第二幕
第二幕
頬に擦り付けられる生暖かい物の感触に、私は眠りから覚醒した。そして眼前に憤怒の表情を浮かべる獣の顔が迫っていたが、どちらも二度目の経験なので、もはや驚く事は無い。
「おはよう、トゥングルリア」
寝袋から半身を起こすと、私の顔を舐め回す黒毛のアラスカンマラミュートの頭を撫でてやりながら、トランクケースの上に置いておいた眼鏡を掛け直して周囲を見遣る。窓が無いために狩猟小屋の中は相変わらず薄暗く、夜が明けたと言う実感は無かった。
「起きたか、ヴァシリー」
「ああ。おはよう、ヤコネ」
板の間の片隅では、既に起床していたヤコネが防寒着を着込んでいる。彼女と挨拶を交わした私は、あくびを噛み殺して眠気に耐えると、昨日一日の出来事が夢ではなかった事を恨んだ。
「これからアザラシ狩りに行く。お前も来るか?」
お湯の入ったコップを差し出しながら尋ねるヤコネに礼を言うと、私は少しばかり思案してから返答する。
「いや、申し訳無いが、遠慮させてもらうよ。血を見るのは苦手なんでね」
「そうか。それなら、ここで待っていろ。外に出ると凍えて死ぬから、出歩くな」
アザラシ狩りへの同行を拒否した私に向かって、ヤコネは若干物騒な助言をした。確かに彼女の言う通り、この外気温では迂闊に小屋の外を出歩けば、簡単に凍死してしまうのだろう。
防寒着を着込むヤコネを横目にコップに注がれたお湯を飲んでいた私は、昨夜と全く同じ位置から微動だにする事無く、トゥクトゥの爺様がタバコをふかし続けている事に気付いた。そして次の瞬間、別の事にも気付く。それは小屋の中に微かに漂う、甘くてえぐい匂い。まだ若かった頃に何度か嗅いだ事のあるその匂いの正体を察した私は、トゥクトゥの爺様の口元に注目した。すると予想通り、昨夜まで吸っていた市販の紙巻タバコと違って、フィルターが無い。
「大麻か」
周囲には聞こえないほどの小声で呟いた私に、トゥクトゥの爺様はニヤリと湿った笑みを向けた。その笑みの奥底に眠る得体の知れない闇を感じ取った私は、背筋に悪寒を走らせると急いで立ち上がり、二匹の犬を連れて小屋から出て行こうとしていたヤコネの背中に声をかける。
「ヤコネ、ちょと待ってくれ。すまないが、やっぱり私もアザラシ狩りに連れて行ってくれないかい?」
トゥクトゥの爺様と二人きりにされる事に恐怖を覚えた私の嘆願に、ヤコネは最初、不思議そうにきょとんとしていた。しかし状況を理解すると、その顔に笑みを浮かべながら、小屋の隅に山積みにされている毛皮を指差して口を開く。
「そうか。それなら、そこにあるアティギとアノガジェを着ろ」
「アティギ? アノガジェ?」
昨夜のマックタックに引き続き、再び聞いた事の無い単語が飛び出して来たので、私はヤコネに問い返した。しかし彼女は知らない方がおかしいとでも言いたげに、いちいち単語の意味を解説してはくれない。そこでとりあえず彼女が指差す毛皮の山を漁ってみたが、その山の正体は乱雑に折り重なった防寒着の数々であり、どうやらアティギとアノガジェと言うのはそれらの種類の事らしかった。
「まずはアティギを着ろ」
スーツとワイシャツを脱いで下着姿になり、毛皮の山の中から探り当てたズボンを穿き終えた私は、ヤコネの命令に従って上着の一枚を着込む。彼女が何も言わない事から、どうやらこの上着がアティギらしい。
「次はアノガジェを着ろ」
再びヤコネが命令し、私はアティギよりも一回り大きな上着を手に取って、着込もうとした。
「違う。それはアマウティだ。男がアマウティを着るな」
そう言って否定しながらヤコネはケラケラと笑ったが、私には何が面白いのかさっぱり分からなかった上に、知らない単語が増えた事で更に混乱する。そこでアマウティの隣に積まれていた上着を着込んだが、今度は何も言われなかったので、どうやらこれがアノガジェらしい。これはあくまでも推測だが、毛が内側を向いた上着がアティギで、外側を向いた上着がアノガジェなのだと思われる。
「よし。これを履いたら、外に出ろ。あたしは犬ゾリの準備をする」
そう言いながら私に毛皮のブーツとミトンの手袋を手渡したヤコネは、ライフル銃と銛を背負うと、さっさと狩猟小屋から出て行ってしまった。そしてブーツと手袋を履き終え、トランクケースと左手首を再び手錠で繋ぎ終えた私は、出入り口から戸外へと足を踏み出す。
狩猟小屋から一歩外に出た途端に、ここが極北の大地である事を否応無しに実感させる冷気が全身を襲った。だがそれでも、昨夜のスーツとコートだけの軽装で外気に身を晒した時に比べれば、今はアティギとアノガジェのおかげで遥かに暖かい。むしろ今は冷気よりも、晴れ渡った空に輝く太陽からの直射日光が真っ白な雪原に反射し、眼を開けていられないほど眩しい事の方が問題だった。しかも今の今まで薄暗い小屋の中にいたので暗闇に慣れた眼には、尚更眩しい。
「ヴァシリー、そこに乗れ」
眩んだ眼を光に慣らしていると、ヤコネの声が耳に届き、気付けば最後尾の操縦席に彼女が乗った犬ゾリが私の眼前に停まっていた。ソリを引くアウカネックとトゥングルリアの二匹が呼吸を荒げて興奮しながら、出発の時は今か今かと待ちわびているのが見て取れる。
「ああ、ここに乗ればいいのかい?」
ヤコネが指差すソリの荷台に、私は腰を下ろした。故郷のロシアで行なわれる犬ゾリレースをテレビで何度か観た事があるが、これは荷物を運搬するためのソリなので、レース用のそれと比べると荷台が遥かに大きい。
「アウカネック! トゥングルリア!」
唐突に、ヤコネが犬の名を叫んだ。すると二匹のアラスカンマラミュートは待ってましたとばかりに勢いよく駆け出し、彼らが引くソリもまた急発進する。私は振り落とされないように必死でソリにしがみつきながら、前を走る犬達が掻き上げた雪礫が顔や身体に次々と打ち付けられる惨状に耐える事を余儀無くされた。
やがて十分ばかりも走り続けただろうか。速度と震動も安定したソリの荷台の上で、雪礫の雨にも慣れた私は改めて周囲を見渡す。どの方角を向いても、地平線から下は見渡す限り真っ白な雪原が続いて地を覆い、逆に地平線から上は真っ青な青空が続いて天を覆っていた。そしてその雪原の中央を雪煙を巻き上げながら疾走する犬ゾリに乗っていると、まるでこの地球から人類が滅び去り、惑星そのものが雪と氷で埋め尽くされてしまったかのような錯覚に陥らせる。
「ヴァシリー! イヌクシュクが見えたぞ!」
不意に前方を指差しながら、ヤコネが叫んだ。彼女が指し示す方角に眼を向けると、人の背丈よりも大きな石積みの石碑か塚らしき物が見える。そのイヌクシュクと呼ばれた石積みは、明らかに天然の造形ではなく、人為的に作られた建造物に相違無い。そして一見すると両手両足を広げて大の字になった人間の様なシルエットのそれに近付くと、ヤコネはまたしても声を張り上げて叫ぶ。
「アチュー! アチュー! アチュー!」
その声を合図にして、ソリを引く二匹の犬は右方向へと進路を変えた。すると雪原からは起伏が殆ど消え失せ、まるで鏡の表面の様に平らな大地がどこまでも続く。
「красивая……」
私の口から、意図せず感嘆の言葉が漏れた。こうして美しい自然の風景に包まれながら風を切っていると、いつまでもこの永遠の大地を走り続けていたいような欲求に駆られる。しかしそんな私の望みとは裏腹に、犬ゾリは次第にその速度を落とし始めると、やがて雪原の中央で停止してしまった。
「着いたぞ」
そう言って、犬ゾリの操縦席から雪原へと降り立ったヤコネ。彼女に倣って、私も腰を下ろしていたソリの荷台から降りて立ち上がる。見渡す限り続く広大な雪原に、私とヤコネの二人、そして二匹のアラスカンマラミュート以外の姿は見えない。
「ヴァシリー、ライフルと銛を持って来い」
「え? ああ、これか」
私は犬ゾリの骨組みに固定されていたヤコネのライフル銃と、先端に奇妙な回転するかえしが付いた銛を手に取った。その間に彼女は、周囲をうろつきながら足で地面の雪を掃い、何かを探している。
「それにしても、随分とでかい銃だな」
ヤコネの元へと歩み寄りながら、私は彼女のライフル銃を値踏みした。高倍率のスコープが取り付けられた木製ストックのライフル銃で、ズシリと重い。銃火器に興味が無い私にはこの銃の良し悪しは分からないが、小柄なヤコネの体格に対して、この銃が大き過ぎる事くらいは判断出来る。
ちなみに銃の機関部の刻印には、「U.S.RIFLE 7.62-MM M14 SPRINGFIELD ARMORY」と掘られていた。どうやらこのライフル銃は、M14と言う名称らしい。
「ヴァシリー、見ろ」
歩み寄る私に向かって、ヤコネは地面を指差しながら言った。見ると、雪原には大人が一人すっぽり入れるくらいの大きさの穴が開いていて、その下には仄暗い水面が顔を覗かせている。
「水?」
「そうだ。この下は海だ。そしてアザラシは、この穴を使って呼吸する。だからイヌピアット族はアザラシが顔を出した瞬間を狙ってライフルで撃ち、銛で突いて殺す」
私からライフル銃と銛を受け取ったヤコネが、穴の正体を説明してくれた。そして降り積もった雪のせいで見分けがつかなかったが、どうやらここは既に大地の上ではなく、凍った海の上らしい。そう言えば犬ゾリで走っている間も、彼女がイヌクシュクと呼んだ石積みを越えた辺りからやけに平らな地面が続くとは思ったが、ここが凪いだ海上なのだとすれば納得がいく。
すると頷きながら得心する私の隣で、ヤコネがライフル銃のコッキングレバーを引いて、初弾を薬室に装填した。しかし予想した通り、やはり彼女の体格と銃のサイズが合っていない。
「なあヤコネ、そのライフルなんだが、キミには少し大き過ぎないかい? もっと小さい銃にした方が、扱い易いと思うんだが」
私の問いと提案に、ヤコネは少しムッとしたような表情を浮かべながら反論する。
「これは、良いライフルだ。あたしの曽々祖父が形見にくれた、素晴らしいライフルだ。だからあたしは、これを使う。このライフルが壊れるまで、使い続ける。誰にも文句は言わせない」
「あ、ああ、そうだな。うん、良いライフルだと思うよ。使い易そうだし、キミに似合っているからね」
ヤコネの言葉に気圧されて、私は前言を撤回した。どうやら私の想像以上に、彼女はこのライフル銃に思い入れがあるらしい。
「分かればいい。あたしは、アザラシを待つ。お前は見ていろ」
勝ち誇ったような顔でそう言ったヤコネは、アザラシが呼吸のために顔を出すと言う穴に照準を合わせてライフル銃を構えると、ピタリと動きを止めた。彼女が呼吸する度に鼻孔から白い息が漏れるが、その一点を除けば微動だにする事無く、全神経をアザラシの呼吸穴に集中させている。
それはいつ現れるかも分からないアザラシを待ち続ける、極めて原始的で、気の長い猟。場合によっては丸一日待ち続けても獲物が現れない事もあるのだろうと想像すると、その非効率さに少しばかり言葉を失う。
「やあ、トゥングルリア、アウカネック」
手持ち無沙汰な私は革のベルトでソリに連結された二匹の犬の元へと歩み寄り、可能な限り親しげに声をかけた。すると黒毛のトゥングルリアは私の足元へと駆け寄って来るなり腹を見せて愛撫を要求して来たが、それとは対照的に赤毛のアウカネックはぷいと顔を逸らして、まるで関心が無いとでも言いたげに私を無視する。仕方が無いので私はトゥングルリアの腹や頭を撫でてやって時間を潰しながら、今の自分が置かれている状況に思いを巡らせた。
今の私が置かれた状況。まず第一に、祖国の国家体制に反目した私に、もはや帰るべき場所は無いのだろう。そして第二に合衆国への亡命だが、仲介してくれているオリファー財団のコーディネーターの言によれば、当局に承認されるか否かは極めて微妙な情勢らしい。物の価値が分からない役人共に対して、このトランクケースに納められた手土産がどの程度の効果を発揮するのかも、極めて未知数だ。
どちらにせよ今の私は、如何なる国家にも所属しない、極めて宙ぶらりんな存在なのだろう。
「来たぞ」
不意にヤコネが、ライフル銃を構えた体勢のまま呟いた。そして次の瞬間、雪原に開いた穴から、呼吸のために海面へと浮上して来たワモンアザラシが顔を出す。それと同時にヤコネのライフル銃が火を噴き、ターンと語尾を延ばした銃声が、地平線まで続くアラスカの雪原に反響した。
額のど真ん中に穴を穿たれたワモンアザラシは、断末魔の悲鳴をあげる暇も無く一瞬で絶命すると、海面にぷかりと浮かぶ。するとヤコネはライフル銃から雪原に突き立てておいた銛へと素早く持ち替え、その先端を獲物の頭部に突き立てた。銛の先端にはかえしが付いているので、一度刺さってしまえば、そうそう簡単に抜ける事は無い。
「ヴァシリー、手伝え」
命令された私は、ヤコネの元へと急いで駆け寄った。そして彼女と共に、脳天に銛を刺されたワモンアザラシの死体を、雪原の上へと引き上げる。ワモンアザラシは決して大型のアザラシではないが、それでも脱力した海生哺乳類を地上へと引き上げるのは、骨が折れた。
「やったぞヴァシリー、上出来だ」
そう言うとヤコネは、満面の笑みを浮かべた顔を私に向ける。そして自身の防寒着の襟元に手を差し入れ、革紐で首に吊るされたスキニングナイフをシースから引き抜くと、その鋭い切っ先をワモンアザラシの首筋に躊躇う事無く突き刺した。すると彼女がナイフを引き抜くや、切断されたワモンアザラシの頚動脈から大量の鮮血が噴出し、白一色だった雪原が見る間に赤く染まる。その光景に血を見るのが苦手な私は途端に気分が悪くなり、思わず眼を背けてしまった。
だがそんな私などお構い無しに、ヤコネは上機嫌でワモンアザラシの解体を継続する。
一通り出血が収まって血抜きが終わると、喉元から肛門に向けて一直線に切れ目を入れ、更に前ビレを基準にして横方向にも切れ目を入れる。そして十文字になった切れ目から皮と皮下脂肪の隙間にナイフの刃を器用に滑らせて行くと、ものの数分と経たない内に生皮が剥がされて、先程まで生きて海を泳いでいたワモンアザラシが赤黒い筋繊維剥き出しの肉塊へと変貌した。
ここでヤコネはワモンアザラシの腹を裂き、腹腔に納められていた内蔵を掻き出してから、一息つく。すると掻き出された内臓の中からおもむろに肝臓を取り出して、それをナイフで薄くスライスし始めた。
「ヴァシリー、食え」
「食え?」
思わず、鸚鵡返しに聞き返す私。と言うのもヤコネは、スライスしたワモンアザラシの生の肝臓と皮下脂肪で出来た赤と白の奇妙なサンドイッチを私に向けて差し出しながら、嬉しそうに微笑んでいる。そしてどうやらその奇妙なサンドイッチを、この場で生のまま食えと言う事らしい。
「これを……食べるのかい?」
「そうだ。美味いぞ」
最初は彼女なりの冗談かとも思ったが、一点の曇りも無いヤコネの笑顔を見る限りでは、どうやら私に選択権は無いようだ。
「それじゃあ……遠慮無く」
ゴクリと唾を飲み込んでから、私は覚悟を決めて肝臓のサンドイッチを受け取ると、それを口に放り込んで咀嚼する。途端に強烈に生臭い血の味と皮下脂肪のヌルヌルとした食感が口中に広がり、昨夜の生のホッキョクイワナを口にした時と同様に、反射的に雪原の上に吐き出してしまった。
「うえっ」
錆びた鉄の棒を舐めたような血の味は口の中からなかなか消え去ってはくれず、私は何度もえずきながら、唾を吐き捨てる。そしてふと気付くと、そんな私を横目にケラケラと笑いながら、ヤコネは自分の分の肝臓と皮下脂肪のサンドイッチを平気な顔で食べていた。
生の肝臓から滴った血と脂でもって、ヤコネの唇は赤く艶やかに濡れている。
「ヴァシリー、お前は好き嫌いが多い」
「都会育ちなんでね。火を通したレバーで作ったペーストは好きだが、生のままは苦手なんだよ」
私の屁理屈に、更にケラケラと笑うヤコネ。やがてひとしきり肝臓を賞味し終えた彼女は、犬ゾリに近付くと、その荷台から新たに大振りなナイフを取り出した。そして生皮を剥ぐのに使ったスキニングナイフよりもずっと大きくて分厚いそれでもって骨を叩き切り、ワモンアザラシの解体を再開する。
時間の経過と共にバラバラにされ、肉屋の店先に陳列されているような状態に近付いて行くワモンアザラシの肉塊。
「ほら、これなら食えるだろう。食え」
そう言ってヤコネは、血まみれのナイフを片手に持ったまま、私に向けて再び肉の塊を差し出した。今度のそれは肝臓ではなく、肋骨が並んだ背中の部分の赤身肉。牛肉で言えばリブロースにあたる部位だが、勿論生のままだ。
「これを食べるのかい?」
「そうだ、食え」
ヤコネの命令に従い、私は再び覚悟を決めて、生肉に齧りつく。咀嚼した途端にやはり生臭さが口中に広がるが、今度は赤身肉なので、肝臓に比べればずっと食べ易い。
「どうだ、美味いか?」
「ああ、これなら食べられるよ。なかなか美味いね」
「そうか。それは良かった」
赤身肉を頬張る私の姿を見ながら、ヤコネは嬉しそうに微笑んだ。それは年頃の少女らしい、純真無垢な心からの笑顔。しかしそんな笑顔に私が心を打たれていると、彼女はやおらワモンアザラシの内臓の山の中から小腸を掴み取り、その先端をナイフで切り取ると中身を吸い出して食べ始めた。
「うええっ」
可愛らしい少女が獣の腸の中身をずるずると音を立てながら食べる光景に、私は再び吐き気を覚えて、その場で何度かえずく。やはり極寒の大地で生きる人間は、都会育ちのもやしっ子である私などとはバイタリティが違うらしい。
「ヴァシリー、これを運べ」
「ソリに積むんだな、分かったよ」
やがて私もヤコネも食事を終えると、二人で手分けして、解体したワモンアザラシの肉と毛皮を犬ゾリの荷台へと運んで積み込んだ。人間の食用に適さない残った内臓は、二匹の犬が残らず平らげて、跡形も無い。そしてヤコネは次の獲物を狩る準備をしながら、私に重要な任務を命じる。
「言い忘れていた。ヴァシリー、周囲を見張れ。そしてホッキョクグマを見つけたら、すぐに教えろ」
「ホッキョクグマ?」
「そうだ。ホッキョクグマにだけは警戒しろ。あたし達イヌピアット族は、人間を恐れない。狼も恐れない。だが、ホッキョクグマだけは恐れる。昔の人は言った。ホッキョクグマとは、話し合いが出来ない」
最後の一文は、おそらくは彼女の属する種族に伝わる格言か諺なのだろう。そんなヤコネの命令を得心した私は、ぐるりと周囲を見渡してみた。地平線まで続く雪原に、とりあえず今のところは、ホッキョクグマの姿は無い。
「ホッキョクグマを見つけたら、絶対に、背中を向けて逃げるな。奴らは背中を見せると、自分よりも弱い獲物と判断して、必ず殺しに来る。だからホッキョクグマを見つけたら、すぐに教えろ。あたしがこれで殺す」
そう言いながら、ヤコネは誇らしげに、曽々祖父の形見だと言うライフル銃を高々と掲げて見せた。身体こそ小さいが、彼女は一人前の狩人の矜持を心に抱いているらしい。
「分かったよ、ヤコネ。ホッキョクグマを発見したらすぐに知らせるから、安心して狩りを続けてくれ」
「任せたぞ、ヴァシリー」
互いに手を振り合うと、私とヤコネはそれぞれの持ち場へと戻った。新たに発見した呼吸穴に照準を合わせてライフル銃を構え、全神経を集中させて微動だにする事無く、いつ顔を覗かせるとも分からないアザラシを待ち続けるヤコネ。犬ゾリの荷台に腰を下ろし、アラスカンマラミュートのトゥングルリアの腹や頭を撫でてやりながら、時々周囲を見渡してホッキョクグマを警戒する私。
アラスカの雪原の中央で、アザラシ狩りは続く。
●
「そろそろ暗くなって来た。これをソリに積んだら、帰るぞ」
三頭目のワモンアザラシを解体し終えたヤコネは、愛用のスキニングナイフの血を拭って首から吊るしたシースに納めると、周囲を警戒する私に手招きしながら言った。確かに彼女の言う通り、狩猟小屋を出発した時には見渡す限り雲一つ無い快晴だった空も、今は太陽が西へと傾いて夕闇が迫りつつある。
「もうそんな時間か」
私は手招きするヤコネの元へと歩み寄りながら、ボソリと呟いた。手元に時計が無いので正確な時刻は分からないが、陽が落ちるにはまだ少し早い気がする。冬の北極圏は白夜の季節とは逆に陽が昇らず夜が続くと言うが、そろそろ春が近い季節でも、まだまだ昼の時間は短いようだ。
「今日は大漁だ。喜べ」
そう言って笑うヤコネと共に、私は本日最後の獲物であるワモンアザラシの肉と毛皮を犬ゾリの荷台まで運ぶと、既に積み終えていた二頭分の上に積み上げて固定した。そしてライフル銃と銛を回収したヤコネはソリの操縦席に立ち、私は荷台に腰を下ろす。
「アウカネック! トゥングルリア!」
朝の出立時と同様、二匹の犬の名を叫ぶヤコネ。その声を合図に彼女の忠実な下僕達は駆け出し、急発進したソリは見る間に最高速度に達する。そして暮れなずむ東の空には月と星が輝き、陽の沈み切らぬ西の空には夕焼けが燃え続ける幻想的な光景を眺めながら、私達は来た道を引き返して帰路へと就いた。極寒の大地を吹き抜ける風が、何故だか今はやけに心地良い。
●
やがて雪原を疾走していた犬ゾリは次第に速度を落とし、空が宵闇に包まれる頃に、アウカネックとトゥングルリアの二匹は狩猟小屋の前で足を止めた。ヤコネは操縦席から降りて犬達をソリから解放すると、小屋の脇の地下に掘られた、昨夜鯨肉を持ち出した天然の冷蔵庫への入り口を開ける。
「ヴァシリー、肉を運べ」
「了解です、お姫様」
ヤコネの命令口調にもすっかり慣れた私は少しおどけて返事をすると、バケツリレーの要領でもって、お姫様と呼ばれた事を笑って楽しんでいる彼女と協力しながら本日の収穫である三頭分のワモンアザラシの肉を冷蔵庫へと運び入れた。そして狩りの成果に大満足らしいヤコネは私を背後に従えて、意気揚々と狩猟小屋の中へと帰還する。
「只今帰りました、トゥクトゥ」
薄暗い小屋の中に入ると、私はトゥクトゥの爺様に帰還の挨拶を告げた。彼は私の予想通りに、昨夜とも今朝とも変わらず、小屋の片隅から一歩も動く事無くタバコをふかし続けている。
幸いな事に、今のトゥクトゥが吸っているのは大麻ではなく、普通の紙巻タバコだった。
「どっこいしょ」
年寄り臭いかけ声を発しながら板の間に腰を下ろし、人心地つく。視界の端ではヤコネとトゥクトゥが言葉を交わしているが、当然ながら二人ともイヌピアット族の言葉で話し合っているので、その内容は分からない。そして私は自分の左手首とトランクケースを繋いでいる手錠を外すと、防寒着のアノガジェを脱ぎ捨てた。
ようやく自由になった左手首を撫で擦りながら、今日もまた私の行動を制限していたトランクケースを一瞥し、深い溜息を漏らす。どうか一日でも早く、この厄介な代物から解放される日が来ないものだろうか。
「ヴァシリー、これからバノックを焼く」
「バノック?」
「そうだ。美味いぞ」
またしても知らない単語がヤコネの口から発されたが、やはり彼女はその意味をいちいち説明する事は無い。そこで私は彼女が何を作るつもりなのか観察する事にしたが、そんな私の視線など気にする素振りも無く、ヤコネは炊事場に立つ。そして随分と使い込んで薄汚れたホーローのボウルを取り出すと、その中に少量の水と、たっぷりの小麦粉を投入した。どうやらバノックと言うのは、生肉の事ではないらしい。
「ヴァシリー、甘い食べ物は好きか?」
「え? ああ、それなりに好きだよ」
「そうか」
私の返答を聞き入れたヤコネは、ボウルの中の溶いた小麦粉に、砂糖と粉ミルクを少量ずつ加えた。更にラードとベーキングパウダーも加えてよく捏ねると、その小麦粉の塊をちょっと小ぶりのピザくらいの大きさに丸めてから、ストーブの上に置いたフライパンにラードを引いて焼き始める。すると狩猟小屋の中に、小麦粉が油で揚げられる時特有の、甘くて香ばしい匂いが充満し始めた。
途中で一回ひっくり返して表も裏も万遍無く揚げ終えたヤコネは、そのバノックと呼ばれる無発酵の揚げパンをステンレス製の皿に乗せると、私に向かって差し出しながら命令する。
「出来たぞ。食え」
皿を受け取った私は、バノックから漂って来る甘い匂いに食欲を刺激された。やはり火を通した食べ物の方が、生のままの食材よりも相性が良いらしい。そして板の間に戻って食べようとする私に、ヤコネは大きなガラス瓶も差し出す。
「これを塗って食え。甘くて美味いぞ」
「これは?」
疑問を抱きながら瓶の蓋を開けると、中には紫色をしたゲル状の物体が詰まっていた。
「夏に摘んだベリーのジャムだ。バノックに塗って食え」
彼女の命令に従い、私はスプーンで掬い取ったベリーのジャムをバノックに塗ってから、口に運んだ。美味い。この地へと赴いてから口にしたものの中では、一番美味いかもしれない。
「どうだ? 美味いか?」
「ああ、これは美味しいよ。いくらでも食べられそうだ」
「そうか、それは良かった」
嬉しそうにそう言いながら、ヤコネは砂糖がたっぷりと入った紅茶も煎れてくれた。その紅茶を飲みながら、私はベリーのジャムを塗ったバノックをバクバクと頬張る。その味と食感はイギリスのスコーンに少し似ているが、ラードで揚げているせいか、若干だが野趣溢れる風味が漂っていた。そして新たに焼いた追加のバノックをヤコネも頬張り、私達は少し早目の夕食を謳歌する。アウカネックとトゥングルリアの二匹の犬もまた、ヤコネから恵んでもらったバノックを貪るように食べて、ご満悦の様子だった。
小屋の片隅ではトゥクトゥの爺様が、タバコをふかしながらいつまでもニヤニヤと笑い続けている。
「ふう、ごちそうさま」
やがてバノックで腹一杯になった私は、食事の終了を告げた。ヤコネは空になった皿とボウルとフライパンを炊事場で洗い、アウカネックとトゥングルリアの二匹は互いに身体を重ね合うように丸まって、既に眠りに就いている。
「ヴァシリー、あたしは寝る。お前も寝ろ」
洗い物を終えたヤコネは、昨夜と同じように服を脱ぎながら、私に命令した。そしてさっさと寝袋に包まると、就寝の体勢に入る。
「ああ。おやすみ、ヤコネ」
私も彼女に倣って防寒着を脱ぎ捨て、下着姿になると、自分の寝袋に包まって就寝の体勢に入った。昨夜から丸一日行動を共にして分かった事だが、どうやらヤコネは食事にしても睡眠にしても時間を決めて行動しているのではなく、腹が減ったら食べ、眠くなったら寝ると言うように、その場その場の感覚で臨機応変に行動しているらしい。勿論それが、果たして彼女だけの行動パターンなのか、イヌピアット族全体の習慣なのかは知る由もなかったが。
とにかく今夜もまた、私は彼女と一夜を共にしようとしている。
「なあ、ヴァシリー」
互いに横になってから半時も経った頃、不意にヤコネが私の名を呼んだ。
「何だい、ヤコネ?」
「お前のその鞄、何が入っているんだ?」
それは当然と言えば、当然の疑問。鞄と言うのは私のトランクケースの事なのだろうが、こんな物を肌身離さず持っていれば、その中身を知りたがるのは至極当たり前の事だ。しかもそれが鋼鉄製の手錠によって手首と繋がれているのならば、尚更その中身を知りたがるのも不思議ではない。
「……この中身は、知らない方がいい。知ってしまえば、キミの身が危険に晒されるかもしれないから」
「そうか。それなら、もう聞かない」
意外にもあっさりと、ヤコネは引き下がった。そして更に彼女は、言葉を重ねる。
「人は誰でも、聞かれたくない秘密がある。それを無理矢理聞き出すのは、下衆な人間のする事だ」
「……そうだな」
そのヤコネの言葉は、私の心に深く突き刺さった。それはひとえに、考古学者と言う私の職業が、遥か古代に生きた人間達の秘密を解き明かそうとする下衆な職業だからなのかもしれない。そしてまた同時に、私は暴かない方が良い秘密を暴いてしまった、まさに張本人に他ならないのだろうから。
薄暗い狩猟小屋の天井を見上げながら私が思い悩んでいる内に、ヤコネはすうすうと寝息を立てながら、夢の世界へと旅立って行った。
●
寝袋の中で眠りから覚醒すると同時に、私は頬を舐め回すトゥングルリアの頭を押し退けて、涎でべとべとになった顔をシャツの袖で拭う。アラスカンマラミュートの愛情溢れる舌技で眼を覚ますのもこれで三度目なので、もういい加減に飽きて来たところだ。
「おはよう、トゥングルリア」
それでも一応は声をかけてやると、トゥングルリアは嬉しそうに身体を摺り寄せてからごろりと床に転がり、野生動物にはあるまじき無防備な腹を見せて愛撫をせがむ。
「起きたか、ヴァシリー」
「ああ。おはよう、ヤコネ」
私はトゥングルリアの腹と頭を撫でてやりながら、昨日と全く同じ挨拶をヤコネと交わした。彼女はやはり昨日と同じく防寒着を着込みながら、今日もまた出かける準備をしている。
「今日はカリブー狩りに行く。お前も一緒に来るか?」
お湯の注がれたコップを手にしたヤコネが尋ねて来たので、私はチラリと、トゥクトゥの爺様を一瞥した。まるで大地に根が生えているかのように小屋の片隅に座ったまま、本当に生きているのかどうかが疑わしくなるほど微動だにせず、延々とタバコをふかしながら笑い続けているトゥクトゥの爺様。やはり彼と二人きりにされる事に、私は本能的な恐怖を感じてならない。
「ああ。今日も同道させてもらえるかい、ヤコネ」
「そうか。それなら早く着替えて、準備をしろ」
カリブー狩りへの同行を嘆願する私にそう言うと、ヤコネは昨夜から脱ぎ散らかしたままになっている私の防寒着を指差した。既に昨日学習したのでアティギとアノガジェを間違える事も無く着込んだ私は、トランクケースを手錠で左手首に繋ぐと、ミトンの手袋と毛皮のブーツを履いて準備を終える。
「よし。行くぞ、ヴァシリー」
先導するヤコネに従って小屋の外へと出ると、アウカネックとトゥングルリアの二匹の犬もまた、私達に追従して戸外の雪原に足を踏み出した。アラスカの雪原は相変わらず極寒の冷気に包まれていたが、今日は少し雲が出ているので、昨日ほどは眩しくない。しかし太陽が隠れた分だけ気温が下がり、吐く息がより白く見える。
それにしても気になったのだが、この狩猟小屋にはおよそ、収納と呼べる家具や設備が存在しない。衣服にしても食器にしても猟の道具にしても、どれも部屋の隅の方に雑然と積み重ねられているばかりで、ここで生活する人間からは整理整頓と言う概念が抜け落ちているように感じられる。勿論これもまた、イヌピアット族全体の習慣なのか、それともウッタク家の慣習なのかはどうかは分からなかったが。
そんな事を私が考えている間に、ヤコネは慣れた手つきでもって、革のベルトで二匹の犬を犬ゾリに連結した。そしてこちらを見ながら無言のままソリの荷台を指差すので、私は了解したとばかりに、その指差す先に腰を下ろす。ソリに繋がれたアウカネックとトゥングルリアの二匹は、一刻も早く走りたくて仕方が無いらしく、呼吸を荒げて興奮を隠そうともしない。すると私と犬達の準備が整った事を見届けたヤコネはソリの操縦席に立ち、昨日と同じく、二匹のアラスカンマラミュートの名を叫ぶ。
「アウカネック! トゥングルリア!」
それを合図にソリは急発進し、犬達が掻き上げた雪礫が私の顔や身体に次々と打ち付けられるが、昨日散々経験した事なので既に慣れてしまった。そしてどうやら今日は、昨日のアザラシ狩りとは逆の方角へと進路を取っているらしい。
暫しの間、アラスカの大地を犬ゾリは走り続ける。雪煙を巻き上げながら、永遠に続くかと思われるような雪原を疾走し、頬を撫でて行く風が心地良い。こうして真っ白な雪と氷に覆われた世界に身を置くと、都会で生きていた時に感じていた由無し事の全てが、まるで瑣末な事の様に思われる。きっと私の祖先である原初のスラブ人達もまた、北米大陸とユーラシア大陸の違いはあれども、このような大自然の中で逞しく生きていたに違いない。
そうこうしている内に、やがて犬ゾリは速度を落とし、ゆっくりと停止した。今日は凍った海の上の様なまっ平らな平地ではなく、やや起伏に富んだ雪原の上を走り続け、遠目には隆起した岩場や背の低い植生も確認出来る。
「まずは、カリブーを探す」
そう言うとヤコネはソリの操縦席から降り、近くの岩場まで歩み寄ってから、その上によじ登った。そして懐から取り出した双眼鏡を覗くと周囲に眼を凝らし、どうやら本日の獲物であるカリブーを探しているらしい。
カリブーはトナカイの別名で、私の故郷でも家畜として飼育したり、狩りの獲物として人気が高い偶蹄目の哺乳類だ。北米大陸に生息する鹿の一種としてはヘラジカよりも小さく、草食動物なので襲われる心配は少ない。しかしそれでも最大で体長は二m、体重は三百㎏に達する。昨日のワモンアザラシも決して楽な相手ではなかったが、小柄な少女が一人で狩るにしては、獲物が大き過ぎる気がしなくもない。
私がそんな事を考えていると、岩場の上のヤコネの動きが止まった。そして双眼鏡を覗いたまま、遥か遠くの一点を凝視していたかと思うと急いで岩場から飛び降りて、こちらへと引き返して来る。
「見つけた。移動するぞ、ヴァシリー」
「見つけた? カリブーをかい?」
「そうだ。三頭。まだこちらには気付いていない」
引き返して来たヤコネは指を三本立てながらそう言うと、犬ゾリの操縦席に飛び乗った。私も置いていかれては堪らないので、慌ててソリの荷台に飛び乗る。
「アウカネック! トゥングルリア!」
再びヤコネが犬達の名を叫ぶと、ソリは急発進した。起伏に富んだ大地の上を、ガタガタと揺れながら疾走する犬ゾリ。そして雪原を一㎞ばかりも走ったかと思うと、それは急停止し、その勢いでつんのめって転びそうになった私の喉から小さな悲鳴が漏れる。
「ヴァシリー、大声を出すな。カリブーに気付かれる」
「あ、ああ。すまん」
操縦席から飛び降りたヤコネは私に命令すると、ソリの荷台に固定されていたライフル銃を取り出し、再び手近な岩場へと駆け出した。私も遅れまいと、彼女の後を追って雪原を駆ける。
「見ろ、ヴァシリー。カリブーだ」
岩場の頂上で腹這いに伏せたヤコネは、ライフル銃の薬室に初弾を装填して構えると、前方を指差しながら言った。私もまた腹這いになって彼女が指差す方角を凝視するが、残念ながらド近眼の私の視力では、カリブーの姿を確認する事は出来ない。しかし前方には、雪原からまばらに草が顔を出したツンドラ地帯が広がっており、どうやらその中に獲物の姿があるようだ。
「すまん、ヤコネ。私には、カリブーの姿が見えない」
「お前は目が悪い。あたしには見える。これを使え」
そう言うと、ヤコネは懐から取り出した双眼鏡を私に手渡す。受け取った双眼鏡を覗き込むと、確かに前方に、雪の中に顔を突っ込んで草を食んでいる三頭のカリブーの姿が確認出来た。直線距離にして、およそ五百mほどだろうか。
「三頭の中の、一番大きい奴を殺す」
ヤコネはライフル銃のスコープを覗き込んで宣言すると、獲物を狩る事だけに意識を集中させた。三頭のカリブー達は狙われている事になど気付いていない様子で、草を食む事に余念が無い。そんなカリブーを狙うヤコネの鼻孔からは呼吸に呼応して白い息が漏れていたが、それも今はピタリと止んで、銃身のブレを抑制している。暫し雪原には、時が止まったかのような静寂が訪れた。
次の瞬間、ターンと甲高い銃声がアラスカの大地に響き渡り、紫煙を纏った空薬莢が虚空を舞う。すると一泊の間を置いてから、私が覗いている双眼鏡の中で草を食んでいたカリブーの内の一頭が、雪原の上に静かに倒れ伏した。どうやら苦しむ間も無く、即死したらしい。
「やったぞ。殺した」
獲物を仕留めたヤコネは、そう言って勝ち誇った。そして腹這いになった体勢から立ち上がると、素早く岩場から駆け下り、私に向かって手招きする。
「急げ、ヴァシリー。カリブーが凍る」
「あ、ああ。分かった」
私は慌てて、岩場から駆け下りた。雪原に降り立つと、既に犬ゾリの操縦席にはヤコネが立っていたので、急いで荷台に腰を下ろす。すると私が腰を下ろすのと同時に彼女が犬達の名を叫んで、ソリは急発進した。前方のツンドラ地帯に向かって、雪原を疾走する犬ゾリ。それが目標との距離を詰めるに従って、近眼の私にも、仕留められたカリブーの姿が肉眼で確認出来た。
やがて速度を落とし、ゆっくりと停止した犬ゾリから雪原へと降り立った私は、ツンドラ地帯の一角に倒れ伏した獲物の元へと歩み寄る。そこには大きくて立派な二本のツノを頭頂部から生やした大柄なカリブーが、頚部に穴を穿たれて死んでいた。獲物が暴れ回った形跡が見られない事から推測するに、やはり即死だろう。この距離で急所を一撃とは、ヤコネの射撃の腕前は達人と評するに遜色無い。
「残りの二頭は?」
「逃げた。追わなくてもいい。一頭で充分だ」
周囲を見渡す私に、ヤコネが告げた。彼女が仕留めたカリブーはかなりの大物であり、推定でもその体重は二百㎏に達しているほどなので、確かにこの一頭だけでも本日の猟の成果としては充分だろう。
「見ろ、ヴァシリー」
すぐにでも解体を始めるのかと思ったヤコネは、横たわったカリブーの死体の傍にしゃがみ込むと、その身体を撫でながら私を呼んだ。彼女が撫でているカリブーの背中から尻にかけてをよく見ると、何やら小さな瘤の様な隆起が幾つも散見され、その中央には小さな穴が開いている。
「コマだ」
「コマ?」
謎の単語に私が疑問を抱いていると、ヤコネはその隆起の一つを摘むようにして、指で押した。すると中央の小さな穴から、親指の先くらいの大きさの白い芋虫がぽろりと姿を現し、雪原の上に転がり落ちる。どうやらカリブーに寄生していたウマバエか何かの幼虫らしき芋虫が、コマの正体らしい。そしてその芋虫を摘み取ったヤコネは、一切躊躇する事無く、それを口の中に放り込んで咀嚼した。
「うえっ」
芋虫を生きたまま食べる年端も行かない少女を見て私はえずいたが、その間もヤコネはカリブーの背中に出来た隆起を押して、次々とコマを集めている。
「美味いぞ、食え」
「いや、申し訳無いが、それだけは絶対に無理だ」
さすがの私も、昆虫を生きたまま食えと言う命令ばかりは、断固として拒否した。するとそんな私を尻目に、彼女は笑いながらコマを一つまた一つと、まるでマシュマロか何かでも食べるかのように口に運んでは咀嚼する。食べているのが生きた芋虫と言う一点を除けば、その姿はスナック菓子を食べる都会の少女と変わりない。
やがて一通りコマを食べ終えたヤコネは、防寒着の襟元に手を差し入れると、胸元に吊るした愛用のスキニングナイフを取り出してカリブーの解体を始めた。
まずは頚動脈を切って、血抜きをする。そして一通り血が抜けた後は、喉元から肛門にかけての腹側に一気に切れ目を入れ、そこから四本の脚の先端に向かって更に切れ目を入れた。この大の字の切れ目から皮と皮下脂肪の隙間にナイフの刃を走らせ、まるで幼子から服を脱がせてやるかのようにして、素早く器用に生皮を剥いで行く。皮を剥かれたカリブーは、筋繊維が剥き出しのグロテスクな姿を晒していた。
「カリブーは、毛皮も肉も売れる。金に換えて、街で買い物をする。売れなかった毛皮は、アノガジェの材料になる」
解体作業を続けながら発されたヤコネの言葉によれば、カリブーは彼女達にとって貴重な収入源であると同時に、民族衣装を作るには欠かす事の出来ない重要な素材らしい。そして毛皮を剥ぎ終えたヤコネは、獲物の腹を裂いて内臓を掻き出すと、昨日のアザラシと同じく肝臓を取り出して薄くスライスする。
「ヴァシリー、食え」
「いや、それも遠慮させてもらう」
アザラシの肝臓と皮下脂肪のサンドイッチで懲りているので、私はヤコネの命令を拒否した。すると残念そうな表情の彼女は手にした肝臓を自分の口に放り込むと、それを咀嚼しながらカリブーの脚の骨回りの肉を削ぎ落とし、次に胃袋を切り裂いてその中身を露出させる。果たしてそこに現れたのは、カリブーが食べていた草や苔が半分消化されてゲル状になった、緑色のペースト。それを指差した彼女は、カリブーの脚肉を私に向かって差し出しながら、新たな命令を下す。
「これを肉に塗って食え。美味いぞ」
「これを?」
にわかには信じ難かったが、どうやらヤコネはカリブーの脚肉に、胃袋の中身のペーストを塗って食えと言っているらしい。その証拠に、彼女自身もまた脚肉を切り出すと、それに胃袋の中身を塗り付けてから美味そうに咀嚼している。その緑色のペーストは一見するとバジルソースの様にも見えるが、その正体は草食動物の未消化の胃の内容物だ。
私は逡巡する。少なくとも脚肉は哺乳類の赤身肉なので、生臭さにさえ眼を瞑れば、私でも食べられるに違いない。しかし未消化の胃の内容物ともなれば、話は別だ。そんなゲテモノ食材を、都会育ちの私が食べられる筈も無いだろう。だがその味に全く興味が無いのかと問われれば、その答もまたノーだった。
そして最終的に勝利したのは、学者として知的好奇心。その学術的衝動に背中を押された私は、ヤコネから受け取ったカリブーの脚肉に胃の内容物のペーストを塗り付けると、意を決して口の中に放り込んだ。
途端に、異様な味と匂いが口中に広がる。消化途中の植物のペーストから漂う、肉の生臭さとはまた違った、強烈に青臭い匂い。それはまるで、地面に直接口をつけて苔を食んでいるかのような匂いだった。しかもその苔にカリブーの胃液の酸味が加わって、得も言われぬ苦酸っぱさが私の舌と脳を襲う。
「うええっ」
当然ながら私はペーストまみれの脚肉を地面に向かって吐き出すと、盛大にえずいた。ヤコネはそんな私を見てケラケラと笑うと、カリブーの胃の内容物を塗った肝臓の切り身を平然と食べながら、解体作業を継続する。
愛用のスキニングナイフと骨切り用の大型ナイフを巧みに使い分けるヤコネの手捌きによって、見る間に解体されて行くカリブー。気付けば生皮を剥がされたその獣は、更に肉と骨と内臓とに切り分けられ、鮮血で真っ赤に染まった雪原の上にその全てを晒していた。冬の北極圏では捕った獲物を素早く解体しなければ凍ってしまうので、モタモタしている暇は無い。
やがて解体作業が一段落したらしく、ヤコネはバラバラになった獲物を前にして、汗を拭いながら一息つく。そして肉を削ぎ落とされたカリブーの大腿骨をおもむろに取り出すと、それを大型ナイフの背で叩き割った。すると骨の中からでろりと、赤褐色の柔らかな骨髄がその姿を現す。
「ヴァシリー、食え。美味いぞ」
もう何度目になるのかも分からない、ヤコネによる喫食を促す命令。自分も随分とお人好しだなと自己評価しながら、私はその割れた大腿骨を受け取り、その断面から覗く骨髄を見据えた。硬い骨の真ん中に納まった、柔らかな骨髄。それを見た私は、茹でた蟹の脚の殻と身の関係を思い出したが、さすがに味までは似ていないだろう。
「こうなりゃ、ヤケクソだ」
私はそう言うと骨髄の先端に齧り付き、一口分を噛み切ると、勢いに任せて何度も咀嚼した。
「あれ?」
意外にも、食べ易くて美味い。肝臓や脚肉よりも臭みが無く、コンソメのゼリーを食べているような旨味と、ほのかな甘味がある。上手く言葉で表現する事は難しいが、赤身肉と皮下脂肪の中間の様な味と食感だと言えばいいのだろうか。
「どうだ、美味いか?」
「ああ。これは何と言うか、想像していたよりも、ずっと美味い」
「そうか。それは良かった。これも食え」
そう言うとヤコネは、残りの脚の骨も次々とナイフの背で叩き割って骨髄を露出させてから、嬉しそうにそれらを差し出した。私はその大腿骨の束を受け取ると、貪るように骨髄を喰らう。するとヤコネもまた笑いながら、カリブーの胃の内容物を塗った肝臓の切り身を口に運ぶ手を止めない。
どうやら私もヤコネも思いの他腹が減っていたらしく、暫しの間、私達二人は無心でカリブーの内臓と骨髄を食べ続けた。背後ではアウカネックとトゥングルリアの二匹が、自分達の分け前を求めて歩き回り、ソワソワと落ち着きが無い。
「なあヤコネ、これも犬ゾリに積むのかい?」
私は、大きなツノの生えたカリブーの頭蓋骨を指差しながら尋ねた。と言うのも、一通り食事を終えた私とヤコネの二人は狩猟小屋へと持って帰るための肉と毛皮をソリの荷台に積み込み始めたのだが、頭蓋骨だけは他の骨とは区別されていたからである。ちなみに私達二人が食べ終えて残った頭蓋骨以外の骨と内臓は、餌の時間を待ちわびていた二匹の犬達によって貪り食われ、今は跡形も無い。
「そうだ。それは持って帰る。頭の骨とツノは、土産物屋に売れる」
「ああ、なるほどね」
ヤコネの返答に、これもまた彼女達の貴重な収入源の一つなのだろうと、私は得心した。そして頭蓋骨を犬ゾリまで運ぼうと二本のツノを両手で掴み上げた時に、ふと気付く。ふさふさとした毛で覆われたカリブーのツノは、まだほんのりと温かく、先端は柔らかい。考えてみれば骨の一部なのだから当然だが、ツノもまた血が通っていて成長しているのだと思うと、少しだけ不思議な気がした。
「どうした、ヴァシリー?」
「いや、カリブーのツノと言うのは、温かいんだなと思ってね。どんな動物も、生きているんだな」
すると生命の神秘に感動している私に、ヤコネは骨切り用の大型ナイフを取り出して、事も無げに言う。
「そうだ。食いたいか? 骨と同じで、ツノの中身も食えるぞ」
「いや、遠慮させてもらうよ。これは、土産物屋に売るんだろう?」
なんでもすぐに食べさせようとするヤコネに苦笑いを向けながら、私はツノを食べる事を拒否した。そしてカリブーの毛皮と肉と頭蓋骨を荷台に積み終えた私達は、犬ゾリで帰還の途に就く。
帰り道は、非常に順調だった。来た道をなぞるように引き返すだけで、特にこれと言った障害物も無く、唯一の脅威であるホッキョクグマとの遭遇も経験せずに路程を終える。そして気が付けば、もはや見慣れた狩猟小屋の前へと、犬ゾリに乗った私とヤコネは辿り着いていた。今日は昨日よりも早く帰還したので、未だ空は明るい。
「ヴァシリー、肉を運べ」
「はいよ」
ソリの操縦席から降りたヤコネが、小屋の脇の冷蔵庫の扉を開けながら昨日と同じ命令を下したので、それを了承した私は冷蔵庫の中へと下りる階段の前で待機していた彼女にカリブーの肉を渡す。そしてバケツリレーの要領で次々と肉を運び入れ、最終的に全ての肉が冷蔵庫に保管されると、本日の猟は終了した。
「ヴァシリー、カリブーの頭の骨を持って来い」
ヤコネが下した、追加の命令。その命令に従い、私は狩ったばかりのカリブーの頭蓋骨を持って、狩猟小屋の中へと帰還する。一足先に小屋に足を踏み入れていたヤコネは、カリブーの毛皮と共に、肉の一部を小脇に抱えていた。
「只今帰りました、トゥクトゥ」
やはり小屋の片隅から一歩も動く事無く、いつまでもタバコをふかし続けているトゥクトゥの爺様。彼に挨拶の言葉を述べた私は板の間に寝転がって左手首の手錠を外し、アノガジェを脱ぎ捨ててから、人心地つく。この二日間で大分慣れたが、それでも肌身離さずにトランクケースを持ち歩くと言うのは面倒で仕方が無い。
「どうした? 疲れたのか?」
寝転がって脱力している私に、ヤコネが尋ねた。
「ああ、なんだかひどく疲れたよ。私はキミがカリブーを狩るのを見ていただけなのに、不甲斐無いね」
「仕方が無い。お前は、あたしよりも年寄りだ」
「酷いなキミは。私はこう見えても、未だ三十九歳の若者だよ」
わざとらしい口調で不満を述べる私を見て、ケラケラとヤコネは笑った。そんな彼女の笑顔に、私もまたハハハと笑う。言わずもがなだがトゥクトゥの爺様は、小屋の片隅でニヤニヤと笑い続けるのを止める気配が無い。そして一通り笑い終えると、ヤコネは炊事場に立ち、雑多に積まれた食器や調理道具の山の中からステンレス製の鍋を取り出した。どうやらこれから、夕食の支度をするらしい。
「ヴァシリー、お前は生肉が苦手だ。だから今日は、肉を煮てやる」
「本当かい? それは嬉しいね」
「肉が煮えるまで、しばらく待て」
そう言うとヤコネは、先程小屋に入る際に小脇に抱えていたカリブーの肋骨の周辺の肉を切り分けてから、それを水を注いだ鍋の中に放り込んだ。そして塩と胡椒、それにペットボトルに入った日本産の醤油を少々加えて味付けをすると、鍋に蓋をしてストーブの火にかける。三日ぶりに野菜が食べられるのではないかと少し期待していたのだが、たとえ煮込み料理であっても、どうやらイヌピアット族の食事は肉が中心で野菜は殆ど食べないようだ。
そうこうしている内に、やがて肉に火が通って、食欲を掻き立てる芳醇な香りが小屋の中を漂い始める。
「出来たぞ、食え」
ヤコネが板の間に座り、持っていた鍋を私の前に置いてから、蓋を開けた。もうもうと湧き上がる湯気の中に、しっかりと煮込まれた骨付き肉が幾つも浮かんでいる。私はゴクリと喉を鳴らし、もはやこれ以上おあずけを喰らう事に耐えられる気がしない。
「それじゃあ、遠慮無くいただくよ」
「ああ。食え」
料理人の了承を得た私は、熱さに耐えながら骨付き肉の一本を摘み上げると、そのまま手掴みで齧り付いた。するとほのかに醤油と胡椒の風味が利いた獣肉の旨味がじわりと舌の上に広がって、思わず涙が零れそうになる。
「美味いか、ヴァシリー?」
「ああ、これは美味い。昨夜のバノックも美味かったが、やはり火を通した肉が一番美味いな」
歓喜の声を上げた私は、カリブーの煮込み肉をバクバクと、骨にこびりついた肉の破片まで歯で削ぎ落としながら食べ続けた。骨髄から染み出た出汁を吸い込んだ脂身の部分も極上のゼリーを連想させ、舌の上で蕩けるように美味い。全体的に薄味なのが少し物足りなかったが、おそらくはヤコネも含めたイヌピアット族自体が、あまり濃い味付けに慣れていないのだろう。
「そうか、美味いか。それは良かった」
ヤコネもまた骨付き肉をムシャムシャと食べながら、そう言って微笑んだ。アウカネックとトゥングルリアの二匹のアラスカンマラミュートも肉を分けてもらい、彼らは骨までバリバリと噛み砕いて食い尽くす。
「ふう、ごちそうさま。美味かったよ、ヤコネ」
最後の一本までカリブーの骨付き肉を味わった私は、膨らんだ腹を擦りながら、満足げにそう告げた。そして行儀が悪いと分かっていながらも、板の間にごろりと寝転がると、天井に向かって大きなゲップを漏らす。そしてゆっくりと瞼を閉じ、深く静かな呼吸を繰り返した。
炊事場の方角からは、ヤコネが鍋を洗う音が聞こえて来る。
●
ギリシャ共和国の最南端、クレタ島。古代ミノア文明が栄えたこの土地で、私が未発掘の遺跡を発見したのは、今から一ヶ月ほども前の話だ。
有名なクノッソス宮殿から南に一㎞程度下った丘陵地帯で、地下に埋没していた古代の邸宅跡を、私をリーダーとする発掘隊が現代に蘇らせた。その時の事は、今もハッキリと覚えている。
「いいか、これから遺跡の奥へと向かう。映像での記録は録っているな?」
「問題ありませんよ、ロジオノフ博士。バッチリ動画を撮っています」
「よし。……言っておくが、スポンサーからの許可が下りるまでは、勝手にYoutubeに流したりするなよ?」
「分かってますよ、博士」
発掘隊の中で記録班に所属する学生と、ビデオカメラによる撮影が順調に行われているかどうかの確認を終えた私は、遺跡の中へと足を踏み入れた。私の背後には五名の学生と、通訳を兼ねた現地のガイドが控えている。遺跡を発見したのは、昨日の午後。それから崩落の可能性が無いかを何度も確認し、照明などの機材を搬入し終えた今日から、いざ探索と相成ったのだ。
地下に埋没していた遺跡は、当然ながら暗い。そこで私は懐中電灯を手に、遺跡の中を発掘隊の先頭に立って進む。背後には大型の照明機材を持った学生が続き、万が一の事態に備えて、全員がヘルメットとガスマスクを装着していた。
「予想以上に、広いな」
「ええ。ここまでの遺跡は、過去にも発掘されていません。まさに大発見ですよ」
私もガイドも、遺跡の規模に驚きを隠せない。また間取りと遺物の数々から、この遺跡が古代の有力者の邸宅跡である事が推測された。そして邸宅の中心であろう大広間に足を踏み入れた私達は、考古学を専攻する者としてはこの上無い栄光に、感嘆の声と溜息を漏らす。人類七十億の中で、未盗掘の古代遺跡に初めて足を踏み入れる人間の一人に選ばれる事以上の喜びが、果たしてこの世に存在するのだろうか。
「ロジオノフ博士、こちらに大きな部屋が続いています」
大広間の壁に描かれた壁画を検分していた私の背中に、学生の一人の声が届いた。急いで彼の元に向かうと、確かに大広間の最奥に、大きな門戸が口を開けている。
「広いな。下手をすると、大広間より広いぞ。礼拝所か?」
部屋に足を踏み入れた私が推論を組み立てていたその時、懐中電灯の光が、部屋の中央に横たわる人工物を照らし出した。
「これは? 石棺?」
私の頭に、疑問符が浮かぶ。と言うのも、それは一見すると蓋が存在しない石棺かとも思われたが、人間の埋葬に使用される石棺としてはあまりにも大き過ぎた。その全体は直方体で、幅は三m、長さは五m、高さも二m余りにも達する。仮に石棺だと仮定するならば、果たしてどれほど大きな人間を埋葬しようとしていたのか、それとも膨大な量の副葬品が納められていたのか。
私は石棺の左右の階段状の石組みを登り、縁に立つと、足元に広がるその中身を照らした。
「何だこれは?」
そこに納められていた物体の異様さに、私は言葉を失う。それは石棺一杯の大きさの、鋼鉄の巨人。いや、正確に言えば、鋼鉄かどうかはまだ分からない。一見するとその巨人の体躯の表面には金属の様な光沢が見て取れるが、カーボン素材の様に規則正しく並んだ模様も確認出来る。それに有機物の様な質感の箇所も存在し、これが生物なのか機械なのか、その判別も付かない。ただどちらにしろ、青銅器文明であった古代ミノア文明の遺跡から発掘されるような代物ではなかった。
「ロジオノフ博士、これは一体……何なんですか?」
「分からん。私にも、さっぱり分からん」
学生の問いに頭を抱えながらも、私は巨人を観察する。
この巨人の出自は不明だが、とにかくそれは、人型をした巨大な物体だ。ただ人型とは言っても、手足が二本ずつ存在するために基本的なシルエットは似ているが、私達ホモサピエンスのそれとはかなり形態が違う。まず第一に、手足が異様に長く、それと反比例するかのように胴体と頭が小さい。そして首から背中にかけて、何か太いチューブかボンベの様な構造物が接続されている。
「ん? これは……関節が繋がっていない?」
よく見れば巨人は、胴体と手足が繋がっていなかった。一見すると繋がっているようにも見えるのだが、ほんの数㎝離れている。勿論それが最初から繋がっていなかったのか、それとも後から切断したのかは、今はまだ判断出来ない。しかしこの巨人を石棺に納める際に、バラバラにして運び入れたのであろう事は、容易に想像出来た。そうでなければ、これだけの大きさの金属の塊を動かす事は、困難を極めたであろう。
「……壊れているのか。もしくは死んでいる、かな」
私は重要な事実に気付くと、そう独り言ちた。その事実とは、この巨人の脇腹に、巨大な穴が開いている事。そして各所の素材が、既にボロボロに風化している事。つまりこの巨人は何らかの事故で破壊され、活動を停止し、古代の人々の手によって石棺に納められたと考えられる。おそらくはミノア文明にとって、そしてこの邸宅の主人にとって、大切な存在だったに違いない。
私は静かに、ギリシア正教の様式で十字を切った。
「さて、壊れた理由は何かな」
そう言うと私は石棺の中へと飛び降り、懐中電灯で細部を照らしながら、巨人の脇腹の傷口をより詳細に観察する。やはり傷口には、金属の断面の様な箇所もあれば有機物が溶けたような箇所もあり、この巨人の正体は益々をもって謎に包まれるばかりで埒が明かない。かろうじて確かな事は、これが他の遺物とは全く違う技術によって、この世に生み出された事ぐらいだろうか。
そしてその時、私は発見してしまった。脇腹の傷口から覗く巨人の胴体の中央に、明らかに異質な存在が鎮座している事に。
「ヒュペルボレイオス……?」
私は呟き、謎は更に深まる。
●
「ヴァシリー、起きろ」
「え? あ、ああ」
肩を揺すられて、私は浅い眠りから覚醒した。起こしてくれた張本人であるヤコネは、防寒着を着込んで、私の隣に立っている。半身を起こし、目脂で汚れた眼を擦りながら寝る寸前の事を思い出そうと試みたが、記憶の一部がどうにも曖昧だ。推測するに、どうやらカリブーの骨付き肉の煮込みを腹一杯食べて横になった私は、いつの間にか眠ってしまっていたらしい。
「もう朝かい?」
私の問いに、ヤコネは首を横に振る。
「違う。未だ夜だ。だが、これからお前に見せたいものがある。アノガジェを着て、外に出ろ」
そう言うとヤコネは、アウカネックとトゥングルリアの二匹を連れて、さっさと小屋の外へと出て行ってしまった。私は訳も分からずに起き上がると、彼女の命令に従ってアノガジェを着込み、外出の準備をする。
それにしても、クレタ島での発掘作業の夢を見るなんて、久し振りの事だ。数えてみればほんの一ヶ月前の事なのだが、あれ以降はあらゆる出来事がめまぐるしく身の回りを駆け抜けていったので、もう何年も前の事の様に思い出される。そしてあの時にあんな物さえ発見しなければ、今の私は以前と同じ平穏無事な人生を謳歌出来ていたに違い無い。そう思うと遣る瀬無い悔恨の念に駆られ、板の間の隅に置かれたトランクケースを一瞥してから、深い溜息を漏らした。
しかしどれだけ悔やんだところで、詮無い事だ。時間は決して、巻き戻ってはくれない。そう腹をくくった私は、トランクケースを手錠で左手首に繋ぐと、ヤコネの後を追って狩猟小屋から戸外へと身を躍らせた。
「こっちだ、ヴァシリー」
陽が落ちてすっかり暗くなった小屋の外に出てみれば、少し先の高台の上からこちらに向かって、早く来いとばかりにヤコネが手招きをしている。見たところ犬ゾリは小屋の脇に停められているし、二匹の犬達もヤコネの足元で駆け回っているので、どうやら遠出する訳ではないらしい。
「寒いな」
私はヤコネが立っている高台を目指して雪原を歩きながら、ボソリと呟いた。春が近いとは言え季節は未だ冬で、しかも夜の北極圏だ。吐く息は凍って白く輝き、鼻孔から垂れた鼻水が、瞬時に氷柱と化す。こんな極寒の地では、イヌピアット族の伝統衣装であるアティギとアノガジェを借りていなければ、ほんの一時間程度で簡単に凍死してしまうに違い無い。
「やあ、ヤコネ。それで、私に見せたいものと言うのは何だい?」
「そこに、仰向けになって寝転がれ」
「ここに?」
高台の頂上の地面を指差して、ヤコネは寝転がれと言う。彼女が一々事情を説明しないタイプの人間だと言う事は身に染みて理解しているので、私は言われるままに地面に寝転がった。そして夜空を見上げた瞬間に、この世のものとは思えない神秘的な光景が私の視界を埋め尽くす。
「хорошо……」
そこに広がっていたのは、天空に掛けられたカーテンの様に夜空を覆う、光の帯。その光の帯が七色に輝きながらゆらゆらと揺れて、まるで南洋の海の底から白昼の空を眺めているようにも錯覚する。
「オーロラ……」
「そうだ。オーロラだ。見るのは初めてか、ヴァシリー?」
北極圏の満天の星空に舞う光の饗宴、オーロラ。その美しさに心奪われている内に、気付けばヤコネもまた私のすぐ隣に寝転がって、光のカーテンが舞う夜空を共に見上げていた。アウカネックとトゥングルリアの二匹のアラスカンマラミュートもまた、一緒になって寝転がる。
「ああ。オーロラを生で見るのは、生まれて初めてだ。高台を登っている時からやけに周囲が明るいなとは思っていたが、まさかこんな所でオーロラを見る事になるとは、予想もしていなかった」
「こんな所で、じゃない。ここだから、見れるんだ」
「ああ、そうか。うん、そうだな」
北極圏だからこそオーロラが見れると言うヤコネの言い分は、至極もっともだった。むしろオーロラの存在を完全に失念していた私の方が、彼女よりもずっと愚かなのだろう。
「見ろ、ヤコネだ」
「ヤコネ? キミの名前が、どうかしたのかい?」
夜空を指差して自分の名前を口にしたヤコネに、私は問うた。
「ヤコネは、あたしの名前だ。そしてあたし達の言葉で、「赤いオーロラ」と言う意味だ。今そこに、ヤコネが出ている」
自分の名前の由来を説明しながら、天空を指差すヤコネ。彼女の言う通り、確かに見上げた夜空には、血の様に赤いオーロラがゆらゆらと揺れながら光り輝いていた。
「赤いオーロラか。なるほど、良い名前じゃないか」
「そうだ。良い名前だ。トゥクトゥが付けてくれた。あたしが生まれた夜に、赤いオーロラが出ていたから、そう名付けた」
誇らしげにそう言ってみせたヤコネは、私に問う。
「ヴァシリー、お前の名前は、どんな意味だ?」
「名前の意味か。自分で言うのはひどく気恥ずかしいんだが、私のヴァシリーと言う名前は、「王族」と言う意味なんだ」
私は自分の顎を撫でながら、名前の由来を説明した。ジョリジョリとした手触りに、この三日間で随分と髭が伸びている事に気付く。
「王族か。豪勢な名前だな。お前は何か、王様と関係があるのか?」
「いや、何も無いよ。私自身は勿論、祖先の誰も、ロシア皇帝なりヨーロッパの王家なりと血縁や親交があったと言う話は聞かないからね。まあ、特に理由も無く、適当に付けられた名前だよ。ヴァシリーって言うのは、ロシアではよくある名前だからね」
「そうか。だが、良い名前だ。大事にしろ、ヴァシリー」
「ありがとう、ヤコネ」
雪原に寝転がった私達二人は、そう言いながら見つめ合い、微笑み合った。そして再び夜空に眼を向けると、暫しの間、光り輝くオーロラを静かに鑑賞し続ける。
アラスカの夜を彩る、自然界の神秘の一つ、オーロラ。それはかつて眼にしたあらゆる光景の中でも指折りで美しく、その中でも赤く光り輝くオーロラ、つまりヤコネの美しさは格別だった。きっと私の隣で寝転がる少女ヤコネが生まれた夜にも、こんな美しいオーロラが輝いていたのだろう。
「明日、街に行く。毛皮と肉とカリブーの頭の骨を売って、買い物をする。だからお前も、一緒に来い」
不意にヤコネが、明日の予定を告げた。それを聞いて、私はホッと胸を撫で下ろす。
「そうか、それはありがたい。これでやっと、携帯電話が使えるよ」
「良かったな、ヴァシリー。それでお前は、誰に電話をかけるんだ? 家族か?」
ヤコネが抱く、当然の疑問。考えてみれば彼女は、出会った直後の僅かな自己紹介で語った内容を除けば、私の素性も事情も何一つとして知らない。そんなどこの誰とも知らない私をよくも助けてくれたものだとも思うが、それがヤコネの、そしてイヌピアット族のおおらかさなのだろう。
「いや、電話をかける相手は、家族じゃないよ。私にはもう、家族と呼べるような人は一人もいないんだ。随分前に、両親も死んでしまったからね」
「そうか。それは寂しいな」
「そうでもないさ、もう慣れたよ。それで今回連絡を取る相手は、私を支援してくれているオリファー財団と言う団体だ」
少しばかり逡巡してから、私は語り続ける。
「私は一ヶ月ほど以前に、クレタ島の遺跡で、発掘してはいけない物を発掘してしまったんだ。その場に存在してはいけない、謎の遺物。安っぽい言葉だけれど、俗に言うオーパーツさ。そして私はそのオーパーツをこのトランクケースに納めて逃亡し、その結果として、今はFSBに追われる身となってしまってね。それでオリファー財団に保護を求め、アメリカ合衆国に亡命する事になったんだ」
夜空を見上げながら語り続ける私の言葉を、ヤコネは静かに聞いていた。
「そこから先は、以前キミに話した通りさ。ロシアからカリフォルニア州のサンノゼに向かう途中で、乗っていたヘリが墜落して遭難していたところを、キミが助けてくれたんだ。だから仮にあの時キミがあの場所を通りがからなければ、私は今頃凍死して、春までは死体も発見されなかっただろうね。……いや、氷に埋もれた結果、永遠にアラスカの氷河の下だったかもしれないな」
語り終えた私をジッと見つめていたヤコネが、口を開く。
「すまん、ヴァシリー。お前の言っている事は、よく分からん」
「まあ、そうだろうな。なあに、分からなかったら、ただの中年オヤジの独り言だと思って聞き流してくれ」
私はそう言って、ハハハと笑った。その笑いの源泉は、難しい単語が理解出来ない彼女を可愛いと思ってしまったからだけではない。昨夜はトランクケースの中身を知らない方がいいとヤコネに言っておきながら、詳細については語らなかったとは言え、今日はその概要を伝えてしまった自分に対する嘲笑も含まれていた。思うに、私は誰かに事情を説明して、心の奥底に抱えている悩みや秘密を共有してほしかったに違いない。そんな自分の心の弱さに、我ながら反吐が出る。
「それで、そのオリファー財団とやらに電話をかけると、どうなるんだ?」
「そうだな。おそらくはすぐに街まで迎えが来て、私はサンノゼに向かう事になるだろう。仮に迎えが来るまでに数日間かかるとしたら、その時は街のホテルにでも泊まって、迎えを待つ事にするよ」
ヤコネの問いに、私は答えた。彼女の声に、少しだけ寂しげな色が浮かぶ。
「そうか。それならお前とは、明日でお別れだな、ヴァシリー」
「ああ。そう言う事になるな、ヤコネ」
別れの時が近い事を確認し合った私達二人は、再び静かに、夜空に光り輝くオーロラを鑑賞し続けた。私の胸元にはトゥングルリアが、ヤコネの胸元にはアウカネックが横たわり、犬達の体温が防寒着越しに伝わって来て暖かい。
「なあ、ヴァシリー」
たっぷり十分間以上も間を置いてから、ヤコネが口を開いた。
「お前は、両親が死んだと言った。あたしも、両親は死んだ。血の繋がった家族は、トゥクトゥ一人だけだ」
「そうか。トゥクトゥは、キミの大事な家族なんだな」
「そうだ。トゥクトゥは、あたしの大事な家族だ。トゥクトゥも、あたし以外に家族はいない。だからあたしが、年老いたトゥクトゥの面倒を見る。そしてウッタク家には、あたし以外に子供が生まれなかった。狩猟小屋を守る狩人としての男の子が、生まれなかった。だから女のあたしが狩人になって、トゥクトゥと一緒に狩猟小屋を守る」
「狩人になって、トゥクトゥと一緒に狩猟小屋を守る、か。確かにそれは、立派な心がけなのかもしれない。しかしトゥクトゥも高齢なんだから、キミと一緒に街で暮らした方が、健康のためにもいいんじゃないのかい?」
私の素朴な疑問に、ヤコネは表情を曇らせる。
「それは出来ない。トゥクトゥは、人を殺した。若い頃に酒に酔って、街で人を殺してしまった犯罪者だ。だからもう、街で暮らす事は出来ない。そんなトゥクトゥの面倒を見られるのは、この世でもう、あたしだけだ」
少女の口から語られた、衝撃の事実。そして私は、トゥクトゥの爺様に感じていた本能的な恐怖の正体を、それとなく察した。彼の笑みの奥底に眠る得体の知れない闇とは、殺人者だけが纏う、人生の負の側面が凝縮されて溜まった澱のようなものなのだろう。
「ヤコネ、キミは本当に、トゥクトゥの事が好きなんだな」
「そうだ。あたしはトゥクトゥが、狩猟小屋が、誇り高きイヌピアット族の狩人としての生き方が好きだ。だからあたしは、それらを守る」
ヤコネは誇らしげに語ったが、私は少しだけ悲しくなった。きっと彼女は、自分で背負える以上の責任を背負ってしまっているに違いない。果たしてその責任の重圧に、齢十八歳の少女が耐えられるのだろうか。
「ヴァシリー、お前は死んだあたしの父に、少しだけ似ている」
「そうなのかい?」
再び私は、自分の顎を撫でながら応えた。
「あたしの母はイヌピアット族だったが、父は白人だった。だからあたしは、純粋なイヌピアット族ではない。混血の、メティスだ」
外見からある程度は予想していたが、やはりヤコネは純血種ではないらしい。
「さっきあたしは、イヌピアット族としての生き方が好きだと言った。しかしあたしは、時々自分の生き方が分からなくなる。イヌピアット族としてこの地で生きて行くべきなのか、白人として街で生きて行くべきなのか、どちらが正しいのだろうかと悩む。ヴァシリー、お前はどちらが正しいと思う?」
「どちらが正しい、か」
私はトゥングルリアの頭を撫でてやりながら、空に向かって白い息を吐いた。
「正しいか正しくないかで言うのなら、きっとどちらも正しくて、またどちらも正しくないのだろう。キミには確かに白人としての父親の血も流れているのだろうが、同時にイヌピアット族としての母親の血も流れている。それを正しいか正しくないかで判断してしまっては、除外された方の親に対して不義理を働く事になると、私は思うんだ」
そう言った私の横顔を、ヤコネはジッと見つめている。
「だからさ、ヤコネ。キミの生き方は、キミ自身が自分で決めるといい。自分で決めた生き方なら、その責任は全てキミ自身のものだが、他人の責任まで背負う必要は無くなる。そしてその結果として得た報酬は、全てキミのものだ。勿論これは何も、新しい生き方を選べと言っている訳じゃない。今のままのイヌピアット族の狩人としての生き方もまた、立派な選択肢だ。重要なのはその生き方を自分で選んだのか、それとも他人に押し付けられたのか、その違いだけだと私は思う」
一通り語り終えた私は、こちらを見つめるヤコネと視線を合わせた。すると彼女の眼には、うっすらと涙が滲んでいる。きっとヤコネもまた、心の奥底に抱えている悩みや秘密を、誰かに共有してほしかったに違いない。そして同時に、亡き父の姿を私と重ね合わせてもいるのだろう。
「ありがとう、ヴァシリー」
礼を述べながら手を伸ばし、ミトンの手袋越しに私と手を繋ぐヤコネ。ギュッと握られた彼女の手の柔らかな感触が、なんだかひどく照れ臭かった。
「なあに、礼を言われるほどの事はしてないさ。偉そうな事を言ってしまったが、私だって、自分の生き方には日々疑問を抱いている若輩者だよ。それにヤコネ、多分キミの方が、私なんかよりもずっと過酷な人生を送っている。むしろ私の方こそ、これからどう生きるべきなのか、それを誰かに教えてもらいたいね」
照れ隠しで斜に構えてみせる私の言葉に、ヤコネは微笑んだ。そして彼女は私に、新しい言葉を教える。
「ヴァシリー、そんな時はこう考えろ。アーマイ」
「アーマイ?」
聞き慣れないその言葉の意味を、私は問い返した。
「そうだ。アーマイ。あたし達の言葉で、イエスでもノーでもない時の返答だ。なるようになる。そんな意味だ」
「なるようになる、か。まるで、ケ・セラ・セラだね」
今度はヤコネの頭に疑問符が浮かぶ。
「ケセラセラ? 何だ、それは?」
「ケ・セラ・セラ。古いハリウッド映画の主題歌で、なるようになると言う意味のスペイン語さ。たぶんキミが言っているアーマイと、だいたい同じような意味なんじゃないかな?」
「そうか。ケ・セラ・セラか。今度からは、それを使おう」
「それじゃあ私は、これからはアーマイを使わせてもらう事にするよ」
私とヤコネは、それぞれが知っている人生の行く末を達観する言葉を交換し合い、微笑み合った。きっと今夜の出来事は、一生忘れる事は無いだろう。そして私の隣で寝転がる少女もまた、きっと私との出会いを忘れないでいてくれるに違いない。
遠く見上げた夜空では、ヤコネの名を冠する赤いオーロラが、いつまでも美しく光り輝き続けている。
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