第5話

 平日の昼、公園の古びたベンチに腰掛ける。

 いつもなら胸ポケットから準備してきた煙草を取り出すのだけど、今日は何となく喫煙する気にはなれなくて、そのままぼうっと座っていた。あとでニコチンが切れて辛くなるのだろうなとは思うが、持ち合わせがよりにもよって今一番思い出したくもないフレイバーだから、仕方ない。

 はぁ、と小さく溜息を吐く。

 不意にきしり、と木の軋む音がする。空いていたベンチの隣に、誰かが腰かけたようだった。

 衣擦れの音と、ライターの音。まぁ、この公園に来る目的があるとすれば一つしかないので、おおかた予想通りである。

 吹く風に流れて、ふわりと紫煙が掛かる。俺の吸っている煙草と同じ、嗅ぎ慣れた――けど最近は御無沙汰だった、苦い香り。

 自分の胸ポケットから、ふわりと漂うバニラのフレイバーと混ざって、また息が苦しくなった。

 移動しよう。そう思って、顔を上げる。

 刹那。

「あぁ、やっぱり」

 俺の隣で悠々と煙草をふかしていたその人は、おっとりと微笑みながら俺と視線を合わせてきた。

「久しぶり」

 皮膚全体に年齢を刻んだ、けど面影は確かにある。髪形や服装は変われど、顔のつくりなんて、十年やそこらで大きく変わりはしない。声だって、以前より少ししゃがれ気味ではあったものの、その特徴は変わらない。

 長い間、無意識に焦がれ続けてきた、片時も忘れることなんてなかった、あの。

「な、なんで」

「帰ってきたの。こっちに」

「それにしたって」

 なんとも、出来すぎた偶然だと思う。

 海外に支店を持つこの会社に就職している以上、こういった日はいずれ来るだろうし(あぁそうだ、そういえば同じ会社にいたんだった)、八つ当たりしたって仕方ないのだが……よりにもよって、俺が抑えてきた想いをまざまざと自覚させられた、その日に戻ってくることはないのではないか。

 というか、何故。

「煙草、変えたの」

「まぁね」

 こともなげに、彼は答える。それにまた、俺は混乱した。

 いや、変えたこと自体は別にいいのだ。十年そこそこも時間が経っていれば、自然と好みだって変わるだろう。

 問題は……何故、彼は『それ』を新しい相棒に選んだのか。ということであって。

 神様の悪戯にしたって、酷すぎる。

 たまたまだと分かっていても、期待してしまうじゃないか。

「お前こそ、変えたの。煙草」

 胸ポケットから変わらず存在感を発するそれが、急に恥ずかしくなる。今更とは思うものの、慌ててそれを取り出し、さっと後ろに隠した。

「懐かしいなぁ。ってか、知ってたんだ」

 それ、お前に教えてないのに。

 くつくつと喉奥で鳴る笑い声に、思わず頬に火が灯る。押さえたいのに心臓が早鐘を打って、これじゃあよくある恋愛作品の主人公を『あまりに初心すぎる』なんて下手に笑えない。

 そして思うのだ。

 やっぱり俺は、相変わらずこの人が好きなままなんだと。

 どれだけ年数が経とうとも。どれだけ外見や取り巻く環境、内面さえ変わっていようとも。それでも。

「いつも吸ってるやつが、切れてたんだよ。たまたま、持ってただけ」

 ふい、とそっぽを向く。たとえ既に見抜かれてたとしても、赤くなっているであろう顔を見られるのは本意じゃなかった。

「ふぅん」

 それは寂しいなぁ、と茶化すような声。

「おれは、知っててわざとこれに変えたんだけど」

 お前は違うのか、と問われ、言葉に詰まる。

 厳密に言うと、俺は煙草を変えたわけじゃない。けどなりゆきとはいえ、意味を見出してこの煙草を購入したことは確かで……。

 答えあぐねていると、彼は手にしていた煙草――今までの会話の間にも吹かしていたらしく、それはずいぶんと短くなっていた――を携帯灰皿に押しつけ、こともなげに続きを紡いだ。

「好きな奴が、吸ってる煙草だから」

 一瞬、何を言われたのかわからなかった。それが何を意味するのかさえ、思考能力を完全に失った頭では見当もつかず。

 呆然と目を見開いた俺に、「間抜け面」と彼はケラケラ笑った。


    ◆◆◆


 仕事終わりに待ち合わせ、久しぶりに二人きり。日本に戻ってきてまだ間もなく、ホテルに泊まっているという彼の滞在する一室に案内された。

「お前さ、結婚はしてないわけ」

 もういい年じゃん、なんて言われて苦笑する。

「その言葉、そのまま返すよ」

「おれは別にいいんだ」

 この部屋は禁煙になっていないらしく、俺がいつも吸っているはずの煙草を吸いながら彼は笑う。

「お前は吸わないの」

「あ……うん」

 何となくきまりが悪くなって、ずっと胸ポケットに入れたままになっていたバニラ香のそれを取り出す。火をつけて吸い込めば、当たり前だが以前と味は変わっていなかった。

 ゆらゆらと、二つの紫煙が混ざる。どこかで換気扇が回っているらしく、そちらに吸い寄せられるようにして消えていった。

 甘く、そして苦い香り。

 互いにそれを生み出す主が入れ替わっていることが、不自然でもあり、ごく自然なことのようでもあった。

「昼間も、言ったろ」

 不意に、彼が口を開く。話が飛躍したことに一瞬首を傾げたが、よく考えれば先ほどの話の続きであることにすぐ気付いて、自分はどれだけ頭が悪いのかと自覚させられた。

「離れてからもずっと、忘れられなかったんだ」

 自分が持つ、バニラの香りだけじゃ、やっぱりすごく物足りなくて。

「欲しかった。お前の纏っていた、子供らしくもないあの苦々しい香りが」

 だから、変えたの。

 奇妙な執着だよな、と彼は自嘲するように笑った。その切なげな笑みに、胸がきゅっと引き絞られるように痛む。

「……俺も、同じだよ」

 気づけば、言葉はスムーズに唇から滑り落ちていた。

「会わなくなってからずっと、忘れたつもりでいた。だから意地でも銘柄を変えることはなかった。……けど、今思えば俺もずいぶんと執着してたんだろうね。煙草を吸う、って行為自体を止めなかったんだから」

 それは、あなたが教えてくれたことだったから。

「あなたと同じ煙草の香りに、苦しんで。あなたと同じ煙草を見つけて、もっと苦しんで。こんな思いするくらいなら……まだ一緒にいた頃、興味本位であなたの吸い残しを口にするべきじゃなかった、なんて。そんなことさえ、考え、て」

「シケモクは、苦かったろう」

「……甘かったんだよ」

 だからきっと、あの時から。

「あの時からずっと、俺はあなたのことが」

 瞼を下ろした彼は、小さく笑った。何かを思い出しているかのように、あるいは必死に何かに耐えているかのように。

 指に挟んだ煙草を、一口吸って。彼は、備え付けの灰皿に押しつけた。

 俺の目の前まで来たかと思うと、ふ、と吐き出される煙。

 よく知るはずの、苦い、苦い香り。

 俺もまた同じように、持っていた煙草を一口。そして負けじと、彼の顔にバニラ香の煙を吐き出した。

「……おれ、抱かれないからな」

「いいよ」

 あなたが相手なら、どちらでも。好きなようにしてくれたらいい。

 そう言ったら、愛おしげに微笑まれた。

 灰皿に残った煙草を押し付け、一目散に彼のもとへ。

 ゆっくりとベッドに押し倒され、間髪入れずに降ってきた唇に答える。俺の知る味ならば、彼の口内は苦さで満たされているはずなのに、それは何故かあの日のシケモクと同じ味がした。

「甘い」

 いったん離れた唇の間から、嬉しそうな声が零れる。名残を惜しむようにペロリと唇を舐められ、歓喜に身体が震えた。

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俺に煙草を教えたのは @shion1327

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