ポチ
機島わう
ポチ
十年間一緒に暮らしたポチが死んだ朝、僕の心の一部も一緒に死んだようだったから、生きている意味ねーなと思った十五歳の夏、亡骸に触れるとまだ柔らかく、しかし毛並みはいつもよりこわばっているようで、それが哀しかったから、蜜柑のダンボール箱にそっと下ろし、セミの鳴き声がまるで念仏のように聞こえた。
「かわいそうね」と言う母親は犬の死体に触ろうともせず、それが僕にはどうしても信じられないのだが、僕が動かなくなったポチに触れたがるのはもしかして寂しいからではなく単純に死というものを理解しようとして、好奇心で死体に触れているのではないかと思ってすこしばかり自己嫌悪する。
ダンボール箱を抱えて普段なら絶対に行かないであろう山へ向かう道を歩いている途中で蘇ってくるポチとの思い出の数々に胸が苦しくなって吐きそうになる。寂しさや思い出がこれほど肉体的に自分を痛めつけることになるとは思ってもみなかった。
僕が小学生の頃、ポチは僕の靴をくわえてどこかへ歩いていってしまって、日が暮れても探し回ったっけ。いつまで経ってもみつからず、僕はポチが家出したのではないかと思って酷く傷ついた。泣きながら家に帰ると、ポチは自分の小屋でなんだか困った顔をして僕を待っていた。どこに行ってたんだよおまえは、と怒りながら僕は嬉しくて嬉しくてやっぱり涙が出て、ポチを撫で回し、抱きついた。ポチは犬の匂いがした。
「ところで僕の靴は?」聞くと、ポチは、やはり困った顔をして僕を見ていた。
今、ポチはダンボール箱の中で死んでいる。
もう思い出の中でしか動かない。
僕が中学生になったばかりの頃、新しいクラスに馴染めずうつむいて過ごしていたある日、ポチを散歩に連れて行ったらクラスメイトに遭遇して思わず知らん顔しかけた僕にクラスメイトは話しかけてきてくれた。
「それお前んとこの犬?」それがきっかけで僕には友達が出来た。話す相手ができた。ポチのおかげだった。
でもポチは死んだ。
ポチはもう何もしてくれない。
ポチにはもう、何もしてやれない。
僕は「生きてる意味ねーな」と思った。
山道に入るといっそうセミの声が大きく聞こえ、木漏れ日がまるで踊るように陽の光を砂利道に描く。お別れの時が近づいてきて僕は今、悲しみを過ぎて空白だった。頭が考えることを拒否していた。
山道を外れ、森に入って行き、一番大きくて目立つ木の根本に棺桶を下ろし、リュックに入れてきたシャベルで汗を流しながら少しずつ墓穴を掘っているとなんだか絶望感がいや増し、何か得体の知れない犯罪を犯しているような気分になって、叫び出したくなるのを必死にため息でごまかしてポチの名前を呟きながら土を掘削する、根をぶつ切りにする、シャベルを突き刺す抉り出す、僕の中に湧いた死に対する深い憎悪のようなものが心臓を握りつぶす。
十分な大きさの穴ができたところで僕は死体を穴に下ろす。そして僕も穴に入ろうとする。
「ちょっと君待ちなさい」
と背後から声が聞こえ、驚きのあまり飛び上がって振り返るとそこには僕と同い年くらいの少女が立っていた。
山の中なのにキャミソールを着ていた。やたら短いスカートをはいていた。ポニーテールだった。小さなバックパックを背負っていた。町の中にいるかのような格好だった。
声もなく目をみはる僕に彼女は柔らかく笑って言う。
「何をしているのか聞いてもいい?」
僕はためらい、うつむき、穴の中のポチを見下ろし、彼女に振り返り、
「見ての通りだよ」
「それはあなたの犬?」
「誰の犬でもない。ポチはポチだ」
「死んだのね」
「死んだんだよ」
僕はなんで見ず知らずの少女に話しかけているのかわからなくなる。
「今、あなたも穴に入ろうとしたように見えたんだけれど、気のせい?」
「いや合ってる。僕は穴に入ろうとした」
「あなたって、犬が死ぬたびに自分も墓穴に入る人?」
「そんな奴がいるかよ」
僕は怒りのあまりシャベルで彼女を突き刺したくなるのだが、彼女の表情は真剣だった。バカにされているわけではなく、本気で彼女は僕に話しかけているのだとわかった。
「じゃあどうして穴に入ろうと思ったの?」
「さあ……自分でもよくわからない。ポチの気分を知りたかったのかもしれない。穴に入れられるのがどんな気分なのか、僕は知らないからな」
「それって死のうと思ってたということ?」
「……そうかもしれない。けど、だからなんだって言うんだよ」
「力になれるかもしれないと思ってさ」彼女は胸を張って言った。「私ってネクロマンサーなんだ」
「は?」
「ネクロマンサー。私の生命エネルギーを使って死者を蘇らせるの」
僕は彼女の正気を疑った。頭がおかしいのかもしれない。
「そんなことできるわけないだろ」
「できるよ」
「じゃあやってみろよ!」僕が怒声をぶつけると、彼女は哀しそうに笑ってみせた。
「私はいいけど、その子に生き返る気があるかどうか、それが問題なの」
彼女はポチを見ていた。
「ポチは死んだんだ。気持ちなんてない。何も考えない」
「でも霊魂はまだそこにある。死んだばかりの生き物の近くを漂っているんだよ」
「もうどっか行けよ」
僕は疲れてその場に座り込む。死んだポチのことを考えるのも、頭がおかしな少女のことを考えるのもうんざりだ。
「あー聞こえてきた。ポチ君と君って仲良かったんだね」彼女は目を閉じて耳をすませている。
「ポチの声が聞こえるとでも言うのかよ」
「そうだよ。ネクロマンサーだから。君、何度もポチ君に助けられてるねー」
「そうだよ……ポチは大事な友達だったんだ」
「ポチ君も君が大好きだって言ってるよー」
「もうやめろよ。帰れ」
「ポチ君は君が最後まで一緒にいてくれて嬉しいって言ってるよ。良い人生だったって……あ、犬だから犬生かな。最高だったって。君が一緒でマジで嬉しいって言ってる。ほんとに、ほんとだよ」
彼女の額に汗がにじんでいた。
僕は涙をこらえた。
やっぱりバカにされているのかもしれない。この女は狂っていて、人の気持ちなんてこれっぽっちもわからないのかもしれない。
「だから、生き返らせないほうがいいよ。ポチ君はもうすっごい満足してるから、もういいんだよ。それより君が心配だって言ってる。君が哀しそうだから心配だって」
「……じゃあポチに言っておいてよ。僕は別に大丈夫だって」
「言うね」
彼女はリュックを下ろし、その場で大きく息を吸い込んだ。
そしてのけぞって、
「この子は大丈夫だよおおおおおおおおお!!」
驚いた鳥が一斉に飛び立った。
セミは相変わらず念仏を唱えていた。
彼女の絶叫のあとでは、なんだか濃密な生き物の気配も姿を消して、山の中にいることが妙に白々しく感じられた。
僕はそこでようやく気がついた。
この少女が何をしようとしていたのか。
彼女はネクロマンサーだ。自分で言ったからそうなんだろう。
彼女は死んだものを生き返らせるのだ。
でも物理的に死んだ生き物はさすがに無理なので、きっと彼女が生き返らせようとしたのは、僕の死んだ心に違いない。
「……ありがとう。でもほんとは、ポチの声なんか聞こえないんだろ」
彼女は胸を張って言う。
「聞こえるよ。誰も信じないけど、私には聞こえるの」
僕は無言でうなずいて、シャベルでポチに土をかけた。ひたすら土をかけて大事な友達の死体を埋める。
彼女は僕の姿を、たぶんずっと見ている。振り返らなかったからわからないけど、視線を感じた気がした。
日が暮れ始めた頃、僕はやっと穴を埋めることができる。シャベルを大木に突き刺して「ポチ」と刻んだ。なんだか呪いみたいになった。けど僕はそうしたかった。ポチの名前をひっそりとでも残しておきたかった。僕だけはそれを覚えていたかった。
僕が振り返ると、彼女はやはりそこにいる。
「帰るの?」彼女は言う。
「帰るよ」僕は言う。
「うん、そうしなよ。元気でね」
「ネクロマンサーさんはどうすんだよ」
「私はまだちょっと用事があるんだ」
彼女は例の寂しげな笑顔を見せてから、
「今日のこと、ちゃんと覚えててあげてね」
僕はこの正体不明の女に、少しだけ感謝して、微笑んだ。
それからオレンジ色の山道を歩きながら、ポチのことを考え、心で別れを告げ、あの奇妙な少女のことを考え、心でありがとうと告げ、不意に妙な胸騒ぎにとらわれる。
彼女の山には不釣り合いな格好を思い出す。
バックパックの中には何が入っているのだろうか。
彼女は一体山に何をしに来た。
『私の生命エネルギーを使って死者を蘇らせるの』
『今日のこと、ちゃんと覚えててあげてね』
僕は走って戻る。
あの場所にいるとは限らない。
だが他に行く宛もなくポチの墓の前まで戻る。
誰もいない。静寂。額を流れる汗には冷や汗も含まれているような気がした。
僕は「おーい」と叫びながら山の中を走り回る。
根につまづいて転ぶ。迷ってしまいそうになる。立ち上がる。息を切らせて走る。
森の奥に人影が見える。すっかり暗くなった山の中で、僕は彼女に向かって叫ぶ。
「お前がネクロマンサーなら僕はゾンビだああ!」
人影が立ち止まる。
僕が走っていくと彼女は逃げる。
そして根につまづいてこける。
僕は倒れた彼女を仰向けにして、そのなんとなく透明な青白い顔色を見ながら、
「僕はゾンビだから!」と言って彼女の腕を思い切り噛んだ。彼女は「いってえ!」と叫びながら僕を押し退けて、それから僕を恐怖に満ちた目で見つめる。
「噛まれたから、お前噛まれたからもうお前もゾンビだから死なないから!」言うと、彼女の目に涙が溜まりそれからはっきりとした口調で、
「馬鹿みたい」と言う。
「僕もそう思う」と僕も言う。
それから僕は彼女を起こし、引っ張る。暗く足下が悪い中を必死に歩く。なんとか山道までたどり着いて僕は言う。
「君の理由を教えてよ」
つないだ手に一瞬だけ力が入り、すぐに緩む。
「理由なんてありすぎてわかんない。ただ辛いんんだよもう、何もかもどうでもよくなっちゃった」
「じゃあなんで僕を助けようと思ったんだよ」
「最後に、誰かのために、何かしてみたかっただけ。気まぐれ」
「じゃあ僕も気まぐれで君を助ける」
僕たちは無言で山を下りる。
街灯の青白い光がやたらと鮮明に見え、安心するのを感じた。
僕は手をそっと手を離す。彼女はうつむいていてどんな表情をしているのかわからない。何を言えばいいのかもわからない。ただ僕の中に生まれた死を憎むような感情が消えたわけではなくて、だからこそ僕は怒りと悲しみと同情と、なんかよくわからない感情のままに、
「ゾンビ仲間だから、困ったことがあったらなんでも言ってよ。僕にできることがあったら、やるから」と言う。
名前も知らない元ネクロマンサーは街灯の下で、泥に汚れた白い肌を晒しながら、
「ありがとう」と言う。「帰る」
その後ろ姿を見送りながら、僕はまだ足りないことに気がついて、だからポチの霊魂の声まで聞こえてきて、そうかこれがネクロマンサーの力か! と思って彼女の後を追いかけて走る。
僕はポチの力を信じる。
そうだ、ネクロマンサーやゾンビより強い力。
しょんぼり歩いている彼女を後ろからどついて転ばし、僕は唖然とする彼女の靴を奪う。
「僕がポチだ」
それから僕は彼女につきまとうことになる。
毎日毎日一緒だ。仲がいい時も、悪い時も。
一緒にいるということだけはやめない。
最後の時を迎えても、僕が彼女のポチであり、彼女が僕のポチである限り、たぶん僕たちは死なない。
ポチ 機島わう @kijima
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