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 リュトヴィッツは大屋敷にフェデュニンスキーを拘留すると、グリボイェードフ運河沿いのアパートまでジグリを走らせた。アパートの前は、民警のパトカーや鑑識のヴァン、マスコミの車両でごった返していた。

 ジグリを停め、4階にあるヴィシネフスキーの部屋まで駆け上がると、鑑識が布を被せられたカテリーナの遺体を担架で運び出していた。リュトヴィッツは鑑識にひと言断ってから、十字を切り、カテリーナの亡骸を見た。生前と変わらぬ美しさで、寝ているようにしか見えなかった。部屋のドアの傍に立っていたペトロヴァが言った。

「睡眠薬です。ひと瓶を全部飲んで」

 ギレリスは窓の外に眼をやっていた。運河の向こうの教会を見つめているようだった。

リュトヴィッツが狭い部屋に入って来たことに気づいて振り向くと、ギレリスは自然とカテリーナに告げた話の内容を口にし始めた。

 早朝、リュトヴィッツがカテリーナをアパートに送った後、カテリーナはギレリスから電話を受けたらしい。ギレリスは「ドミトリ・ミハイロヴィチについて、まだ話してないことがあります」と言って、レルモントフスキ大通りのユダヤ教会で待っていると告げた。

 カテリーナが墓地に着いた時、ギレリスが一輪のカーネーションをヴィシネフスキーの棺を覆うむきだしの土に供えていた。カテリーナに気付かれるよりも早く、ギレリスは足元の紙袋からファイルを取り出し、通路の上に投げ出した。

 カテリーナはすぐに、そのファイルの内容を悟った。革表紙に押された剣と楯の印章はKGBのものだった。触れば火が噴いてしまうという風情で、カテリーナはひたすらじっとファイルを見つめた。

「あなたが自分の手で始末したいんじゃないかと思ったんです」ギレリスが言った。「ドミトリ・ミハイロヴィチが死んでしまった以上、彼らはもう、あなたを必要とせんでしょうから」

「彼ら?」カテリーナが声をとがらせる。

「そう、私じゃない。私は何の関わりもありません」

 首を振りながら言って、ギレリスはタバコに火を付けた。カテリーナがしぶしぶファイルを拾い上げるのを見つめた。

「あなたがなぜ、我々に対してあれほど頑なにふるまうのか、理解できませんでした。ご主人を殺した犯人を捕まえようとしてるのに、あなたは何も話してくれないんですから。だが、もちろんこのファイルを見たら、疑問がたちまち氷解しました。恥は人を寡黙にするというわけですな」

「彼らがこれをあなたに与えたというの?」カテリーナの声が怒気をはらむ。「これだけのものをそっくり?よくもそんなことが・・・」

「私も全く同じことを思いました。よく出来たものだ。自分の友人たちを、自分の夫をスパイするようなマネが」

「今、それを言うのは簡単だわ。過去を語る時には、多くの人が勇敢になれる。だけど、KGBに逆らうのは、それほど簡単なことじゃなかったのよ」きらっと眼が光った。「私はずっと彼らへの恐怖を抱えて生きてきた。その恐怖を最初に植えつけたのは、父を自殺に追いやったあの人たちだった」

「説得力のある話だが、なぜ彼らのために働くようになったのかの説明としては、不十分です」

「ファイルを読んだんでしょ?」

「ええ。しかし、それには1980年から、つまりあなたがまだ学生の頃から、情報を提供してきたと書かれている。ずいぶん長い間です」

「私の父、エミール・リヒテルの葬儀の時です。彼らは母が私の指導教員でもある反体制活動家と不倫してる証拠をつかんでると言ってきました。いくら不倫でも、自分の母親を収容所送りにできますか?」カテリーナは首を振った。「私と同じ選択をした人も少なくなかったはずよ。ご存じでしょう?」

 ハンドバックを開いて、タバコの箱を取り出す。1本に火を付けて、あまりおいしくも無さそうに吸った。

「大学を出た後、しばらくは彼らからの連絡も途絶えてました。役に立たなかったからでしょう。私は他人が何を言ったか、いちいち覚えてるような人間じゃありません。ところが、ミーチャと結婚した後、彼らはまた接触してきました。ミーチャがユダヤ人だからという理由で、仕事を取り上げることが出来ると言うんです。分かるでしょう?そんなこと、ミーチャに耐えられるわけがないわ。仕事はあの人の命でした。私が求められたのは、ほんのちっぽけな重要じゃない情報だった。ミーチャの知り合いの外国人ジャーナリストたちが、何を言ったか、誰に会ったか・・・でも、しばらく経つと、ミーチャは何か感づいたらしくて、口には出さなかったけれど、私を疑い始めたようでした」

「だから、仕事の話をしなくなったわけですな?あなたに心配かけたくなかったからではなくて、あなたが信頼していいのかどうか分からなくなったから」

「そうね。私はある意味で、あなた方に真実を語っていたのよ。本当に、何も知らなかったですもの」

「で、それ以後、どうなりました?」

「外に出かける時も、ミーチャはどこへ行くのか、誰に会うのかを私に言わなくなりました。アパートに誰かを連れてくることも無かった。彼らにとって、私はあまり利用価値のない存在になったわけです。そこで、彼らはミーチャ本人に狙いをつけました。イギリスのあるジャーナリスト、諜報機関とつながりがあると思しい人物をスパイしてほしいと言ってきたんです。ミーチャはきっぱりと断りました。彼らはありとあらゆる手で脅しをかけてきました。ええ、もちろんミーチャは怯えてたわ。でも、あの人は私より強い心の持ち主でした」

「強かったんじゃない。善良だっただけでしょう」

「なぜ、あなたにこんな弁解をしてるのか分からないわ。あのKGBの人でなし連中と比べて、あなたがほんの少しでも善良だというの?あなたの手はそんなにきれいなの、ギレリス大佐?」

「私は今でも友人たちの眼をまっすぐに見ることができます」

「じゃあ、あなたは運が良かったのね」

 青磁の色をしたカテリーナの眼に、涙があふれる。

「冷たい、鬼のような人」

 ギレリスはニヤりとした。

「密告者であると同時に、読心術の達人。あなたの才能には、限りが無いようですな」

 ギレリスが独白を終えると、リュトヴィッツは相手を愛情と蔑みのこもった眼でじっと見つめていた。ギレリスは苛々しながら、身体を揺らした。

「で、どうする気だ?」

「どうする気だとはどういう意味です?」リュトヴィッツは答えた。

「よく分からないが、君はなんだかピリピリしてる。何かやりそうな感じだ」

「何をです?」

「だから、それを訊いてる」

「別に何もしません」リュトヴィッツは言った。「何が出来るって言うんですか」

 その日の朝刊に、自殺が政治の武器になってきたと題する記事が載っていた。また、女性は男性に比べて、自ら命を絶つ率が低いとも書かれていた。長く続いた熱波が収まった頃、リュトヴィッツはこの記事をカテリーナに教えてやるべきだったと後悔した。

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