第一幕


 第一幕



 私はトランクケースを胸に抱えながら、ソファに腰を下ろしていた。

 尻を包み込むソファの座面はやけに柔らかく、それが一介の市民には手が出せない程の高級品である事を、暗に物語っている。また周囲を見渡してみれば、室内に置かれた調度品や美術品の類もまた、どれも目の玉が飛び出るほどの高価な品ばかりなのだろう事を予感させた。

 ここは、ロシア連邦サンクトペテルブルクのツェントラリニ行政区に居を構える、オリファー重工サンクトペテルブルク支社の応接室。私が勤務するサンクトペテルブルク大学から四㎞余りしか離れておらず、窓からはその大学の校舎も臨む事が出来るが、当然ながらこんな国際的大企業に足を運ぶのは初めての経験だった。

 ふと私は、自分の脚がさっきから延々と貧乏ゆすりを続けている事に気付くと、ソファから腰を上げて深呼吸を繰り返す。本意ではないとは言え、敵から追われる身と言うのがこれほどまでに焦燥感に駆られるとは思いもよらなかった私は、ジッと座っている事すらもままならない。しかもこの広い応接室に私一人だけがポツンと立っていると、なんだか世界から取り残されているようで、余計に気持ちが休まらなかった。

 手持ち無沙汰になった私は壁際のキャビネットに歩み寄ると、その天板の上に置かれていた骨董品の陶器の皿を値踏みする。

「トルコ? いや、モロッコかな……?」

 大学では史学部の客員教授を務めているとは言え、自分の専門である古代ギリシャ以外の知識に関しては、私もまだまだ研鑽が浅い。そんな私が皿の出自を推測していると、応接室の扉が開いて、グレーのスーツに身を包んだ禿げ頭の中年男性が姿を現した。

「ロジオノフ博士ですね? 初めまして、支社長のハーゼンバインです」

 ハーゼンバインと名乗った中年男性が右手を差し出して握手を求めて来たので、私はその手を握り返しながら名乗る。

「初めまして、ハーゼンバインさん。ヴァシリー・ロジオノフです。この度は無理なお願いを聞き入れていただいて、誠に感謝しております」

「礼には及びませんよ、ロジオノフ博士。それよりも、今は屋上に急ぎましょう。既にヘリの準備は出来ています」

 そう言うとハーゼンバイン支社長は、速やかに応接室から退室して、この社屋の屋上へと急ぐように私を急かす。廊下に出ると迷彩服に身を包んだ二名の随伴歩兵が待機していて、私とハーゼンバイン支社長を先導するように歩き始めた。当然の事だが、歩兵の持っているライフル銃が正真正銘の実銃だと意識すると、否が応にも緊張感が増す。

「そうだ、一応、名刺をお渡ししておきましょう。今後、私の力が必要になった場合には、こちらに連絡を下さい」

「ありがとうございます、ハーゼンバインさん。……ああ、申し訳無いが、慌てていたので今は名刺入れを持って来ていないのですよ。私の名刺は、また次回お会いする時にお渡しします」

 廊下を歩きながら、私はハーゼンバイン支社長から名刺を受け取り、それを財布の中に納めた。そうこうしている内に、やがてエレベーターで地上六十五階建ての社屋の屋上へと辿り着いた我々四人を待っていたのは、ヘリポートに鎮座するタンデムローター式の軍用輸送ヘリコプター。私と二名の随伴歩兵がそれに乗り込むと、機体上部に格納された二つのエンジンが始動し、ローターが回転を始める。

「それではロジオノフ博士、お気をつけて。無事に合衆国へと辿り着ける事を、心からお祈りしております」

「色々とご協力いただいて、本当に感謝しております、ハーゼンバインさん。私もあなたの身の安全を、心からお祈りしましょう」

 互いに別れの言葉を交わしながら、私とハーゼンバイン支社長は、ほんの数分間の邂逅に感謝した。そして屋上のへリポートからヘリコプターは離陸し、私と随伴歩兵達は貨物スペースに備え付けられた座席に腰を下ろしてから、シートベルトをしっかりと締めて身体を固定する。

「それで、これから合衆国へと向かうルートだが、フィンランド上空を通過するのかね? もしくはエストニア? それともバルト海上空から北海へと抜けて、一気に大西洋を目指すのかね?」

 私は随伴歩兵の一人に、今後の予定を訪ねた。

「いいえ、ロジオノフ博士。当機はこのまま一気に北上し、北極海を抜けてアラスカから合衆国に入国します」

「北極海を抜けるだって?」

「はい。既にヨーロッパ側からロシア国境を越える事は、危険と判断されました。そのためFSBの監視の薄い北極側の国境を越えて、直接合衆国を目指します」

 随伴歩兵の返答と解説に、私は天を仰いで嘆息する。そして隣の座席に置いた、私の左手首と手錠で繋がれたトランクケースを一瞥して、更に深い溜息を漏らした。

「まったく、こんな物のせいで……」

 どこかで一度口にしたような台詞を吐きながら、私の意識はゆっくりと覚醒する。


   ●


 頬に何か生暖かい物が擦り付けられている感触で、私は夢から覚醒した。そして眼前に何か大きな物が迫っている事に驚き、更にそれが憤怒の表情を浮かべた獣の顔である事に気付いて、口から心臓が飛び出るかと思うほど驚愕する。

「Что?」

 思わず飛び退った私の口からは、母国語で驚きの言葉が漏れた。だが眼の前に鎮座しているのが危険な獣ではなく、嬉しそうに尻尾を振る大きな犬である事に気付くと、ホッと安堵の溜息を漏らす。

 憤怒の表情を浮かべていると思った犬の顔は毛の模様でそう見えているだけのようで、笑っているように口角を上げた口元を見る限りでは、むしろ機嫌は良いようだった。それとどうやら先程まで頬に擦り付けられていた生暖かい物はこの犬の舌らしく、その証拠に、私の頬は犬の涎でべっとりと濡れている。

「ここは……どこだ?」

 安堵した私は、改めて周囲を見渡した。

 どうやらここはそこそこに広い小屋の中のようだが、窓らしい窓が無いせいか、ひどく薄暗い。壁と床は板張りらしいが、そのどちらにも表面には獣の毛皮が隙間無く敷き詰められていて、詳細は確認出来なかった。また暗い部屋の中では唯一の光源として、やけに古臭くて原始的なランプ兼ストーブに火が灯されている。そして上手く言葉では言い表せないが、妙に生臭い匂いが小屋中に充満していた。

 やがて私が室内を観察していると、眼前に鎮座していた犬が不意に近付いて来て、身体を摺り寄せる。小屋の中に居るのは私とこの大きな犬だけで、その他に人影は無かった。

「お前が助けてくれたんじゃないよな、まさか」

 そう独り言ちながら私が犬の頭を撫でてやっていたその時、壁に吊るされていた毛皮の一枚が突然捲れ上がって、小さな人影が姿を現した。どうやらその毛皮が吊るされている部分が小屋の出入り口になっているらしかったが、パッと見た限りでは他の壁面と区別が付かないので、この薄暗さでは気付かなかった事も不思議ではない。

「起きたか」

 ぶっきらぼうにそう言った小さな人影は、防寒着に身を包んだ小柄な少女だった。

「お前は雪の中に倒れていた。トゥングルリアが見つけなければ、お前は凍えて死んでいた。トゥングルリアに感謝しろ」

 やけに訛った、カタコトの英語で少女は語る。

「トゥングルリア?」

「その犬の名前だ。こっちはアウカネック。どちらもアラスカンマラミュートで、とても頭が良い」

 そう言う少女の隣には、もう一匹、大きな犬が鎮座していた。どうやら私の顔を舐め回していた黒毛の犬がトゥングルリアで、少女の隣に控えている赤毛の犬がアウカネックと言う名前らしい。

「よろしく、アウカネック」

 私は赤毛の犬に向かって手を差し出したが、アウカネックはぷいと顔を背ける。どうやら人懐こいトゥングルリアとは違って、この犬は私の事が気に入らないようだ。

「それで、お前の名前は? どうしてあんなところに倒れていた?」

 少女は、私に問うた。

「ああ、私は、ヴァシリー。ヴァシリー・ロジオノフ。乗っていたヘリが墜落して、遭難していたんだ。それで、キミが私を助けてくれたのかい? そうだとすれば、心から礼を言うよ」

 私は自己紹介と共に感謝の言葉を述べながら、眼の前の少女を観察する。

 まだ幼さの残る顔立ちから推測するに、歳の頃は十代後半くらい。モンゴロイドの北方民族特有の刺繍が施された伝統的な防寒着を着ているが、彫りの深い目鼻立ちとシャープな顎のラインは、コーカソイドのそれを髣髴とさせる。また髪の色も天然のダークブロンドらしい事から、おそらくは現地の先住民族とヨーロッパ系民族との混血なのだろう。

「そうか。お前の名前は、ヴァシリーか。猟から帰る途中、トゥングルリアが雪の中に倒れていたお前を見つけた。それで、お前を犬ゾリに乗せてここまで運んで来た。助かって良かったな、ヴァシリー」

「ああ、ありがとう。それで、ええと、キミの名前は? キミの他に、誰か大人の人は居ないのかい?」

 私の問いに、少女はややもすればムッとした、不満げな表情で答える。

「あたしは、ヤコネ。ヤコネ・ウッタク。こう見えても十八歳の立派な大人で、誇り高きイヌピアット族の一人前の狩人だ。子供扱いするな」

「ああ、それはすまない。気を悪くしたのなら謝るよ、ヤコネ」

 謝罪しながら、私は鼻頭からずり落ちかけていた眼鏡を掛け直した。そこでようやく、私は眼鏡が無事であった事と、左手首に手錠で繋がれたままのトランクケースもまた無事である事に気付いて、安堵すると同時に少しばかり辟易とする。

「謝らなくてもいい。だがそれでも大人が必要だと言うのなら、そこに居るトゥクトゥと話せ」

「トゥクトゥ?」

 聞き慣れない単語を口にしながら、部屋の奥の一角を指差すヤコネ。私が彼女の指差す先を見遣ると、そこには獣の毛皮の束が積み重ねられていた。そしてその中央に、今の今まで全く気が付かなかったが、一人の小柄な老人がこちらを向いて佇んでいる。

「うわっ!」

 薄暗い小屋の壁に溶け込むかのようにして気配を感じさせなかった老人の出現に、私は驚きの言葉を漏らしながら後退った。そんな私をジッと見つめる老人は口に咥えたタバコの煙を吐きながら、クックックと不気味な笑いを漏らす。

「トゥクトゥは、あたしの曽祖父だ。イヌピアット族の伝説的な狩人だったが、二年前に脚を痛めて隠居した。トゥクトゥは耳が遠いので、話す時は大きな声で話せ」

 そう告げたヤコネの言葉によると、トゥクトゥと言うのは、この老人の名前らしい。そして彼女の口から二度に渡って発された、イヌピアット族と言う単語。たしか極北のイヌイットの中にそんな名称で呼ばれている民族が存在したような気がするが、私の専門外なので確証は無い。

「これはどうも。初めまして、トゥクトゥ。お世話になります」

 軽く会釈しながら挨拶する私に、トゥクトゥの爺様は一言も発する事無く、只ひたすらにニヤニヤと湿った笑いを漏らすばかりだった。歯が殆ど残っていない彼の口元と、どこを見ているのかさっぱり分からない彼の目元は、なんだかこの世の者ならざる不思議かつ不気味な雰囲気を漂わせている。それはまるで中国の仙人か、東欧の森の奥に住む妖怪を連想させて、少しばかりゾッとせざるを得ない。

「トゥクトゥはタバコが好きだ。お前、タバコを持っていないか?」

「ああ、すまん。私はタバコは吸わないんだ」

 タバコの有無を尋ねるヤコネの問いに、私は申し訳無さそうに答えた。

「そうか。それは残念だ。タバコがあれば、トゥクトゥが喜んだのに」

 言葉とは裏腹に、さほど残念がっているようには聞こえない飄々とした口調でそう言ったヤコネ。彼女は煌々と燃えるランプ兼ストーブに近付くと、その上に乗せられていたヤカンを手に取ってから、部屋の一角でゴソゴソと何かを始めた。そして暫し彼女の後姿を見つめていた私に、振り返ったヤコネはコップを差し出しながら言う。

「紅茶だ。飲め」

「ああ、ありがとう」

 差し出されたのは、温かい紅茶。注がれているのが専用のティーカップではなく、ファストフード店でハンバーガーのおまけに貰える安いプラスチック製のコップである事が少し気になったが、この状況での温かい飲み物は正直言ってありがたい。

「ふう」

 紅茶を一口飲み下して、私は人心地付いた。砂糖がたっぷりと溶かされた紅茶の甘さと熱が冷えた身体に染み渡り、文字通り生き返った気分にならざるを得ない。そしてヤコネもまた自分の分の紅茶が注がれたプラスチックのコップを手に取ると、その中身を飲み下しながら、小屋の土間から一段高い位置に敷かれた床板に腰掛けて口を開く。

「それで、お前はどこから来た。何をして生きている」

「ああ、私はロシア連邦のサンクトペテルブルクから、北極海を越えて来たんだ。一応の肩書きは考古学者だが、故郷では大学の客員教授を務めながら、年に数回の発掘作業に従事して細々と生計を立てている」

 出身と職業を尋ねるヤコネの問いに答えはしたものの、どうやら彼女は、たとえ英語であっても難しい単語は理解出来ていないらしい。その証拠に時々不思議そうな表情で私の顔を見返すが、特にそれで困っている様子もうかがえなかった。

「そうか。それは遠いところから来たな」

 うんうんと頷きながらそう言ったヤコネは、やはりよく分かっていないらしい。しかし分からないなら分からないで、これと言って問題も無いのだろう。

「それじゃあ次は、私に質問させてくれ。まず初めに、ここは一体どこなんだい? そして、キミ達以外に住人は居るのかい?」

 私はヤコネに、自分の疑問をぶつけた。

「ここは、あたしとトゥクトゥが暮らす、冬の狩猟小屋だ。ウッタク家の狩人は、毎年冬になると、ここで猟をして暮らす。あたしとトゥクトゥ以外に、ここに住んでいる人間は居ない」

「いや、そうじゃなくて、もっと地理的な意味での場所を教えてくれないかい?」

 私の要求に、ヤコネは少しだけ悩んでから、再び口を開く。

「この狩猟小屋の場所に、特に名前は無い。もっと広い意味で言うなら、ここはアラスカだ。西に行けばウェーンライトの街に、北東に行けばバローの街に辿り着く」

「アラスカか……」

 予想通りの返答に、私は天を仰ぐ。本来の目的地であるカリフォルニア州のサンノゼには程遠いが、少なくとも合衆国に入国出来た事は、僥倖なのだろうか。しかし極寒のアラスカで凍死しかけた事を思い返すと、今の自分が置かれた状況が幸運に恵まれているとは思えない。

「さてと、一体これから、どうしたものか……」

 私はコップの底に残された紅茶の最後の一口を飲み下しながら、逡巡する。そしてとりあえずは私の味方をしてくれるであろうオリファー財団に連絡を取ろうと、ダウンコートのポケットの中に納められている筈のスマートフォンを探した。こんな時こそ、文明の利器がその真価を発揮すべき時である。

「おいおいおい、嘘だろ……」

 しかしポケットの中から取り出されたそれは、見るも無残に折れ曲がっていた。液晶画面にはびっしりとヒビが入り、背面からはリチウムイオンバッテリーの中身が露出している。どうやらヘリコプターから落下した時か、それとも犬ゾリに乗せられてここまで運ばれて来る途中で、過度な圧力が加わって折れたらしい。

「糞! 動け、動け!」

 古いブラウン管テレビが故障した時の様に、私は折れ曲がったスマートフォンを何度も叩きながら、起動ボタンを押し続けた。しかし当然の事ながら、昨今の精密機器はそんな事をしても、直ってはくれない。むしろバッテリーの中身が露出しながらも爆発も発火もしなかった事を、今は素直に喜ぶべきなのだろう。

「どうした? 携帯電話が壊れたのか?」

「ああ、そうだ。よりにもよって唯一の外部との通信手段のスマートフォンが、完全に壊れてしまったらしい」

 私の手元を覗き込みながら尋ねるヤコネにそう答えると、私は再び天を仰いで深い溜息を吐いた。オリファー財団に即時救助を要請すると言う計画は、どうやらこれで水泡に帰したらしい。

「携帯電話なら、持ってるぞ」

「え?」

 ヤコネの言葉に驚く私を尻目に、彼女は雑多なガラクタだか何だかが無造作に積み上げられている部屋の一角をゴソゴソと探ると、そのガラクタの山の中から目当てのブツを掘り出して来た。それはスマートフォンですらない型遅れの携帯電話だったが、何はともあれ、今の私が何よりも欲してやまないブツである事に変わりは無い。まさかこんなボロ小屋に住んでいる辺境の少数民族が携帯電話を持っている筈が無いと決め付けていたさっきまでの自分が、なんだか今は、ひどく滑稽に思えた。

「ほら」

 歓喜と驚愕がない交ぜになった表情の私に向かって、携帯電話を投げ渡すヤコネ。彼女からその文明の利器を受け取った私は、早速起動ボタンを押して、通話を試みる。

 だがしかし、液晶画面に表示されたのは、「圏外」の二文字だった。

「そりゃそうか。いくら携帯電話を持っているからと言っても、こんな所にまで電波が届く筈が無いもんな」

 地球全土をカバーする衛星電話ならともかく、そこらの家電量販店で売っているような普通の携帯電話では、こんな僻地で用を成さない事は自明の理と言う他無い。

 今度こそ完全に通信手段を失って、頭を抱える私。だがそんな私に向かって、慰めるかのように、ヤコネは提案する。

「大丈夫だ。その携帯電話も、街に行けば使える。街に行けばいい」

「まあ、そうだろうな。それで、携帯電話が使える街までは、ここからどのくらい遠いんだい? 歩いて行くとしたら、何時間ぐらいかかるのかな?」

 私の問いに、ヤコネは頭を振った。

「歩いて行くのは無理だ。途中で凍えて死ぬ。ここからなら、犬ゾリを使うしか方法は無い。それでも今の季節は、陽が短い。往復すると、丸一日かかる」

「そうか、なるほど。それじゃあヤコネ、申し訳無いが、私を最寄りの街まで犬ゾリで連れて行ってくれないかい? 勿論、相応のお礼はするよ」

 そう言いながら、私はスーツのジャケットの内ポケットに納められた財布が無事である事を確認した。スマートフォンとは違って、こちらは多少折れ曲がったからと言って、壊れる心配は無い。

 しかしヤコネは、私の要請に暫し考えあぐねてから、口を開く。

「今日はもう無理だ。夜に犬ゾリを走らせるのは危険だからな。明日も無理だ。猟の予定がある。猟で獲物が取れたら街に売りに行くから、それまで数日間、待て」

「数日間か……」

 今度は私が考えあぐねる番だった。

 私を乗せたヘリコプターが消息を絶った事を知ったオリファー財団は、捜索隊を派遣する事だろう。しかし捜索隊が到着するまでに何日かかるか分からないし、この広いアラスカの大地に比べると豆粒の様に小さなヘリコプターの残骸を発見するとなると、更に数日を要するかもしれない。そして最大の懸案事項なのが、ヘリコプターが墜落した原因だ。単なるエンジントラブルならば問題は無いが、仮に私を追っているFSBの工作によってエンジンが爆破されたのだとしたら、私の所在はFSBに筒抜けと言う事になる。そうなるとFSBと鉢合わせする可能性が考えられる墜落現場に戻るよりも、今は最寄りの街へと赴いて、財団と連絡を取り合うべきだろう。

「分かったよ、ヤコネ。それじゃあ数日後に都合が良くなったら、私を犬ゾリで街まで連れて行ってくれ。それとついでと言っては何だが、それまでの数日間は、ここに住まわせてもらえるかい?」

「そうか、分かった。トゥクトゥが許すなら、あたしに文句は無い」

 そう言ったヤコネは、小屋の奥からずっとこちらを見つめながらタバコをふかしているトゥクトゥの爺様の方を見遣った。そして爺様が無言のままニヤニヤと笑っているのを確認すると、再びこちらを向いて口を開く。

「トゥクトゥも、文句は無いと言っている。お前、ここに住めばいい」

「ありがとう、助かるよ」

 とりあえず当面の予定が定まった事で安心したのか、感謝の言葉を述べると同時に、私の腹の虫がぐうと盛大に鳴いた。よくよく考えてみればもう半日以上も何も口にしていないので、私は元々それほど食べる方ではないのだが、それでもひどく空腹である。

「お前、腹が減っているのか? 腹が減っているのなら、これを食え」

 そう言ったヤコネは、先程彼女が紅茶を煎れていた小屋の一角へと向かうと、そこから何かを持って来た。どうやらあの一角が、この小屋の炊事場を兼ねているらしい。

「これは……?」

 果たしてヤコネが持って来て私の眼前に置いたのは、大きなプラスチック製の皿に盛られた魚だった。その魚は、骨と内臓と皮は取り除かれて身だけになってはいるが、煮たり焼いたりと言った調理がなされた形跡は見られない。つまり皿からはみ出すほどの大きさのそれは、どう見ても何の味付けもされていないし切り分けられてもいない、生のままの魚の切り身だった。

「それはホッキョクイワナだ。これで切って、好きなだけ食え」

 生の魚を勧められて困惑する私に、ヤコネはそう言いながら、刃渡り十㎝ほどのナイフを手渡す。どうやらそのナイフで自分が食べたい分量だけ切り取って、そのまま手掴みで食えと言う事らしい。

「どうした、ヴァシリー? 美味いぞ、食え」

「ああ、うん……」

 覚悟を決めた私は、ホッキョクイワナの身を一口分だけナイフで切り取ると、それを恐る恐る口へと運んで咀嚼した。そして口中に広がる生臭さと、妙な粘り気のあるグニャグニャとした生魚特有の食感に耐え切れず、一度は口に含んだ切り身を小屋の土間に向かって吐き出してしまう。

「どうした? ホッキョクイワナは嫌いか?」

「いや、その、すまない。せっかくの食事を無駄にしてしまって申し訳無いが、私の故郷では魚を生のまま食べる習慣が無いので、思わず吐き出してしまったんだ」

 ゲホゲホと噎せながら、私は弁明した。故郷のロシアでは、一部の地域を除いて魚の生食の習慣が無いのは事実だが、今では日本食がブームになった事もあって、生魚に対する忌避感は薄い。しかしそれでも、やはり私は生魚を食べ慣れていないので、いきなり味付けもされていない生の切り身を食えと言うのはハードルが高過ぎる。

「そうか。それは残念だ」

 私がタバコを持っていないと知った時と同じように、さほど残念がっているようには聞こえない飄々とした口調でもって、ヤコネは言った。そして小さな手持ちのランプに明りを灯し、それを持って小屋の出入り口の方角へと足を向けた彼女は、私に向かって手招きする。

「来い、ヴァシリー」

 彼女の後に付いて壁に掛けられた毛皮を潜り、板戸を越えて、私とヤコネは狩猟小屋の外に出た。戸外に一歩を踏み出した途端に、猛烈な冷気の塊が全身に襲いかかり、私はぶるりと震えて真っ白な息を吐く。

「本当に、何も無いな」

 既に陽は落ち、雪に反射する月と星の光以外には暗闇に閉ざされた、冬の北極圏。そんな不毛の大地の只中に、この狩猟小屋はポツンと建っていた。

 東西南北、どの方角を見ても地平線まで雪と氷で埋め尽くされた視界に、人工物は何一つとして見当たらない。そんな真っ白な世界に佇む狩猟小屋は、外から観察して初めて気付いたが、石の土台の上に板張りの壁と柱でもって建設されていた。そしてこんな場所で曾孫と曽祖父の二人きりで生きて行くのはどんな気持ちなのだろうかと想像して、少しだけゾッとする。

「こっちだ。ここに入れ」

 小屋の周囲を観察していた私の背中に、ヤコネの声が届いた。振り返ってみれば、狩猟小屋の脇に立った彼女は、地面の一点を指差している。そしてその指差された地面には、どうやら地下へと続くらしい木製の扉が、その口を開けていた。

「ここは……?」

 扉の先に姿を現した階段を下りると、そこは地下に掘られた、三m四方ほどの石壁に囲まれた空間。私に先んじてこの地下室に下りていたヤコネの持つランプが、そこらに雑然と積まれた、幾つもの黒い塊を照らし出す。

「ここは、冷蔵庫だ。食べたい肉を選べ」

 ヤコネの言葉によると、どうやらここは、地下室を利用した天然の冷蔵庫らしい。そしてランプの光が照らし出す黒い塊の数々は、様々な獣の様々な部位を切り取った、カチカチに凍った肉の塊だった。

「何の肉が食いたい? セイウチか? それともカリブーか?」

 ヤコネは尋ねるが、正直言って、どの塊が何の動物の肉なのかはさっぱり区別が付かない。それに塊の幾つかは毛皮を剥がされた頭部がまだ原形を留めていて、そんなグロテスクな死骸の山の中央に年端も行かない少女が立っている光景は、なんだかひどく猟奇的であると同時に美しくもあった。

「すまん、ヤコネ。私にはどれが何の肉だか分からないんだ。それでその、出来れば牛肉か豚肉は無いのかい?」

「牛肉と豚肉は、無い。牛と豚はアラスカにはいないからな。食いたい肉が無いのなら、これを食え。美味いぞ」

 そう言うとヤコネは、肉の塊の一つを小脇に抱え、来た道を引き返して地下室から出て行こうとする。私も慌てて彼女の背中を追い、階段を上って地上へと生還した。そしていそいそと狩猟小屋に引き返し、身体を擦って温める。スーツとダウンコートだけの軽装でこれ以上夜の戸外に留まるのは、自殺行為に等しい。

「さあ、食え」

 狩猟小屋に戻ると、ヤコネは小脇に抱えていた肉の塊を潰したダンボール箱の上にごろりと置いてから、それを板の間に座る私の前に差し出した。調理や味付けと言った行為は、やはり彼女の行動原理には記載されていないらしい。また同時に、紅茶が注がれていたプラスチックのコップや肉をダンボール箱に直接置くと言った行為から推測するに、どうやらイヌピアット族と言うのは食器に対する関心が薄いようだ。

「それで、これは一体何の肉なんだい?」

 得体の知れない肉の正体を恐る恐る尋ねると、ヤコネは虚空に、指で大きな動物のシルエットを描きながら答える。

「ホッキョククジラだ。美味いぞ、食え」

「なんだ、鯨か」

 私はホッと安堵した。どこぞの環境保護団体が聞いたら怒りのあまり卒倒しそうだが、私は別に偏執的な鯨愛好家ではないので、その肉を食べる事に対しての忌避感は無い。

「ありがとう、いただくよ」

 手にしたナイフの刃でもって、半分凍っている生の鯨の肉塊の表面を薄く削ぎ落とし、口へと運ぶ。シャリシャリとした食感の赤身肉は若干生臭かったが、先程の生魚とは違って獣肉なので、冷めてしまったレアのステーキかローストビーフを食べていると思えば充分に美味い。赤ワインをベースにしたローズマリー風味のソースがあればもっと美味いのだろうなとも思うが、今の私が置かれた状況下では、そんな贅沢は望むべくも無いのだろう。

「美味いか?」

「ああ。鯨を食べるのは初めての経験だが、なかなかいけるよ」

「そうか。それは良かった」

 肉塊の表面を次々と削ぎ落としては口へと運ぶ私を見ながら、ヤコネが笑った。

「これも食え。美味いぞ」

 そう言いながらヤコネが炊事場の方から持って来たのは、小さなバケツ。その中を覗き込むと、何やら薄いゴム板の様な物が沢山放り込まれている。

「これは鯨のマックタックだ。食え」

 マックタックと言う単語の意味は分からなかったが、そのゴム板状の物を一枚摘み上げて観察すると、どうやら鯨の皮と皮下脂肪の部分らしい。試しに口に放り込んで咀嚼してみれば、やはりゴムを食べているような食感でなかなか噛み切れず、特にこれと言って味もしなかった。

「どうだ? 美味いか?」

 ヤコネは同意を求めるが、あまり美味しいとは思えなかった私は、愛想笑いでお茶を濁す。するとそれを賛同と受け取ったらしい彼女は、自らもマックタックを摘み上げて口に放り込み、美味しそうに咀嚼した。残念ながら私にはその良さが分からなかったが、どうやらイヌピアット族にとってのマックタックはご馳走らしい。

「あたしも腹が減った」

 そう言いながら、ヤコネは自分の着ている防寒着の襟元に手を差し入れた。そして服の下から、彼女の首に革紐で吊るされていたナイフを取り出す。それは刃渡り十㎝ほどの、ハンドルが動物の革で出来たスキニングナイフ。シースから引き抜いたそれでもって、彼女もまた私の前に置かれた鯨の肉塊の表面を削ぎ落とし、次々と咀嚼し始めた。

 暫し無言で、私とヤコネの二人は、無心に鯨肉を食み続ける。小屋の隅ではアウカネックとトゥングルリアの二匹の犬が丸まって寝ていて、トゥクトゥの爺様はタバコをふかしながら、いつまでもニヤニヤと笑っていた。

「もういいのか?」

「ああ、もう充分にいただいたよ。ありがとう」

 やがて食事を終えた私は礼を言うと、借りていたナイフをヤコネに返した。彼女は残った肉塊とバケツとナイフを炊事場に戻し、ヤカンのお湯を一口飲み下してから、板の間の一角で服を脱ぎ始める。

「あたしは寝る。お前も寝ろ。この寝袋を使え」

 刺繍が施された防寒着を脱ぎ、シャツと下着だけの肌も露な姿になったヤコネは、獣の毛皮で出来た寝袋を私に向かって差し出しながら言った。もこもこと着膨れしていた時の姿とは一転して、下着姿になった彼女の身体のシルエットはまだ子供らしい線の細さを残しながらも、胸や尻は肉感的で女性らしさを主張している。

「……ありがとう」

 やや狼狽しながら寝袋を受け取る私とは対照的に、ヤコネは素肌を晒している事に対して羞恥心を抱く様子は無く、飄々としていた。そして口を大きく開けてあくびをした彼女は、自分の寝袋に身体を潜り込ませると、板の間の片隅でごろりと横になって就寝の体勢を取る。すると五分と経たない内に、すうすうと小さな寝息を立てながら、夢の世界へと旅立って行ってしまった。無防備な彼女には、見知らぬ異邦人である私を警戒する様子など、まるで見られない。

 やがて残された私は、静かな小屋の薄暗がりの中で、なんだか今日一日の出来事が現実とは思えずに呆然と虚空を見つめていた。サンクトペテルブルクの自宅を脱出してから軍用輸送ヘリコプターに乗せられ、北極海を経由してアラスカへと至り、今は現地の少数民族の狩猟小屋で見知らぬ少女と一夜を共にしようとしている。まるでジェットコースターの様にめまぐるしく襲い来る事件の数々に、私の頭は混乱するばかりで、一秒たりとも心休まる暇が無い。

「……寝るか」

 ぼそりと呟くと、私はコートを脱ごうとした。そして左手首とトランクケースが手錠で繋がれたままではコートが脱げない事に気付き、深く嘆息すると、ジャケットの胸ポケットから手錠の鍵を取り出す。

「まったく、こんな物のせいで……」

 辟易としながら手錠を外して自由の身となった私は、三度同じ台詞を吐くと、薄く手錠の跡が残る手首を揉みほぐした。そしてコートとジャケットを脱ぐと、ヤコネから手渡された寝袋の中に潜り込み、外した眼鏡をトランクケースの上に置いてから就寝の体勢を取る。

「おやすみ」

 誰に言うでもなく就寝の挨拶を口にした私は、ゆっくりと瞼を閉じた。小屋の一角ではトゥクトゥの爺様が、タバコをふかしながらニヤニヤと笑い続けている。

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