ヒュペルボレイオスの鍵
大竹久和
プロローグ
プロローグ
陽が傾いて次第に薄暗くなりつつある窓の外は、吹雪。吹き荒ぶ雪粒の嵐の中を、私の乗ったタンデムローター式の軍用輸送ヘリコプターは、エンジン音を轟かせながら飛び続けていた。
ヘリコプターの貨物スペースに備え付けられた座席に腰を下ろす私と向かい合う体勢で、迷彩服に身を包み、ボディアーマーとヘルメットを装着した若い随伴歩兵が二人ばかり腰を下ろしている。強風によって機体が軋む音が耳障りな事と、軍人と膝を突き合わせて座る事に慣れていないために、なんだかひどく落ち着かない。
私の左隣の座席には、ジュラルミン製のトランクケースが置かれている。そしてトランクケースのハンドルと私の左手首とは鋼鉄製の手錠でもって繋がれており、そのアルミ合金の塊を肌身離さず持ち歩く事を余儀無くされていた。
私は掛けていた眼鏡を外すと、親指と人差し指でもって目頭を軽く押さえてから掛け直し、口を開く。
「合衆国には、まだ到着しないのかね?」
「既に、北極海を越えて合衆国領へと進入し、アラスカ上空に至っています。今しばらくご辛抱ください、ロジオノフ博士」
私の問いに、若い随伴歩兵の一人が答えた。その口調から、目的地へと到着するにはまだかなりの時間が必要であろう事を悟った私は、深い溜息を漏らす。
「まったく、こんな物のせいで……」
そう呟きながら私が隣の座席のトランクケースを一瞥した、次の瞬間。唐突に頭上からボンと爆音が轟き、ヘリコプターの機体が大きく揺れた。貨物スペースに腰を据えた私も随伴歩兵達も、何事が起こったのかと狼狽する。そして時を同じくして、機内にけたたましい警報音が鳴り響き、壁面に設置された警告灯がオレンジ色に明滅を始めた。
「メーデー! メーデー! 当機はエンジントラブルにより、これより不時着体勢に入ります! 繰り返します、当機は不時着体勢に入ります!」
機内スピーカーから聞こえて来たのは、緊急事態を告げるパイロットの緊迫した声。機体は益々をもってガタガタと揺れ始め、急速に高度を下げ始めるのと同時に、鋼鉄とアルミ合金で出来たヘリコプターの外装が軋んで悲鳴をあげる。
「エンジントラブル? こんな場所でか?」
私はそう叫ぶと、パイロットから直接状況を聞き出すために操縦席へと向かうべく、座席と身体を固定していたシートベルトを外した。
「ロジオノフ博士、立ち上がると危険です! 座席に腰を下ろして、シートベルトを締めてください!」
私に向かって声を張り上げて自制を促す、随伴歩兵の一人。しかし彼の言葉と同時に一際大きな爆発音が機体後部から轟いたかと思えば、二つ有るエンジンの内の一つが爆発し、ヘリコプターの貨物ハッチが弾け飛んだ。ハッチを失ってぽっかりと口を開けた機体後部から、大粒の雪と一緒に凍りつくように冷たい外気が機内へと流れ込んで来る。
やがて後部エンジンが完全に停止してコントロールを失った軍用輸送ヘリコプターは、機体を横方向に回転させながら、吹雪の中を地表目掛けて落下した。そして一泊の間を置いてから、爆発炎上する。
轟音と閃光、そして襲い来る熱風と降り注ぐ破片の雨の中、雪の上に仰向けに倒れていた私は眼を開けた。何が起こったのか理解出来ずに混乱する私を嘲笑うかのように、先程まで乗っていた筈のヘリコプターが、オレンジ色の炎を天高く噴き上げながら炎上している。
一瞬だけ気を失っていたのか記憶の一部が曖昧だが、どうやらシートベルトを外していた私は回転する機体の遠心力で機外へと放り出され、そのおかげで爆発に巻き込まれずに済んだらしい。また同時に、膝頭の辺りまで降り積もった雪がクッションになってくれた事も、飛行中のヘリコプターから落下しながらも一命を取り留め得た要因だろう。
「блядь……」
見渡す限りの雪原の中で膝から崩れ落ちた私は、母国語で驚愕の言葉を呟くと、状況の確認と生存者の救出のために立ち上がろうとした。そしてその時、依然として自分の左手首と手錠で繋がれたままのトランクケースの存在と、奇跡的に眼鏡が無事であった事に気付く。
「誰か、誰か生き残ってはいないのか?」
燃え盛るヘリコプターの残骸に接近した私は、噴き上がる炎の放射熱に身を焼かれないギリギリの距離まで近付いてから、声を張り上げて生存者を探した。しかし私の期待も空しく、今やスクラップと化した鋼鉄とアルミ合金の塊は、操縦席から貨物スペースに至るまで万遍無く業火に舐め回されている。
「駄目か……」
パイロットと随伴歩兵の生存は絶望的と悟った私は、トランクケースを抱えたまま、その場に立ち尽くしていた。そして改めて、自分の置かれた状況を確認する。
眼前には、元は軍用輸送ヘリコプターだった筈の一本の火柱が黒煙を纏いながら天に向かって立ち上っており、自分以外の生存者は存在しない。今現在私が立っているこの場所は、北極海を越えたばかりの北米大陸の極北地域のどこかであり、見渡す限り真っ白な雪に覆われた地平線が続くばかりで、人工物はおろか山や河と言った自然の造形すらも確認出来なかった。
そして何よりも問題なのが、この悪天候に他ならない。降りしきる雪は止む気配も無く吹雪いており、東の空から次第に宵闇が近付きつつある。
更に極寒の極北地域の厳しい自然環境に立たされていながらも、私の服装はと言えば、サンクトペテルブルクを脱出した時に着ていた上下とも黒のビジネススーツに合皮のダウンコートを羽織っただけと言う軽装のままだ。しかも足元に至っては、雪の上を歩くには全くもって適さない革靴ときている。
「寒い……」
私は真っ白な息を吐きながらそう言うと、両手でもって自分の身体を抱きかかえるようにして、少しでも暖を取ろうとした。しかしそんな努力も空しく、コートに覆われていない足元から外気に体温を奪われて、時間の経過と共に寒気は増すばかりである。
「とにかくどこか、どこか身を隠す場所を探さなければ……」
うわ言の様に呟きながら、私は歩き始めた。
見渡す限り白一色の雪原を、特にこれと言った目標物も無いままに前進するも、膝まで雪に埋もれた脚で一歩を踏み出す度に無駄な体力を奪われるばかりで、一向にヘリコプターの残骸から遠ざかっている気がしない。それでもこんな場所で凍死する事だけは回避したい一心から脚を動かし続けるが、その間にも体温と共に生命力そのものが外気に奪い取られて行くように全身から失われ、最期の時が近い事を否応無しに実感させる。
やがて一㎞も歩いただろうか。低体温症の初期症状なのか、軽い眩暈に襲われ、意識が遠退き始めた。前進する脚ももつれ、真っ直ぐに立つ事すらもままならない。そして遂に私は、降り積もった雪の上にドサリと倒れ込んでしまった。
一刻も早く起き上がって歩き続けなければと思うが、身体が思うように動いてくれず、頬に触れる雪の感触と冷たさがやけに心地良い。左手首に繋がれたトランクケースが、まるで鉛の塊の様に重く感じる。そして私は瞼をゆっくりと閉じると、眠るように意識を失った。
意識を失う寸前に何か小さな人影を見たような気がしたが、夢か現実かは定かではない。
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