エピローグ
ウクライナ・マフィアの大捕物があった3日後、ラザレフの葬儀が執り行われることになった。それまで、ラザレフの遺体は法医学検査所に保管されていた。
リュトヴィッツはスレイドニイ・オクチンスキー7号棟にあるスヴェトラーノフの自宅まで行き、喪服用の黒いネクタイを借りた。身重のマリアが2人の刑事を玄関まで送り出した。
「俺は階段を降りた方がよさそうだ」リュトヴィッツは言った。
「じゃ、そうしろよ。サーシャ」
リュトヴィッツがようやく1階にたどり着くと、スヴェトラーノフが待っていた。
「なんで、そんなに遅かった?」
「途中で休憩したんだ」
「タバコをやめろよ」
「やめる。もうやめた」
リュトヴィッツはタバコの箱を出して、中身を15本残したまま、願いごとをしながら硬貨をトレヴィの泉に放り込むように、ゴミ入れに投げ込んだ。少し愉快で、悲壮な気分だった。何か芝居がかったこと、オペラ的な愚行をしそうだった。躁病的というのが適切な形容詞だろう。
「でも、休憩したのはそのせいじゃない」
「最近、寝てないんだろ。それに、酒の量も増えてる。違うというならそう言ってみろ。マッチョぶって歩き回りやがって。ひどい生活を送ってるんだろ」
「ひどいのは、心の傷だけだよ」リュトヴィッツは答えた。「とにかく2回ほど立ち止まらずにはいられなかった。考えるために。いや、考えないためにかな」
スヴェトラーノフはふんと鼻を鳴らして、リュトヴィッツを助手席に乗せ、ジグリを出した。
参列者にはラザレフの両親の他に、刑事部長のコンドラシンを筆頭に、大屋敷のほとんどの警察官が制服姿で来ていた。ラザレフは最大限の敬意をもって葬られた。OMONの狙撃手隊が、墓の周りで弔砲を放った。両親には、市議会から2000ルーブルの小切手が送られた。給料のたった4か月分に過ぎない金額だった。
葬儀の後、何人かがギレリスの家に集まり、酒を飲んだ。あまり盛り上がらなかった。はじめにスヴェトラーノフがグラスを掲げて「健康のために」と言うと、ギレリスが絡むような眼つきで「酒を飲むのか?故人をしのぶのか?」と応じた。
そこで、ギレリスの妻が料理を出してくれた。キャベツのスープに続いて、チーズを絡めてたっぷりの油で揚げたマッシュルームとポテトが供され、最後にアイスクリームが出て来た。味はどれも美味しく、ほんの少しだが場が和んだ。
リュトヴィッツはギレリスとチェス盤を囲み、ヴァレリー・サカシュヴィリが部屋に残したプロブレムを解説してみせた。2人とも手元には、ギレリス自家製のウィスキーが入ったグラス。聞けば、風紀犯罪課の刑事と共有している市民菜園で採れた野菜から作ったものだという。
「君にすぐ知らせた方がいいと思ってね」ギレリスが低いしゃがれ声で言う。「フェデュニンスキーが死んだよ」
リュトヴィッツは口の中で、ビートの根から作ったウィスキーが苦味を増すのを感じた。頭をすっきりさせようとして、深呼吸する。肺に、空気を満たした。
「風邪をひいてただけだったのに」
「コルサコフの話によると、強い酢を飲んだらしい。どこに隠していたものやら」
「取調はどうだったんですか?」
リュトヴィッツはヴィシネフスキー事件の後処理にかかりっきりで、ヴァレリー・サカシュヴィリ殺害事件は別の刑事に取調を担当させていた。
「何も喋らなかったそうだ」ギレリスはグラスに口をつけた。「それと・・・君の勝ちだ。カテリーナにあんなことを言う必要は無かった。許しがたい行為だった」
「勝ち負けもないです。お互い間違ってたのかもしれません」
ギレリスはうなづいて、その場を離れた。
この何日か、リュトヴィッツはヴァレリー・サカシュヴィリと出会うチャンスをつかみ損ねたのだと考えてきた。せっかく同じホテルにいたというのに。セミョーノフはヴァレリーが救世主だと言っていた。どういう人物かついぞ知らず、救済される機会を棒に振ってしまったのだと思った。だが、救世主など初めからいなかったのだ。
しかし、今回の一連の事件で命を落としたヴァレリー、カテリーナ、ヴィシネフスキー、ラザレフ、フェデュニンスキーには天上で神の祝福があらんことを、リュトヴィッツは普段めったに祈らぬ相手に向かって呟いてみせた。
スヴェトラーノフがニヤニヤ笑いながら、近づいてきた。
「お前がセンチメンタルな人だとは思わなかったな、サーシャ」
「何のことだ?」
「だって、お前」低い声でささやく。「泣いてるじゃないか」
闇に向かって撃て 伊藤 薫 @tayki
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