第3話

 昔から近所に住んでいて、家族ぐるみでの付き合いもあり、長年俺にとって兄貴的な存在であり続けたあの人。

 俺が大学を卒業し、ようやく同じ会社に就職することができた頃、何の因果か転勤により外国の支社へ行ってしまった。

 もう、十年近く前の話だ。

 あの人は家を出ていて、一人暮らしをしていたアパート――とはいえ、そこも実家からさほど遠くはなかったのだが――にそれまで俺は足繁く通っていたけど、何の前触れもなく俺の目の前から消えて、結局転勤したと聞いたのは人伝だった。

 心にぽっかり穴が開いた気になったのは、言うまでもないだろう。

 あの人に会うことがなくなってから、時代の流れを反映するように、バニラ香の煙草は名前とパッケージが大きく変わった。それでも味は変わっていないのだろうけれど。今でも愛用しているのだろうか。


 休みの日、切れた煙草を求め立ち寄ったコンビニで、俺が吸っている煙草のすぐ下に鎮座していたそれを見つけた。

「……お客様?」

 商品を持たぬままレジの前でぼうっと立っている俺を見かねたのか、アルバイトらしき若い女の子が恐る恐る声を掛けてくる。ハッと我に返り、俺は辺りを見渡した。幸い今は客入りの多い時間帯ではないようで、誰かしらに迷惑を掛けていないらしいことに安心する。

「あ、すみません。えっと」

「こちらのお煙草でよろしかったでしょうか」

 ずっと見ていたからだろう。さも当然といったように差し出されたそれを、今更違いますと断ることもできず、半ばなりゆきで購入した。

 会計を無事に終え、コンビニを出る。手の中に納まったくすんだ白い箱からは、ほんのりとバニラの匂いがした。

 いつまで経っても消化できない、こんな苦しい想いを抱え続けるくらいなら、いっそ握りつぶして捨ててしまえばいいとさえ思った。

 それができれば、苦労はしないのだけれど。

 せっかくだからと開き直り、住み家であるアパートの一室へと戻る。今更喫煙スペースを探して彷徨うのは面倒くさい。

 大学進学を機に借りたアパートは室内禁煙で、喫煙の際はベランダに出てくださいと、管理人からのお達しを受けている。壁にニコチンの染みが付くと弁償になってしまうので、そこは何が何でも気を付けておきたいところだ。

 部屋に戻ってすぐベランダに出て、窓を閉める。逸る気持ちがどこかにあるのは、もう誤魔化しようがないのかもしれない。

 買ったばかりの箱を取り出し、パッケージを眺める。そういえばシケモクを吸ったことはあるけど、この煙草をちゃんと最初から吸うのは初めてだ。

 箱を開け、一本取り出す。口に咥えた瞬間からすでに、甘いバニラの風味が口内を満たした。

 あの人の、香り。

 火をつけて、軽く吸い込むと、やっぱり香りから想定するほど甘ったるいというわけではなかった。強いのはそのフレイバーだけで、味自体はほんのりと柔らかく、後が少し苦い。

 あの人のようだ、と思う。

 胸に、煙草の火を押し付けられたような痛みが襲う。いったん口から離し、胸を押さえ少しだけうずくまって、落ち着いた頃にもう一口。そんなことを何回か繰り返していると、案の定減りは早かった。

 自然と浮かんでくるのは、長い指に挟まれた煙草と、薄い唇からふぅ、とさも当然のように吐き出される細い煙。

 そうだ、初めはただ憧れだった。あの人のように、煙草の似合う格好いい大人になりたかった。

 それだけだった、はずなのに。

 最後の一口を吸った時、びりりと舌に痺れを感じた。直後にじわりと、甘い味。こっそり味わったシケモクと同じ、甘ったるさ。

 急な喉の渇きを感じて、携帯灰皿に残りを押し付ける。

 ゴホリと咳き込めば、舌に乗っていた甘い味がぶわりと口内に広がって、吐きそうになった。

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