪気に微笑み続けている。すると次第にその笑みは深くなり、遂には堪え切れなくなったのか、声を上げて高らかに笑い始めた。そして彼は不意に笑い止むと、ポケットに突っ込んでいた右手を、素早く私の眼前に差し出す。その手に握られていた小型の自動拳銃の照準を、私の眉間に合わせて。

「残念。いやあ、本当に残念だねえ、ロジオノフ博士。我々を、オリファー財団の救援部隊だと思った? 思っちゃった? 思っちゃったんだろうけれど、しかし世の中、そうそう都合良く助けは来てくれないものなんだよ。スーパーマンはメトロポリスで大忙しだし、バットマンはゴッサム・シティ以外には興味無しさ。おっと、博士はマーベル派だったかな? それともDC派? 俺は昔っからDC派なんだが、どうにも映画化には恵まれないのだけが難点でね。ああ、89年のバットマンは傑作だ。ヒース・レジャーも良いが、本当の通ならジャック・ニコルソンを選ぶ」

 無邪気に微笑みながら、アーロンは訳の分からない事を饒舌に、そして一方的に捲くし立てた。その反面、自動拳銃を突きつけられた私は彼が一体何者なのかも分からず、混乱と狼狽で頭の中が真っ白になって言葉も出ない。

「……CIAか」

 私に代わって、ソゾンが口を開いた。するとその返答を聞いたアーロンは、大袈裟に身を捩りながらソゾンの顔を指差すと、まるでクイズ番組の司会者の様な口調でもって嬉しそうに言う。

「正解! そう、我々はCIA、中央情報局の特殊工作部隊なのです! 素晴らしい洞察力と推理力でしたね、ソゾン選手。それではそんなソゾン選手にお聞きしましょう。何故、我々がCIAだとお気付きになられましたか?」

 手にした自動拳銃をマイクに見立ててソゾンの口元に差し出しながら、アーロンは問うた。彼の自動拳銃がソゾンに向けられたおかげで私はその銃口から解放されたが、気付けばアーロンの部下達の手にしたアサルトライフルの銃口がこちらに向けられていたので、迂闊な行動は取れない。

「決まっている。我々を追跡していたと言う事は、どこかから情報が漏れていたと言う事だ。そしてFSBからこうも簡単に情報を入手出来る組織など、世界中を探しても、CIAかモサドかMI6くらいのものだ」

「なるほど、なるほど。若干根拠に乏しい答えでしたが、まあ、これが現場責任者の勘って奴なのですかね。それと俺があんたの名前を知っているのも、情報が漏れていたからでした。とにもかくにも、見事に正解されましたソゾン選手に、皆様盛大な拍手をお願いいたします!」

 ソゾンの返答を聞き終えたアーロンはそう言うと、一人で楽しそうにステップを踏みながら、誰に聞かせるでもない拍手をアラスカの空に向かって打ち鳴らす。当然だが私もヤコネもソゾンも、そしてアーロンの部下達も、ピクリとも笑わないし拍手もしない。そして一通り拍手とステップを楽しんだアーロンは、再びソゾンに向き直ってから彼の額に自動拳銃の照準を合わせ、笑みに歪んだ口を開く。

「それではソゾン選手に賞品です。38口径の鉛球をプレゼントいたしましょう」

 言うが早いか、アーロンの構えた自動拳銃の撃針が落ち、パンと言う軽い銃声と共に発射された銃弾がソゾンの頭に穴を穿った。そして一泊の間を置いてから髭面の大男は雪原に崩れ落ち、仰向けに倒れた彼の頭部から流れ出た鮮血が、積もり始めたばかりの新雪を赤く染める。

「うーん、やっぱり小口径の拳銃では駄目だね、派手さが無い。やっぱり男なら大口径のショットガンか何かで、人間の頭をドカンと爆散させてみたいものだよね。屋上から落とした腐ったスイカみたいにさ」

 無邪気な笑顔をこちらに向けながら、アーロンは同意を求めた。勿論私は、何も答えない。

「つれないねえ、ロジオノフ博士は。考古学者って言うのは、皆、そんなにノリが悪いのかい? ……さて、それでこれが、例の『鍵』とか言う奴か」

 そう言うとアーロンは、雪原に横たわったまま動かないソゾンの手から、私のトランクケースを奪い取った。そして任務を達成した喜びを表現しているのか、トランクケースを腕の中に抱いた女性に見立てて、一人でタンゴを踊っている。

「ヴァシリー、何なんだあいつは?」

「分からん。少しイカレているらしい」

 私とヤコネは小声で、眼前で踊る異常者の所見を述べ合った。単純明快に軍人然としていたソゾンと違って、こいつは一体何がしたいのか良く分からない。

「それじゃあ、そろそろ出て来てもいいよ、ミハイル」

 タンゴを踊り終えたアーロンが息を切らしながらそう言うと、私達の周辺に転がっているFSBの工作員の死体の一つが、のそりと起き上がった。そして身体に積もった雪を掃っている長い金髪の彼は、私の記憶が確かならば、ワールズ・エンドに入店して来た三人組の内の一人だ。

「やあ、ミハイル。長期間に渡る潜入工作と情報提供、ご苦労さん。今回でキミのFSBでの任務は終了だ」

「やれやれ、これでやっと合衆国に亡命出来るのかい、アーロン? いつも俺ばっかりが損な役回りなんで、ほとほと嫌になっていたところだ。たまにはあんたと、任務を交代させてほしいね。それと、もうミハイルとは呼ばないでくれ。たまには本名の、ダニールと呼ばれたいからな」

 ソゾンが言っていた情報の漏洩は、どうやらこのミハイル、もといダニールと言う男の潜入工作によるものらしい。そして先程のFSBとCIAによる戦闘が始まった際には、真っ先に地面に伏せ、そのまま今の今までずっと死んだフリを続けていたのだろう。

「それじゃあミハイル改めダニール、先にヘリに乗っていてくれ」

「そうするよ」

 アーロンの命令を受け、ダニールはCIAのヘリコプターへと足を向け、歩き始めた。そして我々に背を向ける格好となった彼の無防備な後頭部に、アーロンは自動拳銃の銃口を向けると、何の感慨も無く引き金を引く。すると再びパンと軽い銃声が轟いて、ダニールがその場に倒れ伏した。

「おや、殺し損ねたか」

 アーロンの言葉通り、背後から頭部を撃たれたダニールは即死せず、地面に這いつくばった体勢のままゴロリと転がってこちらに顔を向ける。彼の側頭部は銃弾によって大きく抉り取られており、一部が失われてミンチ状になった薄桃色の脳髄が露出して、アラスカの寒風に晒されていた。そしてボトボトと脳髄を零れ落としながらアーロンを見据えて、声の出ない口をパクパクと動かし続けている。

「どうして自分が撃たれたのか、不思議でたまらないと言った表情だね」

 心底楽しそうな足取りで、アーロンは這いつくばったままのダニールに近付いた。そして脳髄が露出した側頭部の穴のすぐ下にある彼の耳に向かって、囁きかけるように優しく、言葉を重ねる。

「教えてあげよう、ダニール。キミは元々はチェチェンの軍人であり、戦火に見舞われた故国から合衆国への亡命と引き換えに、我々のスパイとなる事に同意した。そしてFSBへと潜入し、今日まで献身的に働いてくれたが、残念ながら危険を冒してまで亡命させるだけの価値が無いとキミは判断されたんだよ。だから申し訳無いが、このままここで、ミハイルとして死んでくれ」

 その言葉とは裏腹に、申し訳無いなどとは微塵も思っていないのであろう陽気な口調と笑顔でもって、そう言い終えたアーロン。彼は続けざまに三発の銃弾をダニールの胸に撃ち込んでから、ガッツポーズと共に叫ぶ。

「イエス!」

 そして息絶えたダニールの血にまみれた胸に片足を乗せたアーロンは、獲物を仕留めた狩人の様に勝ち誇ると、ポケットからスマートフォンを取り出して自分の勇姿の自撮り写真を撮影した。この行為には私だけでなく、彼の部下達も目を背ける。

「ああ、それと単に、俺は国を捨てるような裏切り者が大嫌いなんだよ」

 スマートフォンをポケットに納めてからそう言ったアーロンが、ついでとばかりにダニールの頭をサッカーボールの様に蹴り飛ばすと、残っていた脳髄が雪原にびしゃりとぶち撒けられた。そして彼は再び陽気なステップを踏みながら、悪趣味な歓喜の声を隠そうともしない。

「さてと、それじゃあ次は、そこの可愛いお嬢さんだな」

 一通り踊り終えるとこちらに向き直り、ヤコネを指差すアーロン。彼の次の標的が彼女である事を察した私は、大声で叫びながら、アーロンに詰め寄ろうとする。

「やめろ、ヤコネに触るな! 彼女は今回の一件とは、何も関係無い! 彼女を、今すぐに解放しろ!」

「うーん。ロジオノフ博士、あんたも無粋な人だ。俺はこのお嬢ちゃんに用があるのであって、今はあんたの出番じゃない。大人しくしていてくれないのなら、先にあんたを拘束させてもらおう」

 アーロンの言葉と同時に、雪上迷彩服に身を包んだ彼の部下達が一斉に襲いかかって来ると、あっと言う間に私を取り押さえた。そして後ろ手にナイロンカフで拘束されて両手の自由を奪われた私は、雪原に転がされたまま、身動きも取れない。

「やめろ! ヴァシリーを放せ!」

 今度は、ヤコネが叫ぶ番だった。そして彼女は素早く、足元の雪原に投げ置いたライフル銃とその弾倉を拾おうと身を屈める。しかし彼女の手が得物を拾い上げた直後、その体格に見合わない機敏さで駆け寄ったアーロンの前蹴りが、ヤコネの無防備な顔面を渾身の力でもって蹴り上げた。

「ヤコネ!」

 叫ぶ私の眼前で、蹴り上げられたヤコネの小さな身体は雪原を転がり、うつ伏せに倒れ伏す。一度は拾い上げたライフル銃が彼女の手を離れ、雪に埋もれた。するとアーロンはニコニコと無邪気な笑みをその顔に浮かべながら、横たわるヤコネに近付くと、トランクケースを足元に投げ捨てる。そして自由になった左手で彼女の髪の毛を鷲掴みにしてから、力尽くでもって強引に立ち上がらせた。

「駄目だよ、お嬢ちゃん。大人の許可無しに勝手に動くのは、悪い子だ」

 吐き気をもよおすほどの優しい声でそう言ったアーロンに頬を叩かれながら、掴み上げられた髪の毛だけで全体重を支えなければならない激痛に、ヤコネは苦悶する。彼女の両の鼻孔からはおびただしい量の鮮血が噴出し、着込んだ防寒着の襟元から胸元にかけてを真っ赤に濡らした。すると主人の危機にアウカネックとトゥングルリアの二匹は獰猛な唸り声を上げて歯を剥き、革のベルトでソリに連結されたままであるにもかかわらず、アーロンに飛びかかろうと身を屈める。

「アウリッチ! アウカネック! トゥングルリア! アウリッチ!」

 しかしヤコネが叫ぶと、二匹の犬達はその場でピタリと動きを止めた。勿論二匹ともアーロンを睨み据えて歯を剥き、低い声で唸り続けてはいるが、威嚇するばかりで飛びかかる気配は一向に見られない。どうやら先程ヤコネが叫んだ言葉は、動くなと言う命令のようだ。そしてもし仮に彼女の命令があと少しでも遅ければ、今頃はアーロンの部下達が構えたアサルトライフルによって、アウカネックとトゥングルリアの二匹は全身を蜂の巣にされていただろう。

「さてと、犬達も大人しくなったようだし、それじゃあ改めてお嬢ちゃんに質問だ。お嬢ちゃんは、今回の一件をどこまで知っている? ロジオノフ博士から、何を聞いた? このトランクケースの中身は、もう見たのかい?」

「やめろ、アーロン! 彼女は何も知らない! トランクケースの中身も見ていないし、私は何も話していない! だから今すぐに、その手を放せ!」

 苦痛の呻き声を漏らすヤコネに代わって、私がアーロンの質問に答えた。しかし私のこの行動が意に沿わなかったらしく、彼は口元に無邪気な笑みを残したまま、不機嫌そうに眉根だけを寄せる。

「ロジオノフ博士、やっぱりあんたは無粋な人だ。せっかく俺が可愛い女の子と会話に花を咲かせているって言うのに、それを横から邪魔するってのは、男として粋じゃないね。パーティーで気になる女の子を横取りされそうになっている、ウブな童貞くんじゃないんだからさ。おやおや、それとももしかして、本当に童貞だったのかな? ……まあ、このお嬢ちゃんが何を知っていようが知っていまいが、あんたが童貞だろうとそうでなかろうと、結果は同じなんだけどね」

 そう言い終えるや否や、再び無邪気な笑顔をその顔に張り付かせたアーロンは、右手を革ジャンのポケットに突っ込むと自動拳銃を取り出した。そしてその銃口を、もはや抵抗する気力すら無いヤコネの胸に押し当てる。

「やめろ!」

 私は喉が張り裂けんばかりの大声で叫ぶが、アーロンは心底嬉しそうに微笑んだまま、躊躇う事無く引き金を引いた。銃声と共に紫煙を纏った空薬莢が宙を舞い、38口径の銃弾がヤコネの胸に穴を穿って、髪の毛を鷲掴みにされたままの彼女の身体がガクンと脱力する。そしてアーロンが手を放すと、重力に任せて地面に崩れ落ちる彼女の顔面を、再び渾身の力でもって蹴り上げた。

「イエス!」

 ガッツポースと共に歓喜の言葉を叫ぶアーロンの足元で、ヤコネの小さな身体がうつ伏せに倒れ伏し、雪原にじわじわと鮮血の染みが広がる。発射された小口径の銃弾は彼女の胸部を貫通していないのか、背中側に穴は見られない。

「ヤコネ! ヤコネ! ああ、糞っ! アーロン、貴様、なんて事をしてくれたんだ! ヤコネは何も知らない、無関係な人間だったんだぞ! その彼女を殺すなんて、畜生、貴様は一体何を考えてやがる! この人殺しが! 絶対に許さん! 絶対に殺してやる、この人でなしめ!」

 私は雪原に転がされたまま、悲嘆と憤怒の罵声を浴びせた。しかしそんな罵声を楽しむかのように、アーロンは陽気に鼻歌を歌いながら再びスマートフォンを取り出すと、仕留めた獲物と共に自撮り写真を撮影する事を忘れない。しかも今度は日本人観光客の真似をして、能天気なピースサインを掲げている。

「許さんぞ、アーロン! 殺してやる! そこを動くな!」

 ナイロンカフによって両手を背後で拘束された私は、体勢を整えると、なんとか脚の力だけでもって立ち上がる事に成功した。そして陽気にステップを踏んでいるアーロンに狙いを定めると、後先を考えずに怒りに任せて、全身全霊のタックルを敢行する。

「おっと、危ない」

 事も無げにそう言いながら、アーロンは私のタックルをひらりとかわしてみせた。そして勢い余った私は体勢を崩して無様に転倒し、凍って硬くなった雪原に、顔面をしたたかに打ち付ける。

「無駄だよ、ロジオノフ博士。机に齧り付いて勉強ばかりしていたガリ勉くんのあんたが、曲がりなりにも元軍人であるこの俺に、腕っ節で敵う筈が無いんだからさ。それに無駄な抵抗ってやつは、本人の自己顕示欲を満たすばかりで、傍から見ていると見苦しいもんだよ。それを自覚したら、もう俺には逆らわない事だね」

「畜生……。畜生……」

 私は再び雪原に倒れ伏しながら、泣いていた。ヤコネをむざむざ死に至らしめた己の無力さと、彼女の仇であるアーロンを眼の前にしながらまるで歯が立たない己の不甲斐無さに、涙と嗚咽が止まらない。そして泣き続ける私の背後では、アウカネックとトゥングルリアの二匹が横たわったまま動かない主人の元へと駆け寄り、クンクンと悲しげな声で鳴いていた。

「それじゃあロジオノフ博士、これに懲りたら、もう無駄な抵抗はしないでくれるかな? そして我々に同行し、なおかつ協力してくれると言うのなら、その拘束を解いてあげても構わない。なにせ我々も、鬼じゃないからね。有能な協力者は、厚遇でもって迎え入れようじゃないか」

 そう言うと、やけに芝居がかった仕草でもって両手を広げたアーロンは、満面の笑顔と共に私を迎え入れる事をアピールする。勿論ほんの数分前に、有能な協力者であった筈のダニールをいとも簡単に殺した男の発言に信憑性など無かったが、ヤコネを失った今の私にはもはや抵抗する気力は残っていない。

「……分かった。協力しよう」

「イエス! そう来なくっちゃ!」

 自暴自棄になった私の返答に、無邪気に小躍りしながらガッツポースを決めるアーロン。彼はポケットから折り畳み式のアーミーナイフを取り出すと、私の両手を拘束していたナイロンカフを切断した。そしてヤコネの髪の毛を掴む際に放り捨てたトランクケースを拾い上げてから、私に要請する。

「ところでロジオノフ博士、そのエスキモーの民族衣装を、いい加減に脱いでくれないかい? 俺はそう言ったダサくて野暮ったい服装が、心底嫌いでね。それにあんたにはその民族衣装は似合っていないし、第一、何か変な匂いがするんだよ。ひどく生臭い、田舎者の匂いがさ」

 転んだ際に外れた眼鏡を掛け直した私は彼の要請に従い、素直にイヌピアット族の伝統的な防寒着であるアティギとアノガジェ、そしてカリブー革のズボンとアザラシ革のブーツをその場に脱ぎ捨てると、スーツにネクタイ姿の文明人へと返り咲いた。そして肩掛け鞄の中に納めてあったダウンコートと革靴を身に付けると、このアラスカの地を訪れた時と同じ服装となる。

「ようし、それでは出発しようか、ロジオノフ博士。あ、ガム食う?」

「……いや、結構」

 ポケットから取り出した板ガムを差し出しながらのアーロンの提案を、私は拒否した。三人の人間、しかも最低でも一人は罪無き人間を殺めたこのタイミングでガムを勧めて来る彼の心情が、私には理解出来ない。

「さあ、ヘリに乗った乗った。これ以上こんな所で立ち話を続けていたら、寒くて凍死しそうだ」

 分厚い革ジャンを着込んだアーロンはそう言うと、トランクケースを片手に、後方で控えているティルトローター式の軍用輸送ヘリコプターに向かって歩き出した。私もまた覚束無い足取りで、意気消沈して項垂れながら、ゆっくりと彼の後を追う。自分の顔からは血の気が引き、生気を失って死んだ魚の様な眼をしている事が、直感で理解出来た。

 ヘリコプターの搭乗ハッチから機内へと乗り込む直前で、私は背後を振り返り、狩猟小屋の門前に広がる凄惨な光景を改めて見遣る。

 チェーンガンによる掃射で蜂の巣と化した七台のスノーモービルと、上半身が壁に叩きつけられたトマトの様に砕け散ったFSBの工作員達の死体が其処彼処に転がり、血と臓物と脳漿が雪原を赤く染めていた。ミサイルだかロケット弾だかによる攻撃で爆散した二機のタンデムローター式ヘリコプターからは未だに黒煙と火柱が吹き上がり、脱出出来なかったパイロットがコクピットの中で黒焦げの醜態を晒すと同時に、焼けたガソリンの鼻を突く匂いが周辺一帯に漂う。そして彼らのリーダーであったソゾンもまた頭部に穴を穿たれて、その鍛え抜かれた体躯の持つキャパシティを充分に発揮する事無く、雪原に転がっていた。また頭部と胸部に合計四発の銃弾を浴びたダニールの死体も、脳髄を雪原にぶち撒けたまま、二度と動く事は無い。

 そしてそれら死体と残骸の只中に転がる、まだ年端も行かない無辜なる一人の少女。血にまみれて力無く横たわった彼女と、彼女に寄り添う二匹の従順な犬達の姿に、私は胸を痛める。勿論今の私には、ヤコネの元へと駆け寄り、まだ体温の残る身体を抱き締めながらその死を惜しんで慟哭する事も可能であった。しかし私は、それを拒む。何故なら私は、彼女の死を改めて確認する事が怖かったのだ。彼女の死を確定的にしてしまう事が、怖くて仕方が無かったのだ。また同時に、こんな事態を招いてしまった事に対して、狩猟小屋の中に居るであろうトゥクトゥの爺様に会わせる顔も無い。

 だから私は自分の心を殺し、可能な限り感情を無にして、アーロンの要請に従う道を選んだ。それはひとえに、希望を失った今の私に残されていた唯一の行動原理が、私の発掘物が果たして何に使われるのだろうかと言う学者としての知的好奇心だけだったからに過ぎない。

「ロジオノフ博士、さっさと座ってくださいよ。そんな所に突っ立っていられたら、いつまで経っても出発出来やしない」

「ああ、分かった」

 アーロンに促されてヘリコプターに搭乗すると、私は用意されていた座席に座り、シートベルトを締める。そして私とアーロン、及びアーロンの部下達全員の搭乗が確認されたヘリコプターは、エンジンを唸らせながらゆっくりと離陸を開始した。

 雪降る宵闇の中、見慣れたウッタク家の狩猟小屋が、徐々に遠ざかって行く。

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