神武東征と邪馬台国の滅亡

@kkb

第1話


 

 雑誌の付録CDに入っていた青空文庫のファイルをチェックしていると、古事記物語というタイトルを見つけた。古事記を読みやすくしたもので、神武東征の箇所だけ読んでみた。すると、宇佐に寄った後、筑前(福岡県北部)の岡田宮という神社に一年滞在したとある。岡田宮は、福岡県北九州市八幡西区岡田町の岡田神社と言われている。


 これで、古代日本史についての私の考えが一変した。

 それ以前は、初代天皇神武は日向出身と記されていても、福岡県のことを日向と表現したと考えていた。理由は大分県の宇佐に寄ったからである。宮崎から船で東に向かうのに、西の宇佐に寄るのは無駄なことである。ところが、筑前に長期滞在したのなら話は異なり、逆に福岡ではおかしくなる。

 何故、神武は筑前に滞在したのだろう。理由は簡単だが、彼がそこに滞在できたということは、邪馬台国の流れを汲む人物でないことに気づいた。



 飛鳥時代から奈良時代にかけて成立した古事記は、聖書の創世記と同様に天地の創造から始まる。神が天地を創造する創世記と違って、天地ができるとき天の上の高天原に神が生まれた。

 聖書では、創造主である神が天地を創った後、人間を創り、その子孫アブラハムに神がカナンの土地を与えたが、この神は天御中主神といって日本人の祖先ということだ。この神の子孫が日本(社会ではなく、日本列島)を造り、神々の系譜は初代天皇神武に続いていく。アブラハムの子孫に啓示を告げた先祖の神は、後世、唯一神を経て創造主とされた。同じように、神武の先祖は、当時の信仰の対象だった神々とされた。

 古事記の場合、上巻が天の岩屋、八俣の大蛇、因幡の白兎などの神話、中、下巻が神武天皇から推古天皇までと、わかりやすく分かれている。

 神武の祖父火遠理命に至っても、とても実話とは思えない。釣り針を海に落とし、兄に怒られ、海辺で泣いていると、海の神が現れ、海の神の御殿に行き、御殿の門の脇の井戸のそばの木に登ると海の神の娘の下女が現れ、海の神の娘と結婚し、三年後、釣り針の件を思い出し、海中の魚を集め、一匹のタイの喉に釣り針をみつけ、神に言われたとおりにすると、兄の田の収穫が悪くなり、神の娘が陸地に上がり出産し、命が覗いたせいで、娘はワニ(鮫)になり、海に帰ってしまった。娘は妹に自分の子供を育てさせ、命は五百八十歳まで生きた。


 神の娘の妹は姉の子供と結婚し、四人の男の子を産む。四男の神武は日向の高千穂にいたが、日向は政には不向きなので、長男と相談して、東に向かうことを決める。豊前の宇佐に寄った後、筑前に滞在し、安芸(広島)、備前(岡山)と東に進み、河内に上陸したとき、長髄彦と戦い敗退。海に逃げ紀伊半島の熊野から再度上陸し、大和の宇迦斯兄弟を倒し、一度は負けた長髄彦にも勝利する。

 雲の上から高皇産霊神が八咫烏の飛ぶほうに向かえと告げるなどと脚色されているが、神武は、実在する場所で現実的な行動をとっている。祖父のエピソードはどう考えてもフィクションだが、神武の場合は事実をもとに記されているのではないだろうか。


 初代天皇神武とは、どのような立場の人間だったのだろうか。古代日本史の大きな謎だ。

 古代日本の謎とくれば、邪馬台国のことを無視するわけにはいかないだろう。


 ここで簡単に筆者の邪馬台国鹿児島説を紹介する。


 原文では理解しにくいので、ざっと要約を述べる。


 ヤマタイ国へのルート


 帯方郡(ソウル) 対馬 壱岐 末盧(佐賀県松浦半島)

 ここまではほとんど異論がない。

 末盧から東南に五百里進むと伊都国(ヤマタイ国の属国)。 定説では東南ではなく、東北に進み現在の福岡県前原付近(糸島半島)。

 東南に百里で奴國、東に百里で不彌国、南に船で二十日進み投馬国、南に船で十日、歩いて一ヶ月で邪馬台国

 伊都国からの行程は、そのまま記述の順に進む連続説と、それぞれが伊都国からのルートとする放射説がある。


 周辺 


 邪馬台国の東、海を挟んだ千里先に倭人の国がある

 東南、南にも国がある。

 邪馬台国の北の国々については戸数道程を省略。それ以外の国についてはよくわからない。伊都国に置いた女王国の機関は北の国々を監視している。

 斯馬国など二十一カ国(斯馬国から順に巳百支国、伊邪国、都支国、彌奴国、好古都国、不呼国、姐奴国、對蘇国、蘇奴国、呼邑国、華奴蘇奴国、鬼国、爲吾国、鬼奴国、邪馬国、躬臣国、巴利国、支惟国、烏奴国、【奴国*伊都国の東南百里】)にも影響を及ぼしている 

 南にある狗奴国と敵対関係 

 帯方郡から一万二千里以上

 会稽東治の東

 周囲五千里

 

 特徴

 

 女王が統治する。温暖な気候。冬でも生野菜を食べる。人々は裸足でいれずみをしている。顔に赤い顔料を塗っている。海に潜って魚や貝を採る。


 一里は75m説が有力。


 ほとんどの解釈が邪馬台国の位置を、方角や距離を強引に変更して、北九州や近畿に比定しているが、魏志倭人伝に記された通りに進む。但し、伊都国からは放射説をとり、南に歩いて一月、あるいは船で十日と解釈した。

 加えて、冬でも生野菜を食べる温暖な気候、すぐ南に狗奴国、海を隔てた東にも倭人の国があるという条件から、薩摩半島中部、現在の鹿児島市を拠点にしていたと考えた。


 北九州や近畿説が有力なのは、遺跡が多く、発達していた地域ということが決めてのようだが、倭人伝に邪馬台国が倭で最大の勢力と記されているわけではない。魏の同盟勢力だから倭人伝に載ったのだ。

 一般に朝鮮半島にあったと思われている狗邪韓國は、「水行し、韓國(半島南部の国)を歴て、乍ち南し乍ち東し、其の北岸狗邪韓國に到る」とあるので、九州北部、現在の福岡県にあったと思われる。おそらく、狗邪韓國が正式名称ではなく、邪馬台国の人間が魏の使節に、通称やニックネーム的な感じで使ったのだろう。たとえて言えば、福岡のことをフクオ韓国と呼ぶようなものである。

 その名の通り、半島とゆかりの深い狗邪韓國は、朝鮮半島に圧力をかけていた魏と敵対し、魏の使節は狗邪韓國を避けた。つまり福岡県を通ることができなかった。大国魏は、九州の西側の国々とだけ関係を持っていた。そのリーダーが邪馬台国だった。

 壱岐から末盧(佐賀県松浦半島)に上陸し、倭人伝の通りにそのまま南東に進むのは、山がちで険しく、福岡平野を通ったほうが合理的だが、敵国を通るのは危険で上陸すらままならない。仕方なく、松浦川沿い、ほぼ今の国道203号線の山岳地帯を抜け、有明湾付近に出た。そこから南に船で十日行くか、あるいは陸を一月歩いて着くところなので、候補地は薩摩半島くらいしか残っていない。

 魏は、福岡県を除く九州西部以外のことは知り得ず、関門海峡を通ったことがなく、本州、四国の存在を知らなかった。それで倭国の周辺は五千里(一里75メートル説なら375キロメートル。九州より小さい)と記述された。

 会稽東治は現在の福建省福州といわれる。その東となると台湾北端になってしまうが、東治が東明の誤りとすると、現在の寧波。寧波の東は屋久島、種子島のすぐ南となる。



 邪馬台国は南にある狗奴国と敵対し、戦争状態にあった。狗奴国の王の名は、卑彌呼と似た卑彌弓呼なので、同じ文化圏なのだろう。両国の戦いがどういう結末を向かえたのか記されていないが、邪馬台国が大和朝廷の前進なら、狗奴国が敗北したに違いない。

 邪馬台国は本当に大和朝廷の前進なのだろうか。ヤマタイコクという名前なのだから、ヤマト朝廷と関係があるに違いない。

 邪馬台国は本当にヤマタイコクなのか。

 新井白石が大和と結びつけるために強引にヤマタイコクと読んだが、シャバイチ国と読んだ可能性のほうが高い。

 古事記に記されている神武東征は、大和朝廷と直接結びつく。

 神武は日向の高千穂にいた。古事記の冒頭で筑紫(一般に福岡)の日向という記述があるので、日向は特定の地名ではなく、普通名詞という説や、福岡県が日向だったとも言われている。あるいは、筑紫は九州全体を意味するという説もある。

 神武東征の場合、日向から筑紫に向かい、まず豊前の宇佐(大分県)に着いたので、九州の南東部、今の宮崎県から出たと解釈したい。


 宮崎県北部の高千穂町は山間部で、そこにいたのは、その辺りを領地としていたからなのだろう。長兄は五瀬命という名で、現在、高千穂町にある高千穂峡は五ヶ瀬川の渓谷である。兄弟は日向の有力者には違いないが、国全体を統治していたわけでないようだ。

 宮崎平野から遠く離れた辺境の豪族神武は、一旗あげようと東征を決断する。長兄と相談して決めたとあることから、神武自身の兵力はわずかで、兄の力を借りたと推測できる。

 軍勢を残らず連れて出たことから、軍隊がなくても他から攻め込まれる状況になかったことがわかる。独立した勢力ではなく、日向国の中の一地域を任されていたのだろう。

 兄の兵力を借り、東征に出発する。宇佐を経て、筑前の岡田の宮に滞在する。東に向かうのに、西にある筑前に寄るのは遠回りだが、それには理由があった。

 九州最大の勢力、筑前から兵や武器などを借りるためだ。

 備前や安芸にも滞在したのは同じ理由だろう。お宮で過ごしたのは、土地の神に敬意を表することで、信頼を得るためだ。成功した暁には、協力してくれたことへの報酬も約束したことだろう。 

 邪馬台国より時代は後と思われるが、筑前は狗邪韓國の本拠地である。そこと協力したのは、日向が北九州勢と敵対していなかったことになる。

 日向は、宮崎だけではない。昔は、大隅半島や薩摩半島も含まれていた。


 神武は邪馬台国の流れを汲む人物なのか。

 邪馬台国は、魏の同盟国で、南の狗奴国と敵対し、北九州とは関係がなかった。

 神武は筑前に滞在した。日向は北九州と良好な関係を築いていたに違いない。

 敵の敵は味方という。邪馬台国と争う狗奴国は、北九州にとっても好都合な存在だったのではないか。狗邪韓國と狗奴国が直接手を握った可能性もある。

 魏志倭人伝で女王国の南と記された狗奴国は、後代に記された後漢書倭伝では、海を隔てた東と記されている。記述ミスでなければ、東方の大隅半島に勢力を拡大し、半島東部の志布志湾沿いの平地辺りを本拠地としたのではないだろうか。

 シャーマンのお告げで国を動かす女王国は、合理的に判断をする狗奴国に圧倒されていった。得意の海軍力も、陸地で隣接する狗奴国には通用しなかった。

 邪馬台国は狗奴国との戦いに苦戦し、魏に援助を要請した。しかし、魏が軍隊を派遣した記録はない。当時の魏にとって邪馬台国などとるに足らない存在だった。使節が苦労してようやくたどり着ける遠方の地に、大軍を送るような馬鹿なまねはしなかったのだ。

 邪馬台国の情報が魏志倭人伝や後漢書倭伝にしか残っていないのも、それが国力を上げ、大国になることがなかったからだろう。

 奴国は邪馬台国の影響の北限である。漢委奴国王印は江戸時代に福岡県の博多湾に浮かぶ志賀島で見つかった。狗邪韓國が奴国を滅ぼして奪ったか、恭順を誓わせ、取り上げたかしたのだろう。 

 斯馬国など邪馬台国支配下の二十一カ国は、北からの圧力で、邪馬台国を支援することができず、女王国は狗奴国に滅ぼされた。


 日本最大級の古墳群である西都原古墳群は、宮崎平野にある。三世紀から七世紀にかけての遺跡が見つかっており、倭人伝の邪馬台国の時代より一世紀以上後の時代ということになる。

 邪馬台国を滅ぼし、薩摩半島と大隅半島を制圧した狗奴国は、宮崎平野に進出。南九州全体を支配した。(七世紀にできた日向国というまとまりは、それ以前からその地域がまとまっていたから)

 神武は日向の最辺境の一豪族にすぎなかったが、才気に溢れていた。兄を説得し、良好な関係にあった筑前の協力を得て、東征を開始した。

 奈良盆地の勢力を倒し、大和に拠点を移し、子供をもうけた。没後、日向に残っていた子供が後継者争いを起こし、大和にいた三男、後の綏靖天皇により、殺害される。


 旧唐書によると、日本と倭国は別の国で、倭国は日本に併合されたという。この場合の日本は神武の後継である大和朝廷。倭国は倭人伝に登場した九州の諸勢力だろう。


 薩摩半島南部に発生した勢力は、魏から狗奴国という蔑まれた名前で呼ばれたが、魏の同盟国で二十一カ国を影響下に置く邪馬台国を倒し、大隅半島、宮崎平野、近畿地方を相次いで制圧。やがて日本全土を支配することになった。子孫は後に天皇を名乗り、最大の功労者は、初代天皇神武として名を残すことになる。

 神武東征こそが日本を誕生させた。

 日本とは日の本。日の本とは、日の出ずる国。

 日付変更線の関係と東に広大な太平洋があることから、世界で一番始めに日の出を浴びる国と思ってしまうが、海外の情報がほとんどない時代にそんな意味があったとは思えない。まして、内陸の奈良盆地の住人が、日の本という発想をしたとは考えにくい。

 それよりも日向の国を受け継いでいることから、そう呼ばれたのではないだろうか。

 日向は昔はヒムカと読んだらしい。日が向かう場所という意味だ。

 古事記冒頭で、日本を造り上げた伊弉諾神は、黄泉の国から戻って最初に行った場所は、日向の国の阿波岐原というところだった。そこでは多くの神々が生まれた。神武天皇の先祖に当たる天照大神もその一人である。天照大神の孫で神武の先祖、邇邇芸命が大空から地上に降り立った場所も、日向の国の高千穂の串触嶽だ。それから命は、日向の笠沙の岬に立ち、朝日が真向かいに指すいい場所と評している。

 日本書紀では、十二代景行天皇も九州を訪れた際、日向の地を「是の国は直く日の出づる方に向けり」と表現しており、それが日向国の由来と言われているが、それ以前から日向だったのだろう。

 古事記には大国主神などが活躍する出雲神話も混ざってわかりにくいが、日向の国こそが日本の源流。日本の元となった日の本そのものではないだろうか。

 その日向は、邪馬台国の敵国だった狗奴国が発展させた可能性が高い。狗奴国が邪馬台国を滅ぼさなければ、今の日本列島は北九州など他の勢力が支配し、国の名も日本ではなく、倭の文字が入っていたかもしれない。

 日本の誕生にとって邪馬台国の滅亡は必要不可欠だった。邪馬台国は大和朝廷の前進どころか、敵そのもの。邪馬台国こそは日本にとって邪魔大国だった。



 ここまで、古事記と魏志倭人伝から古代の日本を推理してみたが、古事記は、倭人伝のような報告書と異なり、創作の度合いが強い。神武の子供で二代目の綏靖天皇から八代は簡単な紹介のみで、第十代崇神天皇から詳しくなっている。

 崇神天皇は十代目のはずなのに、神武とともに日本初代の天皇と称され、実際の天皇家の始祖とも言われる。十という区切りのいい数字も、実際にカウントしたのではなく、架空の先祖をこしらえるのにちょうどいい値だったのだろう。


 すると、神武東征はただの創作なのか。

 それにしては内容がリアルである。

 崇神以前は、大和地方の豪族にすぎず、歴代先祖の詳細な伝承があったとは思えない。

 おそらく、天皇家の遠い先祖は古事記の内容通り日向から出て、大和を制圧したが、その人物についてはわずかな伝承しか残されておらず、いつの時代かわからなかった。そこで古事記を記す際、神話に含ませる形で、初代天皇神武としたのだろう。二代~九代目に関しては、創作の度合いが強いと思われる。

 神武が奈良盆地を手に入れて、日向の頃より出世したといっても、天下に君臨したわけではなく、近畿地方の豪族の一人にすぎなかった。それが、崇神天皇の時代に、京都や大阪など周辺各地を平定するようになる。神武が近畿に向かったのも親戚から情報を得ていたからで、本州の豪族の多くが、先祖をたどれば九州出身だったのだろう。

 要するに、崇神天皇という傑出した人物が出現して、その先祖が日向から出て来たと言い伝えられていたということだ。神武程度の成功談など珍しくもないが、たまたま子孫に傑物が出現したおかげで、初代天皇に祭り上げられたのだろう。

 神武天皇より無名だが、崇神天皇こそが本当に凄いのだ。

 近畿地方の覇者となった崇神の二代後、景行天皇の時代には、九州や出雲なども平定している。東は常陸や筑波まで遠征した。これでほぼ全国が統一されたことになる。


 ここまでのまとめ。よくわからない遠い祖先が日向出身の奈良盆地の豪族は、近畿地方を制圧。二代後には当時の日本全国をほぼ統一し、大和朝廷が誕生した。


 果たして本当にそうだろうか?


 十四代仲哀天皇が熊襲征伐のため筑前にいたとき、熊襲ではなく、朝鮮半島の新羅を攻めるよう神から告げられた。お告げは神功皇后の口から告げられ、お告げを信じない天皇は、その場で死亡した。さらに、皇后はすでに妊娠していて、その子供が天下を治めるとのお告げもあった。

 皇后は天皇に代わり、お告げに従い、新羅に攻め込んだ。

 見事勝利した皇后は九州に帰ると、そこで仲哀天皇の子供、応神天皇を産んだ。それから熊襲を平定して、大和に戻るのだが、そこには仲哀天皇の二人の皇子がいて、皇后を歓迎するどころか、戦争をすることになった。皇子は応神天皇の腹違いの兄達という。

 両者は激突した。皇后軍のだまし討ちに会い、皇子軍は殲滅した。二人の皇子は湖に飛び込み、亡くなった。


 すでにれっきとした二人の皇子が大和にいる状況で、天皇の死後に筑紫で出産した赤ん坊が戻ったとしても、二人のどちらかが即位するはずである。それがいきなり戦争になるのは、どう考えてもおかしい。

 熊襲征伐のため、ある程度の軍を連れていったはずだが、その兵隊達が皇后のために、皇子や大和に残った仲間と戦うだろうか。仲哀天皇という名も、中国の王朝末期辺りによく登場する霊帝や哀帝を思わせる。


 普通に考えて、北九州勢の陰謀と思える。

 仲哀天皇の熊襲征伐はその通りだろう。

 天皇は、自分に服従していた北九州の筑前に寄った。そこで南九州ではなく、新羅に攻め込もうという無茶な提案があった。天皇が断ると、その場で殺害された。

 それから、皇后が新羅や熊襲に攻め込んだというのは嘘で、北九州勢が天皇不在の大和に攻め込んだ。

 本当に皇后だったのかどうかわからないが、その出身は北九州(母方の先祖は新羅)で、皇后の産んだ皇子とともに、筑前の王族の血筋だった。北九州軍は、筑紫で誕生したとされる仲哀天皇の子供を大儀に、大和に乗り込むが、大和側もそんな話を鵜呑みにしたりはしない。両軍は激しく激突し、北九州の勝利に終わった。

 早い話が、全国を支配した、先祖を日向に持つ大和政権は、依然として強力な軍事力を誇った北九州の勢力に攻め込まれ敗北。その権威を乗っ取られたのだ。


 この部分は筆者のオリジナルの解釈ではなく、王朝交替説による。皇后達は、大和からみれば侵略者で、それまでの皇統に代わる河内王朝(応神王朝)と呼ばれる。


 それにしても、古事記にここまで書いていいのだろうか。古事記は天武天皇御自らの指示で編纂された公式文書である。それが、皇統の正当性に疑念を挟むようなエピソードを載せるとは大失態である。 

 しかし、わざと暴露したとしたら……。

 北九州勢力による政権簒奪は、当時としては公然の秘密というか、むしろ公にしたいくらいで、大和朝廷は、皇統を権威として利用したが、本当の血筋である北九州を誇っていて、南九州を熊襲とさげすんでいたのだろう。

 古事記は、序文で天武天皇のことを中国の伝説上の創始者黄帝や周の文王以上と称えていることからもわかるように、天武天皇の思想や意思が色濃く反映されているはずである。

 天武天皇は王朝交替を明かす意思があった?

 権力闘争に勝利し、律令制国家を完成した天武天皇は、自信にあふれ、先祖の威光をそれほど必要としておらず、皇統に多少傷がついても、事実を明かしたかったのだろう。但し、はっきりと表明するわけにはいかず、読み手側が推測するという形をとることになった。

 大和朝廷を乗っ取った事自体は、褒められたことではないが、先祖の賢さと強さを誇る気持ちがあったのだろう。本当の先祖への敬意と、長い歴史と正当性を持つ旧大和政権の利用価値が、微妙なバランスをとって古事記の記述となったではないだろうか。


 古事記よりほんのわずか後に編纂された日本書紀では、天皇の死はお告げの時ではなく、その半年後になっている。応神天皇の誕生した日が、天皇の崩御の十ヶ月弱とまさにぎりぎりのタイミングで懐妊したことになっている。皇后が天皇の殺害に関与せず、皇子が天皇の子であると主張したいのだろう。それなのに、懐妊のお告げは、出産の十五ヶ月前となっている。

 日本書記は古事記と異なり、いつの出来事かを記している。古事記の通り、天皇崩御がお告げの最中ならば、皇子の誕生の十五ヶ月前に亡くなったことになり、皇子が天皇の血を引いていないことは明らかである。

 大和から出征した兵士達は、皇子が天皇の実子でないことを知っていたはずである。それ以前に、天皇が亡くなれば、新羅や熊襲どころではなく、即座に大和に戻るはずである。皇后が軍を引き上げないので、将や兵は疑問を抱き、抜け出して大和に報告したに違いない。大和にいる皇子達は、皇后の動きに疑問を抱き、皇子の誕生の日付からそれが天皇の子供ではないことを明らかに知ったはずだ。いきなり戦争になるはずだ。

 この事実を隠すため、日本書紀は天皇崩御の時期を半年後ろにずらした。

 日本書紀も、同じ天武天皇の指示で編纂されたことになっているが、重なる記述が多い。完成した時期は古事記より八年遅く、同時期に同じような書物を平行して編纂したのはどういう理由からだろう。

 日本書紀は、古事記の内容を快く思わず、古事記だけが日本の正史になってはまずいと危惧したグループによって、作成されたのではないだろうか。

 古事記は、各豪族に伝わる文書を稗田阿礼という一個人が記憶して、数十年後にようやく文章に書き残したという、嘘くさい成立過程がある。このエピソードにより古事記偽書説が唱えられた。

 これは、日本書紀グループによる妨害工作があったが、日本書紀の完成の目処が立った時点で、ようやく日の目を見ることができたということではないだろうか。


 天武天皇は、大化の改新の中大兄皇子こと天智天皇の弟で、大勢の大和朝廷の豪族達を処分し、強大な権力を誇った。天皇という呼称を最初に使ったのも、この天皇らしい。それ以前は大王。

 初代天皇が天武と似ている神武というのも、この天皇にあやかって、そう名付けられたのだろう。兄の中大兄皇子が天智天皇なのも、同じような経緯に思える。

 日本という国の名前も、この天皇の頃かららしい。古事記に携わる学者達の話を聞いて、先王朝発祥の地、日向の国から連綿と続く皇統の流れを意識したのではないだろうか。

 本来の意味で初代天皇といえるのは、神武でも崇神でも応神でもなく、天武天皇ではないだろうか。

 ここまで書いた時点で、あることに気づいた。すぐ前の文章「神武でも崇神でも応神でもなく」の三人の天皇の名は、いずれも神の文字を含んでいる。三人とも特別に重要な存在なのはいうまでもない。だから神という貴い文字を採用したのだ。

 天皇という呼称そのものに天の文字があることからもわかるように、神よりも格上なのが天である。

 天の文字を含む天皇は、天武天皇自身と兄王の天智天皇だ。

 歴代天皇の名前を調べてみると、やはり神という文字を使用しているのはさきほどの三人のみで、天の字は天武と天智の兄弟のみ。奈良時代以降にも一人もいないのは、天武天皇の意思を汲み取ったのだろうか。


 天武天皇が最初に天皇を名乗ったのなら、それ以前の天皇(大王)は何々の命という名前で呼ばれていたと思われる。天武天皇の在世中、あるいは崩御後にかけて、それまでの歴代の大王の、天皇としての諡を定めた。まず最初に御自らの名を決め、天と武という最高の組み合わせを採用した。武に匹敵するのが智である。兄王の名とした。

 兄弟の次に重要な日向から来た伝説の人物は、天の次に貴い神と、自らも採用した武という組み合わせになった。

 天智天皇と天武天皇、ともに天の文字を二文字も含む。この二人は別格だということだ。大化改新を成し遂げた天智天皇と、それを引継ぎ中央集権国家を完成させた天武天皇は、天皇の中の天皇なのだ。


 神功皇后は、天皇ですら三人にとどめた神の字を持つ唯一の皇后だ。皇后の諡のある人物は、近代を除けば、他に平安時代の檀林皇后しかいない。古事記では母方の遠い先祖のエピソードまで記されている。天武天皇が、この皇后に対して、特別な敬意を抱いていたことがわかる。

 つまり、皇后のとった行動を賞賛しているのだ。

 奪われた旧大和政権からすれば悪そのものだが、恩恵を受けている天武天皇の立場からすれば大恩人だからだ。



まとめ


 薩南に誕生した狗奴国は、すぐ北にある魏の同盟国邪馬台国を軍事力で圧倒し、東の大隅半島に勢力を拡大した。当時、倭の最大勢力だった北九州の狗邪韓國は、先祖の出身地が魏に圧迫されていたことから大国魏と敵対し、狗奴国の勢いを歓迎した。邪馬台国の影響下にあった有明湾沿いの国々は、狗邪韓國の圧力で邪馬台国を助けることができず、邪馬台国は狗奴国に滅ぼされる。

 狗奴国は宮崎平野にも進出し、日向の国は、今日の鹿児島県、宮崎県を合わせた広大なものとなった。

 日向の豪族の一人に、現在の宮崎県最北端にある高千穂町付近を拠点としていた人物がいた。支配層が確定した九州でのしあがることの困難さをわかっていた彼は、当時のフロンティア近畿地方に進出し、そこで成功するプランを考えた。兄を説得し、兵や武器を借り、さらに北九州や山陽でも地元勢力に協力を要請した。瀬戸内海を東に進み、大阪に上陸を図るが、矢で攻められ敗退する。しかし、紀伊半島から上陸し、奈良盆地を手に入れる。

 彼の死後、後継者は奈良盆地の豪族として続いたが、崇神天皇という傑物が領地を広げ、近畿地方最大の勢力となる。その二代後の時代、ほぼ全国を平定するが、先祖の出身地南九州は熊襲として抵抗した。

 飛鳥時代。絶大な権力を誇った天武天皇は、最初に天皇を名乗り、古事記の編纂を命じた。伝承に残る、大和を制圧した人物を、自らにちなみ神武と名付け、初代天皇とした。その出身地日向にちなみ国号を日本とした。

 天武天皇の意向を強く反映している古事記の内容をよく思わない朝廷関係者は、新たに日本書紀を編纂した。古事記に負けない権威を必要としたので、同じ天武天皇の命令で編纂されたことになった。

 古事記の中で特にまずいのは、筑前の勢力による政権簒奪を匂わせる、神功皇后のエピソードである。そこで日本書記では、陰謀色を薄めている。

 神功皇后は、初めて皇后の諡が与え、それも神武、崇神、応神と天皇ですら三名にとどめた神の文字を含む。それだけの名が与えられたということは、皇后の実績が大絶賛されたということである。

 それは即ち天武天皇御自ら、筑前の血筋を誇り、神宮皇后に多大な感謝の念を抱いていたということである。

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