第4話
軽率な行動は控えるべきだと、心の底から後悔した。
半ばなりゆきで、あの人が吸っていた煙草を吸った、あの日からだ。押さえ続けてきた感情が、少しずつ大きくなって、紫煙だらけだった心を甘いバニラの香りで満たしていく。
別れたのはもう何年も前のことなのに、どうして。
今更、燻り続けていた感情の答えを突きつけられるなんて。
あの人の連絡先も知らない。今どこにいるのかも、何をしているのかも……何も、知らない。会ってないし、声だって聴いてない。
もう、俺の知っているあの人ではないのかもしれないのに。
それなのにどうして、今更あの人の面影を、存在を――あの人自身を、俺はこんなにも、焦がれるほどに欲しがっているのだろうか。
「もう一度……お望みやったら何度でも、言います」
知りながらずっとはぐらかし続けてきた、可愛い後輩からの一途な想いに、とうとう答えを出さなければならない時が来たらしい。
「あなたが、好きです」
どうして今のタイミングなんだ、と怒鳴りつけたいのはやまやまだが、あいにくこれは俺個人の都合でしかないわけだし、完全に八つ当たりであることは分かっている。
じっとこちらを一心に見上げてくる、後輩の大きな瞳は揺らがない。彼女は彼女なりに、大きな決意を秘めて俺と対峙しているようだ。
どう返事したものか迷っていると、ふと覚えのある匂いが鼻先を掠めた。
「煙草、吸うようになったの」
胸ポケットから覗く赤いパッケージに合点しつつ、それ相当強かったでしょ、と尋ねれば、話の腰を折られて不満だとでも言いたげに睨まれた。
「先輩は……変えなったんですか」
答えの代わりに、投げかけられた問い。これから煙草を吸いに行くところだったため、彼女と同じくスーツの胸ポケットに入っていた、くすんだ白のパッケージにそっと触れた。
「好きな人が、吸ってたんだ。これ」
「……」
明確に、気持ちを口にしたのはこれが初めてだ。
本当は『好き』なんて一言じゃ片付かない、色んな要素が混ざった、決して純真無垢とは言えないどろどろとした感情なんだけど。
でも、便宜上はそう表現した方が分かりやすいのかもしれない。なんて。
「女性は煙草吸うたらあかん、って言ってたのに」
「駄目とは言ってないでしょ。やめた方がいい、って言っただけで」
それに、多分誤解してるけど、あの人は……。
そう口にしかけて、やめる。
簡単に受け入れられるなんて思っちゃいないのだ、初めから。俺が言う『好きな人』は絶対『そう』なのだと、至極当たり前のように、暗黙の了解のように思われているのなら、わざわざ訂正する必要もないだろう。
「……まぁ、知ってました、けど」
だんだんと下がってくる視線。薄く紅の引かれた唇を軽く噛み、口内でもごもごと彼女は呟いた。
「だってうち、ずっと見てたから……先輩のこと」
女性は観察眼が鋭いというか、人の感情に機敏なのだなぁと思う。近いところで言うと、母親が一番分かりやすいだろうか。何も言ってないし、悟らせさえしていないつもりでも、意外と見抜かれていたりするのだ。……単純に、駄々漏れだっただけなのかもしれないけど。
「だったら、分かるでしょ?」
言外に、諦めてほしいという気持ちを込める。
我ながらひどいことを言っていると思う。無理だと知っているのに。自分がそうであるように、彼女もまた、そう簡単に切り捨てることなんてできないのだろうから。
「……うちが、何で先輩のこと好きになったのか、教えてあげます」
ずっと押し黙っていた彼女が、おもむろに口を開いた。無言で続きを促せば、彼女は瞳を潤ませて、ぽつりぽつりと語り出す。
「ホンマはもっと前から、先輩が公園で煙草吸ってはること知ってました。度々、見かけてたから」
それは、そうなのかもしれない。
俺はずっと前から、公園へ立ち寄り煙草を吸うという行動をルーティーンとしていた。だから、以前にも俺の姿を見かけたことがあるのだと言われても、さほど驚きはない。
最初聞いた時は、ちょっと驚いたけど。
「初めは、指が綺麗やと思いました。パッケージを取り出して、そこから一本取り出して、挟んで。ライターで火つけて……その動作が、絵みたいやなぁって」
それでなんとなく見惚れてたんですけど、何日めかに気付いたんですわ。
「煙草吸ってる時の横顔が……なんや、えらい寂しそうやって」
あぁ、と思う。
心当たりはあったのだ。俺自身が、意識しまいとしていただけのことで。
「いや……寂しそうというより、切なそうやったんかな。まるで、遠くにいてる誰かのことを、思い出してるみたいな」
煙草を吸うときは、だいたいリラックスしている。だから、もしかしたら無意識に、俺はあの人を思い出していたのかもしれない。
違う煙草のフレイバーを通して見える、あの人の面影に焦がれていたのかもしれない。
上手く説明はつかんのですけど、と軽く頬を掻く彼女に、俺は微妙な笑みを浮かべた。鏡を見れば間違いなく引きつっているのであろう、強張った下手くそな笑み。
「……ごめん」
何とも言えずに、小さく謝る。
「この気持ちを、昇華できたら。その日にはきっと」
その日がもし来たとしたら、きっと。
「君の気持ちに、答えてあげることができるかもしれない」
「……期待しないで、待っとりますわ」
ふ、と小さく彼女が笑う。俺が浮かべているのと同じであろう、無理を前面に押し出した笑みだ。
聞けば、彼女もこれから煙草を吸いに行くところだと言う。
せめてもの償いとして、一緒に行くかと誘いをかけてみたが、「一人になりたいんです」とすげなく断られてしまった。
まぁそりゃそうだろうなと軽く苦笑しながら、何とも言えぬ表情をした彼女と別れ、いったんオフィスを後にする。
残酷なことを言った自覚はある。
だってきっと、『その日』は来ない。
この恋が報われることがなくても。たとえ一生、あの人に会うことさえなかったとしても。
俺はずっと、これからも一生、死ぬまであの人への想いを抱えながら生きていくのだろう。
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