書林ラビリンス

たびー

第1話

 ガラスの自動ドアが開くと自然と口から挨拶がでてくる。

「こんにちは」

 すっかり板に付いた笑顔のままで、来館者を確かめるとそれは見知った顔だった。

「なんだ、ユリか」

 そう僕がいうと、ユリは笑って小さく胸のあたりで手を振った。ちょっと待ってて、とユリに目配せして僕は利用者のご婦人に、貸し出しの手続きを終えた本を渡した。

「返却は一ヶ月後です。一階入り口の返却ポストもご利用できますので……」

 県立図書館は、遠方からの利用者のために一般の図書館よりも貸出期間が長い。利用者さんに説明する僕をユリはにこにこして見て指さした。

 エプロンが、かわいい? 失礼な。ユリんとこだって、職員はみんなエプロン着用だろうが。

 え、課長とかは違う? ま、僕は課長じゃないからね。それにしても珍しいな、いいのか体は。産休まであと二ヶ月か。安定期だって言われてもな。もう雪だって降る時期だし、危ないじゃないか。義治くんは? ここで待ち合わせか。まあ、いいけど。ここ初めてだろ。案内は……。

「すみません、妹が来まして。ちょっと抜けても」

 ちょうどお客さんが少なくなった時間帯だ。ユリがベストのタイミングでお辞儀をすると、みな快く了解してくれた。

「あ、ありがとうございます」

 複合施設の中とはいえ、県立だからな。でかいぞ。

 このフロアは一般書だよ。郷土資料もおいてある。うん、新聞と雑誌とAV資料はうえの階。広いよなあ。配属されたときには驚いたよ。返却された本を戻すの、大変で参る。

 その割には、にやにやしてるって? そうかな、ユリもかなり頬がゆるんでるぞ。なにか借りてく?

 慌てるなよ、まだ時間はあるんだろ。ぐるっと回ったら、上に行こうか。

 郷土資料からいくか。ユリんとことは違うだろ。県関係全部だから見処が多いぞ。初版とか貴重なのは閉架にしまってあるけど。

 見たい? うーん、それはちょっと。こんど職場経由で申し込んでくれたらいいと思うよ。

「すみません」

 声をかけられて振り返ると、年輩の男性が小さなメモを片手に立っていた。

「狩りの本を探してるんだが」

「はい、狩というと狩猟されるのですか?」

 それなら分類は六か七類。

「いや、マタギとかそういったことが知りたくて」

 なら民俗学の三類だなとあたりをつける。

 ユリは、行ってきてと手で合図した。僕はいったん検索端末のところまでいって確認する。

 384。ビンゴ。三桁の分類番号を記憶する。

「どうぞ、こちらです」

 ユリを見ると、書架から本を取りだしていた。僕は男性を本の場所まで案内した。

 戻ってくると、ユリの姿が見えなくなっていた。焦って見渡すと、トイレの方から青白い顔で戻ってきた。

「ユリ!」

 大丈夫だから、とユリは僕を手で制した。

 まだつわりがあるのか。水持ってこようか。平気か、大丈夫か。

 おおげさって、でも何かあったら。

 ああ、ごめん慌てすぎたな。座るか。

 空いていたソファーにユリを座らせているあいだに、自販機でミネラルウォーターを買ってきて、ボトルを渡す。

 女の人は勇気があるな。命がけで子どもを産むんだから。僕だったら、きっと産む前に気絶する。

 詳しいって。そりゃ、読んだよ。出産関係の本。変、かな。だって伯父さんになるんだぞ。義治くんだってそうだろ。楽しみじゃないか。

 由美さん……お母さんが生きていたら、どんなに喜んだろうな。

 産後は向こうのお家のお世話になるのか。まあな確かに我が家は男手しかないし。でも父さんも実はとても楽しみにしてるんだ。孫抱かせてやってくれな。

 ユリは僕の目をまっすぐに見てうなずいた。

 ……うえに行くか?


 エスカレーターでうえの階に移動する。ユリを先に行かせて僕は後ろにたつ。

 子どもができてから、長かった髪をショートにした。背の低さを気にして高いヒールの靴ばかり履いていたのに、今は転ばないようにペタンコなかかと。

 由美さんに手を引かれて父さんと僕のところに来た小さなユリがもうすぐお母さんになる……。

 ユリは左手を手すりに、右手は目立つようになったお腹にそっとあてている。

 ユリが慎重にエスカレーターから降りるのを見守る。うえの階には天井までの開放的な大きな窓があって、すぐ隣のターミナル駅と線路が高い山を背景にしているのが見渡せる。

 ここの施設には子育てサークルもあるから、気軽に来ればいい。

 ああ、サークルに呼ばれて絵本の読み聞かせするんだよ、僕も。たまにだけど。

 そう僕が言うと、ユリはわずかに目を伏せた。

 伯父さんでよければ、するよ。読み聞かせ。義治くんにもお願いしたらいい。きっと引き受けてくれるよ。

 うん、とユリはうなずく。そしてから、ユリは窓の方を指さした。

 ユリは電車が好きだ。電車というか、体に伝わる振動が好きだと。

 子どもの頃、一緒に電車に乗ると、まるで電車の揺れを味わうように目を閉じてじっとしていた。

 晩秋の日は短く、駅のホームの明かりが白く見えた。館内にも、閉館三十分前のお知らせが流れる。

 そろそろ義治くんが来るだろう。

 窓に二人ならんでいる。

 ユリは嬉しそうに出入りする電車を見ている。

 さっきのお知らせに促されるように、帰り支度をしてエスカレーターを降りていく人影がガラスに映る。

「ユリ」

 僕は前を向いたまま、そっとささやく。

「好きだよ、このさき僕が結婚しても。いちばん大切なのは……」

 ユリはゆっくりと顔をあげて僕をみあげる。初めて見た時と同じ瞳だ。なんでも見通してしまいそうな。

『お兄ちゃん、きれいだね』

 線路沿いの青い灯りを指さしてユリは僕に手話で教えた。

 うん。そろそろ時間だから下りようか。

 僕もいつもどおりに手話で答える。

 そして僕らはエスカレーターに向かう。エレベーターのステップのように等間隔。きょうだいの距離も変わらない。


 下に戻ると、ソファーにコート姿のビジネスマンがいた。僕らを見つけると立ち上がって挨拶した。

「お義兄さん、こんばんは。お仕事中にすみません」

 義治くんはいつも礼儀正しい。

「ぜんぜん。あ、さっき少し具合悪くしたから、気をつけてやって」

 義治くんはユリに大丈夫か聞いた。ユリに一目惚れして手話は猛特訓で習得したという。いまでは僕とひけを取らない。

 ユリも手話で返事をする。もう平気だと。

「それじゃあ、お義兄さん。また家にも遊びに来てください」

「ありがとう、気をつけて帰って」

 義治くんはユリの手を取る。ユリは胸のあたりで手を振る。

 僕は、またねと合図する。僕の声はユリに届かない。遠ざかり、自動ドアの向こうに消えていく二人。

 まるで映画のひとこまだ。

 映画、778。

 物語……現代日本文学なら913.6。

 結婚・婚姻、冠婚葬祭385.4、民法の婚姻324.62。

 気持ちの問題、心理学は140。

 僕の想いはどこにも分類不能だ。

 声は永遠に届かない。

 ……届かなくてもいい。

 僕はずっとユリの『お兄ちゃん』だから。



 終わり

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書林ラビリンス たびー @tabinyan0701

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