第9話


 男の問いに私は戸惑った。

ここで男が警察に電話をかければ私は家に帰ることができるだろう。

警察には何も言わず家に帰してもらうことだってできる。母にはなんとでも言い訳はできるし、そのほうが母に心配をかけることもないかもしれない。

そうすれば何も問題はない。今までどおりの生活が送れる。

だけど私の中の欲が判断を邪魔した。


 私の表情を見て男は携帯を渡してきた。どうするかの判断を私に委ねたのだろう。

それを受け取り電源をつける。母からの着信が沢山来ていた。

着信履歴を開き、ひとつひとつ追っていく。友達からの着信も何件か来ていたから大事になっているのかもしれない。メールも確認してみると、母の心配している姿が見えるような文章が10分置きの間隔で届いていた。

最初は私に気を使ったような控えめな文章だったのが、時間が経つにつれ痛切な叫びに変わっている。

パパがいなくなってから私のことを大切に育ててくれた母。

いまどんな顔をして私の帰りを待っているのだろうか。

そんな母の気持ちを前に、まだ私は揺れている。

パパが、父親が欲しい。

一度湧きだした欲望は、もう自分で止められるようなものではなかった。

ずっと心の奥にしまっていた思いは勢い良く噴き出し、頭の中を支配していくようだった。



「見逃してあげる」


男がこちらを怪訝な顔をして見つめている。


「見逃してあげる、私のパパになってくれるなら」


勝てなかった。母を裏切る行為だとしても、それでもパパが欲しかった。

この男に対する怒りも恐怖も全部吹き飛ばしてこの男と向き合いたかった。

パパにぶつけることの出来なかった全ての感情をこの男にぶつけたかった。



「待ってくれ。一旦落ち着いて話してくれないか」

男は私の言わんとしていることが全く分からずに困っているようだった。

当たり前なのだけれど、なんだかそんな男に無性に腹が立った。

携帯を手にとりメールボックスを開く。母のことを考えないようにしてメールを打った。

勢いに任せて送信ボタンを押しすぐに電源を落とす。

携帯を鞄の中に放り投げ立ち上がる。



「車を出して。私を遠くに連れてって」

思っていたより大きな声が出て少し驚いた。男は先程から固まったままで、私の声が届いているのかもわからない。何度か男を催促したが、それでも動き出さない男にしびれが切れ、手を取り引っ張る。

「ちょっと待てって、分かったから手を離せ。鍵を取ってくるから」

そう言って男は壁にかけてあるキーケースを手に取った。


「いくぞ」

不本意だといわんばかりの顔をしている男を尻目に私は部屋を出た。

陽の差し込まない廊下は薄暗く、壁際には埃が溜まっている。

男の家は思っていたより少し広く出口を探していると男が前に立ち歩いて行く。

玄関を開けると陽射しが一気に入り込み、その眩しさに目を細めた。

あの部屋とは違い澄んだ空気を吸い込むと気持ちが良かった。

近くに人がいないことを確認すると、2人で一気に車まで走る。

私がここに来る際乗せらていたであろう車は汚い軽バンだった。

汚れてくすんでいるとは言っても、その白い車体は誘拐には不向きに感じられる。


 車の助手席に乗り込み、尻をシートから落ちるギリギリまで前に突き出し頭が外から見えないように座った。


「後ろに座ったほうが良いんじゃあねえのか?その体勢じゃきついだろ」

男はキーを鍵穴に差し込みエンジンを掛けようとするが中々かからない。

男が手で鍵穴を叩くと、何度かキュルキュルと音をたててやっとエンジンがかかった。


「ここが良いからこれで平気、それに後ろの座席に寝かされてた時の方が辛かった」

男が一瞬驚いたような顔をしてこちらを見ている。その後舌打ちが聞こえた。

「起きてたのかよ」

「いいから早く出して。なるべくここから離れた場所まで走らせるの」


「被っとけ」

頭の上に帽子が被せられた。あの布団と同じ匂いがする。

私の頭よりだいぶ大きな帽子をぐっと深くかぶり直すと同時に、車は大きな音を立てて走りだした。

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