第10話
「お前、なんて母親にメール送ったんだ」
帽子の下から窓の外を見ると、どうやら車は田んぼの側を走っているようだった。
私の家や学校の近くにはこんな場所は少ないが、少し外れれば田んぼも多くない場所もあるのかもしれない。
空は青く雲ひとつない良い天気だ。田んぼはずっと向こうまで広がり、目に映る景色の中には青と緑しかないようだった。
「家出したから捜さないでって、それだけ」
稲が風で大きく揺れる。ドアの下にあるハンドルを回し窓を開けると、青臭ささと泥の混じったような匂いが鼻腔をくすぐった。爽やかな、突き抜けるような匂いだった。
「それだけってお前なあ、娘が家出したってきいて捜さない母親がどこにいるっていうんだよ」
「誘拐しといてよく言うよ。私だって間違ってることくらい分かってる。でもいいから遠くまで走らせて」
母のことはなるべく考えたくなかった。自分がしたことの重大さから目を逸らして今はこの瞬間を楽しみたかった。
「CDない?何か明るい曲が聞きたい」
「そこのボックスの中に何かあると思うが、お前の知ってるような曲はまあないだろうよ」
「それでもいいよ、おすすめは何?」
足元のボックスを開けると何枚かCDが入っていた。
知らない曲名が書かれたケースの山の中に一枚だけ知っているものがある。
「あ、私これ知ってる」
母が昔車の中でかけていた曲だったと思う。
ということはやはり、この男は母と同じで40代くらいだろうか。
CD を取り出しセットする。
男性歌手の色っぽい歌声が気持ちいい。
「こんな古い曲知ってるのか」
「母が聞いてたんだ。いい声よね、曲も綺麗で好きなの」
「そうだな、俺も好きだよ。......今のこの状況にはちょっと皮肉っぽくとれる内容だがなあ」
確かにこの曲には“君を奪い去りたい”というようなフレーズが繰り返し出てくる。誘拐犯の前でこの選曲は確かに皮肉っぽかったかもしれない。すこし悪かっただろうか。
私のずっと欲しかった日常から切り離された世界の中が気持ちいい。
これは私にとってちぐはぐな家族から、前のように輝いてはくれない毎日からの逃避行だった。
涼しい風を浴びながらしばらく車に揺られていると、遠くに街が見えてきた。どの辺りの街か気になったが、近くても遠くまで来ていても現実を感じそうだ、聞くのはやめておこう。
「大分街中に来たな、これからどうつるつもりだ?」
外から見えないよう座り直しつつ窓から外を覗く。
すこし遠くに汚い外観の銭湯が目についた。
「シャワー浴びても平気かなあ」
男が車の速度を落として銭湯を指差す。
「あれのことか?まあ風呂入ってねえもんな。随分汗かいてたみたいだし、それくらい流させてやりてえけどなあ」
ポリポリと頭をかく男の頭上からフケがまた落ちた。
「ベタついてずっと気持ち悪かったんだからね、あなたこそちゃんとシャワー浴びてる?」
ばつの悪い顔をして男はしばらく悩んでいたようだが、銭湯を通りすぎる直前になってウインカーを切り駐車場に車を停めた。
人目を気にしながら車を降り、男の後を急ぎ足で着いていく。
初めての銭湯に私が迷っていると、男が慣れた様子で受付のおばさんと話した後こちらに振り向く。
「これお前のタオルな、あっちが女湯みたいだから適当に入ってこいよ。俺の方が先にでると思うからそこに座って待ってるよ」
そういって私にタオルを手渡しそそくさと行ってしまった。
家を出てから男はずっとしかめっ面で、今も私から早く離れたいような素振りだった。
私のパパになってほしいという一言を男はどう受け取ったのだろう。
とりあえずべたついた身体を早くどうにかしたい。急ぎ足で女湯へ向かった。
家族があった @ikeya_makoto
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。家族があったの最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます