#1 出会いが紡ぐ非日常へ

 俺は、一年くらい前から妹と二人暮らしをしている。突然父さんの海外赴任が決まり、次に帰ってくるのは早くても三年後らしい。母さんは「そんなに長い間あなたと会えないなんて嫌!」とか言って、無理矢理ついて行ってしまった。


「ただいま」


 雨に濡れた体で猫を抱えたまま靴を脱ぎ、呟く。

 服が肌に張り付いて気持ち悪い。すぐにシャワー浴びて洗濯しないとな。


「あ、兄貴おかえりぃ! ……って、その猫どうしたのぉ!?」


 すると、部屋の奥から下着しか身に着けていない半裸姿で妹が走ってくる。何故かこいつは、家の中にいるときはいつも服を着ずに下着だけで過ごしているのだ。

 曰く「落ち着く」だの「動きやすい」だのよく分からん。

 頭の上で二つに括った、薔薇色のツインテール。

 どう見ても一四〇センチほどしかない低身長に、トーンが高くて可愛らしいロリータボイスも相まって、ロリコンの人にとってはたまらないだろう。

 ――五十嵐あやめ。小学五年生の十歳。

 俺の、義理の妹だ。


「帰ってくる途中に捨てられてるのを見つけたから拾ってきた。放置しておくのは可哀想だろ」

「いやぁ、気持ちは分かるけどさぁ。猫の世話とかちゃんとできるのぉ?」


 嘆息するあやめの双肩を掴み、俺は重大な使命を告げる。


「あやめ、昔から俺にはお前しかない。お前だけが頼りなんだ。……というわけで猫のことは任せた」

「ふぇっ? いきなりそんなこと言われてもぉ……」

「お前ならきっとやり遂げてくれるとお兄ちゃん信じてる」

「ちょっとぉ! 兄貴が拾ってきたんだからちゃんと責任もってよぉ!」


 憤然としながら叫ぶあやめに猫を預け、浴場へ向かう。そして制服を脱ぎ洗濯機に放り込む。

 この光景を見た人なら誰もが思うはずだ。自分で世話できないなら猫を拾ってきたりするな、と。

 頭では分かってる。だけど、幼い頃両親に捨てられ、世界で一番嫌いな単語が『捨てる』になってしまった。

 だから、捨てられている人、動物を見つけると無条件に助けてしまう。とはいえ、実際に捨てられているのを見つけたのは初めてなわけだが。

 ……我ながら厄介な性格だよな。

 そんな風に感慨にふけりながらシャワーを浴びていると、浴室の扉をノックする音が響く。


「兄貴ぃ、この子の名前はどうすんのぉ? もう決めてるぅ?」


 おそらく、″この子″というのは猫のことだろう。そういえば、名前を考えるのをすっかり忘れていた。


「まだ考えてないから、あやめが考えといてくれ」


 言うと、扉の向こう側から元気な返事が返ってくる。


「分かったぁ! とびっきりの名前考えるねぇ!」

「それはいいけど、あんま変なのにするなよ」

「任せてぇ!」


 ……まぁ少々不安だが、あやめのネーミングセンスに期待するしかない。変な名前じゃなければ、特にこだわりもないし。

 湯殿から上がり、私服に着替えてリビングに行くと、あやめが猫に餌を与えているところだった。

 あんなもの我が家にはなかったはずなので、どうやら俺が風呂に入っている間に一人で買ってきたらしい。

 何やかんや言っときながら結構楽しそうじゃねぇか――とは言わないでおく。まさにさりげない優しさ。

 と、俺の存在に気づいたあやめが、嬉しそうに弾んだ声で報告してくる。


「兄貴ぃ、最高の名前思い付いちゃったよぉ!」

「へぇ、早いな。どんなのにしたんだ?」


 僅かな心配を帯びた声音で訊ねたら、上目遣いで小さな口を開く。


「――ミラ。星の名前なんだけど、どうかなぁ?」


 これは驚きだ。まさかあやめがこんなにロマンチストだったとは。

 でも正直、悪くない。それどころか、いい名前だと思った。

 だから俺はしゃがみ、猫の頭を撫でながら言う。


「お前の名前はミラだってさ。素敵な名前を与えてもらってよかったな」


 すると――それに呼応するように、にゃあ、と可愛らしく鳴いた。



〇●◎●〇



 自宅から約二十分歩いたところに、俺が通っている学校がある。

 私立海聖学園《しりつ かいせいがくえん》。

 小中高一貫で、我が妹――あやめも初等部に通っている。しかし、授業の始まる時間と終わる時間が異なるため、登下校で一緒になったことはない。

 海みたいに広い心と、聖みたいに知識と技量の優れた者、そして快晴――つまり、心が暖かくなれるようにという三つの意味を込めた名前らしい。

 素晴らしいネーミングセンスに、惜しみない賛辞を。


 ところで、猫――ミラは家に置いてきた。

 俺とあやめは学校があるし、連れてくるわけにもいかないから一匹で留守番だ。

 本当は誰かに預けるべきなのかもしれないが、別に構わないだろう。

 昨日の一晩で、ミラは利口な猫だと知った。

 いたずらなんて一回もしなかった上に、かなり大人しかった。これなら、世話をするのに於いて大した手間にならずに済みそうだ。


「みんなー。突然だけど、今日から私たちのクラスに新しい副担任の人が来てくれるよ」


 と、担任教師――雛谷琴乃ひなだに ことの先生の言葉が、俺の思考を遮る。

 更に、間を置かずに教室の扉が開き、とある男性が入ってくる。


「――鳥山疾風とりやま はやてだ。今日から、このクラスの副担任になる。よろしく頼む」


 後頭部で一つに括った、漆黒の総髪。

 見た感じ二十代前半くらいで、なかなかの高身長だ。

 整った美貌の、俗に言うイケメン。女の子からは、凄くモテそうである。

 現に、周りの女子生徒は「きゃーっ」と興奮しながら叫んだり、声も出ないほど見とれたりしている。

 幼女だけは絶対にやらないからな、イケメン野郎め。

 なんて、心の中で一人で敵対心を燃やしてしまう。

 この副担任の存在が――俺たちの日常を大きく揺るがすことになろうとは。

 このときはまだ、知る由もなかった。



 昨日の雨が嘘みたいな炎天下の中、帰路につく。

 六月でも、さすがに暑くなってきた。晴れ渡った青空が恨めしい。

 ギネスに挑戦できるんじゃないかというくらい、発汗してしまっている。

 何で二日連続でびしょびしょにならなくちゃならないんだ。またシャワーを浴びないといけなくなってしまったじゃないか。

 一人で悪態をつきながら、家の中へ入る。

 あやめの靴がないところを見ると、どうやらまだ帰ってきていないようだ。

 その間にシャワーを浴びようと思って靴を脱ぎ、浴室の扉を開ける。誰かが入っていることなど、予想もできずに。


「……ッ!?」


 そして、絶句した。

 いたのだ。風呂場の中に人が。しかも、少女――もとい幼女が。全裸で、シャワーを浴びている。

 シャンプーがついた、身の丈ほどもある白銀の長髪。

 俺の身長より確実に五十センチは低いであろう、低身長。

 きめ細かな純白の肌、大きくてつぶらな双眸。

 そして何より人目を引くのは、頭頂の真っ白な猫耳と丸っこいお尻から生えた尻尾。

 そう。まるで、猫のような――。


「……って、何じろじろ見てるんですか!」


 と、幼女が頬を染め、小さな容姿に似つかわしく甲高い声音で叫ぶ。超可愛い。


「あ、ごめん。幼女の裸だから、つい見とれてた」

「そんなことを真顔で言わないでください! …………それと、あの、その……」


 怒声が発せられた直後、突然ある一点を見つめたまま真っ赤な顔になって俯く謎の天使。

 何だろうと思い、視線を下へ――と、そこではたと気づく。

 俺、裸じゃないか。ということは、この子にも全部見えているということで。


「…………」


 俺は恥ずかしさのあまり、無言でそっと扉を閉めた。



「すいません! ごめんなさい! 申し訳ありません!」

「わ、分かりましたから、顔を上げてください」


 リビングにて、俺は見知らぬ幼女に土下座をしていた。もちろん今は服を着ている。

 口では謝罪をしておきながら、さっきの光景が鮮明に思い出される。

 まさか、この世に本当の天使が存在していたとは。


「いやぁ、それにしても幼女の小さい胸は最高だな」

「…………やっぱり、一生頭を下げていてください。というか、死んでください」


 見かけによらず、淡々と辛辣な皮肉を言ってらっしゃる。

 そこで、さっきから気になっていたことを訊いてみる。


「なぁ、今更だけど、お前は誰なんだ? 何で俺ん家の風呂場でシャワーを?」

「……分かりませんか? ほら、猫耳ですよ。尻尾も!」


 童女は頬をむくれさせ、頭とお尻を指差す。


「あぁ、うん、可愛いな」

「そうじゃありません! むぅ……」


 あれ、何で褒めたのに不機嫌そうなんだろう。


「あっ! そ、そういえば、あの猫はどこに行ったんでしょうねっ?」


 言われて、思わず辺りを見回す。

 確かに、さっきからミラの姿が見えない。逃げたとは思えないけど、心配だな。

 そんな俺の様子を見て、幼女にますます不満の色が募っていく。


「あーっ、もう! わたしです! わたしがミラです!」

「…………え?」


 突然発せられた言葉が予想外すぎて、素っ頓狂な一文字しか声が出なかった。

 えーと。それは、つまり――。

 そこまで思案したところで、玄関から扉が開く音。おそらく、というか間違いなく、あやめが帰ってきたんだろう。


「兄貴ぃ、いる? ちょっと日直が長引いちゃっ……てぇ…………?」


 リビングに入ってきた途端、あやめの視線が俺の目の前にいる女の子に向けられ、怪訝な眼差しへと変わる。


「その子誰ぇ? 兄貴ぃ、誘拐は立派な犯罪だよぉ!」

「違ぇよ!」

「ほんとにぃ?」

「当たり前だろ! お兄ちゃんを信じて!」


 全く、他人の誤解ほど厄介なものはない。

 俺たちのやり取りを見ていた幼女が、突然口を挟む。


「あの、あやめさん。わたしは誘拐されたんじゃなくて、前からこの家にいました」


 さっきから、この子の言っている意味が理解できない。それはあやめも同じだったのか、可愛く首を傾げている。

 すると、幼女は補足してくれた。


「わたしは、精霊獣《せいれいじゅう》と呼ばれています。蓮さんたちにも分かりやすく言うと――擬人化、ですね。猫の」


 ああ。このときから、もう始まってたんだ。

 俺の。いや、俺たちの、非現実的で非日常な物語が。

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双眸の精霊獣 果実夢想 @fruits-fantasia

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