クレイムクレイズ

@sakagami32

第1話

喉が渇いた。

灼熱の砂漠で迷子になったわけでもなく、熱中症になりそうな気温、ましてや体育の時間でもない。

断食をしているわけでもなく、朝から牛乳、緑茶、スポーツウォーター、アミノ酸飲料、さっきの昼食にいちご牛乳、コーヒー(微糖)を飲んだのに、まだ喉が渇いていた。

次第にイライラも募ってくる。ペンを持つ右手が忙しなく無駄に動き始めた。左足は貧乏揺すりまで始める。これではまるで禁断症状だ。

あと5分、3分、早く!!早く!!早く終わってくれぇぇぇぇ!!!

5限目終了のチャイムが鳴り響いた。

「こらっ!!佳月!!」

叱咤する担任の声を背中に聞きながら、佳月龍太郎は渡り廊下の入り口にある自販機を目指す。

授業終了直後ということもあり、廊下には他の生徒の姿は見えない。何度か教室から出てきた教師とぶつかりそうになりながらも、龍太郎の足は午後のまったりした空気漂う中庭を抜けた。

染められてもいない艶やかな黒髪が陽光を反射して勢いよく揺れ流れる。

この渇きは、コイツでしかおさめることはできない!!炭酸よ、オレを助けてくれ!!

「あ……あれ?あれ!!」

タカラモノを目の前にして、龍太郎は制服の至る所を叩いている。

「無い!!無い!!金が無い!!」

ポケットにいくらか入ってたと思ったのになぁ~。落としてきた…わけないよなぁ。

駆けてきた道を振り返り、地面にキスするほど頭を近づけていると、「龍太郎」と声をかけられた。

「田中怒ってたぞー。お前次集中攻撃されるぜ?何急いでたんだよ」

ゆっくりと近づいてくる紀藤夏韻の両腕を勢いよく掴む。

「夏韻!!いい所に!!100円貸してくれ」

「はぁ?ジュースの為に急いでたのか?」

ついでに20円も貸してもらって、バナナスカッシュを一気に飲み干した。

「う、うう~~~」

「馬鹿じゃね?炭酸一気飲みする馬鹿初めて見たぜ」

涙目で悶える龍太郎を夏韻は暖かく見守った。あくまで見守るだけだ。

龍太郎を見るたびに、男たるもの小さき者を護らなくては……という使命感が湧いてくる。

龍太郎程「カワイイ男の子」という言葉にピッタリな奴はいない!と断言する夏韻であった。

実際に口にした事は無い。カワイイと言われる事を極端に嫌悪している龍太郎を知っているからだ。誰だって自分のコンプレックスを刺激されたくはないだろう。

密かに龍太郎が007に憧れていることを知っている。

人間は自分にはないものに魅かれてしまう生き物だ。

咽る龍太郎の、大きくて円らな黒瞳が涙で潤んでいるのを、ガキか!?と密かにツッこむ。

そんな親友の視線には気づく事なく、龍太郎は呟いた。

「最近異常に喉が渇くんだ。水太りしたらヤベーよな~」

どちらかといえば華奢な部類に入る龍太郎が下っ腹を叩く。

「昼飯の時もあんなに飲んでたのにな。成長期じゃね?」

「水分で身長伸びるのか?そんなの聞いた事ねぇぞ」

龍太郎は頭一個分上にある夏韻の顔を睨む。

幼稚園からの親友である紀藤夏韻は小学校までは身長もさほど変わらなかった。中学生になってから、夏韻はどんどん龍太郎を見下ろすようになったのである。

チクショウ!!あいつに負けてたまるか!!

スポーツ、8時間睡眠と何種類かのサプリメント、乳製品、身長によさそうな物は積極的に試したが、160cmをわずかに超えた今、その効果はまだ発揮されていない。

いつか出るであろう効果を信じて、毎晩寝る前に「長身長身」と念じるのを忘れはしなかった。

「今日寄る?」

「あ~無理。バイトバイト」

9時にバイトを終えて、龍太郎は自転車で薄暗い夜道を走っていた。

片手にハンドル、片手にバイト先のカフェで貰ったLサイズのコーヒーを握っている。

家まで後10分。今夜はどーしても観たいドラマがある!!予約は万全だが、途中からでもどうしても観たい!!

ペダルを踏む足に力がこもっている……はずなのに、急に前に進まなくなった。

「??お??おぉ?」

前傾姿勢を取るが、全く前に進まない。

「何だよ~」

自転車に乗ったまま振り返ると、小学1、2年生と思われる子供が後輪を片手で掴んでいた。

その握力に驚きだが、何よりもその容貌に龍太郎は驚愕する。

肩まで延ばされた巻き毛は黄金色で月の光に煌き、顔の半分は占めると思われる大きな瞳は翠色に瞬いている。青白い街灯のせいか、肌は蒼白に見える。無表情で龍太郎を見上げていた。

ここは……日本だよな。と思わず周りを見回し確かめた。

うん。看板日本語だ。

可愛いよりも美しいと絶賛されそうな子供は口を開く気はないらしく、二人は暫く無言で向き合う。

「あのさぁ、手、離せよ。つーか子供が夜出歩くんじゃねーよ。宿題でもして寝ろ」

睨み合いに飽きた龍太郎の言葉に、子供は素直に手を離す。

「うわっっ!!危ねぇな!!急に離すなよ!!」

自転車のバランスを何とか取りながら龍太郎は長居は無用とばかりに急いで発車させた。

気味悪いガキ……何かコエーなぁ。

走り出した龍太郎の背中に、エメラルドを思わせる瞳から品質査定でもするかのような厳しい視線がずっと注がれていた。

子供の悪戯?のせいで家についてもイライラが収まらなかった竜太郎は取り敢えず風呂に入ることにした。

フロ上がってからメシ食う。と珍しく家に居た父親に声をかけ、脱衣所で制服を脱ぐ。

不意に視線を感じた。纏わりつくしつこさを感じさせる視線だ。

脱衣所には自分しか居ない。勿論風呂場には誰もいない。

まさか、父さんが覗いてないよな…

ドア越しに父親と弟の笑い声が響いている。

気のせいだと、湯船に浸かって一息つくと、翠色の瞳が思い浮かんだ。

変なガキだったなぁ……

その夜も相変わらず喉の渇きはおさまらなかった。

朝目覚めたら、龍太郎は昨夜の出来事などサッパリ忘れていた。

水分まみれの一日を終え、バイトも終えて、帰路についていた。今夜は満月だったが雲が翳り暗い夜道だった。不意に昨日の子供の悪戯を思い出した。

まさか、今日も会う事ないだろうな……

あいつ女の子だったのか?笑えば可愛いんだろうけど、愛想なかったよな。もう二度と会う事もないだろう。

「!!!!」

またしても自転車が動かなくなった。

デジャヴを感じて龍太郎が「またお前かよ」と振り向くと、キレーなお姉さんが立っていた。

女は両腕を組んで、値踏みするように龍太郎の足元から頭へ視線を移動させている。

お?何で動かないんだ??

どんなに力を込めてペダルを踏み込んでも全く進まない。

仕方ないので龍太郎は自転車から降りて押す事にした。が、やはり動かない。

キレーなお姉さんが近付いてくる気配がして、龍太郎は再び振り返った。

「ハ、ハロー……」

黒髪に青い瞳がアンバランスな印象を与えている為、日本人じゃない、と判断した龍太郎は咄嗟に出てきた挨拶語を棒読みで口に出した。

女は龍太郎の両肩に掴み掛かる。

「わぁ!!ちょっ!!!何??!!」

物凄い力で女は龍太郎の首筋に噛み付こうとしてきた。大きく開けた口の中に、鋭い犬歯がみえた。

女の目は血走り、口は両頬へ向かって大きく裂け歯茎が剥き出しになっている。綺麗な顔だった分異常な凄みが増している。

「あああああ――――!!!ちくしょっ!!何だ!!!」

必死に女の顔を遠ざけようとするが、力での太刀打ちは不可能だ。

踏ん張っている両足はガクガクと震え始めている。顔が熱く、変な汗が滲み出てきた。

どーして?!どーしてオレがこんな目に??

今日のバイトまでの出来事が走馬灯の様に龍太郎の脳裏を駆け巡った。

やけに女の牙がゆっくりと近付いてくる。

死ぬのかも……死ぬ瞬間って時間がスローモーションになるっていうもんな……明日の新聞に載っちゃうのか?こんな変質者の、しかも女に襲われるなんてオレの人生…何だったんだろう。来週ライヴ行くのに……スゲー楽しみにしてたのに。――――!!!

目の端に金色のものが映り込んできた。それはゆっくりと小さい子供の形になってゆく。

龍太郎の口は「あ」の形に開く。

小さい子供は龍太郎のすぐ脇にいつのまにか立っていて、冷ややかな目で観戦していた。

その隣には、人形のような服装と顔をした少女が立っている。傍から見ると美しい姉弟のようだ。もちろん、そんな事を考える余裕は龍太郎にない。

二人は悠長に会話を始めた。

「やはり見当違いだったのではありませんの?」

「しかし、この男からは間違いなく…………感じる」

う~ん。と考え込む子供と少女に目の前のお姉さんが気をそらした隙に、龍太郎は精一杯文句を叫んだ。まさに魂の叫びである。

「おい!!!!考える前に助けてくれよ!!」

「ですってよ。どうします?シュヴァイツウィンド様」

「…こんな雑魚に……僕に手間をかけさせるとは」

シュヴァイツウィンドと呼ばれた金髪の子供が、龍太郎の肩を掴んでいる女の腕を掴んだ瞬間、細い女の身体は燃え上がった。

「うぁあああぁぁぁぁぁああ」

「ぎぃやぁぁあぁぁあああぁぁぁ」

女の悲鳴と炎の熱が龍太郎を襲う。

「熱っ!!!!あちっ!!あちっ!!!」

一瞬燃え上がった炎はすぐにおさまった。焦げた臭いと風に乗って散らばる女の残骸が龍太郎の周りに漂う。

「う、うぇっ」

背中を丸めて咳き込む龍太郎の前に

「お迎えに上がりました」

恭しくシュヴァイツウィンドは跪いた。額づく勢いだ。それに習って少女も頭を垂れ従順な姿勢で礼をとる。

「な、何?!何何何?!」

涙目でうろたえる龍太郎に酷く冷静な声がかけられる。

「貴方は飲み込みが悪そうですから、言葉で説明するよりも、実際見て頂いた方がいいでしょう」

シュヴァイツウィンドは龍太郎の手首を掴み、飛び上がった。

「ぎ、ぎゃぁぁぁああああぁぁぁぁあああ!!!!!!!!!!」

本日二度目の魂の叫びである。

勢いを保って上昇する龍太郎に勿論、景色を楽しむ余裕はなかった。一通り絶叫し、喉が痛くなった頃、地に足が着きその場に崩れ落ちた。

か、風が身体に突き刺さる~!!こ、コエー!!空飛ぶのがこんなに怖いとは思わなかった!!!オレは一生スカイダイビングはやらねーぞぉ!!

踊り続ける心臓の鼓動を大音量で聞きながら、龍太郎は視界の片隅に小さい足を認めた。

美しい外国の子供が平然とした顔で自分を観察していた。その斜め後ろに美しい少女。

月の光でぼんやりと全ての輪郭が浮かぶなか、2人の顔は自らが発光するかの様に輝いていた。

コイツ等がいたら夜懐中電灯要らないな。っつーか、ここはどこだ?

子供が背負っている風景は星が瞬く夜空だけだった。どうやら近所で最も標高の高い千珀山の頂上に居るらしい。夜風が身に染みる。

シュヴァイツウィンドは鮮やかな朱の唇をゆっくりと開いた。

「貴方は我々の王の御子です。残念ながらたった一人の御子なのです。我々は貴方を王にお迎えする為に参上いたしました」

懇願の口調ながらも心底嫌そうな声色で話すシュヴァイツウィンドに龍太郎は

「はぁ?!」

と眉間に縦皺を刻み込む。歓迎されない歓迎の仕方も癪に障る。

「残念だけど、オレはそんなアブナイ妄想につきあってる暇はないんだよ。」

何者かと正体を確かめたかったが、身の危険を感じ取り、関わりは無用とばかりに、二人の前から立ち去ろうとすると

「喉が渇くでしょう?貴方はその渇きから逃れられない」

寒気を帯びるような声が龍太郎を刺した。踏み出した左足が動かなくなった。

「我々ヴァンパイアの王、グァルツィネ様は気高く冷酷で、誰よりも美しい御方でした」

「待て!!今ヴァンパイアって言った?!」

龍太郎の質問は軽くスルーし、シュヴァイツウィンドは続ける。

「流れる白銀の髪は神秘の煌きを宿し、銀色の瞳は鋭い光を放つ。頬は蒼々と白く輝き、長い睫の影がかかり、威風堂々とされた長身で、長く美しい指先。世に名を馳せているいかなる画家でもグァルツィネ様の美しさを描くことはできなかった」

饒舌な語り口を聞いていると、どんなに心酔していたのかが良く判る。しかしこんな時でもこの子供の表情から感情を読み取るのは不可能だった。

「大いなる知識、他を圧倒する能力に、的確なる判断力はまさに人中之龍」

「おい!!ヴァンパイアってあれか?なぁ!!」

質問を無視して悲しく伏せられた目に、龍太郎は思わず何だ?と問う。

「貴方が王に。次王は貴方です。」

「はぁああ?!!!」

「見受けたところ、まだ覚醒されてませんね。それは仕方がない。無理に覚醒させれば血族になる前に人間の器が壊れてしまう」

「全っ然、話についていけないんですけどぉ。大体その王様って今何してんの?!何で俺なの?」

無表情なのは変わらないが、僅かに翠の瞳が揺れた。シュヴァイツウィンドは無言である。

後ろに控えた少女も無言で龍太郎を見つめている。

沈黙に耐えかねたかのように風が木々と龍太郎の髪を揺らした。金色の髪も揺れている。まるで音楽でも奏でそうな軽やかな舞踏。

「……王は……」

小さな口元から漏れる言葉は小さな音だが、明瞭だった。

「王は永遠の眠りに就かれました。貴方も、僕達ももう二度と会えません」

そもそもは……とシュヴァイツウィンドは長い昔話を始めた。

グァルツィネは王として絶対的存在でヴァンパイアの世界に君臨していた。見たものを虜にする美貌と、隙のない知識と統御、慈悲のない残虐さはまさに血族の王に相応しい。何よりも、始祖から始まる無垢な血統による能力は他を凌駕するものだった。どこにでもいるごく一部の不穏分子を除いて、全ヴァンパイアを心酔させ服従させていた。

高貴な身分のヴァンパイアは滅多に人前に姿を現さない。特にグァルツィネは血族嫌いと人間嫌いで知れ渡っていた。

何故龍太郎がグァルツィネの子供かというと、王が人間と恋に墜ちてしまったからである。

彼がイギリスに所有する城に滞在していた時、留学していた日本人女性と出逢ってしまった。

「もしかしてそれが……」

「はい、貴方の母親であるセツナ・サクラザキです」

二人は情熱的かつ順調に愛を育んでいき、彼女の腹に新しい生命が誕生する。

しかし、王は子供の誕生を見るまでもなく、彼女達を日本へ帰した。城を出ていく彼女の背中をいつまでも見送っていた。

「貴方は何度かグァルツィネ様にお会いになっているはずです」

「ええっ?会ってるって………」

「貴方が小さかった頃、日本へ行かれていました」

龍太郎は目を閉じて考え込んだ。あの走馬灯、戻ってこい。

白いモヤモヤしたものが何かの形に浮かんできた。

「あ?…おっちゃん?白髪のおっちゃんか?…」

「失敬な!!王のお見掛けでは20代としか言えません。それに白髪ではなく銀髪です」

「だってさ、会ったのってオレが幼稚園ぐらいだし、その頃大人は皆おっちゃんに見えるんだ」

いつも玩具を買ってくれた巨人みたいな人が居たっけ………

スゲーデカイ人だったな。ニコリとも笑わなかった。

でも母さんを見つめる時はちょっと笑ってた……ような気がする。

「!!ちょっと待て!!オレの父さんは生きてるぞ。今日も元気に会社に行ったぞ」

「そんな事、僕が知るわけがない。しかし貴方の父親は間違いなくグァルツィネ様です」

「………オレは信じないぞ、父さんは佳月千瑛44歳だ」

「結構です。貴方が信じなくても事実は事実でしかありません」

オレって父さんの子供じゃない??嘘だ!!そっくり家族って近所でも評判なのに!!!

評判かどうかは謎だが、家族三人で出かけ、夏韻に会った時に「そのまんまだなぁ」と吹き出し笑い込みで言われたことがあった。

頭を抱える龍太郎を横目に、ところで、とシュヴァイツウィンドは話を続ける。

「セツナ・サクラザキは亡くなりましたね」

「あぁ…去年。交通事故で…」

「それを知ったグァルツィネ様はお嘆きになり、永遠と誓った愛を果たそうと、永い眠りに就かれました。きっと……もう二度とお目覚めになられる事はないでしょう」

たかが人間の女になど…

吐き捨てるようにシュヴァイツウィンドは呟いた。

その禍禍しい表情に、一切の感情を断ち切ったかの如く振舞っていた子供の表情の変化に、龍太郎は思いっきり引いた。造詣が美しいとどんな表情も凄絶に表わされる。

可愛い顔して……コエー、このガキ…ヴァンパイアってのもホントっぽいな。

脳裏に先ほどの恐ろしい形相のお姉さんが浮かんで、思わず龍太郎は身震いする。

「さぁ、参りましょう」

気を取り直したのか、シュヴァイツウィンドは心なしか清々しい表情で言い放つ。

「え、えーっと……何処に?」

「イギリスです。グァルツィネ様の城がありますので、暫くの間はそちらでしきたりや血族の歴史を覚えて頂きます。その後は新王披露の宴。それを済ませたらエジプトへ」

「待て!!待て待て待て!!!何じゃそりゃ?!オレはそんなトコロ行かねぇぞ!!そもそもオレに関係ない話だ!!!」

「関係なければ良かったのは僕の方です」

シュヴァイツウィンドは大きな溜め息を吐く。

「卑しい人間の世界に居たものが王になるとは……」

余程納得していないのだろう。握り締めたシュヴァイツウィンドの拳が震えている。目を伏せたまま龍太郎を見ようとはしない。

龍太郎はキョロキョロと逃げられそうなルートを探していた。

後方は林、そして暗い。イケる!

急に父親がヴァンパイアでした。って言われて、そうですか。って納得するバカがいるなら会ってみたいものだ。

オレはどう頑張っても人間だ!!十字架怖くない、教会にも入れるし、大蒜も食べる。それに、太陽にあたっても灰にならないぞ!!

「それは間違いです」

不意に話し始めた翠眼が龍太郎を睨むように見上げる。

「血族は太陽を浴びても灰にはなりません。動きは鈍くなりますが、紫外線で消滅する事はない。人間達が抱いている愚かな偶像でしかない」

「な、何で―――??!!オレ喋ったっけ??ええ???えええ‐―――!!??」

うろたえる龍太郎に可愛らしい声がかかる。

「シュヴァイツウィンド様、そんな意地悪をしなくても。私達は声に出さなくても想いが通じるのですよ。それこそ貴方様が血族である証拠です」

可憐な少女は声も可愛らしかった。

どっちかというとアニメ声?頭の天辺からでてるのか?

至る所に惜しげもなくレースをあしらった黒いジャンパースカートは、半径1メートルぐらいは人を寄せ付けないくらい広がっていて、ご丁寧にヘッドドレスまで装着している。

真っ白い肌、漆黒の髪は胸元まで真っ直ぐに伸ばされ、翠瞳、風が起せそうな程長い睫にグロスでツヤツヤの唇。ディスプレイに飾られる人形を彷彿させるいでたちだった。

シュヴァイツウィンドは白シャツに何重にも重なった黒いリボンを胸元で結び、ピッチリとしたレザーパンツを履いていて、二人セットでそのままライヴハウスにでも行きそうな雰囲気である。

それに比べ龍太郎の制服はところどころ煤で汚れていた。

自分の惨めな格好と目の前の二人の豪奢な格好を比べて、急に疲れが足元から沸き上がってきた。

「………帰る、帰る!!全然話についていけねー!!絶対帰るぞ!!帰る―!!!」

両手で耳を塞ぎ、今まで聞いたすべての事を脳裏から放り出す勢いで、龍太郎は頭を振り抗議した。

ひとしきり暴れたら、より一層疲れてグッタリと肩を落とした。

あきらかに自己中心的と思われるヴァンパイア達に言っても無駄だろうと思ったが、疲れきっていた。

急に変質者に襲われて、空飛んで、出生の秘密?を明かされて、イギリスへ行けと?!

オレは自慢じゃないが、海外行った事ねーんだよ!!パスポートも持ってねーよ!!来年の修学旅行でフランスに行くのが初めての海外体験になるはずなんだよ!!

「解りました」

顔を上げた龍太郎の目の前から小さい姿が消えていた。見上げると小さい影がどんどん小さくなっていった。

おぉ!!スゲー空飛んでるよ!!あ、オレもさっき飛んだんだった…

鮮やかすぎる引き際に呆然としていたら、気の抜ける可愛い声が耳朶をくすぐった。

「私がお送りします」

龍太郎は自転車を放置するしかなかった場所まで、スカイダイビングの要領で戻り、押しながら歩き始めた。並ぶと少女は肩ぐらいの身長だった。シュヴァイツウィンドよりは話しやすそうな少女をチラ見しながら、龍太郎は会話の糸口を探していた。何度が盗み見すると翠眼とぶつかり、クスリと笑い声が漏れた。

「カインと申します。どうぞお見知り置きを」

「カイン!!??オレの友達と同じ名前だ…」

「まあ、そうでしたか。奇遇ですね。貴方様のお名前は?」

「龍太郎」

「リュータロウ?王が命名されたのかしら?」

「さあ?」

リュータロウ、リュータロウと呟くカインは急に何かに思い当たったようだ。弾む声で言う。

「龍。ドラゴンですね!!やっぱり王がお付けになられたんだわ!!王は三匹のドラゴンを操っておられましから」

ヴァンパイアの次はドラゴンかよ……次はゾンビでも出てくるのか?

「グロテスクなものがお好みなのですか龍太郎様。お望みならば今、呼びますが…」

「ええっ!!!いい!!好きじゃない好きじゃない!!!」

「良かった。私も嫌いです。あの臭いは耐えられませんから」

ニッコリと笑うカインはまるで天使のようだった。

龍太郎は思わず見惚れてしまった。

スゲー可愛い。あの子供もそうだけど、この子も…その、ヴァンパイアなんだよなぁ?

「龍太郎様、これから大変ですね。命を狙われる機会が増えましたよ」

天気予報でもするかのようにサラリとカインは口にした。

「命!!?さっきの変質者が増えるって事か??!!」

「あれはアルガロイドの手の者です。龍太郎様が王になるのを阻止するつもりなのでしょう。身の程を知らぬ愚か者が…」

禍禍しく吐き捨てるカインの顔は相変らず可愛いままだったが、言葉に物凄い毒を感じた。

カワイイ顔して、この子もコエー。オレ一体どうなるんだよ……

「ご安心下さい龍太郎様。シュヴァイツウィンド様と私が御護りいたします」

「あのー、どうしてもオレなのか?拒否ってできないのか?」

「できません。嫌なのですか?大変な名誉ですのに。」

「嫌もなにも、有り得ない!!オレは普通の高校生だから」

「…………でしたら、王になって後継者を指名されれば済みますよ。そして引退されるんです」

思い付かなかった、否、そこまで頭が回らなかった事をすんなり言われて龍太郎は拍子抜けした。

「え?いいのか?そんなギリギリ反則技みたいな事して……」

「王の言葉は絶対なのです。私達はそれに従います」

「じゃあさ、じゃあ、オレが人間皆殺しって言ったら……」

「3日もあれば済みますでしょう。自らの手を汚さなくても細菌をつかえば楽ですよ。でもそうなると食糧不足に陥りますからお止めになった方がいいと思います」

あくまで淡々とした喋り方のカインに龍太郎は背筋が寒くなった。

家の前に着く。「じゃあ……」と言って龍太郎は自転車ごと門の中に入る。

「喉の渇きをおさえる方法をお教えいたしましょうか?」

振り向く龍太郎にカインは口角を上げた。嫣然とした女の顔がそこに在った。

「愛しい者の血を飲むんです」

それだけ言うとカインは上空へ飛んでいった。

夜空を見上げて龍太郎は重い声で呟いた。

全部、夢……じゃないよなぁ…



「お前、目の下のクマ、スゲーぞ。寝てないのか?」

「うん…オレのキャパを越える出来事があって、オレには処理できなかったよ…」

教室に入るなり指摘された龍太郎のクマは悲惨なくらい主張されていた。

「佳月くん大丈夫?酷い顔してるぅ」

「八神!!全然!!大丈夫大丈夫!!」

小首をかしげて龍太郎の顔を覗き込んでいるのは八神薫子。縦ロールをサイドにアップさせた髪が揺れている。ついつい手を伸ばしたくなる揺れ具合だ。

同じクラスになって5ヶ月。この頃気になる女の子だ。

上目遣いで見つめられ、龍太郎のテンションが大気圏まで上がる。

今日もカワイイな~唇テュルテュルしてる~

グロスで輝く唇から龍太郎の頭の中に昨夜のカインの言葉が浮かぶ。

愛しい者の血を飲むんです。

顔だけで言ったら間違いなくカインっていう子の方が八神より可愛いよなぁ~。

何かに気づいて龍太郎は頭を振った。

ダメダメダメ!!アイツ等人間じゃないもんな。

シュヴァイツウィンドの顔も浮かんだ。

アイツ等また来るのか?来るな!来るな!!来ないでくれよ~!!

あっという間に授業が全て終わり、バイトもないので予約していたCDを取りに行く。

レジにいた店員と購入したCDの話題で盛り上がり、ほっこりした気持ちで自転車に乗った。

あのお兄さん親切だったな~。解る人は解ってんだな~見る目あるよ~。

「佳月龍太郎」

信号待ちをしていたら後から名前を呼ばれた。

昨日から知っている声で、嫌な予感がしたが反射的に振り返ってしまって龍太郎は後悔した。

オレは、何て律義な男なんだ!!馬鹿!馬鹿!!バカ―――――!!!!!

予想通り、シュヴァイツウィンドが立っていた。

オレより小さいくせに、威圧感あるな……

意味のない敗北感を味わっている龍太郎の手首が掴まれる。

「お前に紹介しなければならない。僕の滞在しているホテルに来い」

「はぁ?!何言ってんだ?」

引きずられる様に龍太郎はシュヴァイツウィンドの後につづく。

手を離れた自転車が大きな音を立てて倒れる。

「あっ!!チャリが!!おい!!」

無視かよこのガキ!!これって誘拐?!倒れたチャリが誘拐の雰囲気を盛り上げるって?!

向かった先は、龍太郎には縁がないだろう、超!!にもう一個超!!が付く高級ホテルだった。

こ、これって大理石?!

恐恐とする龍太郎とは対照的に、シュヴァイツウィンドは我が家のような足取りで進む。

エントランスに入ってきた二人組にロビーの視線が集中した。

子供に引きずられる高校生、明らかに異常だ。しかもその子供が天上画に描かれた天使のような容貌なので嫌でも目を魅く。

シュヴァイツウィンドは真っ直ぐエレベーターに乗った。

コイツなら飛んでった方が早いんじゃね?

「愚かな…これ以上人目をひいてどうするんだ」

見上げられた視線には侮蔑が含まれていた…ような気がして龍太郎は唇を尖らせて横を向いた。

子供っぽい仕種にシュヴァイツウィンドは眉根を寄せる。

覚醒していないのは仕方がない。しかし、この人間は本当に王の子なのか?

たいして取り得もない、力もなければ体力もない、見るからに低能そうだ。

強いて褒めるなら顔ぐらいだろうか。男にしては整った顔をしている。セツナ・サクラザキがどのような容姿をしていたか最早覚えていないが、グァルツィネ様はとても美しい御方だった。佳月龍太郎は美しいというよりは可愛らしいといった方がいいだろう。

しかし、王の最も傍にいたシュヴァイツウィンドだからこそ感じ取れた。龍太郎の奥深く、無意識の底に沈んでいる稀有な気配を。

最上階に停まったエレベータを降りたシュヴァイツウィンドは、コンシェルジュと英語で挨拶を交わす。

そうだ、コイツ日本語話してるけど、見た目まんま外国人だもんな。

驚いている龍太郎に振り向き、顎をしゃくる。尊大な態度にイラッとしたがこんなホテルに入るチャンスはこれから先あるかどうか解らないので、取り敢えず付いていくことにした。

「ハ、ハァイ。サンキュー」

と棒読み英語で通り過ぎた龍太郎は扉の前で立ち止まっている翠瞳を睨んだ。

口を開く龍太郎より先に扉が開かれた。

「龍太郎様!!どうぞお入り下さい」

カインは今日も嵩張る洋服を着ていた。昨夜は全身ほぼ真っ黒だったが、今日は淡いブルーである。

豪奢なエントランスを通り過ぎ、大きなテレビの部屋の窓辺に長身の男が佇んでいた。

龍太郎に気づいた男は、端正な顔を綻ばす。

「やあ、君が次王の佳月龍太郎くんだね」

矯めつ眇めつな視線に龍太郎は一歩後ろに下がって身を縮めた。

「シュヴァイツウィンド様が散々けなされるからどんな子だろうと思ったら…王のお子様なんだから可愛くないはずがない」

可愛くないはずがないという言葉は、カワイイ?可愛くない?と引っかかった龍太郎だが、とりあえず目の前の新・登場人物の観察に専念した。

「龍太郎様はお美しいですよ」

カインの言葉に、うんうん。と頷く男はどこか満足気だった。

短くてもサラサラ揺れる茶髪に黒い瞳、隣で微笑むカインに比べるとサッパリした顔をしている。日本人か?薄い味付けの和風…ってカンジ?日本にも手ぇ出してたのかヴァンパイアが!!ヤベーこれ知ってるの今俺だけ?

「はじめまして龍太郎様。北條院那茲と申します。ただの人間です」

「えっ」

思わずあがった龍太郎の声に那茲は微笑んだ。

「ヴァンパイアは今や貴重な種なんですよ。そうそう頻繁にお会いできません。特にこのお二方のように高貴な方とはね」

うわ~ここにも頭のオカシイ奴が居た!!

身構える、警戒心剥き出しな龍太郎に抑揚の無い声がかかる。

「早く中に入るがいい。邪魔だ」

「いい。入らなくて、オレ帰るし」

高級ホテルの雰囲気は味わったからもういいや。それより身の安全の方が大事だ。

シュヴァイツウィンドは回れ右しようとする龍太郎の右腕を掴み、部屋の中央に投げ捨てるように放る。バランスを崩し転んだ龍太郎は文句を言ったが無視して話し始める。

「アルガロイド達の動きは?」

「昨夜で龍太郎様の居場所を特定したようです。それに、グレコーリ・タム殿が日本に来たそうです」

「まぁ!!招かれざる客ですわね。どうします?」

三人が話に夢中になっている隙に、と龍太郎は気配を消したつもりで扉を目指した。

「どこへ行く?自分の一大事に」

何時の間にか目の前に胸元にも届かない子供が立っていた。

「オレには関係無いね。お前等の話だろ」

「話の中心は龍太郎だ。残念ながらお前に死んでもらっては困る」

残念ながらだとぉ!!!!何様だこのガキ!!!つーか呼び捨てって何だよ!!

「そう思うなら、お前が王になるんだな。そうしたら従ってやる」

高慢な物言いに、心のキャパシティが耐えきれず、龍太郎はファインティングポーズを構える。

『ヴァンパイア様』って思ってんのかぁ~!!このクソガキが!!!

「もぉ~落ち着いて下さい龍太郎様。シュヴァイツウィンド様も」

カインが対峙する二人の間に入って、主に龍太郎を宥めた。

漂う甘い香りに龍太郎の戦闘威力が失われた。

「…?何だ、この甘い……」

問う龍太郎にカインは上目遣いでフフフと笑うだけであった。

うわぁ~小悪魔!!チョーカワイイ!!!ギューってしたい!!

紅潮する頬の龍太郎に

「いいですよ。龍太郎様なら」

小悪魔な笑顔の直撃を受けて龍太郎は暫く放心状態になった。

「やっと大人しくなったな」

立ち尽くす龍太郎を冷ややかな目で一瞥し、シュヴァイツウィンドは「影はどうした?」と那茲の後方に目を向けた。那茲の後ろの扉から瓜二つの顔が現れた。

「御久し振りです。シュヴァイツウィンド様、カイン様。再びお会いできました幸運に感謝致します」

「茲那、ご苦労だった。首尾は?」

「上々です。ご心配には及びません」

恭しく茲那は頭を下げた。きっちりと角度は90度を保つ。

我に返って傍から見ていた龍太郎は、改めて異様な風景に目を疑う。

どこをどう見ても生意気なクソガキに、いい大人(しかもカッコイイ部類に入るだろう)が最敬礼をしているのだ。しかもクソガキが当然の用に受け流しているのが腹立たしい。

エラソーにしやがって。このガキそんなにエライのか?

いつのまにか龍太郎の隣に立っていたカインが囁いた。

「シュヴァイツウィンド様は純血なのです。正しい血統を受け継いでいらっしゃいます。血族の歴史が始まった頃から存在されておられますので。シュヴァイツウィンド様より永くいらっしゃったのは……グァルツィネ様を含め数少ない方しかおられません」

龍太郎の頭の中にはいくつかの理解不能な台詞がグルグルと回っている。

「あのさぁ、ジュンケツって?」

「能力の無いヴァンパイア、低位のヴァンパイア、その他の種類、例えば妖精や天界のモノ、人間などと混ざり合わない血統が守られた血族のみを純血といいます」

首を傾げる龍太郎の頭の上に?????と浮かんでいるようにみえたので、カインは少し考えた。

龍太郎様、バカですわね……

「要するに、ヴァンパイアの中のヴァンパイアということです。ずーっとヴァンパイアで過ごしてきた血族の事ですわ」

あぁ…と理解したのかどうか曖昧なコメントをする龍太郎を見てカインは思った。

バカですわね。

「じゃあ、血族ってヴァンパイアの親戚って事か?」

「いえ、ヴァンパイアを血族と表現します」

「へぇぇぇ。血族かぁ。じゃあさっ、長いってどのくらい?ヴァ、血族って寿命どの位なんだ?」

特にこのガキ!!子供のくせして生意気なんだよ!!俺より背低いくせにエラそうに!!

「……シュヴァイツウィンド様は日本の歴史以上に存在されてますよ」

「えええっっ!!!!ジジイじゃねーか!!!!」

大声を出した龍太郎に侮蔑を含んだ鋭い翠瞳が刺さる。

ううっ痛い!!視線がチョー痛い……

左胸を抑えて龍太郎は後ずさりする。

その様子をカインは温かい目で見守っていた。馬鹿な子ほど可愛い、まさにソレである。

「この方ですか…王の御子息は」

那茲と同じ黒い瞳が龍太郎を見つめていた。茲那は親しみが湧くような満面の笑顔を浮かべた。

「茲那です。宜しく。しっかしカワイイね。よく女の子に間違えられたりしない?中学生?」

龍太郎の表情が凍り付いた。触れてはイケナイ事実に触れてしまった茲那は龍太郎の異変にも気づかずに可愛いと連呼し肩にも届かない頭を撫でていた。

勢いよく振り払われた右手を茲那は驚いた顔で見つめた。

「チクショー!!どーせオレは小っせーよ!!男らしくねーよ!!」

それだけ言うと乱暴に扉を開けて部屋を出ていった。

シュヴァイツウィンドは小さな溜め息を吐いた。カインはゆったりとした足取りで後を追うため歩き出した。那茲と茲那は顔を見合わせる。

「俺のせい?」

茲那の問いは龍太郎に届くはずがなかった。

幸い、エレベーターには龍太郎が一人しか乗っていなかった。

涙でグシャグシャになった顔を誰にも見られずに済んで胸を撫で下ろす。

「うっ、ううっ…」

止まらない涙とともに鳴咽が洩れた。

何なんだよ!!何でオレがこんな目にあわなきゃならないんだよ!!

ホテルの密室に監禁?されそうになるし…これは誘拐だ!!人権侵害?だ!!初めて会った人にも馬鹿にされて…

途中一度だけ停まったエレベーターに男が一人乗り込んできた。

気恥ずかしさから龍太郎は顔を伏せて、鳴咽が洩れない様に息を止めた。

喘ぎを抑える為の行為だが、限界に打ち震える龍太郎に爽やかなのに甘い香りが漂ってきた。

「どうぞ」

低く心地よく響いてくる声に耳朶が震え、見上げた龍太郎の黒い瞳に玲瓏な美貌が映り込む。

目の前に差し出されたハンカチは非常に高額な雰囲気を発していた。それに添えられた指の形の美しさと爪の形の完璧さに、多くの者は感嘆の吐息を洩らすだろう。

濡れる様な漆黒の髪は動く度に美しい光の波をつくり、切れ長の双眼は闇を凝縮したのか、底のみえない夜の色が広がっていた。筋の通った鼻梁は横顔の美しさを示しており、つづく唇は薄く引き締まり朱と結ばれていた。着用しているスーツは一点の汚れもない白さを誇っているが、男の肌の美しさを凌駕できなかったようである。発光するかのように白く、どこまでも白い肌は肌目が細かく整いきっており肌トラブルなんて一生無縁であろう。

龍太郎は絡め取られたかのように、男から視線を外せなかった。

白い…凄く白い…。何だこのカンジ。どこかで…

エレベーターは静かに一階に停まる。見上げたまま微動だにしない龍太郎の手にハンカチを握らせて、男は扉へと視線を移した。そのお陰で龍太郎は男の美の呪縛から解き放たれた。

開いた扉の向こうにカインが待っていた。が、その瞳は大きく見開かれた。

立ち尽くすカインの脇を男は悠然と通り過ぎる。その後ろ姿を翠色の瞳がどこまでも追っていた。

「……そんな……」

エレベーターの扉が閉まる音にカインは我に返り、開ボタンを押した。

広くもない箱の中で龍太郎は大きく深呼吸しているところだった。中に乗り込み背中を擦ってあげながら最上階のボタンを押す。指先の震えが止められない。

「どうした?」

「い、いいえ……龍太郎様…先程の方に、…何か…何事かありましたか?」

「別に、ハンカチ、あっ!!貰っちゃった!!どーしよう返せないなぁ…」

ハンカチを握り締め、はしゃぐ龍太郎は何やら様子がおかしいカインに気づく。

「カイン?どうしたんだ?何かあったか?」

「いいえ。御心配には及びません」

「でも、変だぞ。そうだ、さっきの人、カイン達と同じくらい肌が白かったんだ。超美白!」

無言でカインは俯いてしまった。泣いているようにも見え、その周りを龍太郎がオロオロと右往左往している間にエレベーターは最上階へ停止した。

「何があった?」

待ち伏せていたシュヴァイツウィンドは今までに見た事もないような緊迫した視線を向ける。

「中へ入れ。北條院が待っている」

それだけ言うとヴァンパイア達は寝室へと続く扉の中に消えた。

あの双子に会うのは少々気が重かったが、鞄を置きっぱなしにしていた事を思い出して、渋々飛び出した部屋へ戻る事にした。

「戻ってきた!!」

「ごめんね龍太郎様!!悪気があったわけじゃないんだよ」

「そう、茲那はどうしても一言多いっていうか、思った事をすぐ口に出すから」

「本当にごめん!!お詫びにルームサービス、何頼んでもいいよ。御馳走する!!」

中に入った龍太郎を双子が取り囲んで、謝り倒す。茲那は思わず撫でそうになった龍太郎の頭から右手を遠ざけた。

御馳走という台詞に龍太郎の眉が動く。

「まぁ、そんなに言うなら…オレも大人気なかったし…」

言った途端、大人じゃねーよという誰かの心の声が聞こえた気がしたが、龍太郎は嬉々としてメニューに目を馳せた。

こんなんで喜ぶなんて、まだまだ子供だねぇ~。思わず口に出しそうになって茲那は息を呑む。

「………そんなはずは無い。有るわけがない」

「確かに……間違いありません…」

「どういう事だ……信じられん…」

シュヴァイツウィンドは眼下に広がる景色を選別した。地上150Mからでも通行人のつけているピアスの色、形まで識別することができる。それでもその男の行方は然と知れなかった。

「兎に角、龍太郎に危険が迫っている。あいつを死なせるわけにはいかないんだ…」

「そうですわね。私達が常に龍太郎様のお傍にいられたらいいのですけど」

龍太郎は、イベリコ豚サンドイッチと、海の幸まるごとスパゲティとオリジナル焼きおにぎり&味噌汁セットを頬張りながら、北條院兄弟との会話を楽しんでいた。

「じゃあ、そのイベント発生させれば次の国に行けるわけ?」

「そうそう。ちゃんと森の人と会話しなきゃ駄目だよ~」

「ええええ~だってアイツ等同じ事しか言わないんだもんなぁ~」

「しつこくスマートに。これ女性を口説く時も基本」

「マジかよ。もっと詳しく」

高校生と同等の話題で盛り上がる茲那の横で那茲はコーヒーの香りを楽しんでいた。

猫舌なので冷ましているのである。二人の話題は最近発売されたゲームなので那茲は仲間に入れなかった。しかし龍太郎の表情を見るだけで飽きない。表情が感情に直結しているかのようによく動く。今も目を輝かせながら茲那の話に耳を傾けている。

「つーかさぁ、社会人がそんなにゲームばっかりしていていいわけ?」

「時間は比較的自由に使えるんだ。だって社長だも~ん」

「うっそ~ん!!!」

驚く龍太郎の声と同時に寝室へと続く扉が開かれた。

那茲は立ち上がり二人を迎えた。いつにないシュヴァイツウィンドの深刻な表情が気になる。

「何事か、ございましたか?」

「……すぐにでもここを発つ。後は任せる」

「御意」

「待った――――!!!!!」

龍太郎の口から大声と共に咀嚼途中のパンが飛び散る。茲那は華麗に避けた。

「それって、もしかしてオレも一緒じゃないよな」

「当然だ。お前を連れて行くんだ」

「本人を無視して話し進めるんじゃねーよ!!一体どこに行こうっていうんだよ」

「お前の家だ」

「え?」

日本に何台あるんだ?という那茲の車に送ってもらい三人は龍太郎の家の前へと降り立った。

自転車は見つけて届けるからね~と茲那は窓から手を振る。

「わざわざオレん家に来る必要ないんじゃねーの?」

「本当はグァルツィネ様の城へ滞在するのが最も安心なのですが、龍太郎様の生活と心の準備というものを考慮しての事ですわ。すぐにイギリスに行かれませんでしょう?」

「行かねーよ!!(一生)」

嘘、旅行でいくかもしんねー。新婚旅行とか。

頬を膨らませる龍太郎に対して、カインは微笑んでいるだけだった。

家に帰るのがこんなに気が重いのは初めてだ……

凪が帰ってきたらビックリするだろうなぁ~。

ヴァンパイア達は門の前で立ち止まり何かを祓うような所作をする。

リビングに通すとシュヴァイツウィンドは飾ってあるセツナの写真に目を留めた。

家族四人で最後に撮った写真だった。笑顔はいつまでも心の中で褪せる事はないだろう。

「龍太郎様にそっくりですね」

カインも覗き込んでいる。

そうなのだ。龍太郎は母親そっくりだった。大きく黒い瞳に、小ぶりな唇と高くもない鼻筋。身長までも母親譲りである。

「ただいまー。今日の当番俺だよな~買い物も済ませてきたぞー」

玄関から弟の声がした。リビングのドアを開けた凪は硬直する。

「えっ…?お客さん…?」

「あ……うん。まぁそんなカンジ…」

近寄ってきた凪は龍太郎と小声で話した。

「外人!?龍、外人に知り合い居たの?!」

「知り合いっていうか…ついてこられたっていうか…」

「材料これで足りるかな?三人分しか買ってこなかったぜ」

「いいよ。すぐ帰ると思うし」

そもそもヴァンパイアが何か食べるのか?

「えええ~駄目だよ~あの子スゲーカワイイじゃん。俺と仲良くなるまで駄目!!」

凪は物凄い勢いで着換える為に二階に上がっていった。

「龍太郎様のご兄弟ですか?」

「うん、弟。言っとくけどあいつの血はマズイぞ。菓子ばっか食べてんだ」

カインは「ご親族の方は敬います」と微笑んだ。

凪はエプロンを着け台所に立った。一人で五人分作るのは無理だと泣き言をいうので、助手は龍太郎が務める羽目になり、ゲスト二人はソファでプリンを食していた。

ヴァンパイア達に確認したら、栄養にはならないが味付けが好きなので頂きますと返事があった。

四人で凪オリジナル・ビックリ炒飯を食べていたら父親の帰宅の声がした。出迎えた龍太郎は先手必勝とばかりに話し始めた。

「父さん、あの~ちょっと不測の事態が発生して…オレのせいじゃないんだけどさ…」

「何だ?補導でもされたのか?」

「いや、違うんだけどぉ~あ!!ビックリするなよ!!」

変な人達が中に…という龍太郎の台詞を待たずに佳月千瑛がリビングの扉を開け、持っていた鞄を床に落とす。

驚いてる…そうだよな~見知らぬ外国人が炒飯食ってたら驚くよな~

コイツ等はぁ、と龍太郎が説明しようとしたら

「…シュ…ヴァイツ…ウィンド様」

と千瑛の口が開いた。

「えええええええぇぇぇぇええええ―――!!!!!」

龍太郎の絶叫が三軒隣りまで響き渡った夜だった。


もう、オレは何を信じていいか解らない……

リビングの隅で膝を抱え落ち込んでいる龍太郎は部屋にいる全員に華麗に無視されていた。

「お久し振りでございます。まさか、またお会いできる日がくるとは……」

「セツナ・サクラザキは亡くなったのだな」

「…………はい」

家族写真の前で深刻そうな声を発している二人とは別に、凪は頬を赤く染めながらソファに座りカインと健全なお話をしていた。

こちらも暗いオーラを発している龍太郎は眼中に無い。

「彼は王になる」

「そんな!!何故?!どうして龍太郎を…」

「龍太郎がグァルツィネ様の子だからだ」

「王は?!どちらにいらっしゃるのですか?!」

「……永遠の眠りに就かれた」

「…………そうでしたか……王が……」

玄関のチャイムが鳴る。空気を凍り付かせている二人と、弾む会話を楽しむ二人は動く気配も無いので、仕方なく龍太郎は立ち上がった。

ドアホンを手に取るが、何の声も聞こえなかった。

「どちら様?何だよ、悪戯かよ…」

再びチャイムがしつこく鳴った。文句を言いながら龍太郎は玄関の扉を開けて、動きを止めた。

「こんばんは」

耳をくすぐる低音に甘い気持ちが広がった。蕩けるような想いが胸に溢れる。甘美で何故か懐かしい想いがした。

黒い髪、黒い瞳、黒い服、闇から生まれた魔物のような美貌がそこに在った。

「さぁおいで」

男が差し出した手を龍太郎は掴もうとする。

ハンカチ…返さないと……

昼間に見た服装とは対照的な闇の色に身を包んでいるが、ただ一つ言えることはどちらも美しい。

闇の色に飲み込まれそうな龍太郎を引き留めるかのような細い声が聞こえたようだった。

自分を呼ぶ声に龍太郎が振り向くと、悲壮感漂う翠瞳にぶつかった。

シュヴァイツウィンドは男を認め、呆然としている。

「久し振りだね。ウィンド」

「…………」

異変を察知して駆けつけたカインも息を詰める。

「カイン。相変らず仲がいい」

「……グァルツィネ様…」

絞り出された声は掠れていた。

驚く龍太郎の手首を取り、引き寄せた男は嫣然と微笑んだ。眼差しには全ての者を平伏せさせる威力が渦巻いている。その黒瞳に立ち尽くす千瑛が映っていた。

「この子は返してもらうよ。」

穏やかだが有無を言わせぬ強さの口調だった。胸に抱かれる格好となった龍太郎が見上げると視線がぶつかった。

どこかで見た………ああ、そうだ。母さんを見つめる眼だ。クソガキの言うとおり、おっちゃんじゃねーな。

「何者だ!!龍太郎を離せ!!」

シュヴァイツウィンドの声がどこか遠くから聞こえるようだった。そのうち世界の音が無くなってしまってもこの男の声さえ聴ければ自分は幸福と感じるはずだ。

「もう私を忘れたのか?ウィンド」

酷いな…と呟く声は楽しそうだった。

「グァルツィネ様!!戯れはお止め下さい!!」

必死に絞り出したかのようなカインの声にシュヴァイツウィンドは

「違う……グァルツィネ様のはずはない…王は…王は…」

吐き出す声は苦渋に溢れ震えていた。小さな身体も小刻みに震え動揺している。

冷静沈着なシュヴァイツウィンドに有るまじき失態であった。

「龍!!!なんかわかんねーけど、俺が今夜進めといてやるからな!!心配するな!!」

ドア越しに頭だけ出して状況を見守っていた凪が龍太郎に向かって叫んだ。

内容は誰も理解できなかっただろう。ただ一人、龍太郎を除いて……

そうだ!!さっき茲那兄に聞いたイベントを発生させるんだった!!今夜は徹夜だった~!!

茲那が「弟欲しかったんだよ~俺のことお兄様って呼んでいいよ」とお願いするので、茲那兄と呼ぶ事にしたのである。因みに那茲は那茲さんだ。

だって茲那兄と違って品があるもんな。同じ顔だけど不思議だなぁ。性格の違いが顔に現れてるのか?

「あの~離し…離して…下さい」

恐る恐る申し出てみると、不思議そうな視線とぶつかった。

「何故?」

「今夜は、…そのぅ…… やらなきゃならない事があるし…突然言われても、心の準備がぁ」

男は龍太郎の頭にキスを落とし、抱えていた右手を離した。しかし視線は外さない。微笑む唇が薄く開く。

「君の嫌がる事はしない。今夜は出直そう、また会いにくるよ龍太郎」

「う、うん…わかった」

しばしの別れの挨拶に手を振る姿も男は優雅で華麗だった。龍太郎は男の姿が見えなくなるまで元気に手を振っていた。後ろ姿はすぐ見えなくなった、否、目の前から消えたのだった。

あの人もヴァンパイアなのか?世の中にこんな綺麗な人がいるなんて…オレ、生きててよかった…

興奮した体で振り返った龍太郎は、一斉に非難の視線を浴びるのだった。特にシュヴァイツウィンドの一撃を浴びて、龍太郎は罪悪感に包まれた。無言で睨み付ける翠瞳が泣き出しそうに見えたのは龍太郎の気のせいだったのだろうか。

「誰!!誰?!あのチョー綺麗な人!!知り合い?あの人いくつ?男?!」

凪が頬を染めながら駆け寄ってくる。実はオレも知らないんだよね~と兄弟は楽しそうにじゃれあっていた。

「もしかして龍、誘拐されそうだったのか?」

「そうか?よく分かんねー」

まぁ、いっかー。と兄弟は能天気に笑い合う。対するヴァンパイア達は深刻に話し込む。

「…グァルツィネ様…でしょうか?」

「違う。王はもう目覚める事はない。この世界が終っても、永遠に」

その夜は家族会議が開かれる事となった。

「なぁ、龍。さっきカインちゃんが自分はヴァンパイアって言ってたけど、マジで?」

凪は千瑛と話しているカインを見つめる。

「そうだ。ちょっと頭のオカシイ奴らだと思うかもしれないけど、マジだ」

「はぁぁぁ……龍が王になるって話もマジ?」

「あいつらの中ではマジらしい」

「はぁぁぁ……」

ま、俺はカンケーないと笑う凪に、涙を呑んでイベント発生方法を伝授し、先にゲームを進めてもらい、龍太郎はヴァンパイアと向き合った。

「あのクソガキは?」

「龍太郎様、失礼ですよ。シュヴァイツウィンド様は北條院の所へ行きました」


月が煌煌とした眼差しを注ぐ夜であった。シュヴァイツウィンドは月に最も近いビルの屋上で星を見上げていた。

ウィンド…と呼ぶ声は変わらなかった。同じだ。耳に残る心地よい響き。その場の空気を変える程の圧倒的な存在感も同じだった。

だが!!!

髪と瞳と睫の色が違う、髪の長さも違う、いつも付けていたピアスもしていなかった。セツナ・サクラザキが日本へ帰る時に自分の代わりに…と渡していた。それ以来一度も外した事はなかったアメジストのピアス。王の耳によく馴染んでいた。

あれは何者だ?龍太郎を狙った刺客か?

「ウィンド」

小さな身体が硬直した。振り返るのにかなりの決意が必要だった。

闇に溶ける夜色の瞳がまっすぐにシュヴァイツウィンドを見据えていた。美しい微笑みを浮かべながら。


グァルツィネ様と同じ顔なんです!!

甲高く力強い声がリビングに満ち響いた。

「わかったから、もう少し声小さくしてくれよ」

「申し訳在りません。興奮していたようです。はしたない…」

白い頬を桃色に染めたカインは口に手を当て、ソファに座り直した。

「髪の色と、眼の色が違いますが、間違いなく王と同じ顔です。声も同じでした」

「そうだ。父さんも一度お会いした事があるが……美しさは変わらないなぁ」

何を思い出しているのか、しみじみと千瑛は胸の前で両手を組み、眼を閉じた。

「……何であのクソガキ知ってるんだよ。まさか父さんも人間じゃないなんて言わないよな」

「そんな事あるわけないじゃないか。父さんは、昔王の城に仕えていたんだ。そこで母さんと会ってな。母さんは本当にキュートだったよ。日本には一緒に帰ってきたんだ。王は直々におっしゃったよ、セツナ達を頼むと。その時はもうお前が腹の中に居たからな。王にどのような意図があったのかは解らないが、ヴァンパイアと人間だ。幸せな結末が待っているとは限らない…」

40歳を過ぎた父親の口からキュートという言葉はなるべく聞きたくないものである。出生の事実も知って龍太郎は二重にショックを受けていた。

ヤベ……貧血かも。身体中の血が下がってる気がする……

一気にオレンジジュースを飲みほして一息ついた。

さっきのチョー綺麗な人が本当の父親?グァルツィネって人は、人じゃないけど、死んだんじゃねーのか?ヴァンパイアってどうやったら死ぬんだ?そもそも永遠の眠りって?ただ寝てるだけ?

三者は三様に頭を悩ませていた。

グァルツィネ様は復活されたのかしら?そして龍太郎様を迎えに?だとしたら私達から奪うような真似をしなくてもいいはずなのに……シュヴァイツウィンド様のあの態度は一体……

龍太郎を引き取りに来たのだろうか?駄目だ!!この子は我が子だ!!手放すなんてできない!!ゲームしかしない馬鹿でも可愛い子供だ…やっと高校に入学したっていうのに…

ヴァンパイアと人間のハーフって事か?なんか…カッコイイかも。オレってスゲー人?!人類初の快挙?!…でも命を狙われるのは困る。死んだらゲームできねーよ!!ライヴにも行けねーよ!!

「そう言えば、あのガキ戻ってこないな。迷ってんのか?」

龍太郎の独り言にカインも「そういえば、遅いですね」と窓の外に目を向けた。



翌早朝、茲那が自転車を届けてくれていたらしい。余りに朝早すぎて龍太郎は気づかず寝ていた。

セツナが使っていた部屋にカインが泊まり、護衛のため龍太郎と一緒に家を出た。

「龍太郎様、クマが酷いですよ」

「あぁぁ……あんまり寝てなくて…」

昨日のショックを忘れる為にゲームに没頭したのである。先にリタイアした凪の安らかな寝息の横で必死にレベルアップに勤しんだ。指がだるくて頭がボーッとする、心なしか足取りも不安定だ。

これでチャリに乗ってたらヤバかったな。今日はもう、いいや。後で夏韻にノート借りよう……

頭の中には保健室直行という司令が下っていた。

「龍太郎君」

目の前に右足を45度の角度で開き、左手を腰に、右手で前髪を流している夏韻が立っていた。

龍太郎君?!気持ち悪ぃ……初対面でも呼び捨てにする奴が「君」だと?!寝ぼけてんのか?

龍太郎の名前を呼びながら、夏韻の視線はジャーゲ姿の外国人に固定されていた。

「やぁ、僕は龍太郎君の親友で夏韻といいます。君は?」

あくまでも爽やかに、かつ紳士的な態度でカインに近寄っていく。

「まぁ、貴方がカイン殿ですか。私もカインと申します。龍太郎様のお友達ですね」

「君もカイン!!これは偶然とは思えないなぁ……この出逢いに名をつけるとすれば、運命。僕はそう名付けますね」

苦い顔をする龍太郎の横では、カインが可憐に微笑んでいる。着替えの為に龍太郎から借りたジャージはゴージャスな造りの目鼻立ちにアンビバレンスな魅力を添えていた。

鼻の下を伸ばした夏韻はカインに近付き、出身はどこですか?等と質問攻めだ。

「オレはガッコウだけど、カインはこれから何するんだ?」

「ショッピングです。しばらく日本に滞在する事になりそうですので、持ってきた荷物では足りなくなってしまいました」

「オレが悪いんじゃないぞ」

唇を尖らせる龍太郎に、カインは微笑む。

「ええ。私達が勝手に龍太郎様の元へ参りましたので、龍太郎様は悪くありません」

「つぅか、さっきから何?龍太郎様ぁ?!何かのプレイ?」

「バカか?!何のプレイだ?!ふざけんなバカ」

怒鳴りつけた龍太郎は、鋭い視線に気づいた。カインの表情からも先程まで浮かべていた微笑みが消えている。

「朝から忙しくなりますね龍太郎様。先に済ませてしまいましょう」

「何?!済ませるって……」

大きく開かれた黒眼には、目の前に立つ病的なほど青白い男が映されていた。朝の爽やかな空気が異常に似合わない。

先日の燃え尽きた煤と恐怖が蘇って来て龍太郎が僅かに後ずさる。

カ、カインが居るから大丈夫…か?

こんな路上で止めてくれよ~、ウチの生徒ばっかりじゃねーかよ。

「ご心配は無用です。龍太郎様のご迷惑になることはいたしません」

だったら今すぐクソガキと一緒にお国へ帰って欲しい。



シュヴァイツウィンドは塞がりかけている身体中の傷をボンヤリと見つめていた。

「カイン様がいらっしゃいました。龍太郎様は無事に学校へ行ったそうです」

アイボリー色の扉を開け、那茲は全裸で窓辺に立っている子供に声をかける。

北條院の第二の別宅である高層マンションの最上階だ。那茲の趣味で家具はすべて17世紀アンティークで揃えていた。佇む子供の姿は絵画のように部屋に馴染み、豪華さを一層引き出している。

「お召し物をお持ちしました。一体昨夜は何があったんですか。満身創痍でいらっしゃるとは…」

「茲那はどうしている?」

「入院しています。人間なんて脆いものです。それでもシュヴァイツウィンド様の血のお陰で命をおとすことはありませんでしたが」

翠瞳を縁取る長い睫が伏せられた。その瞳には昨夜の動揺は消え失せていた。寧ろ迷いが失せたかのように澄み切っている。


ウィンド。

と呼ばれ振り返ったならば、美しい、脳髄が痺れるくらい美しい男が立っていた。

黒いコートを纏っているので夜の色と同化し、青白い美貌だけが浮かんでいるようにも見える。

「私の邪魔をするのか?ウィンド」

「…お前は何者だ!!王の御姿を真似るなど、赦される事ではないぞ」

男は微笑みを崩さない。見た者全てを虜にするような極上の笑みであった。

不信と恐怖が絡まる中でも、片隅に甘美な痺れがあった。

この微笑み…同じだ。

微笑む王の姿は、一度見た限りだった。

セツナ・サクラザキに向けて微笑まれていたのを盗み見た事は何度もあったのだが。

「邪魔をするのなら、消えてもらおうか。」

男を取り巻く闇が濃くなり、シュヴァイツウィンドは身構える。

違う、別人だと自分に言い聞かせるが、どこかで喜んでいる自分がいるのも否めない。

男の薄い唇が開いた。

「応龍」

届いた音に耳を疑った。

星と月の輝きが失せ暗黒に墜ちた空が動く。闇の固まりがパノラマに広がる龍の形をつくっていった。雷光瞬く眼球に大きな四本足。大きな脚を持つ有翼の天神龍にシュヴァイツウィンドは言葉も出なかった。冷静で動じることのない翠眼が揺れる。

黒碧に鈍く発光する鱗には翼が生えており羽ばたく毎に豪風を地上に落とす。羽ばたきと共に一直線にシュヴァイツウィンドに滑降する。

何故!?何故応龍を召喚できるのだ!!歴代たる王のなかでもドラゴンを操られるのはグァルツィネ様だけだった!!!何故!?

応龍の口から発せられた轟音と衝撃波に小さい身体は耐えるが、2M程流される。コンクリートに両足が埋もれていた。息を繋ぐ暇もなく、鋭い牙に覆われた口が小さい身体に噛み付いた。左腕を噛み切らずに、応龍はすぐに解放する。と当時にシュヴァイツウィンドも距離をとった。

弄られている。応龍が本気ならば最初の一撃で勝負が決まっているはずだ。

シュヴァイツウィンドは男の顔を窺った。無表情のようだが、僅かに口角があがっている。

真意が読めない……

「影!!」

茲那がシュヴァイツウィンドの目の前に現れる。片手に経済書を持っている。どうやら仕事中だったらしい。驚く様子もなく茫洋と口を開く。

「ちょっとぉ~!!いきなり呼ばないで下さいよ!!!ちゃんと事前に伝えてくれって言ってるじゃないですか~!!前なんかワナピチュ山に呼ばれてあやうく高山病にな…る………」

最後まで文句を言えなかったのは、緊急事態を察したからであった。

立てない程の切り傷、噛み傷だらけで二の腕の一部が無くなっているシュヴァイツウィンドに、見たこともない美貌の人物。それに錯覚でなければドラゴンも存在していて、攻撃範囲内に入ってしまっているようだった。

「こ、これは…どういう事態でしょう?」

「っ…翔べるか?」

「翔べます…っていうか翔ぶしかありません」

応龍が二人に向かい牙をむく。途端に雷鳴が夜空を支配し茲那めがけて雷が落ちる。

心臓が止まるほどの衝撃を受けたが、辛うじて意識は持った。急速に沸騰した血液が送られている感覚が身体中を巡る。背中に鋭い痛みを感じた。焼けこげた皮膚を服が刺激して耐え難い。目の前にまだ光の残骸がチラついて眩めかしい。

小さい手が左手首をつかんだ。激痛が身体中を駆け巡るが、茲那は眼を閉じ、途絶えそうな意識と荒い呼吸の中、安全だと思われる空間を探す。

見つけた!!湾岸交差点の今はもう誰も見向きをしない電話BOX。

「影遣い。北條院か。……ウィンド、私に逆らうようなら次はないぞ」

応龍を後ろに従えた男の漆黒の髪が暴風に夢のように靡いていた。黒いコートの裾も揺れている。

美しい、とシュヴァイツウィンドは霞む視界の中、感嘆する。

僕が知る、この世界で最も美しい風景がここにある。もう二度と見る事はないと思っていた。

月光に照らされた自らの影に溶け入る翠の瞳には、最後まで輝く美貌が映っていた。


「シュヴァイツウィンド様!!どうされたんですか?その傷は?もしかしてグァルツィネ様が?」

カインは入るなり、傷痕が痛々しい姿に驚嘆した。

それ以上にシュヴァイツウィンドの口から否定の言葉が継がれなかった事に驚きながらも、やはり…と確信する。

北條院に会う。と言い残し佳月邸を後にしたシュヴァイツウィンドが向かった先にはグァルツィネが居たのだろう。シュヴァイツウィンドが確信する確固たる証を見せられたに違いない。

「応龍だ…応龍を召喚した」

カインは眼を見開き、未だ全裸の白い身体を見詰める。

「私達の、敵…でしょうか?」

「解らん。しかし、狙いは龍太郎だ」


「佳月くん」

昼休みも終わり、5限目の用意に取り掛かっている龍太郎の手が止まった。

「八神、何だ?」

「どうして他の国のヴァンパイア達が日本に集結しているのかしら」

右手に持っていた日本史の教科書が勢いよく落下する。

「ヤダ。大丈夫?そんなに驚かせちゃった?」

「な、何って今……えっ!?えぇ!!」

拾い上げた教科書を茫然としている龍太郎の前に置く。八神薫子は龍太郎の前の席に腰かけた。

「来てるわよね。大物が。美しい血の匂いがするもの」

「お前も…………」

薔薇と蝶が施されたネイルアートを眺め、わざと視線を外す八神薫子は

「佳月くんからは全然その匂いがしない。今朝も一緒にいたよね凄いのと。何でだろう、佳月くんはただの人間っぽいのになぁ…」

呟きながら自分の席へ戻って行った。龍太郎はただ、目で追うだけであった。

こ、これは、ヤバイんじゃないか……

八神もオレの命を狙ってる仲間だったのか?こんな近くに敵が!!

どーする、誰かに言った方がいいか?

って誰だ?!

金色の巻き毛が美しい子供の顔が浮かんだ。

イヤだぁぁぁああああ!!世界が終わるってなってもクソガキだけはカンベン!!

カインだ。それしかない!!那茲那兄達よりはカインの方が事情知ってそうだもんな。

変な緊張感が持続していたせいか、睡眠時間になる午後の授業を珍しくシラフで終え、夏韻と共に渡り廊下の掃除に向かう龍太郎の肩は重かった。

途中の自販機でメロンスカッシュを買うのは忘れなかった。

「どうした?スゲー暗いぜ。ライヴのチケット取れなかったのか?」

ストローから口を離した龍太郎は、う~ん、あぁ…と気のない返事をするだけである。

「あれ?子供?うっわ…ヤバイ……カワイイ。すげーカワイイ!!」

何やら聞き覚えのある形容詞を耳にして、龍太郎は夏韻が見つめている先に目をやった。

午後の柔らかな日差しを受け、煙るような黄金色を放つ巻き毛が風に流れた。純度最高峰の宝石のような双眸は龍太郎から視線を外さない。太陽の存在を否定するかの様な肌はどこまでも白く滑らかなようだ。レザーのジャケットに身を包んだ小さな身体が近づいてくる。

「あの女も血族だが、我々には無関係だ。今後関わるな」

子供の口から、大人のような高飛車な台詞が吐かれたため、夏韻の首を傾げる。

「偉そうに関わるなって言われても、同じクラスなんだから無理に決まってるだろ」

「お前の知り合い?まさか、隠し子じゃねーよな」

「自らの身に関わる事に、随分と無関心なのだな。神経が図太いのか、鈍いのか」

口には出さなかったが、鈍いだけかと翠色の眼差しが語っていた。

「ムカツク―――!!!」

振り回される龍太郎の両腕を、小さい身体が造作もなく避けていく。後ろから夏韻がまぁまぁ、と両腕を羽交い絞めにする。

「あの女は血族でも、下位の出だ。片方が人間だからな」

そう言うとシュヴァイツウィンドは龍太郎の頭越しに夏韻を見上げた。翠眼の直撃を受けて朱に染められた頬が一瞬で蒼白に変わる。

シュヴァイツウィンドは踵を返し、霧のように忽然と姿を消した。

「あのバカ!!クソガキのヤロー!!」

危機的状況の説明に頭を抱えた龍太郎は、振り向き夏韻の様子を探る。

実はあのガキ、ヴァンパイアで、オレ王様になるかもしれないんだよなぁ~。

って言えるわけがない!!頭のオカシイ人だ!!

夏韻は焦点の合わない目でただ前方を見つめているだけであった。

奇妙に思った龍太郎が脛を蹴ると、「いてっ!」と反応したのでホッと胸をなでた。

「急に何すんだよ、イテーな」

上半身をかがめ、脛をなぞりながら龍太郎を睨みつける。

「えっとさぁ、あのクソガキは、その……あー、何て言えばいいんだ」

「はぁ?さっき寝なかったから寝ぼけてんのか?早く終わらせて帰ろうぜ」

歩きだした夏韻に龍太郎の眉間が寄った。

「えぇ?!や、さっき子供が…」

龍太郎の言葉は夏韻の背中には届かなかったようである。

箒で塵や砂を集めながら龍太郎は再度訊ねた。

「さっきの、マジで覚えてないのか?」

「あ?お前に蹴られたことか?思いっきり蹴りやがって、罰だ。何かゴチしろ。帰りにマックな」

………覚えてないのか…クソガキが何かしたんだな…

「おい、龍太郎」

「あっ、ああ。でも今日はダメだ。来週な」

「いつでもいいけど、まさかデートじゃないよな?」

「…違う…」

デートだったらどんなに良かったか…答える龍太郎の声は悲痛に沈んでいた。

とりあえず、八神は放っておいてもいいって事だよな。これ以上ゴチャゴチャ考えたくないし…

明日できる事は今日やらない。龍太郎の信条である。


帰りは北條院が迎えに参ります。とカインは言っていた。

茲那兄が来るのかな?社長の癖に暇なんだな~。二人で社長だから平気なのか?

今日はバイトもないから自転車は家に置いてきたからいいが、これから送迎が続くのか?あの超目立つ車でか?!?

校門を出てキョロキョロと高そうな車を捜していると、

「龍太郎様」

と穏やかな声がかかった。

「那茲さん!オレ茲那兄が来るかと思ってた。何か那茲さんは真面目に仕事してそうだもん」

「うん。茲那は入院しちゃってね。暫くは会えないかな」

助手席に乗り込みながら喫驚の声をあげる。

「えっ!!入院?!何で何で?!」

「…………………」

いくら待っても那茲は理由をあかさない。これ以上空気が重くなる前に、と龍太郎は口を開く。

「あの、王って言われてるっていう人のせい?」

また人って言っちゃったよ…人じゃないっつーの!!

自分で自分にツッコミを入れていると、

「僕は王にお会いした事がないから解らないけど、とても美しい方なんだってね」

「おう!!あんなにキレーな人初めて見たよ!!ヤバイって!!キレーすぎる!!!」

はしゃぐ龍太郎に、そんなになんだ。と那茲は苦笑した。何度か日本に来ていたらしい事は知っていた。小さい龍太郎様に会いに来ていらっしゃったのだろうか。

「君は王についてどの位知ってるの?」

「全然。超キレーな人って事と、クソガキが狂愛してるって事ぐらいかな……だってもう死んでるんだろう?」

「問題はそこなんだよね。シュヴァイツウィンド様は眠りに就いたっておっしゃるけど、ヴァンパイアが、特に王には死という概念はあり得ないし。どの程度の眠りなのか、誰もわからないんだ。他の血族達は王は消滅したって言うし、それぞれの見解が違うんだ」

「ふ~ん…」

「随分悠長に構えているんだね。白羽の矢が立ったせいで君が狙われているっていうのに」

大物なのか無神経なのか?おそらく後者であろうが。

「そこがおかしいんだよな!!大体人種が違うっつーの!!無理無理!現実感無い!!」

「でも、君もヴァンパイアだよ」

那茲の一言に龍太郎は凍り付いた。

「えっ…………」

「君は半分が人間だからヴァンパイアになる可能性としては50%だけど、何せ半分は王の血統だからね。そろそろ兆候が現れてもいい時期だ。例えば喉が渇くとか…」

ギクリと龍太郎の身体が硬直する。鞄の中には飲みかけのお茶と炭酸のペットボトルが入っている。

「純粋なる血統に混ざりあう不純なる50%。付加価値になるのかな?気になるトコロだよね」

ねって言われても…

龍太郎が返事に困っていると、車はゆっくりと歩道脇に停止した。ちょうどその位置に長身の何者かが佇んでいた。黒いトレンチコートに帽子を目深に被っているので、顔の判別が難しい。バックシートのドアを開け乗り込んでくる。

「おい!!何だお前!!那茲さん!!」

いいの?と問う龍太郎を無視し、那茲は話し続ける。

「その渇きはただの水分では癒せない。生命の躍動を感じられる液体でなくてはならない。効果的なのは愛しい者の血。そうですよね?グレコーリ・タム殿」

那茲がミラー越しに後部に目を馳せた。取られた帽子の中から豊かな赤髪が溢れ出る。

龍太郎は鮮やかさに一瞬目を奪われた。赤い髪なんてこれまでの人生で目にした事もない。

「うっわぁ~スゲェ~」

バックシートに釘付けになった龍太郎に構う事なく、着込んでいたコートも脱ぎ始めた。大きく胸の開いたワンピースからは病的に見える程の白さの肌がのぞいていた。彫りの深い顔立ちは滅多に日本人に見られるものではない。

「あっつ――これが残暑っていうの?嫌ねぇ。早く帰りたいわ。さぁ、王の子供は何処なの?」

「目の前にいらっしゃいます。彼が王のたった一人の御息子、龍太郎様です」

グレコーリ・タムは大きく開いた茶色の瞳を龍太郎に移す。

「似てない…全然王に似てないじゃないの!!!これがあの美しい王の子供!?」

『これ』よばわりされて龍太郎の片眉がピクリと動く。

「ちょっと、おばさん」

「!!聞き捨てならないわ。今何って言ったのよ!この私を、何て呼んだのよ!!」

目蓋が痙攣しているかのように忙しなく震えている。那茲がみても明らかに気分を害しているのが分かる。

「おばさんにおばさんって言ったんだよ」

「また言ったわね――!!」

「そっちが言えって言ったんだろ!!」

目尻を釣り上げて睨み付けるグレコーリ・タムに、負けじと龍太郎も食ってかかる。

那茲は先の見えない低度の争いに軽い溜め息を洩らした。

こんな無駄な事をしている場合ではないのに。女がすぐに感情的になるのは人間もヴァンパイアも変わらないんだな……

「グレコーリ・タム殿、先に用件を済ませた方がいいかと思います」

冷静な那茲の声に我に返ったグレコーリ・タムは、小さく咳払いして中腰から座席に腰を下ろす。

「そうね。時間もあるわけじゃないわね。王の子…えぇっと……」

那茲は小声で今一度名前を教えた。

「そう、龍太郎………様…………あなたをイギリスへ連れて行くわ。いいわね」

断言されて龍太郎は那茲を見つめた。

「ちょっと!!那茲さんからもなんか言ってやってよ。もうカンベンしてくれよ~」

「龍太郎様、少しグレコーリ・タム殿の話を聞いてみたら?一緒に行くのもいいかもしれないよ」

「え?だって…那茲さんはあのクソガキの仲間だろう?なんでそんな事……」

「仲間とは少し違うかな。僕たちは協力差し上げる立場だからね。しかし、シュヴァイツウィンド様は何と言うか、……盲目すぎる。これ程までに龍太郎様に固執する何かが、王とシュヴァイツウィンド様の間にあったに違いない」

「そうよ!!いつもいつもいつもいつも、王にベッタリして!!私だって王のお側に参りたかったのに!!あの子供は邪魔ばっかりするのよ!!!」

「王位は本来世襲制か現王が次王を指名するか、どちらかで決まるんだ。正直に言うと、ほんの一部の血族しか龍太郎様の存在を知らなかったんだよ。だから王に継承者はいないと思われていた。王が退位されたとシュヴァイツウィンド様が公言された時、次王の立候補者が出た時初めてシュヴァイツウィンド様が、王に子息がいると、仰って今に至るってカンジかな」

那茲の話をグレコーリ・タムが続ける。

「その立候補者ってのが純血種じゃないのよ。だからあの子供は王の子を言い出したのね。そりゃあ、血族を統べるのがカオスだなんてとんでもない話だけど」

「王の行方を尋ねても、眠りにつかれたとの一点張りで。まさかと思うけど、シュヴァイツウィンド様が王を…」

「馬鹿な事言わないで頂戴!!!」

グレコーリ・タムがヒステリックな声をあげる。龍太郎は眉根を寄せて耳を塞いだ。カオスという言葉の意味を聞きたかったが、口をはさめる空気ではなかった。

「王に手を出せる者なんていないわ!!世界中の血族が束になってもかないっこない。格が違うのよ!!王は誰にも……いいえ、いたわね。………一人だけ、王を打ちのめした人間が」

王がイギリスの城に滞在されている時だった。中庭を歩く典雅な王の隣に小さな人間の女が寄り添っていた。伏せた眼差しには微かな笑みが滲み、人間の女へ一心に注がれていた。笑っている人間の女の顔も幸せに満ち溢れていた。

ただの餌のくせに…

嫉妬が怨嗟に変化した日。

広大な庭園に出ている大小の影に目をとめたグレコーリ・タムは立ち止まり様子を窺った。

口論でもしているような荒々しい雰囲気を女の方に感じた。

王に歯向かっているの?!身の程知らずが!!餌の分際で。

女が王の手を振り払い、外扉へ向かい駈け出して行った。グレコーリ・タムは眼を疑った。王が女を追いかけ背後から抱き締めたのだ。しかし、グレコーリ・タムに驚愕を与えたのはその後展開だった。女は王の腕を抜けだし回し蹴りを放ったのだ。王が軽く流す隙に、脱兎のごとく外扉をくぐり抜けて行った。外扉を眺める王は、視線を自らの両手に移し溜息を吐いた。

溜息!!!?!!!王が溜息!!!!!!!

静かに王は外扉へ歩き出した。流れる銀髪がグレコーリ・タムには眩し過ぎた。

グレコーリ・タムは今一度、注意深く龍太郎を見つめ直す。

王の面影が何処にもない。遠くから眺めた事しかない、あの女に似ているような気がする。

王を血族から奪った女。王の心を奪った女。王の情けを受けた女。王に愛された女。

胸の中に溜まったどす黒い想いがかき混ぜられて、身体中に広がったような気がした。

王の子供というから、どれくらい王に似ているだろうかと楽しみにしてきたのだ。子供を保護する事になれば、王(に似ている)の子供と共に暮らし、日一日と王に近付いていく姿を見守る事ができるのだ。

それなのに………驚くほど似ていないわ!!本当に王の子供なのかしら?怪しいものね、大方あの生意気な邪魔者が間違ったんじゃないのかしら。

グレコーリ・タムは不安そうに那茲を見つめる龍太郎の横顔を眺めた。

比類なき美しさの王には似ていないけれども、可愛い顔をしているわね。息子じゃなくて娘って雰囲気ね。

「あぁ、どうして似ていないのかしら…」

バックシートの呟きがやけに龍太郎の気に障った。

「さっきから失礼なおばさんだなぁ。似てない似てないって、そりゃあ、あんなにキレーな人は滅多にいない、違うな、あの人ぐらいと思うけどさぁ」

「…今の、聞き捨てならないわ。あんた王にお会いしたの?いつ会ったのよ。どこで会ったのよ」

凄い勢いで座席にしがみ付かれて、龍太郎は条件反射のように仰け反った。

「昨日」

「何ですってぇぇぇぇぇぇぇ――――――!!!!!!!」


「ウィンド」

穏やかな声で呼ばれ、シュヴァイツウィンドは窓辺に寄った。

大きな窓からは暮れゆく陽光がゆるやかに入り込んでいる。白銀色の髪が今は黄金の輝きを放っていた。夕日よりも眩しい。伏せられた睫も黄金色で白い頬に長い影がかかっていた。

美しい。

シュヴァイツウィンドは気づかれぬ様、何度も横顔を盗み見た。その口端に違和感を覚える。

「如何されましたか?」

答えはない。愁いを帯びた眼差しだけが返ってきた。

流された視線につられてシュヴァイツウィンドも夕日を眺めた。何時の時代もこの美しさは変わらない。寂寥感が伴う儚さだ。

「セツナが死んだ」

「!?」

囁くような横顔からはどんな感情も読み取れない。

いつもそうだ。この方は感情を表わすことはない。様々な表情を見る喜びを得られたのは、…彼女だけだった。

「それは…どういう意味ですか?」

銀色の瞳が揺れるシュヴァイツウィンドの瞳を捕らえた。沈黙でシュヴァイツウィンドは察した。

彼女が…あの人間が死んだのか。

「お前なら、私を葬る事ができるな」

声が出ない。急に夕日が色褪せた。あんなにも眩しかった色が無くなってしまった。身体が揺れている気がする。否、世界が、自分の足元が振動しているのだ。

僕の世界が揺れている。

「……何を、何をおっしゃっているのか……」

「この世界に存在する意味が無くなった。私にはもう何も無い」

「……セツナ・サクラザキが亡くなったのは、いつの事ですか?」

「4日前だ。血族はお前に任せる。私に最も近く従っていたお前だ。解るだろう」

「僕達と人間は違います。セツナ・サクラザキが転生するのをお待ちになられては?」

「無理だよ。セツナは私と結ばれた。呪われた者を愛してしまった罪は重い。ましてや子まで宿したのだ。セツナは輪廻の環から外れてしまい、二度と転生する事は無いだろう。私にはもう、何も無いんだよ、ウィンド」

「……それ程までに、愛してらっしゃるんですか?」

初めて僕に向かって微笑んで下さった王の瞳には、底が見えない程の悲哀が広がっていた。

共鳴するかのように悲しさに襲われた。もう二度と王の微笑みは見るとはできないだろうと知ってしまったからだろうか。

ゆっくりと太陽は沈み、闇が支配する血族の時間が幕を開ける。


「会わせなさい!!今すぐ私を王に会わせなさいよ!!!」

襟首を掴まれて龍太郎は呼吸に困難する羽目になった。

「くっ、苦し……」

「龍太郎様!!グレコーリ・タム殿、手をお離し下さい!!」

那茲が間に入り襲い掛かるグレコーリ・タムを剥がそうとする。

「何故あんたが会えて、私がお会いできないのよ!!!」

それは息子と他人だから。

二人は考えたが、敢えて口には出さなかった。龍太郎は出せなかった訳だが。

龍太郎の顔色が赤から青に変わり始めた頃、やっと那茲は両手を剥がす事に成功した。

双方の額には汗が滲んでいる。

咳き込む龍太郎の背を擦りながら

「僕にとっての王は未だグァルツィネ様です。ですからご子息である龍太郎様に手を出すなら赦しませんよ」

憤りが収まらず肩を震わせているグレコーリ・タムを睨みつけた。

「人間如きがこの私を赦さないですって?身の程を知りなさい」

睨み合ったまま対峙する二人に水を差すかのように龍太郎が声を出した。

「ちょ、ちょっと質問!!那茲さんにとってもあの人は王なわけ?那茲さん人間だよな?」

「うん。僕の祖先は血族に忠誠を誓っているからね。一族の歴史のなかでも王は揺るぎ無い権力者であり、僕達の絶対的な指導者だ」

語る那茲の瞳には誇りと忠誠心が溢れていた。

うわぁ…ここにもヴァンパイアかぶれが居たよ…那茲さんはマトモっぽいのに。

軽く項垂れた龍太郎には気づかずに、那茲は血族の、主に王の素晴らしさを語り続けている。

「北條院、あんたの話しを聞きにきたんじゃないのよ。龍太郎……様……」

顔を向けた龍太郎に、グレコーリ・タムはゆっくり、はっきり口を開いた。

「王に、い・つ、ど・こ・で、ど・う・やっ・て・会ったのかしら?教えなさい」

「うわぁ、おばさん態度悪ぃ。どうしよっかなぁ…人に頼む態度じゃあないよなぁ…」

懲りない子供である。

再び襲い掛かろうとする怒りに満ちた瞳に、那茲は「会えなくてもいいんですか」と呪文を呟くとグレコーリ・タムは消沈した。

「龍太郎様、僕からもお願いする。僕も王にお会いしたい!!」

「那茲さん会った事ないのか?こんなに王大好きなのに?」

「好きだ嫌いだのレベルじゃないけどね。高貴な血族は会おうと思って会えるような方はいないんだ。僕が王に謁見するなんて恐れ多いし、そこまで身の程知らずじゃないよ。でも、お会いできるのなら是非!!お会いしたい!!お願いです龍太郎様!!」

「え…えーっと……どうすれば会えるかなんて知らないんだよな。あっちから現れるから…」

「そうか…」

那茲も消沈して下を向いてしまった。車内に重い空気が蔓延する。

「待って、それならずっと龍太郎…様と一緒にいれば、お会いできるって事よね!!」

「そうですね。しかしいいのですか?龍太郎様の傍にいればシュヴァイツウィンド様とお会いする機会も増えますよ」

露骨にグレコーリ・タムは顔を歪める。

あのクソガキ相当嫌われてるんだな。分かるその気持ち。生意気だもんなエラソーだし。

龍太郎は納得した風で何度か頷いた。

「あっ!!でも、カインが言ってたぞ。別人かもしれないって。髪と目の色が違うんだってさ」

「髪と目?」

「元の色は知らないけど、黒髪に黒眼だったぞ。背は高かった。そいでスゲーキレイだった」

「黒髪ですって?!別人よ!!王は眩暈がしそうなほど美しい白銀の髪だったのよ!!御髪の一本一本が芸術品よ!!瞳もプラチナのような白銀色なのよ!!その美しさったら、私の少ない誤謬ではとてもとても表わせきれないくらいの美しさなのよ!!」

「へ、へぇぇぇ……」

「あんたなんかに構ってられない!!先に偽者を成敗してやるわ!!」

グレコーリ・タムは勢いよく後部ドアを開け、車から降りてすぐに姿を消した。バックシートには帽子とトレンチコートが置き去りになっている。

「どこ行ったんだろ?セイバイって何だ?」

「昔話でいう、桃太郎が鬼退治に行く時に使う言葉かな。気にする事はないよ。悪い方ではないんだけどねぇ、少々思い込みが激しく自己中心的で、先走りの傾向にあるから、思った事をすぐ行動される。徒労に終わると思うよ」

いつもの事だといわんばかりに、那茲は冷静な態度のままなので、龍太郎はとっとと忘れる事にした。忘却は数少ない特技のうちの一つなのだ。

お腹空いてたら御馳走するよ、という那茲の申し出を断り、大量にジュースを買ってもらい真っ直ぐ家まで送ってもらった。

またあのおばさんに会う可能性もあるし、早く帰ってゲームの続きをしたいし、何よりも予感があるのだ。きっとまた逢えると。

「那茲さん、ありがとう」

「龍太郎様」

助手席のドアを閉めかけた龍太郎を那茲は引き止めた。

「くれぐれもお身体を大切に。僕が知っている限りでは候補者のアルガロイド殿は目的のためには手段を選ばない方だから…」

その特徴はヴァンパイア全種共通であることは那茲は黙っていた。

「えぇ!!それってオレはどこに行ってもヤバイって事じゃねーの?」

「もしも、もしも一大事になった時は、思いっきり茲那の名前を呼んでみて。何とかなるから」

「だって入院中じゃ…」

じゃあね。煙を巻くように去って行く那茲の車を龍太郎はただ見送った。

「入院してたら呼んだって来れねーよなぁ…」

リビングではシュヴァイツウィンドがテーブル一杯に様々な種類の新聞をならべ読み耽っていた。英字や仏字、独字もある。

返ってきた龍太郎に一瞥を投げただけですぐに視線は手元に落とした。龍太郎が口を開こうとしたら玄関から大きな声が聞こえてくる。

「ただいま帰りました」

「ただいま―――」

カインと凪の声が重なっている。

「偶然、偶然ね!!買い物前に会っちゃってさぁ、折角だから一緒に買い物したんだ~」

嬉しそうに語る凪は、一緒に買い物カートを押して新婚気分を味わったに違いない。

「日本食は口にする機会が滅多になかったので、凪殿にリクエストしてしまいました」

カインも楽しそうで、満更でもなさそうである。見た所お似合いだ。

凪は、一応カッコイイ部類に入るもんな。さすがはオレの弟。中学生なのに、オレと身長が同じっていうのは気に食わねーけど。

二人は仲良く台所で夕食の準備に取り掛かっている。

「何を話した?」

シュヴァイツウィンドは龍太郎を見ずに、話しかけた。

「何が?お前ホント態度悪ぃなぁ、友達少ないだろ」

「グレコーリ・タムが来ていたのだろう?」

「何だ、知ってんのか?おばさんなら偽物をセイバイするってどっか行ったぜ」

「成敗か。徒労だな」

地面が揺れた。

「!!地震か?!何だ?!」

中腰になって叫ぶ龍太郎に、冷たい翠眼が向けられた。

「違う。幻覚だ。あいつが来た」

あいつ?

首を傾げる龍太郎に台所から凪の悲鳴が届いた。

「ぎゃぁぁぁぁああああぁぁああぁあぁぁぁ!!!!!!!!!」

「どうした?!」

駆け寄った龍太郎も窓に眼を向け動きが止まる。これ以上開かないくらい大きく見開いた眼には、窓一杯に広がる大きな片目が映っていた。

「何だこりゃあ―――!!!!!」

アメジストを思わせる紫色の瞳である。精一杯驚きながらも龍太郎は綺麗だと感心していた。

ゆっくりとした足取りでシュヴァイツウィンドは台所に入ってきた。凪の隣に立つカインも平然とニンジンを切っている。なかなか慣れた包丁捌きだ。

「ギイ」

シュヴァイツウィンドの声に反応したのか、窓一杯に移っていた片目が一瞬にして消え失せた。

いや、元の大きさに戻ったのだった。

カインが窓を開けて中に招き入れる。その前に龍太郎に確認を取ったが、龍太郎はただ頷くしか術がなかった。

「ハジメマシテ、ギイ。オウノコドモ、ドレ?」

窓から入ってきたギイは眼を凝らさなければウッカリ踏みつけそうなほど小さかった。体長は15cmに満たないだろう。カインが差し出した掌にちょこんと乗って、龍太郎と凪を見比べている。

「嘘、これがあれ?」

「そうですよ~」

カインの気の抜けるような声のお陰で兄弟はすべて無条件に受け入れる、どこか投げやりな気持ちになった。この作用もある種の癒しなのだろうか。

「ギイは身体の一部だけ巨大化できるのです。王の御子はこちらの龍太郎様よ」

ギイは小さい紫眼を凝らし龍太郎を眇めている。

背中にネジがあったりして?それともリモコンか?オレもこんなの一個欲しい。

触ろうと、ギイに手を伸ばしかけて引っ込める龍太郎をシュヴァイツウィンドは無表情に見つめていた。

「噛まない?」

「大丈夫ですよ。龍太郎様も手を出してみて下さい」

笑いながら答えるカインの言う通り、恐る恐る掌を差し出すと、ギイは飛び乗ってきた。

おおぉ!!蜜柑より軽い!!

龍太郎は小さい紫眼と見詰め合った。凪も頭を寄せてギイを観察している。

黄金色の前髪は眉毛の上で一直線に切り揃えられ、その下には顔の半分はあろう円らな瞳が一心に龍太郎を見上げている。不揃いな長さの後ろ髪は襟足まで伸ばされていた。

同じ金髪でも、クソガキとは違う色なんだな~。キンパツって何種類もあるんだぁ~。

「何か、カワイイな」

人差し指でギイの頬を撫でながら凪が呟く。

「ああ」

龍太郎も反対の頬を人差し指で突つく。プクプクした肌の感触を楽しんでいる。

「リュータロサマ、ヤメロ」

ギイは小さい頬を精一杯膨らませた。兄弟は「アハハ」と笑いながらギイとじゃれあっている。

「ギイ、お前の主人はどうした?」

「リーサマ、クル」

そうか、とシュヴァイツウィンドはギイが入ってきた窓に眼を向けた。つられて龍太郎も眼を向けると、何時の間にか細身の長身の男が佇み、中の様子を伺っていたのだった。わざと暗闇に身を賭しているのか、シルエットしか確認できない。

カインが龍太郎を庇うように前に立った。振り向き様にギイを掴み取り

「お返ししますわ」

と窓の外に向かって放り投げた。

「ええええぇぇぇぇぇえええ!!!そんなん有り?!」

絶叫する龍太郎の隣では凪が「ワイルド…」と頬を染めていた。何事も前向きにさせる恋の魔力である。

「覗き見とは趣味が悪いな。姿を見せてはどうだ?ダリル・リー」

男の姿が消える。と同時にインターフォンが鳴った。まさか…と思いながら龍太郎が玄関を開けると男が立っていた。

ヴァンパイアって結構礼儀を重んじるタイプ?

頭の先から爪先まで幾重にも布を巻き付けたような、日常では滅多に御目にかかれない個性的な服装をした男は、双眼だけが外気に触れている。酷薄そうな蒼眼だ。右肩にはギイが飾り物のように座っている。

「お前大丈夫か?カインも酷いことするよな~ビックリしたろ?」

「イタクナイ。ギイツヨイ」

おいで、と再びギイを掌に乗せリビングへと歩き始める。男はひっそりと後から着いてきた。

何で皆オレの家に集まるんだ?吸血鬼ホイホイかオレん家は?!ギイの頬を突っつきながら龍太郎は嘆く。

「!!??」

急に視界が100度ぐらいに狭まり、息ができなくなった。

「っぐっ…うっっ………」

後ろの男に首を絞められているのだと気づいたが、両足が宙に浮いてしまっており、みっともなく暴れる事しかできない。掌のギイが落ちたことも気づかずに、もがくように首を絞めている指をはがそうとするがビクリともしない。

「龍太郎!!」

シュヴァイツウィンドの声が聞こえ、擦れゆく視界の脇に輝くブロンドを認めた気がした。

オレ、最期に見るのがあのクソガキの顔なのか……?

………嫌だ!!どうせみるなら……

咄嗟に頭に浮かんだ顔の名を叫ぼうとしたが、散々聞かされた名でいいのか、迷っている内に目の前が真っ暗になった。

「ぐっああああああああ」

背中から聞こえた咆哮と共に呼吸が楽になった。無様に廊下に崩れ落ちた龍太郎にカインガ駆け寄った。首には指の跡が痛々しく残っている。

「ゆっくり息を吸って下さい。そうです、ええ、吐いて」

「うっ、うぇっ、あー…どうなったの?」

「分かりません。ただ…」

眦に涙を浮かべながら龍太郎は大きく酸素を吸い込んでカインの視線の先を追う。

ダリル・リーの頭上に何やら球状の光の塊があった。霧が密集して輝いているかのようなホログラムの光の群衆。肘から先が無くなって立ちつくしているダリル・リーの蒼眼は驚愕の為か大きく見開かれていた。何が起きたのか、理解していないようである。途端、目の前でホログラムのような光の影が弾けて消えてしまった。眩しさに目を瞬かせている龍太郎の足元に何かが転がってきた。

ダリル・リーの両肘から先がぶつかりそうになり、うひゃぁと情けない声を上げ龍太郎はカインに縋りながら立ち上がった。

血すら流れていないので作り物のようにも感じられる。

気持ち悪……こいつ等人間じゃない!!

その通りだ。

「何者だ。貴方は…」

見開かれた蒼眼が龍太郎の顔を捉える。頭からつま先まで矯めつ眇めつ視線を移動させる。

初めて発せられたダリル・リーの声に龍太郎は違和感を感じる。長身痩躯の見るからに若い身形にも拘らず、何百年も言葉を発することのなかった仙人が初めて山を降りてきて村人に話しかけたら、きっとこんな声だと思われるほど、しわがれた声だった。

今やってるゲームの『神官』役にピッタリだ。シュワシュワしてて口の中に炭酸でも入れてんのか?この声でお告げされたら信じちゃうんだろうな~。あ、茲那兄が入院してんならお見舞いに行った方がいいよな~。カイン達も誘った方がいいのか?ヴァンパイアは病院入れんのか?

「…龍太郎様、お見舞いは後で考えましょう」

苦笑するカインに龍太郎はそうだったと改めてカインの後ろに隠れるように移動した。

左斜め前方に居るシュヴァイツウィンドが非常に冷たい視線を送ってきたが、龍太郎は無視した。

「龍、大丈夫か?」

廊下に出てきた凪が真っ青な顔をしながら問いかける。落ちている両腕をみて「うげっ」と声をあげた。シュヴァイツウィンドはリビングから出ないよう言い含め、龍太郎とカインにも入るように促した。

「さぁ、龍太郎様中へ。少しの間結界を部屋に張ります」

「う、うん」

忘れずにギィも拾い、相変わらず無表情にダリル・リーを見つめているシュヴァイツウィンドの様子が何か変だな、と思いながら龍太郎はリビングの扉を閉めた。

先ほどの光の追求よりも、目の前の招かれざる客を排除する方が先決と判断したシュヴァイツウィンドは口を開いた。

「王の子に手をかけた罪は重い。覚悟はできているな」

「偉大なる王はもういらっしゃらない。ふさわしい器をもった方が玉座を手にされる。それは人間ではない」

「ふさわしい器と言うならば、アルガロイド程相応しくない者もいないだろう。全てにおいて劣っている者が王とは笑止だ」

「人間を王に仕立てようとしているものが何を言うか」

「人間?違うな。佳月龍太郎は純血種だ」

口角を上げ艶麗に微笑むシュヴァイツウィンドの翠眼が血を塗したかのように鮮やかな緋色に変化した。

様々な轟音と効果音が交わされる廊下の戦場はとりあえず、無視することにして、リビングにいる4人(ヴァンパイア・ギィ含む)はソファに座りシークヮサー×ポカリジュースを手に無理やりリラックスを決め込んだ。龍太郎は指跡を消すため首に温めたタオルを巻いていた。

「ねぇカインちゃん、さっきの布グルグルの人って誰?」

「そうだ、あの腕ってまた生えてくるのか?」

目を輝かせながら質問してくる兄弟は絵に描いたようにそっくりだった。安全と思われる場所で不謹慎にもこの状況を愉しんでいる様子である。

「あれはダリル・リー。血族です。アルガロイドの手の先に堕ちたのでしょう。分かりやすく階級で表しますと、あれは5段階中の3ですね」

「5段階?」

「分かりやすく表現してみました」

何それ?と兄弟が首を傾げるので、カインは手近にあった紙に書いて説明した。

「へー、じゃあ純血種は1?」

ジュンケツシュって何?と凪に訊かれたので龍太郎は、ヴァンパイアの超エライ奴。と答える。

「いいえ。純血種は絶対的な存在なので、階級では括れません。人間に対しての神のような存在に近いですね。純血種以上の存在はあり得ませんから」

爽やかな笑顔で自らの存在を神と同等と言い放つ少女に二人は乾いた笑いを発するだけであった。

「クソガキ一人で大丈夫なのか?あいつ小っちゃいから不利じゃねーの?」

「杞憂です。ダリル・リーも王属騎士団で腕に覚えはありますが、シュヴァイツウィンド様の敵ではございません。王属騎士団とは王の楯になる権利と義務を持っています。グァルツィネ様以前の王の時代は私も所属していました」

これでも私、力には自信あるんですよ。と微笑むカインに、何となくわかる…と龍太郎は頷いた。

「じゃぁ今は?」

「私はグァルツィネ様の側近です。他に2名。もちろんシュヴァイツウィンド様もです」

カインはグァルツィネが王になる時分、声を掛けられたのだった。私の傍で、つかえる者が欲しいと。王属騎士団はその後、ダリル・リーを迎えて定数の7人になったのである。

「ナナ!!ソウゾウノヒ!!」

ギイの言葉にカインは微笑む。

「良くご存じですわね。地上の創造は7日で行われ、7つの封印、7つの金の燭台、神の怒りに満ちた7つの鉢、7つの災害を携えた7人の御使い。ダリル・リーはアルガロイド側に堕ちたのでしょう。カオスの王が誕生するなんて太陽と月が結ばれるくらい有り得ないことですわ」

「そうだ、そのカオスって何?」

説明がまだでしたね?とカインは話を進める。

「絶対的存在の純血種に対しての、不純なる存在。カオスとはヴァンパイア以外の血統が混ざってしまった血族をそう呼んでいます。今カオスは、人間と混ざった血族が最も多かったと思います。カオスは意思の疎通も困難ですし、飛ぶこともできません。身体の再生能力も乏しいものです。おそらくあの両腕は再生不可能でしょう」

「へー、ハーフって事か。オレもそうなるのか?」

カインは龍太郎の顔を5秒間見つめて眉根を寄せた。

「龍太郎様は、少し違う気がしてきました。日本に来る前、シュヴァイツウィンド様から聞いたお話だと紛れもないカオスだと思っておりましたが……」

カインは首を傾げる。

龍太郎様が覚醒されると、カオスになるはず…しかし、何故覚醒の必要が?!カオスは誕生したその時から喉の渇きを覚えるヴァンパイアなのに、龍太郎様は最近まで渇きが全く無かったと…変ですわ。今の龍太郎様はどう見ても人間にしかみえない……

「龍太郎様が、喉が渇き始めたのはいつ頃からですか?」

「えぇ~っと、いつだったっけ…」

「あの時だ!!龍が当番の時、飲み物しか買って来なかった時あっただろ!!大体龍はさぁ、一つの事考えると他に気がまわんないんだよな。そこ直した方がいいぞ。料理も俺より下手だし、入れるなって言ったのに電子レンジにゆで卵入れて爆発させるし」

「おい、それ今関係ねーだろ!!凪こそイチイチ細かすぎるんだよ。洗剤使い過ぎとかそんなの知らねーよ!!」

「俺は細かいんじゃなくて計画的なの」

「それで、いつ頃なのですか?」

兄弟は声を揃えて言う。

「2か月前」

「カイン」

兄弟の声と重なって子供特有の少しトーンの高い声が聞こえた。

シュヴァイツウィンドがドアを開けカインを呼んでいる。

失礼します。と徐にカインは立ち上がりドアの外に消えた。

凪が追ってドアを開けたが、そこには先ほどまで繰り広げられていたであろう戦闘の後も、ヴァンパイア達の姿もなく、ごく当り前の日常の風景しか残っていない。振り返った凪が一言。

「メシ食おっか」

「そうだな」

食事の支度の続きを2人で始め、ヴァンパイア達の分も準備をしたが、戻ってきたのはカインだけだった。しかし「この家の結界を強力にしましたので、今後はご安心ください」と一言だけ告げてまたどこかへ行ってしまった。

テーブルの上に足伸ばし座っているギイは両腕でトマトを抱え食していた。随分とトマトが重そうである。

あぁ、小動物って癒しだ……

「お前さぁ、心配じゃないの?」

「リーサマツヨイ」

「そうですか…」

その日の晩メシは何の味もしなかった。

一応オレは殺されかけたわけだけど、ん?オレって被害者?そして正体不明…

でも、でも……

うぉぉぉぉぉおおおおおお!!眠れない!!考える事が多すぎて眠れない!!!

こんな時は、コレだぁぁぁぁあああ!!

今日中にエンディング見てやるぜぇぇぇぇぇえええ!!


「龍、龍」

凪の声で起された龍太郎は、コントローラーを握り締めて寝ていた事に気づいた。

「あ…寝たのか、お前エンディング見た?」

「見てねーよ。俺が起きた時、龍熟睡してたもん。それよりさぁ、見ろよ」

龍太郎の左手のすぐ傍で、ギイが小さい腹を規則的に上下させながら熟睡していた。

「危ね~。寝返り打ってたら潰してた~」

「見たくない?俺らと同じ身体してんのか」

「えぇっ!!……女の子じゃ…ないよな…男?にも見えないなぁ」

兄弟は腕を組んで考えた。考えて、考えて考えて、考えた。

「よし、見よう、見て確かめなければならない。これは人類に与えられた新発見だ」

仰々しく龍太郎はギイの魔術師のようなツバメ服に手をかけた。

が、ギイの服が余りにも小さく、龍太郎の不器用な手の動きでは脱がせる事ができなかった。

四苦八苦しているうちに、ギイが目を覚ました。

「リュータロサマ」

「わぁあっ!!お、おはようギイ」

「別に、変な事しようとしたんじゃなくて、服を脱がせようとしただけだ」

「フク?ヌグ?」

ギイは大きなあくびをしながら、服を脱ぎ始めた。

「わっ!大胆」

凪がからかうような声をかける。

「ヌイダ」

「……………」

「……………」

ふぅ~ん。異口同音に兄弟の感想は簡素なものだった。


今日は土曜日だよな~。

階段を降り、リビングに向かうと千瑛が朝食を終えた所だった。今日もスーツ姿である。

旅行代理店に勤めている為、世間の休日とは無関係なのだった。

「休みだからってゲームばかりするなよ」

凪の肩に乗っているギイに驚きながら、立ち上がる千瑛の向かい側に当然の如く、シュヴァイツウィンドが座り日本茶を飲んでいた。兄弟に一瞥を投げつけただけである。

「おはようございます龍太郎様。凪殿。朝食の準備ができております」

カインはどこで買ってきたのかふんだんなレースにまみれた冗談のようなエプロンを着けた格好で二人分の朝食をだした。厚焼き卵、味噌汁に鮭、何故かスコーンも添えてあった。

「スゲー、カインちゃんが作ったの?ウマソー」

すぐにでも食卓につきたそうな凪を引っ張り、玄関で千瑛を見送った。

リビングン戻りながら龍太郎はこの3日間に会った事を思い返して溜息をついた。

あいつ等が来たのって一昨日か…もう1週間ぐらい経ってる気分だ…

「ヴァンパイアって太陽の光を浴びても灰にならないんだな~。昨日のグルグル巻きのヤツは顔良く分かんなかったけど、皆スゲーよな。カインちゃんの可愛さはハンパねーもんな。超カワイイよな!!あの子供も綺麗な顔してるし、一回だけ見たあの背が高い人もマジヤバイ!!人間じゃないって言われた方がわかる。」

あぁぁぁ………確かに、顔だけでいえばそうかも。

んん?味噌汁にスコーンって意外と合うぞ!!

「食事を済まされたら北条院の所へお見舞いに行かれますか?随分と気にされてましたよね」

「あ!!そうそう!!凪も行く?あ、そう。え~っと…」

龍太郎はソファに移動して新聞を読んでいたシュヴァイツウィンドの姿を探したが、テーブルに何種類かの新聞が神経質に折り畳まれて重ねてあるだけで、子供の姿はどこにもなかった。

1ヶ月に4回しか活動しない毒茸研究会があるという凪と家を出たところで別れ、自転車の後ろにカインを乗せて龍太郎は意外と近所にあった病院を目指す。頬に触れる風が気持ちいい晴天である。



「お前はどう思う?ウィンド」

「……意味はないと考えます。僕たちが今、ここに存在する事実がありますから」

「事実か、それなら意味はいらないな」

いつになく饒舌なグァルツィネの視線の先には小さな人間の姿が映っている。規則正しく胸を上下させソファに横になっていた。

王は、この人間を城に置くようになってから口数が増えた。黙っていても伝わる我々と違って、人間は言葉を発さなければ伝わらないのだ。何と煩わしい。

「私は間違っているか?」

咄嗟に否定はできなかった。

僕には解りません…

「交配は歓迎されない血脈同士ということしか申し上げられません」

「その通りだ」

この人間の処遇をどうするつもりなのか、シュヴァイツウィンドは理解に苦しんだ。同じ時間を共有するのならば、人間のままでは不可能だ。かといって手放す様子はない。セツナ・サクラザキには所有の証もないのだ。

首筋に幽かに残るはずの所有の印。ヴァンパイア同志が同じ餌を食わないように残される印。

いつまでたっても彼女にはその印がつけられることはなかった。

餌ではないのか………だとしたら………



「こんにちはー。茲那兄元気ぃ?」

個室のドアを開けると、身体中に包帯を巻きつけたミイラ男のような茲那がベッドで寝ていた。

部屋の中は色とりどりの花で飾られていた。

これって店の開店でしか見ないような花飾り?だな。

茲那は眼だけ動かし、入ってきた龍太郎とカインに微笑んだ、ように見えた。

「せっかくプリン買ってきたのに、それじゃあ食べられないよな~。オレらで食べちゃおうよ」

「何!?食べる食べる。口は動くんだよ!!ちょっと、起して頂戴」

いたたたたた…と龍太郎の助けで起き上がる茲那にカインが叱咤する。

「情けないですわね。影遣いの名が泣きますわよ」

「カイン様達とは身体の構造が違うんですよ。一緒にしないで下さい!!」

「カゲツカイ?何それ?」

「北條院は代々影遣いの家系です。影が在る所にはどこでも行けるし、影に潜って他の場所へ跳躍する事もできるのです。もちろん影のある場所で呼べばやってきます」

「へー。そっかぁ、それで那茲さんが呼べって言ったのかぁ。凄いなぁ茲那兄、カッコイイ~」

感心する龍太郎に茲那は眼を細めた。

カワイイなぁ~素直なイイ子だ。王の御子だけあるなぁ。そういえば!!

「カイン様、あの時シュヴァイツウィンド様と一緒にいた美しい人って……」

「グァルツィネ様です」

「やっぱり!!この世の者ならざる気品と高貴な雰囲気漂ってもんな~。かなり緊迫した状況だったから綺麗だったって事しか覚えてないのが悔しい」

「超キレーだよな!!同じ人間とは思えない!!あ、違った人間じゃなかった」

アハハハハと声を揃えて笑う二人にカインはお土産のプリンを取り分けた。龍太郎にはグレープフルーツソーダを添えてあげた。咽ながら一気に飲み干す龍太郎を見て微笑む。

「う~笑うと包帯が擦れて苦痛だ…」

「治るのに時間かかりそうだな。ところで茲那兄、何で全身火傷したんだ?」

「聞いてない?龍太郎様のお父上とシュヴァイツウィンド様の対決の場に呼ばれたんだ」

「えっ!?対決!?王命みたいなクソガキが対決したのかぁ…」

「クソガキって、龍太郎様、自由だなぁ……」

「茲那兄はこんなに重症なのに、アイツは全然怪我してないぜ?」

「あの時はシュヴァイツウィンド様もボロボロだったんだよ。基本的に不死身だから傷とか怪我は問題ない…ですよね?」

「ええ。ダメージの大小はありますが、時間が経てば元に戻ります」

「便利な身体だなぁ、ヴァンパイアって」

「それにね、血には治癒能力があるから、シュヴァイツウィンド様の血のお陰で、こんなに元気になったんだよ。ホントならまだ面会謝絶状態だよ」

「こんなにって、全然健康的じゃねーよ」

まぁ、そうなんだけどさぁ。と茲那は包帯しか見えない自らの身体を見下ろした。

「でもさ、入院中ならやり放題じゃん」

龍太郎は両手でコントローラーを操る動きをした。

「そうでもないんだよ。ちょっとした動作が擦れて痛いんだよ。動くとギシギシいってるし大人しく寝てるのがイチバン楽」

心底悲しそうに茲那は溜め息をついた。ベッド脇に設置されている大型テレビでゲームできたらサイコーだろうな~という思いで二人は目を向ける。

カインにプリンが渡っていなかったので、龍太郎はクリーム抹茶プリンを手渡した。

じっと見詰めているだけである。

「食べないのか?それ超ウマイぞ」

「折角ですが、龍太郎様がどうぞ。お好きでしょう?」

「あぁ、血の方がいい?」

花がほころぶように鮮やかにカインは微笑んだ。

ううっっカワイイ!!オレのハートに直撃!!

プリンよりも血の方がいいのか~ヴァンパイアだもんな~。

もしかして、オレもそうなるのか?!

何度も聞いた台詞が頭をグルグル廻っている。

その渇きを癒すのには、愛しい者の血を飲むのです。

愛しい者って……誰だろう?凪とか?父さん?何か違う気がする。

咄嗟に浮かぶ人がいないなんて、オレってさみしい人生送ってるかも……

溜め息がプリンの味を濁していった。


土曜日の夜は何だか眠るのがもったいない気がする。明日はアラームも気にせずに思いっきり寝ていられる。いつもなら夜通しコントローラーを手放さないのだが、この夜は違った。

無性に月が眺めたくなり、窓越しの満月を愛でていた。

月って白いんだなぁ~。子供の頃、月の絵は黄色で描いてたんだけど、違うよな~。白銀色?

誰かを想い出す。

「超キレイだよなぁ」

瞼の裏に焼き付いている肖像が窓の外に現れた。

「あっ!!!」

叫ぶなり龍太郎は外を目指して階段をダッシュで駆け降りる。玄関を開けると男が立っていた。月の光を纏い恐ろしいまでに眩めく玲瓏な美貌に僅かながらの恐怖を抱いた。

キレーすぎるんだよな、この人。また間違った……人じゃなかった。

息を切らせている龍太郎に微笑みかける。

「急がなくてもいいんだよ」

「う、うん。ど、どうしたの?」

「龍太郎の顔がみたくなって」

男の冷たい手が龍太郎の上気した頬を撫でる。

わわっ、し、心臓が、ヤバイ………緊張する……

「もしかして、ずっと外に居た?スゲー冷たい」

「体温が無いからね。気になる?」

勢いよく龍太郎の頭が左右に振られた。

「えーっと、どうしよう…取り敢えずオレの部屋行こう…かな?」

「行こう」

腕を取られて龍太郎が男に引っ張られる事になった。

引きずられる龍太郎の姿を、星空の中小さい子供が見つめていた。

熟睡するギイを踏まない様に隣り合ってベッドに腰掛ける。部屋中に広がる甘い香りに胸が騒いだ。恐る恐る視線を向けると、存外近くにあった漆黒の瞳が龍太郎を映していた。

「私に、話しがあるのではないか?」

「う……うん、聞きたい事はイッパイあるし、分からない事もありすぎて困る」

「時間は沢山あるんだ。一つずつ話してごらん」

夜の色をした瞳に龍太郎の不安そうな顔が映っている。

「あの…え~っと…オレ、名前知らないなぁと思って、それに、ホントに父親なのか?オレもヴァンパイアなのか?なんでこんなに喉が渇くんだ?オレはこれからどうなるんだ?」

矢継ぎに質問する龍太郎の手に男が触れる。

冷たいと感じた手の、触れる動作は優しかった。

「私はグァルツィネ・リュオーク。君はセツナと私の愛しい子…龍太郎。君と私は同じだよ」

「………………………」

言葉もなく俯く龍太郎に、グァルツィネの声は続く。

「喉が渇くのは君の身体が血を欲している証拠。身体が求めているものを飲み干したら、君は完全なる血族になる。恐らく私と同じ三龍を操る事も可能だろう」

「サンリュウ?」

「三匹の龍だ。見たい?」

「見る!!」

目を輝かせる龍太郎に、グァルツィネは柔らかく微笑んだ。

ゆっくりと目の前にかざされたグァルツィネの両手が薄暗く光った気がした。

「何だ?!」

圧縮された重力のようなものを感じて龍太郎は辺りを見回した。まるで深海にいるような緊張感に包まれる。(深海って行ったことないけどな)空気が濃くなり身体がビリビリと痺れる感覚に襲われる。

グァルツィネが視線で上へと促す。見上げた龍太郎の口はポッカリと大きく開いたままだった。喫驚に言葉もでないようである。

広くはない部屋の天井に、ホログラムのような龍が三匹、とぐろを巻いて漂っていた。折り重なっているのはいかにも窮屈そうである。龍太郎の眼にはどれも同じ姿に映ったが、三匹共種族が違うのであろう。胴体の長さも違えば髭の長さも違う。覆い尽くす鱗も様々なものであった。

蛍光灯よりも眩しく、汚れなき水流のように透き通っている。

「!!!!!スゲー!!何これ?!スゲー!スゲ――!!!!!!」

小躍りしそうな程喜んでいる龍太郎は、気づくことがあった。

「このキラキラって、もしかしてあの時光ったヤツか?」

「うん?ああ、ダリルの腕を食い千切ったんだ」

………………

下を向いて押し黙る龍太郎に

「大丈夫。龍太郎の味方だよ。怖くない。」

楽しそうに笑いながら、噛まないよとグァルツィネは息子の髪を指で梳く。

何か起こっても、グァルツィネが居るから平気だろうと龍太郎は気を取り直して再び天井を見上げた。

「おぉっ!!一匹だけ翼が生えてる――!!」

はしゃぐ龍太郎は一匹の龍と目が合い、竦んで黙り込んだ。身体が硬直している。

「……」

すっかり身体が小さく縮まった龍太郎に

「では、別な姿で」

グァルツィネは囁いた。それを合図にか、三匹の龍の姿は変わっていく。

大きく開かれた龍太郎の眼が、驚愕を伴って限界まで大きく開いていった。

「ウギョッ」

大きな足がギイを踏んだらしい。それでもギイは目を覚まさず眠っている。

今、龍太郎の目の前には三人の見知らぬ人物が半透明で立っていた。

「応龍」

呼ばれた人物は一歩前に進み出て、龍太郎の前で礼をとった。短い深緑色の髪が額に掛かる。足が馬鹿に大きい。50cmはあるだろう。驚くのは足の大きさだけではなく、背中は羽が覆っており小さく畳まれていた。身長はシュヴァイツウィンドと同じぐらいである。他の二人もさほど変わらない大きさだった。

この足で踏まれてギイは可哀相に、痛かったんだろうなぁ。

龍太郎は熟睡するギイに同情の眼を向けた。

「蛟龍」

この人物は長く蒼い髪を腰まで伸ばしており、鈍色で魚のような鱗に覆われた両腕を剥き出しにしていた。

に、人魚?違った龍だった。泳げるのかなコイツ。そもそも龍って何?蛇の仲間?

「日本では水神、天神、海神、神そのものとして崇められている事が多いかな。己の非を悔い改め、鎮魂し加護を願う。雲雨を自在に支配する神通力を持つとされている。他の国では暗黒の象徴として嫌われているところもあるよ」

「へー。神様ねぇ…」

神様って、こんなん?

「神にも様々な概念がある。永遠の霊的な唯一の至高神と、超自然的存在。今は後者かな」

「へぇぇぇぇ。よくわかんないけど、そうなのかぁ…」

「蟠龍」

半歩進み出た人物の琥珀色の瞳が、上目遣いに龍太郎を覗き込んだ。

前の二人?に比べればインパクトが薄い。どこか頼りなさを感じさせる。

コイツ、絶対点呼とかで名前呼ばれないタイプだよな。でも三人…三匹?の中でイチバンキレイな顔してる。この人には負けるけどな。また人って言っちゃったよ。最初の奴がワイルド系。次のがクールビューティー系。で、今のが薄幸美人系。ってカンジか。男?女?もしかしてギイみたいなカンジか?古典の教科書に出てくる短歌を詠む人のような格好だな。巫女さんっぽい?ん?女じゃないか?でも、男っぽくもないなぁ。

「まだ怖い?」

「そんなでもないかな…何か、スゲー和風な名前だな」

「セツナがね、そう呼んでいたんだ」

グァルツィネの視線が龍太郎を通り過ぎて、想い出を探っているようにみえた。寂しそうに見えたのは龍太郎の気のせいだったのだろうか。

「コイツ等って男?女?」

「性別は無いよ」

三人は元の龍の姿に戻り、瞬きよりも速く消え失せた。

スゲーこれを操れるなんて、オレって勇者みたい?うわぁカッコイイ~。

あれ?そうなるとオレは………

「ヴァンパイアになるとどうなるんだ?」

「老いなくなる。きっと今の龍太郎の姿のままにね」

「えぇぇぇえ~このままかぁ……オレはもっと成長するハズなのに~ん?死ななくもなる?」

「存在するスピードが人間とは違うからね。私達にとって君たち人間の時間は瞬きぐらいにしかならないよ。そして死に繋がる事由はほぼなくなるね。中には首を切られると死ぬ者もいるが、私達はどうだろう試した事がない。確実に自らを葬る方法は、絶望する………存在の意味を失う事かな」

「?どういう……」

質問の答えは返ってこなかった。漆黒の目が瞼の裏に隠れ、長い睫の影が白い頬に落ちる。龍太郎は追従できずに、ただ飽きる事なくグァルツィネの顔を見つめる。静まり返った室内には無機質な時計の動きだけが響く。

「3時だね。寝なくて平気?」

「もうそんな時間?!明日日曜だから大丈夫だけど、何か眠れない」

「そう。龍太郎は高校生だね。学校は楽しい?」

二人は離れていた時間を埋めるかのように話し続けた。主にグァルツィネが質問し、龍太郎がそれに答える形式であった。時折セツナもそうだった、と答えるグァルツィネが酷く儚げだった。

ヴァンパイアも哀しむんだ……

日頃高慢なシュヴァイツウィンドを見慣れたせいか、グァルツィネの表情に心がかき乱され落ち着かない気分にさせる。

母さんが生きてたら……

「龍太郎?」

気が付いたらグァルツィネを抱き締めていた。

「…オレ、ヴァンパイアになるかは、わからないけど………つーか、どっちかと言うとなりたくないんだけど、それでも………それでも、グ…グァツ…?グ、グァルツィ…ネさんの傍にいる事はできる……と思う……」

目尻を赤くしながら囁くように呟く龍太郎の耳朶を甘い吐息が擽った。

優しいね、龍太郎は。

ビクリと龍太郎は真っ赤な顔のまま硬直しながら腕を解く。離れていく両腕を冷たい指先が掴み留める。

「でも、その呼び方は嫌だな。他人行儀だし呼びにくいだろう?」

グァルツィネは小さい子供に確認するかの様に耳まで赤い龍太郎の顔を覗き込んだ。音も立てずに黒髪が肩から流れ落ちる。

「う、うん。確かに何て呼べばいい?」

「パ」

「異議あり!!!絶っっっ対無理!!無理無理無理無理無理!!!!オレのキャラじゃない!!!」

「……………」

「……………」

「王様?」

「…無粋だね龍太郎」

「…リュオークさん」

「嫌だ」

「……お、親父っていう雰囲気じゃないんだよな~。そんなこと言ったらクソガキとカインに刺されそうだ~。!!父上?!」

「嫌だ」

「父さん」

「……………」

結局竜太郎が根負けし、シュヴァイツウィンドの望む呼び名で決定された。

何時の間にか寝ていたらしい。

龍太郎が目を開けると、闇だった。

闇だと思ったら、それは黒いシャツだった。見覚えがある。昨夜ずっと見ていた…

頭の感触も変だ。いつもの枕じゃないぞ。低反発なカンジがしない。筋肉質な腕っぽい………

「!?!」

腹筋を使い勢いよく起き上がったら、枕元から「おはよう」と無防備な寝起きには刺激が強すぎる低音の艶やかな音がした。

「まだ子供だね。寝ると体温が上がる。私の身体も暖かくなったよ」

寝癖が酷いと、グァルツィネも起き上がり龍太郎の後ろ髪を弄る。

首筋に指が触れる度に、龍太郎の顔は赤味を増していった。

オレ、こんなにキレーな人と一緒に寝てたのに、何にも覚えてね――――!!!!不覚!!!

きっと寝顔も超キレーだったと思うのに~!!オレのバカバカバカバカバカバカ!!!!

龍太郎が止めるまでグァルツィネは後ろ髪を楽しそうに弄っていた。

カーテンの隙間からは朝日が覗いている。時刻は10時を過ぎていた。


胸の前に掲げた右手を2回握り締めた。

落ち着け、落ち着け、落ち着け、落ち着け、平常心、平常心、平常心、平常心。

先程からドアの前で立ち尽くしている。ノックができていない。

今なら引き返せるけど……けど………

「いでっっ!!」

内側から開いたドアに額を強打し、思わず呻き声があがる。

「まぁ、ごめんあそばせ。人の気配がすると思ったら……」

「痛っっ……こっちこそごめん、こんな処に立ってて」

「何かご用がおありでしょう?どうぞ」

促されるまま中へ入った。

キメる!!今夜こそキメる!!

凪は額を抑えたまま、未だ懐かしさの伴う母親の部屋を見回した。

母さんが死んでから入るの初めてだ。掃除は父さんがやってたし。別に用はないしなぁ。

視線を上げてカインが微笑んだ。

「眠れないんですか?」

「えーっと、その…あの……………そうじゃなくて、えーっと……」

カインは小首を傾げて凪の言葉を待っている。

自分の心臓の音が耳のすぐ近くから聞こえてるようで、やけに大きく響いている。

負けんな俺!!自信持て!!頑張れ俺!!

凪は大きく、大きな深呼吸をして気合を入れた。

「カインちゃん!!俺カインちゃんが好きなんだ!!大好きなんだ!!!」

言うだけ言って凪は目を閉じた。沈黙、沈黙、沈黙。

「……………」

「……………」

続く沈黙に耐えられず、凪は薄目を開けると目の前には無表情なカインに見つめられていた。

「それが何の意味を持つのです?」

「え?」

凪の目が大きく瞬いた。

「私と凪殿はあまりにも違います。例え貴方に気持ちがあったとしても成就されるべき事ではありません」

「……なんだよそれ」

「他にご用がないのでしたら、御引き取り下さい。私は出かけます」

「こんな夜に?どこに?」

「食事です」

「…………………」

身体を反転させて、凪はドアを開けた。

が、大股でカインの所に戻り、キツく抱擁する。

「俺は好きだから!!そんな事言われても、好きなもんは好きだ!!」

鼻腔を擽る甘い香りに心をグラグラ揺らしながらも、すぐに腕を放し廊下へと走り去った。

カインは力なく、その場に崩れ落ちる。しかし、俯いたその表情は先ほどと何も変わり無かった。

腕から仄かに甘い残り香がたち、凪の涙を誘った。

振られてない、俺はふられてなんかないぞ―――!!!!

明日日曜でよかった……目が腫れるかも………


食卓には龍太郎しかついていなかった。

凪が遅く起きてくるのはいつもの事である。シュヴァイツウィンドの姿が見えないが、寧ろいないほうがいい。カインも姿を見せないのが不思議だった。密かに朝食を期待していたのである。グァルツィネは朝が苦手だと姿を消していた。

「龍太郎」

「わあぁぁっ!!」

椅子を転ばせる勢いで立ち上がる龍太郎の目の前にいつのまにかシュヴァイツウィンドが座っていた。何が起こっても形が崩れそうにない白シャツに紺青のリボンを結んでいる。いつも思うが、高級そうな服装である。グァルツィネも然り、カインにおいてはそんなに生地を使う必要があるのか?とブランドに問い合わせたいくらい嵩張る洋服だ。

「座れ」

当然のような命令口調で、龍太郎は苛立つ。癪なので立ったままでいた。

龍太郎の子供らしい抵抗は気にもかけずにシュヴァイツウィンドは話し始めた。

「お前はヴァンパイアになる覚悟はできたのか?人間のまま王になるのは憚れる。グァルツィネ様と会ってその覚悟を固めたか?」

「はぁ?オレはオレのままだ。ヴァンパイアにはならねーよ」

「……グァルツィネ様から生まれた者とは思えんな。愚かな人間め」

「何だと――!!オレはこのままでいるって言っても文句言わなかったぞっ!!それに王なんて……王なんて話はしてなかったかぁ~。うん、してない。忘れてたなぁ…つーか、パパがいるんだからオレが王になる必要ねーだろ?」

龍太郎は両手で口を押さえた。耳まで真っ赤になっている。

う、うわぁぁ~!!言っちゃった!!よりによってクソガキの前でパパって言ってしまった。バカにされそうだぁぁぁ。

激しく落ち込む龍太郎に対してシュヴァイツウィンドは無言であった。龍太郎には分からなかっただろうが、珍しく人間を褒めたのである。心の中で。

なるほど、こいつもなかなか良い事を言うものだな。王はグァルツィネ様だ……

龍太郎を王に!という観点に縛られていて、思い付かなかった。

愁いが晴れ、心なしか表情が柔らかくなる。あまりに僅かな変化故、龍太郎には分からない。

何だこのクソガキ、オレと話したくねーのか?だったら話しかけんなっつーの!!!

立ち上がったシュヴァイツウィンドに龍太郎はファインティングポーズを取った。

「邪魔をしたな」

目の前から小さな姿が消えた。

何の用だったんだ一体。やっぱムカツク。

怒りにエネルギーを無駄に消費してしまい、急激に腹が減った龍太郎が台所を物色していると、

「おはよ」

この世の終わりを迎えたかのような重く沈んだ声がかかった。

「凪?!なんか、一晩でゲッソリしてねーか?」

周囲を見回して、胸を下ろし、凪は「何か作ろうか?」と焼きそばを作り始めた。並んで座り焼きそばを食す。凪はなかなか箸が進まない様子であった。

「どうしたんだよ、ウマイぜ塩焼きそば」

食わねーなら頂戴と促されるまま、皿を龍太郎に押し出す。

俺さぁ……地獄の底から響いてくるようなおどろおどろしい声で凪が話し始めた。

「自慢じゃないけど、俺って結構モテるんだよな。去年のチョコだって俺の方が多かっただろ?」

嫌な記憶が蘇って来て、渋々龍太郎は頷いた。

「でも!!たった3個の違いだったじゃねーか!?」

「3個でも勝ちは勝ちだ。……そんな事はどうでも良くて、もう俺どうしていいか……」

「何だよぉ~恋の悩みかぁ?」

茶化すような龍太郎の声に、頭を抱えた凪の動きが静止する。図星らしい。

「龍は今、好きなコいる?」

「えっ…………」

誰も浮かんでこなかった。

やっぱオレって愛の無い人間?愛が不足してんのか?

「俺思ったんだ、自分の好きな人が自分を好きになってくれるのって奇跡だなって……」

奇跡だよ…と、しみじみ語る凪の目は潤んでいた。

えっ!?コイツ恋の病にかかっちゃったわけ?ヤバイぞこれは誰にも治せない。

「で、相手は誰だ?もしかして、もしかしてだけど、カインじゃないよな?違うよな?」

凪の動きが再び静止する。龍太郎と視線を合わせないように、目を泳がせている。

「止めろ!!どうがんばっても止めろ!!カインは可愛いけど、あのクソガキと同じなんだぞ。可愛いけど、実は結構酷いんだぞ。可愛いけど……越えられない壁があるんだぞ?」

両肩を揺する龍太郎の手に思わず力が入っていた。痛くはなかったが、勢いに凪は顔を歪めた。

「……チクショウ、分かってるよ」

何かが、何かが凪の中でプッツリと音を立ててちぎれた。

「うるせー!!彼女もいないお前なんかに言われたくねーよ!!」

立ち上がる凪の勢いに、椅子から転げ落ちそうになったが、何とか踏ん張って椅子を倒しながら立ちあがる。

「そんなの今関係ねーだろう!!彼女いないのはお前も同じだろうよ!!」

「大体高校生にもなって、休みの度に俺とゲームしてんじゃねーよ!!ちっとはデートぐらいしやがれ!!」

「勝手にオレの部屋に入ってくるのはお前の方だろうが!!迷惑してるんだよこっちは!!!」

お互いの襟首を掴み合ったところで、従容な声が響いた。

「随分と暇なんだな。羨ましい限りだ」

龍行虎歩に、先程消えたシュヴァイツウィンドが兄弟の脇を通り抜けて行った。冷蔵庫から8枚入りの食パン袋を取り出し「頂く」と龍太郎に声をかけ、返事を待たずに玄関に向かって歩き出した。

急速に怒りが萎えた兄弟は、無言のままお互いの胸倉から手を離し、そのままハグをした。昔からの兄弟喧嘩の仲直り方法である。物心ついたときから仲直りは、セツナの「ハグは?」という叱咤だった。

家に居づらい雰囲気だったので、龍太郎は散歩へ出かけた。

「恋か……」

行くあてもなかったので、近所の公園へ足を向けた。日曜日の午前中は愛に溢れる家族の姿が何組か見られる。しかし、何かがおかしい。ソワソワしている親の目線を追った龍太郎は眩しさに目を細めた。光が反射してきらめいている水面よりも輝くブロンドの髪が目に入り込んでくる。

「あいつ、何やってんだ」

シュヴァイツウィンドは食パンを千切りながら池の中の鯉に与えていた。相変わらず無表情である。が、手元はどこか楽しそうにパンを放っていた。

鯉に餌?あのクソガキの方がよっぽど暇そうじゃねーか!!しかも『餌を与えないでください』って看板の脇で餌やってるよ…そして誰も注意しないし…ダメな世の中だなぁ。

自分も注意せず、ただ見ていただけである。はたから見れば小さい子供に熱い視線を注いでいるちょっと怪しい少年の姿に見えただろう。


月曜の朝、玄関で龍太郎とカインは揉めていた。

「大丈夫だって、なんとかリーってもういないんだろ」

「しかし、龍太郎様はご自分の身を守る術をご存じないでしょう?」

「何かあったらソッコー逃げるから、大丈夫だって。それに夜は大事な大事な用があるから、迎えなんていらないからな」

登校に付き添いたいカインと、変に注目されるのはコリゴリな龍太郎の攻防である。

「ヤベ、遅れる、じゃっ!!」

逃げるように自転車で走り去って行った。

龍太郎様ったら、と呟くカインに「心配無用」と、どこからともなくシュヴァイツウィンドが現れた。

「ダリルはもう手を出してこない。グレコーリ・タムはイギリスへ帰ったようだしな。アルガロイドはしばらく動かないだろう。龍太郎が首を突っ込まない限り、面倒はおこらないはずだ」

「そうですね」

同意を返しながら、あの性格なら知らず知らずの内に巻き込まれるのではと、心配するカインだった。

教室に入る時、八神薫子と目があったが、「佳月くんおはよ」と言われただけで何も起こらなかった。

八神・ヴァンパイアを思い出し授業中も斜め前方の八神薫子を観察していたが、特に変わったことはない。体育でも元気に太陽の下、ハードルを飛んでいた。

八神も可愛いいよな…ヴァンパイアかぁ……あ――、気にしたら気になってきた!!

「ちょっと、いい?」

日直である八神薫子が日誌を職員室に置きに行く際、声をかけ並んで歩きだした。

「どーゆー事だよ」

「何が?」

「…日本に来てるとか、血の匂いとか」

「知りたいのはこっちの方よ。何で佳月くんの周りに集まってくるの?ただの人間のくせに」

「?知らないのか?お前もヴァンパイアだろ?クソガキの王の話とか」

「王…やっぱりそっち関係なのね。頭領の言ったとおりだわ」

「トウリョウ?」

八神薫子が職員室のドアに手をかける。

「じゃ、さよなら佳月くん。またね」

またね?

窓から夕日が注ぐ廊下を首をかしげながら龍太郎は教室へ戻った。帰り支度をして待っていた夏韻が渋い顔で口を開く。

「龍太郎、お前今日変だぞ」

「えっ?どこが?」

ヴァンパイアくさいのか??

「八神ばっかり見てたろ~。バレバレだぜ」

「なんだ、そんなことか…」

「そんなこと?!もしかして、八神と付き合ってんのか?!」

夏韻がヘッドロックをかけながら追及してくる。

「苦しっ…違うっつーの!!!離…」

「そうだよな。俺でさえ彼女がいないのに、お前が彼女いるはずないもんな」

笑いながら技を解き、早くライヴ行くぞーと教室を出て行った。

先週の分ゴチしろ、という夏韻にマックを奢り腹ごしらえして、Tシャツに着替えてライヴハウスに向かう。

開場前に整理番号順に並んでいたら声をかけられた。

「八神!!」

龍太郎と夏韻の声がリンクする。八神薫子がどこかで見たような服装で立っていた。ご丁寧に日傘までさしている。

カインと同じ服か?クルクル巻いてる髪はこの服装の為だったのか。確かに流行ってるもんなぁ…

こういう服装って日本が発祥の地なんだっけ?テレビで言ってたような気がする。

警戒する龍太郎に気づかずに夏韻は話しかける。

「八神も好きなのか?意外~。こういうの興味なさそうにみえるのに」

「本命が他のバンドだったから、今まで観たことなかったけど、チケット貰ったから来てみたの」

「一人?女の子が一人って珍しいな。大体何人かで来てるだろ」

「私はいつも一人で観るよ。その方が気楽だもん」

会話の弾む二人を龍太郎は警戒して様子を窺った。八神薫子が武器になるようなものを携帯している素振りはなかった。もっとも血族ならばそんなものは必要ないという事に龍太郎は気付かなかった。

程無く開場し、列が前進する。キャパ300のハコは7割埋まっている。まずまずの動員ぶりだ。SOLDすることは滅多にないので、大体のファンとは顔見知りである。だから余計に気になった。今まで一度も見かけたことのない八神薫子がいるなんて、何かやる気か!!そもそもこのバンドに興味があるそぶりも見せなかったのにおかしい。

中学生の頃、ラジオから流れた曲がキッカケでこのバンドにハマった龍太郎は、夏韻と一緒にあしげくライヴに通っていた。そのバンドのギターが自分の3コ上だと知って親近感も湧き、高校生になりバイト代が入るようになったら近くの県へ遠征するようにもなった。今ではメンバーと軽く会話を交わす間柄である。

「八神と龍太郎って付き合ってるのか?こいつは否定したけどさぁ、怪しいんだよな~。今日なんてずっと八神の事みてたんだぜ」

「知ってる。私が好きなの、佳月くんの事」

「ええっっ!!!!」

再び龍太郎と夏韻の声がリンクした。夏韻はニヤニヤしながら肘で龍太郎の腕をつつき、「ごゆっくり」と、最前ゾーンへ旅立っていった。夏韻の背中を見ながら速効で八神薫子が口を開く。

「冗談よ」

「………」

「聞いたわ、佳月くん王になるんでしょう?変よね、もっとふさわしい方がいるのに。王の子供ってだけで血族のトップに君臨しようとするなんて」

「八神?」

「人中之龍でもないくせに、荷が重すぎると思わない?」

「?まぁ、あまり関わりたくない事だけど…」

「そうでしょう。私が楽にしてあげるわ」

客電が消えSEが流れる。激しい曲のはずなのに、龍太郎の耳には届かない。

黒曜石のような瞳と眼を合わせた瞬間、龍太郎の身体は動かなくなった。

八神薫子の手が龍太郎の頬から首筋に滑る。冷たい手だと感じた。

喉渇いたな…カバンにマンゴージュース入ってたはず…どうしよう、身体が痺れてる…息が…

薄笑いを浮かべている青白い顔がゆっくりと近づいてきた。

このスローモーション感…前もあったような気がする…

唇に触れてきた唇も冷たかった。

「きゃっ」

勢いよく龍太郎の唇から八神薫子が離される。二人の間を那茲が遮断した。掴んでいた八神薫子の手首を捨て放った瞬間から龍太郎の指先が微かに動き始める。薬指、中指人差し指とぎこちなく動かして両手を握りしめて大きく息を吸った。

酸素不足でガンガンと痛む頭に痺れるような音が侵入してきた。

あ、この曲久し振りだな。

「お身体は大丈夫ですか、龍太郎様!!」

「あ、ああ。何とか。那茲さん?!いつから居たの?!」

「龍太郎様が学校を出られた時から…後をつけるような真似をして申し訳ございません」

「全然気付かなかった。スゲーな那茲さん」

爆音のため2人は耳元で囁き合っていた。

「龍太郎様、外に出ていて下さい」

「えっ!!でもこの曲…」

那茲の背中から物凄い怒りのオーラが伝わってきたので、大人しく会場を出るふりをして入口に佇んだ。ステージに目を向けながらも、異種間バトルに気を向ける。

対峙する二人は声を忘れてしまったかの様に黙り込み、熱気あふれる会場に異相空間を作り出していた。

ヤバイ?那茲さん大丈夫かな?相手は人間じゃないんだぞ!!

「誰か知らないけど、邪魔しないで」

「誰に手をかけようとしたのか分かってる?西門の指示か?」

「あなたにはカンケーないでしょ。佳月くんは王になるかもしれない一つの候補者でしょ。よく元老扇が許したわね。カオスが血族を統べるなんて」

「龍太郎様は君達みたいな下等な血族とは違う」

少女の頬が朱に染まる。怒りか羞恥か、おそらくその両方であろう。

目を掠める速さで那茲を八神薫子が突き飛ばした。少女の力の強さに長身な那茲の身体が斜めに傾く。

「私と違うっていうのなら、お手並み拝見だわ!!」

言葉と共に鋭い犬歯をむき出しにし襲いかかってきた。

龍太郎は咄嗟に両腕で首元をガードするが、何で首なんだ?もしかたら頭をガブッてやられるかもしれないんだよな、と悠長なことを考えていた。

覚悟を決めたが、首筋にも頭にも痛みは訪れなかった。

恐る恐る薄眼をあけると、那茲の右腕に八神薫子が噛みついていた。瞬時に体制を立て直し、背中に庇った龍太郎へ

「ここから離れて下さい。今のうちに」

やけに鮮明で力強い声が届く。

「那茲さん!!那茲さん大丈夫?!」

見るからに悲惨な状況なのに、何故問いかけてしまうのだろうか。大丈夫なはずはない。

「八神!!何すんだよ!!」

蒼惶と叫びながらも龍太郎は那茲の腕から八神薫子を離そうと肩に掴みかかるが、かなり深く喰い付いたのであろう。張り付いたように動かない。

「ちくしょっ!!離れろ!!離せって!!」

場内の人々も異変に気づいたのか、チラチラ後方を振り返りながら、喧嘩?修羅場?とザワザワ揺れている。

「ぐあっっ」

血まみれの牙が抜ける痛みに那茲が声をあげる。八神薫子の口の大きさ分噛みちぎられた腕からはとめどなく血が流れ出す。口元から滴る血液を手の甲で拭い、嫣然と、口内に残った肉を嚥下し喉を動かす。無邪気とも言える微笑みは薄暗い明りの中でも可愛いものであった。

「きゃあああああああああああ」

龍太郎の横にいた女がたまらず悲鳴をあげる。

苦しそうな息を吐きながら那茲は龍太郎ごと後ずさり、出口に歩を進めていく。抉られた傷口が痛む。片手で押さえつけても流れる血液は止めどない。

耳鳴りが…貧血か…茲那を思い浮かべたが諦めた。一応はまだ安静の身を案じたのである。

これは最後の手段。大丈夫だ、龍太郎様は王の子だ。僕が使えなくなっても無事な気がする。

根拠のない自信がどこからか湧き上がってくるのを那茲は不思議な気持ちで受け止めていた。

「何もできないの?佳月くん、ただ見ているだけなのね」

煽るように八神薫子が鼻で笑った。

那茲の背後で、何かが千切れる音がしたので嫌な予感と共に振り向いた。額に青筋を立てている龍太郎が顔前で拳を握り締めている。

「龍太郎様、落ち着いて…」

「お前!!何様のつもりだ?!許せねぇ!!超久しぶりのライヴだったのに――!!」

え?そっち?僕よりそっちの方…

出会って間もないから仕方ないか…龍太郎様らしいって言えば龍太郎様らしいな。

気づけば場内に溢れかえっていた先ほどまでの爆音は消えていた。

那茲が凹みながら龍太郎が暴走しないように捕まえておこうと手を伸ばすが、その手がかすりもしないほどの速さで、無謀にも龍太郎はヴァンパイアに飛びかかった。

ヴァンパイアは笑みを崩さず、飛んでくる拳をかがんでかわしながら龍太郎の足を払い、軽々と片手で床に叩きつけた。重い音が会場を走る。

「っつ、あっっっ痛て――…」

「龍太郎様」

駆け寄る那茲の後には血の道筋ができていた。流れる血液がかからぬように、倒れた身体を抱き起こした。

弱い……後で護身術を教えてあげないと…

前言撤回という文字が那茲の頭を世界新記録の速さで駆け巡った。茲那を呼ぼうか……

「何やってんだお前ら」

マイク越しに張りのある低音が響き、ヴォーカルがステージを降りて向かってくる。

「ダメ!!ダメだマコトさん!!ヤバイって!!!」

制止を無視して近づいてくるので、那茲を振り払い龍太郎は立ち上がり果敢にも、否、無謀にも再びヴァンパイアに突進した。


「流石、と言いましょうか…ね、シュヴァイツウィンド様」

「龍太郎の力ではない。応龍が現れなければどうなっていたか知れたことではない」

「グァルツィネ様の守護龍が龍太郎様におりたのですね。やはり王の力は受け継がれている」

高貴なる血統のヴァンパイア達は半焼したハコの上空で満足げに微笑んでいた。


「…大丈夫か龍太郎…」

「ああ、昨日はサイアクだったな…」

隣同士、保健室のベッドで二人は天井をぼんやりと眺めながら会話をしている。とりあえず出席だけ取って、直行したのであった。

「火事に遭う確率ってどのぐらいなんだろうなぁ、何も俺らがライヴ行ってる時にならなくてもいいんじゃないか。八神は今日サボりか~俺も休みたかったぜ」

「そうだなぁ…命があっただけでも良かったってオレは思うんだけど」

「ちょい大袈裟だな、放火ってどこのどいつがやったんだ。許せねー。メンバーも皆も無事でマジ良かったぜ」

「ホントだよ、いろいろ大変だったし…」

「そりゃそうだ。気づいたら煙まみれだったもんな。避難訓練って役にたたないのな、出口どっちか方向感覚が狂ったし、皆パニクってたな~。あんな時って自分を見失うもんなんだな~」

「そうだ、見失ったな…その後…」

八神薫子の腕を掴んだと感じた瞬間に、掌が痺れた。瞬間意識が遠のき、気が付いた時には目の前にいたはずのヴァンパイアは消え、煙熖に包まれていたのであった。

会場の外に避難した時分、現場に居た全員がヴァンパイアとの修羅場の記憶を失っていたのであった。那茲も忽然と姿を消していた。

あんなに血まみれだったのに……どっかにクソガキいたのか?茲那兄とか?

どうしてオレら無事だったんだろ。那茲さん大丈夫かな、あんなに腕がなくなって……でも、ナツキさん達が無事で良かった~。何かあったらファンに申し訳たたねー。原因はオレって事になるのか??………もしも、…もしも呼んだらパパ来てくれたのかな……

あ!!オレ八神とキスしたんじゃね?あんまり覚えてねーけど、キスされたんだよな。だよな~。冷たかったな~。それしか覚えてねーや。

「そーだ、家帰ってからナツキさんから電話あったんだ、次のライヴもフツーにやるって。楽しみだな。」

「あぁチョー楽しみ…」

言いながら二人は眠りについた。


「ただいまー」

冷蔵庫に直行した龍太郎に後ろから重いトーンの声がかけられた。

「おかえりぃ」

「ビビった~。暗いなぁ、お前最近暗すぎるぞ」

「そうかな…」

牛乳を取り出して、凪にも勧める。二人は左手を腰に、パックに口をつけて一気飲みを始めた。龍太郎は凪を盗み見た。最近元気がなく食欲も無いらしい。日に日に頬がシャープさを増している。

「お前、やつれてきてんぞ?」

「う…ん………」

口の周りの牛乳を拭い凪は俯いた。

「恋の悩みかぁ、それにしても悩み過ぎだぞ」

「龍はいいよな、悩みがなさそうで」

オレは、一応これからの生涯と人生をかけた選択を迫られてるんだぞ!!

と、声を大にして言いたかったが、龍太郎は耐えた。凪のやつれ具合を哀れだと感じていたからである。実際のところ自分は凪程切羽詰まった状況だとは認識していない。物は食えるし、よく眠れる。喉が渇くのは相変わらずだが。

「越えられない壁か……」

凪の悲痛な呟きがやけに耳に木霊した。

母さんとパパも結局別れたんだよな。人種の壁は厚いのか?人種っつーか、片方人間じゃなかった。

「…壁だ…」

深刻に落ち込む凪の肩に龍太郎は手を回した。

「お前さぁ、アイツ等がヴァンパイアって聞いて何とも思わない?頭のオカシイ連中だとか…」

「全然。カッコイイじゃん。だってヴァンパイアだぜ。話しの流れからいって、俺達が襲われたりする事はないはずだから怖くないし、それに皆超キレー!!」

「あぁ。確かにキレーだけどな。もうちょっと命の危機感とか緊張感あっていいんじゃね?」

「はぁ?龍ってロマンがねぇな。こんな貴重な体験ができるなんて俺等ぐらいだぜ。どーせ世の中どっか狂ってるんだから、こーゆーのもアリだろ」

凪、お前はどこでも生きていける気がするぜ。

「居るの凪だけ?」

「そうだよ。父さんまだ出張だろ」

龍太郎が尋ねたのはヴァンパイア達の方だったが、どうやら留守らしい。二人で夕食の準備を済ませ、テレビを観ながら食事を始めた。メニューはカレーライス。これから3日間はカレーまみれになるであろう。

「昨日の火事どうだった?新聞に放火ってでてたけど、ホントは龍のせいだろ?」

「オレぇ?!オレってよりも八神なんだけどなぁ~オレのせいじゃないぞ」

「そうかぁ?カインちゃん達が急にいなくなったから、龍の一大事だったんじゃないのか?」

「いなくなった?」

龍太郎は思い出そうとした。あの瞬間、記憶がないあの一瞬に何が起こったのかを。

無駄だった。脳味噌が捻じれそうな程頭を使っても、一筋も思い出せない。

「自ら危険を招くとはな」

「うぉっとっっ」

気配もなく背後を取られた龍太郎が大げさに驚く。

お帰りと凪はいたって冷静であった。しかしカインとはなるべく目を合わせないようにしている努力が垣間見えた。

「お邪魔します。こんばんは龍太郎様。弟君はじめまして北条院です」

カインと共に玄関からリビングへ入ってきた那茲が凪と挨拶を交わしている。兄弟は那茲の右腕に捲かれた痛々しい包帯を心配そうに見つめていた。

「那茲さん、昨日何が起こったか覚えてる?オレ全然思い出せなくて」

「覚えてないの?龍太郎様があのヴァンパイアに触れた瞬間に、閃光が走って龍太郎様が透明な膜に包まれたような気がした。オーロラのようだったけど、覚えてないのか…」

何だったんだろうと首を傾げる二人に、「応龍だ」という無愛想な声が聞こえた。

「え?あ、ああ!!あの龍!!そっか」

一人悦に入った龍太郎は嬉々として三龍の説明を始めた。スゲェという声を挙げた凪のリクエストに応えて三龍を呼び出そうとするが、呼んでも、念じても、現れることはなかった。

「つまんねぇの」

「ウルサイ。調子が悪いだけだ。そういえば八神どーなったんだ」

「処分されました」

可愛らしいカインの声に部屋の空気が凍った。

「え?ちょっと、よく分かんないんだけど…」

「龍の鬚を蟻が狙った結果だ」

「どういう事だ?!八神どうなったんだよ」

「今朝ほど西門からコンタクトがあったのです。昨夜のオトシマエをつけたいというのでシュヴァイツウィンド様と行って参りました」

西門は日本の血族を統治している一族です。那茲が龍太郎の耳に寄せた。

「西門の言い分は、一族の指示で龍太郎様を襲ったのではなく、八神薫子なる者の独断決行との事。そして八神薫子は何者かによって再生不能の状態に陥っているそうです」

「さ、再生不能?」

「私たちの細胞は傷つけられると驚異的なスピードで回復します。北条院程度の傷でしたらその場で元通りになっていたでしょう。カオスの場合も制限はありますが、滅多に死ぬことはないはずです」

あ、そんな事パパも言ってたな。死に繋がることはほとんど無いって。死なないってイイ事だよな、何でもできるし、ずっと生きてられるって楽しそうだ。

「永遠の長さを知らぬ者は、その蒙きを理解できない」

「はぁ?」

自らの呟きをかき消すようにシュヴァイツウィンドが話し出した。

「八神薫子は頭部を切断され、身体は灰塵と化していた。首を切断されたカオスなら息絶えるはずだが、八神薫子は状態でいえばまだ生きている」

「首だけで?生首って事?!」

うぇ、と凪が顔を顰める。

「そうなるな。西門でも誰がやったか見当がつかないでいる。しかし、こんな業ができるのは」

沈黙。

話す必要はないとしてシュヴァイツウィンドは言わなかったが、その首は両耳が削がれ、瞼がちぎられて舌が抜かれていた。それでも生命活動は維持しており、声にならない喘ぎの音を発し何とも見苦しい姿に西門の者は一様に顔を背けていた。眼球がむき出しになった双眸に、この世の全てを凝縮した美が映りこんでも、その感動を伝える手段はない。

「……純血種。それも相当な力を持った、………グァルツィネ王ですね?」

沈黙は時に無言の肯定となる。

「待った!!パ、王ってどういう、一応仲間だろう。何でそんなことするんだよ意味わかんね」

仲間?クスリとヴァンパイア達はせせら笑う。

仲間の定義とは何だろうか、カインは考えた。純血種とカオスは全く違う種であるし、そもそも集団というカテゴリーは不必要である。グァルツィネ様は人間もお嫌いだったが、血族も大層嫌っていた。無駄に存在しすぎると……

「八神薫子が龍太郎様に手をかけたからですわ。グァルツィネ様がお怒りになられたのでしょう」

「そんな…じゃあ八神は、死ぬのか?」

「死んだ方が良かったと思っているはずです。死ねないんですもの」

駆け出そうとする龍太郎を察知してシュヴァイツウィンドが進路を塞いだ。

「どこへ行く?お前が行っても何も変わらない。その女の居場所を知っているとでもいうなら別だがな」

「でも、八神が…場所は、誰かに聞けば…」

「衝動的な行動は慎んでもらおうか。西門はお前を狙うはずだ。甚だ迷惑な逆恨みだがカオスは群れる生き物だからな、仲間とやらの仇打ちをするだろう」

「えっ……オレのせい?」

カインが龍太郎の前に跪いて礼をとった。

「心配は無用です。私達がお守りいたします。龍太郎様のお望みならば、西門一族を滅ぼしましょう」

呆然と突っ立っている兄の手を、凪はそっと握った。微かな震えが伝わってきた。

兄弟の頭には『抗争』の二文字が浮かんでいた。先週観た任侠映画のテーマだった。


「起きてる?」

扉を開け声をかけたが、茲那はテレビ画面に釘付けだった。

「コラ。集中するのはよくないって言われただろ」

頭からヘッドホンを抜き取ると、激しい戦闘音が洩れてきていつかのライヴハウスを思い出させた。

「びっくりした~!!こんな夜中に、面会時間過ぎてるだろ~」

「いいんだよ。話はつけてあるから」

ゲーム機の電源を落とそうとする那茲に、せめてセーブしてから!!と頼み込んだ。

茲那の傷は火傷で爛れた皮膚の移植手術を待つだけだったが、驚異の皮膚再生能力を見せていて医師を驚かせている。どうやら手術の必要はなくなりそうだ。これも純血種であるシュヴァイツウィンドの血のお陰であった。

「お前はまだ使える」

自分も立てない程の傷を負っていたのに、シュヴァイツウィンドは大量の血液を倒れこんだ茲那に浴びせたのだった。喉に流れ込む冷たい液体を嚥下しながら、感情のこもらないたった一言を耳にして茲那の意識は遠ざかった。

「穏便に事が進むはずがないと思っていたけど、大変なモノまで絡んできたよ」

「元老扇?」

「あの方達はグァルツィネ王に絶対服従だったから、寧ろ何をぐずぐずしているんだと急かされているよ。早く龍太郎様を目覚めさせ王にして欲しいんだって」

「へー。あの頑固な老人達が?シュヴァイツウィンド様と仲悪いよな。犬猿ってカンジ」

「お互いにプライド高いからね。しかも元老扇達は純血種じゃないし、シュヴァイツウィンド様は好き嫌いがはっきりしているもんな~」

しばらく双子は、見かけはビスクドールのような可愛らしい悪魔について語っていた。

「初めてお会いした時は西洋画から飛び出してきた天使かと思った俺」

「僕も思った!!純血種の美しさはハンパないね!!性格も純血種だな~って思う」

「良くいえば高貴?人間やカオスなんてただのモノとしか思ってないぜ絶対。純血種の中でもグァルツィネ王は穏やかだったって聞いたんだけどな」

「イギリスの城に籠って滅多に表舞台に出なかったようだしね。血族も人間も嫌いだって噂あったよね」

何故、龍太郎様の母親と……

「!!違うよ、そうじゃなくて、大変なんだって。西門まで出てきたんだよ。大変だよ!日本の血族も絡んできたし、これから忙しくなる…」

「西門って西門綉春?!同じ国に住んでて、会ったことないよな」

「会う必要ある?相手はヴァンパイアだけど僕たちの祖先が誓ったのはグァルツィネ王だ。それに西門一族って暗くて陰険で日本の負のイメージを一心に背負ってるイメージあるんだ。どう思う?」

両腕を組み、茲那は考えた。西門綉春、日本を統べる一族の5代目頭領。噂だけは耳に入ってきた。女癖が悪い。手が早い。見境がない。どっちでもいい。誰でもいい。

「負のイメージっていうか、サイテーだ」

「ま、噂は噂だから。だからベッドで悠々と寝てる場合じゃなくなったよ。早く働くんだよ」

「別に寝たくて寝てんじゃないっつーの!!でも、後二日ぐらいで歩けるようになるかもしれない。凄いよな、純血種ってスゲー」

血液を研究して特許取れたら夢の薬だな~。ウチの会社の株も上がるな~。

「特許取れるかな……」

那茲の呟きに顔を見合せて、双子は笑い合った。

「あー…いたたたた、笑わせんなって」

「茲那が勝手に笑ったんだろ」


眠れない。日付はとっくに変わっていたが、瞼を閉じても眠りは訪れてくれなかった。眠れない夜は月を眺めたくなる。以前も同じことがあった。しかし今までは無かった習慣だ。神経が高ぶって眠れない夜(いわゆる遠足前や、修学旅行の前日)は目が疲れるまでマンガを読んで疲労困憊の状態までもっていき眠りに落ちたものだ。ゲームをやると瞼が重くなっても止められない為、大切な日の前日は封印している。それが今や月を愛でるとは。意識をしなくても何かが変わってきているのだろうか。下弦の月の鋭さが目に痛い。

窓のカーテンを閉めかけた龍太郎の手が止まる。ガラスにもう一つ、子供の顔が映っている。振り向きもせず、ガラス越しに視線を外す。

「あの女は死んだと思えばいい」

「………そんな…お前らは何とも思わないのか?」

「思わんな。人間にとって血族は魔物だ。数が減るのは喜ばしいだろう。何故悲しむ」

「だって、同じクラスだったし、あんまり話さなかったけど……知ってる奴が死ぬなんて嫌だ」

くだらない。と無言のシュヴァイツウィンドから聞こえてきそうだった。

「だったら、もしカインが死んだらどうするんだよ!!仲間だろ!!」

感情的な声をあげ、振り返ったが青白い顔にはどのような表情も浮かんでいなかった。

「無力だった。それだけだ」

龍太郎の眼に涙が浮かんできても、シュヴァイツウィンドの表情は変わらない。涙を見せまいと背を向けたが、ガラスには流れる涙が映っていた。

「ほんとに、…パパがやったのか?別なヴァンパイアとかじゃなくて?」

「首を切断させ尚且つ生かすなど、不可能だ。グァルツィネ様を除いては。そして、グァルツィネ様が気にかけるのは龍太郎だけだ」

喜ぶのは不謹慎だろうか。龍太郎の胸の底がジワリと熱くなった。そんな感情を誤魔化すように月を見上げて溜息を吐く。消えていく吐息と共に自らも消えて無くなりたい、ふと考えた。

後ろ手でドアを閉め、シュヴァイツウィンドは窓から外へでて2階の屋根上に降り立った。

先客達が月を肴に杯を傾けている。カインが抱きかかえている一升瓶は三分の二ほど空いており、ギイにねだられるままに手に余る大きなお猪口に注いでいた。

「如何です?どうぞ」

注がれた酒を一気に呷る。何度か繰り返すが、乏しい表情は変わらない。カインの隣に座り小さい手で杯をもてあましている。

「西門を、葬るか?」

「はい、龍太郎様が望むならば。しかし、望まれないでしょうね。八神薫子の件で相当なショックを受けたようですし、お優しい方ですから」

「最も不必要な感情だな。グァルツィネ様と大違いだ」

「グァルツィネ様は、セツナ様にだけは親切でしたわ」

言いながら空いたお猪口に注ぐ。流れ込む水面に三日月を落とし自嘲する。

「そうだったな」

浮かぶ白銀の月。月色の髪、白金色の瞳、雪色の肌、夜色の髪、闇色の瞳。美しい魔物。

月の光は存在するすべてのモノの輪郭を優しく照らす。

陰にも憂いを与えてくれる…以前グァルツィネ様が仰った。

あれは、そうか、セツナ・サクラザキが亡くなった日だったのか……

グァルツィネ様は何をしようとしているのだ…

月を飲み干したシュヴァイツウィンドの青白い喉が小さく揺れていた。


小さい背中がまた揺れた。今日5回目の溜息だ。如月夕美はカウンターでレジをしている男の子が気になっていた。夜7時過ぎ、混雑する時間帯なので如月夕美もカウンターに入る。

「佳月くん悩み事?」

トレイを拭きながらさりげなく声をかけたが、意外だったようで元々大きな瞳がより一層大きく見開かれた。

「ああ…悩み、悩みありますねぇ…」

悩んでます…と深刻そうに俯いてしまった。

今年の4月からバイトに入ってきた佳月龍太郎は時間を守るし、そこそこ仕事もできるので重宝がられている。ベラベラと憚りなく自分の事を話す人懐こいタイプだった。

お陰で知りたくもないのに、龍太郎の家族構成、嫌いな食べ物、好きなバンド、小学校からの親友、免許を取ったら乗りたい車、どうしても欲しいアクセ、等々変に詳しくなってしまったのである。最近は喉が渇くというので、帰り際こっそりコーヒーも持たせる事もあった。

龍太郎が悩みとやらを話そうとしないので、夕美も追及はしなかった。よっぽど深刻なのだろう。気にせず夕美はコーヒー豆の焙煎を始めた。香ばしさが充満する。コーヒーを飲むよりも夕美はこの瞬間が一番好きだった。さりげなく深呼吸して肺一杯に芳香を詰め込んだ。

「いらっしゃいませ」

こんばんは~と、龍太郎の弾んだ声につられてフロアに顔を向けると、常連客の顔があった。

ほぼ毎日7時すぎるとやってくる長身細身の男。夕美はあまり好きではなかった。ボソボソと喋る声は聞き取りづらいし、整った顔をしているのも気にくわない。何よりも、明らかに自分よりも痩せていて儚げなのが許せない。男のくせに…と目にする度に思う。

龍太郎も分類すれば整った顔になるかもしれないが、綺麗というよりも愛嬌のある可愛い顔で庶民的なのだ。笑顔は、餌をもらって喜んでいる子犬のようである。夕美は飼っているトイプードルを思い出した。

「本日のコーヒーはキリマンジャロモカです」

「あ―、今日は、いいことがあったから…ホットココアに、しよう、かな」

ブラック命なのに珍しい、と夕美は男の顔を見上げた。視線が絡む。男の口端に浮かんだ笑みは思いのほか柔和で魅力的だった。体温が上昇する感覚を覚え夕美の頬が染まる。

「ごゆっくりどうぞー」

ありがとう、と男は禁煙席に向かってゆっくりと歩き出した。

真っ赤になった顔を夕美は早口で誤魔化した。

「雨も降ってないのに今日は暇ねこれだったら早く帰れるし犬の世話しないと言わなかったっけ私犬飼ってるの」

「スズメ君ですよね、オスのトイプー…ん?あっ!!ナツキさん!!!」

店に入ってきた男を目にした瞬間、龍太郎の顔から無数のハートが飛び散ったように見えた。

夕美は思わず「カッコイイ」と声に出していた。カウンターにつくと男が微笑んだ。

「大丈夫か?災難だったな龍太郎」

「そんな、ナツキさん達こそ大変じゃなかったですか?」

ナツキ?……夕美は頭の片隅の龍太郎メモリーを探ってみる。あ、佳月くんが好きなバンドのギターさんね。めっちゃカッコイイって散々言われたけど、確かにカッコイイわ。男が憧れる男ってカンジよね、背が高いし(180ぐらい?)筋肉質だし、首に流れている黒髪がカッコイイ!!鼻高いし鋭い眼差しが痺れるわ!!声も低くてステキ!!さっきの男と全然違う!!

夕美の脳内にはナツキに後ろから抱き締められる図が浮かんでいる。きっと私の旋毛が丸見えね!!ステキ!!!夕美の胸からトキメキ音が発せられた。

「おススメはぁ、スペシャルキャラメルマキアートデコレーションです」

「甘そうだな。龍太郎、甘いのばっか食べてると虫歯になるぞ」

「ちゃんと歯磨きしてますよ~」

歯を剥き出して見せる龍太郎の髪をグシャグシャとナツキが撫でる。

かぁっこいい~~!!!立派な飼い主と忠実な犬がじゃれあってるわ!!

「ちゃんと働けよ」

スペシャルキャラメルマキアートデコレーションを掲げる姿もカッコイイ!!ゴツいブレスも超似あってる!!

店から出ていく後ろ姿を見送っていた夕美に龍太郎が一言。

「如月さん、瞳孔開いてるよ」

「っ!?嘘っ!!」

「オレが言ったとおりカッコイイ人でしょ?優しい人なんだ~」

「佳月くん、あの人のライヴ今度連れてって!!」

お願い!と頭を下げる夕美の旋毛を見ながら嬉しそうに龍太郎は承諾の返事をした。

「今度CD貸しますよ。聴いてみてください」

「いらない。買うわ」

「嬉しいなー!!ありがとうございます!!」

お先しますと裏口から出てきた龍太郎は脇に止めていた自転車を動かす。

「お疲れ様です」

「あ、別に来なくてもいいのになぁ~。カインどうすんの?飛んでくのか?」

「後ろに乗せてくださいませんか」

嵩張るスカートに文句を言いながら後部座席に座らせる。

「行くぜー」

「はい。龍太郎様、何かありまして?とても嬉しそうですね」

「おう!ナツキさんが店に来てくれたんだ」

いつもよりちょっと頑張って漕ぐペダルも、自分の好きな(バンドの)話をしながらなら苦にならない。自転車は愉快そうにフラフラと揺れている。

「私も好きですよ、そのバンド。シュヴァイツウィンド様も気に入っている様子でした」

「え?いつ聴いたんだ?」

「一昨日のライヴハウスです」

龍太郎は急に無口になった。ペダルが一挙に重くなった気がする。グロスで光る八神薫子の顔が浮かんできた。

八神、もう学校来ないのか…

「仰って下さい。お答えしますよ」

懊悩する心の内を読まれたらしい。龍太郎は深呼吸をして大きな息を吹いた。

「もしも、もしもだけど、クソガキが誰かに殺されたらどう思うかなーって…」

「相手が強かった。それだけです」

即答。

「えっと…仇を討つとか、ないのか?」

「何故?必要ありますか?」

「……わかんない」

言葉を忘れたかのように黙り込んだ二人の間にこの後、会話は無かった。

…ヴァンパイアの仁義?にオレはついていけない…やっぱり王なんて無理だ…クソガキにパパが王に戻ればいいって言ったのに、忘れてんのかアイツ。

龍太郎が玄関の扉を閉めたのを確認し、カインは夜空へ飛翔する。食事をする為、虜にしていた女の元へ向かうのだ。

仇を討つ?想像したこともない。そもそも今のシュヴァイツウィンドに敵はいないだろう。敵視しているものは血族、人間問わず大勢存在するが。

シュヴァイツウィンド様がグァルツィネ様を葬ったと仰ったけど、失敗したのか…さすが私が仕える王。止めどない賛辞を呈し、駅前マンション9階のベランダへ降り立った。


同じ刻。三日月が雲に隠された暗い夜道を子供が歩いていた。

「こ、ん、ば、ん、は」

シュヴァイツウィンドから1M先の道路端に男が立っていた。ショートトレンチコート、ワークシャツ、タンクトップ、タイトなベルボトム、ラウンドトゥブーツ、目深に被った帽子、すべてが黒い。シュヴァイツウィンドの目線の高さでは素通りしてしまいそうに夜と同化していたが、青白い頬と赤い唇が浮かび上がっているようで酷く目を惹く。目の前で小さい子供が通り過ぎたので男は面倒臭そうに後についてダラダラと歩き始めた。

「何故ついてくる?」

「えぇ~?用事があるから、かな。親善大使のつもり」

振り向こうとする素振りも見せない背中に男は微笑みかけた。男はシュヴァイツウィンドの隣に並び顔を覗き込む。翠色の瞳は一瞥もくれないが、気にもせず話しかけた。

「ええっと、王に謁見したいんだけど、取り次いでくれる、かな?」

「王とは?」

「あぁ、もちろん、グァルツィネ王、です」

無言の侮蔑が返された。懲りずに男は哀願する。

「お願い、いいでしょ?君がダメなら、子供の方に頼もうかな。でも、僕がグァルツィネ王の子供と接触するのは嫌だろうし」

「嫌とは?」

抑揚のない声が、妙なポイントに食い付いたのを男は意外だと感じた。

「?だって、保護、してるんでしょう?王の子供の家に、結界まで巡らせて、護ってる。えぇっと、そこまで大事に、してるなら、僕が近づくのは嫌かなぁ、と思ったの」

「好きにすればいい」

もうっ!!と、男は両手を胸の前で振り回し地団駄を繰り返したせいで、シュヴァイツウィンドに後れをとってしまったが、大股に3歩で追いついた。

「は、速いよ…いぢわるだな。結界が強力すぎて、誰も破れないのに…ダリル・リーが来てから、更に強度が増してる、し…」

「なら王に会うんだな」

男が肩を竦め溜息を大袈裟に吐いて嘆く。

「だから、会えないから、頼んでるの。あ、だったら、伝えてくれる?僕たちは、手を出さないって」

それだけ言うと、男は踵を返し夜の闇へと溶け込むように消えていった。気配が消えてもシュヴァイツウィンドは足を止めず歩き続けた。伝える気など欠片もない。会う手段がないのだから。龍太郎が呼べば姿を現すかもしれないが、八神薫子の件で堪えているように見受けられるので暫く放っておくつもりだった。龍太郎が王になる必要はない、王は今までと変わらず在る。


湿った階段を上るピンヒールの音が真っ暗な地下に響き渡っていた。

「まったく、どこにあるのよ!!お祖父様ったら耄碌しんたんだわきっと」

グレコーリ・タムは靴音以上に悪態を響かせながら地上に繋がる扉を開けて、眩しさに目を細めた。

イギリスにあるグァルツィネ王の城である。偽物成敗を掲げて戻ってきたはいいが、偽物の居場所が分からない。取り敢えず王は本当に死んだのかを確認しようと、元老扇の一人である祖父に頼み込んで、王の灰が納めてある場所を聞き出したのだった。地下13階のアレキサンドライトの棺の中にあると言うが、棺の中には何も無かった。手掛かりはもうない。気分を変えようと中庭に出たついでに、薔薇園に足を伸ばした。

王は、ここがお好きだったのかしら。散策するお姿をよく見かけたわ…咲き誇る何万本の薔薇よりもお美しかった…

瞼を閉じて、甘美な思い出に浸っていると何かに躓いた。

「痛ったいわね!!こんなとこに墓標をたてるなんて!!どこのどいつが……」

言い終わらない内にグレコーリ・タムはしゃがみこみ土を掘っていた。薔薇園の最奥、一際大きく絢爛な薔薇のアーチの中央にひっそりと墓標は存在していた。静かな眠りを薔薇達が見守るように。

間もなく、爪が柔らかい土以外のものに触れる。

「Yes」出てきた物は小さな宝石箱だった。箱の形状にビッシリとダイヤモンドが敷き詰められており陽光に照らされ、幾百のプリズムを発している。

「…………これ……」

重く煌びやかな蓋を開けた中には、指環を嵌めたまま白骨化した指とアメジストのピアス。

この骨、あの女の骨?

グレコーリ・タムは知らなくて当然だが、セツナの誕生月は4月。

アーチを飾る薔薇は、アキトの華やかな花形とアストリット・グレーフィン・フォン・ハルデン・ベルクの優雅な花形を併せ持っているようで豊かな香りを誇っている。夢中で気付かなかったが墓標の隣に、その名が飾られていた。


『MOMENTARILY』                    ―――刹那


「気が済んだ?」

グレコーリ・タムは背中越しに声をかけてきた者へ、墓標から目を離さずに尋ねる。

「……これは何?」

「王の所有物」

薔薇アーチまで進み、涼掛珊瑚は宝石箱を取り上げた。中を確認し、丁寧に蓋を閉め終わると、グレコーリ・タムに立ち去るよう促す。

涼掛珊瑚、王の側近の一人。王の傍へ侍ることが許された者。グレコーリ・タムは三人いる側近のなかでは珊瑚が最も好ましかった。声を荒げることのない穏やかな性質故か、王と頭の固い元老扇の繋ぎ役をしていた。王というよりもシュヴァイツウィンドと元老扇が主なものだったが。

男か女か瞬時の判断が困難な外見である。背中まで伸ばされた黒髪を揺らし、珊瑚は裾を気にしながらしゃがみ込み、宝石箱を土の中に戻す作業を始めた。紺桔梗色の着流しがよく似あっている、地味な色を品よく着こなす男だと、グレコーリ・タムは彼の装いを見るたび感心することが多かった。

「勝手なことをすると、怒られるよ。それに、この花園は立ち入り禁止」

「誰が怒るっていうの。口煩い小姑みたいなのは日本に行ってるのに」

丁寧に土を盛っていた珊瑚が不思議そうな顔で見上げた。一重に縁取られた黒い瞳は、似ている。あの子供の瞳の色に。

「お会いしなかったの?」

そういえば、涼掛珊瑚で一つだけ気にくわない事があったわ。あの女と同じ日本人なのよね。

日本は鬼門だわ……

涼掛珊瑚は薔薇園を立ち去るグレコーリ・タムを見送った後、深呼吸をして馥郁を愉しんだ。

オールドローズ、モダンローズ、イングリッシュローズあらゆる品種を集めこの薔薇園は造られた。薔薇が一番好きと笑っていた彼女のために。二人で剪定を行っている時分、彼女の指が刺で傷ついた。

「グローブをしなさい」

「だってぇ、めんどくさいし、グァルツィネだってしてないじゃない」

「私はいいんだ。傷つかないからね」

王は、血が滲みはじめた彼女の傷口に口づける。スゴイ!もう痛くない!!はしゃいだ声をあげる彼女と微笑む王。恋人同士だけに流れるぬるい時間が二人の間にも流れていた。

王には似合わない、けれど幸せそうだった。彼女に溺れる素振りはなかったが、いつでも彼女のことを考えていたように思える。

薔薇園の手入れをするため訪れた最奥の場所に、ひっそりと小さなアーチが造られてあった。彼女が日本に帰った後だ。



「一族の者に手を出されて、黙っているのか」

「うん、迷惑、してるよ。僕の指示じゃなく、あの子が、勝手にした事だし。お陰でオ・ト・シ・マ・エ、つける羽目に、なっちゃったよ」

「オトシマエとは」

「内緒」

いたずらっぽく笑う男は熱いコーヒーの馥郁を確かめ、喉に流し込んだ。目の前の男が首を傾げ何かを言いたそうだったので遮る。

「グァルツィネ王が復活、されたって噂だけど。どう、思う。そもそも、お隠れになったこと自体、アヤシイな」

「グァルツィネ王が復活されても、一度空いた王位は元には戻らない。元老扇の承認が要る」

「そんなもの、純血種様だったら、元老扇なんて、足蹴に、しても許されるよ。特に、グァルツィネ王なら」

クスクス笑いながら男は立ち上がった。

「仕事が残って、いるから、これで、失礼します。御武運を、アルガロイド殿」

「あぁ。お前もな、西門」

「僕は、何もしませんよ。この件は、傍観に徹します」

「そうか。この沈みゆく島国はどの王になろうが独立国家のようなものだろうな。ところで王の御子に会ったのか」

「ええ。可愛い子、ですよ。アルガロイド殿なら、気に入られるでしょう、ね。あの子を」

あの人にそっくりだから…とは口に出さずに、西門綉春は後ろ背に手を振り店を出た。右腕の時計は19時になろうとしている。

あのコーヒー、不味かった、な。

足は駅前のコーヒー専門店へ向かっていた。

アルガロイドは西門が出て行った扉から視線を手元のグラスに移した。半分以上減ったアイスティーに唇を寄せる。

王の御子、佳月龍太郎に接近するにはあの小さい悪魔を何とかしなくてはいけない。

先に接触させたダリル・リーはいつの間にか小さい悪魔の言いなりになっていた。

元老扇の過半数の承認はもぎ取っている。確実に王になるためには邪魔者は確実に排除しなくては。



「復活しました――!!その節はお気遣い頂きましてありがとうございます!!」

深々と頭を下げる茲那に、龍太郎、凪、カイン、ギイが拍手を送る。シュヴァイツウィンドは当然の如く頷いただけである。

「茲那兄良かったな~」

「双子だぁ~ホントそっくりだな~」

佳月兄弟に囲まれた茲那は、完治した裸体を見せびらかしていた。

茲那の全快祝いと銘打った集まりは、佳月宅で日曜日の正午行われた。那茲が呼んだケータリングサービスと、茲那が大量に買い込んできたお菓子とアルコール、炭酸飲料で物が置けそうな場所は食料が溢れかえっていた。テーブルの上の毒々しい色をした菓子を、シュヴァイツウィンドは手に取った。

「おかしな味ですよ」

「健康指向が蔓延していると覚えていたが、毒の塊が流通しているのか、哀れだな」

「私利私欲、利益追求、欲望に素直なんです。可愛らしいものですよ」

カインは笑いながら菓子を頬張って、龍太郎たちの輪に加わった。

リビングのソファに座り、シュヴァイツウィンドは龍太郎を目で追った。ここ最近気づいたが、俯いた横顔斜め45度の角度が似ている。

那茲がビールを片手に近づいてきた。

「龍太郎様は血族を選ぶとお考えですか?」

「あの馬鹿の考えていることはわからんな。しかし、グァルツィネ様は血族を望まれているだろう」

「王は、龍太郎様のお考えを優先させるのではないですか?」

「血族を望まれているはずだ。龍太郎はそっくりだからな。セツナ・サクラザキに」

「それは、王が愛した人の代わりに、永い時間を共に過ごす為に…でしょうか?」

「………」

口を開かないシュヴァイツウィンドの代わりに「そうだよ」と低音の甘い声が二人の耳を擽った。

「グァルツィネ様!!」

「王!!」

変わった空気の色を感じた龍太郎は、振り向き、ソファの背に腰かけている男を目に入れる。

「パパ!!!」

歓喜に弾む龍太郎の声とは裏腹に、凪を筆頭にその場に居る人間の顔が歪んだ。

パ、パパ??????

「どうしたんだ?パパも茲那兄のお祝い?」

駆け寄って飛びつく小さな身体を、グァルツィネは抱きかかえて持ち上げる。「ちょっ、下ろして」と恥ずかしがる我が子の希望を叶え、後頭部の寝癖を弄る。

「なんか、龍がパパっていうと、別な意味のパパにきこえる。夜の空気だ、夜夜」

「ば、バカ!!何言ってんだよ」

血族達は礼を取った姿で控え、双子は僥倖に頬を染めている。テーブルの上のギイが強請るので凪は、掌に載せてグァルツィネに近づいた。口の周りにベッタリついたチョコレートを龍太郎が指で拭ってあげた。「オウダオウダ」とギイも喜んでいる。

「ギイだったらチョコレートのプールで泳げるよなぁ。いいなぁ」

兄弟はフライパンに溶かしたチョコレートの中で泳いでいるギイを想像して、おいしそうだな、と思わず洩らしてしまった。

「グァルツィネ王!!初めてお目もじつかまつります。ほ、北条院那茲と申します!!」

「茲那です!!」

双子が土下座ばりの勢いで頭を下げた。

「頭をあげなさい。私はもう王ではないよ」

「グァルツィネ様、しかし」

口を挟もうとするシュヴァイツウィンドを目で制し

「王は、この子だ」

キッパリとグァルツィネは言い切った。目を見張った龍太郎の頭を撫でる。

「オ、オレが?それはちょっと…」

「無理強いはしない。しかし、王は龍太郎だよ」

それを無理矢理って言うんじゃないのか?

グァルツィネが何かに気づいたようで、手の動きを止めた。

「どうしたんだ?」

「すぐ戻るよ」

頭の天辺から冷たい手の感触が消えて、龍太郎はつい、名残惜しげに見上げてしまった。

「消えたぁぁぁぁぁ」

凪の大声がリビングに響き渡ったが、気にとめるものは誰もいない。


呼ばれた方向に顔を向け、珊瑚は眼を細め美しい姿に微笑んだ。

「申し訳ありません」

「リ・タか……、中身は?」

「変わりありません。説得は無事成功されましたか?」

グァルツィネは口端を上げた。

「なかなか手ごわいな。血族は嫌とみえる。強情な子だ」

「セツナ様にそっくりですね。セツナ様には僕たちも手を焼かされました」

「そう、……似ている。セツナに……」

苦笑する珊瑚につられてか、グァルツィネもゆっくりと微笑んだ。ように見えた。

薔薇アーチの下に移動する姿を目の端に、珊瑚は薔薇園を出て行った。王が想い出に浸りそうだったので気を利かせたのだった。

箱にかかった土を払い、宝石箱を開ける。白骨から指環が抜けかけていたので嵌め直し骨を撫でる。白骨化した指は右の人差し指だった。久遠の刻を縛る指。

赤い唇から囁かれた名前は、薔薇園を甘く、ノスタルジックに覆いつくしていった。

「セツナ、龍太郎は私がもらうよ」


「龍太郎様は、血族を選ぶのかなぁ?」

ターキーを大口に頬張りながら喋る茲那を、器用だと那茲は半分感心して見つめていた。半分は呆れているのだが。

「僕は、人間のままでいると思うな。龍太郎様は王ってカンジじゃないんだよね」

「そうだなぁ~」

馬鹿っぽいもんなぁ。とは口に出さず心の中で思うだけにした。きっと那茲も同じ事を考えているんだろう。二人の視線が交差する場所には龍太郎が、6杯目のクリスタルタピオカフレッシュダージリンティーを飲み干していた。

水分取り過ぎると下っ腹出てくるぞ…茲那は自らの下腹部を軽く擦る。

「もう一度お会いしたいなぁ。血族ってつくづく美しいよね」

「シュヴァイツウィンド様達も美しいけど、あの方は別格だもんなぁ。絶世!!俺、今も少し身体が震えてるよ。感動したぁ」

眼を輝かせながら語る茲那の姿は、3日徹夜でラスボスを倒した時以来みていない。

「すぐ戻るって仰ってたから、待ってよーぜ。何ならこのまま龍太郎様に泊めてもらうぞ」

「そうだね。会社もしばらく何も起きないと思うし元々僕らがいなくても運営チームは大丈夫だし」

「よっしゃ、龍太郎様に頼みにいってくる」

スキップでもしそうな勢いで茲那は龍太郎に近づいて行った。

「重体にさせられたっていうのに、元気だなぁ。何故王はシュヴァイツウィンド様達を攻撃されたんだろう…謎だ」

「知りたいかい?」

何気ない独り言に返された言葉よりも、自分の背中の空気が重く濃くなった事に驚いた。

「…………」

「嫌いなんだ、血族が。それに人間も」

那茲は自分の身体が動かないのは何故だか考えた。

恐怖。畏怖。格が違い過ぎる。

冷たい指先が背後から那茲の首筋をなぞる。甘い香りに、身体の芯が蕩けるようだ。本能が身の危険を察している。

「止めておこう。龍太郎に嫌われそうだからな」

鋭く伸びた犬歯をのぞかせながら軽やかにグァルツィネは微笑んだ。

「飲まれたら如何ですが?北条院なら喜んで身を捧げるでしょう」

左右に首を振り、シュヴァイツウィンドの横を通って龍太郎を目指す。

「パパ」

「おいで龍太郎」

左腕で龍太郎の肩を抱え込み艶やかな黒髪に長い指を通す。

「私と一緒にいこう、一緒に……」

「え?どこ」

龍太郎の声だけがその場に残った。

「!!龍?!龍達がまた消えた――!!!!」

シュヴァイツウィンドの頷きを確認し、カインは姿を消した。



シュヴァイツウィンドはカインの姿を探し確認する。

グァルツィネと龍太郎は店のドアをくぐった所だった。ここは龍太郎のバイト先である。

2人が入った瞬間、店内中の視線が注目した。騒がしかった店内が一瞬で静まり返る。

肩を抱かれた龍太郎は気まずそうに眼を伏せていたが、強い視線を感じて目を上げると、一人で座っていた男と目が合った。

がっしりとした身体つきで薄茶の髪と青い瞳が印象的な男が、驚愕に目を見開いていた。

今月キャンペーンのスペシャルキリマンジャロモカを注文しており心の中で「どーも」と龍太郎は喜んだ。

カウンターでテイクアウトのコーヒーを注文し受け取ると、グァルツィネは龍太郎を連れて男の前に立つ。

「私の可愛い子。龍太郎だ」

「こ、この子が…」

それっきり男は口を開けたまま龍太郎を凝視している。

こんにちは。と龍太郎は一応頭を下げた。行こうか。と促され店を出ると、シュヴァイツウィンドとカインが寄ってきた。

「アルガロイドはこれでこの子に手を出したりしないだろう」

「何故ですか」

「龍太郎が可愛いからさ」

ガシガシと頭を撫でられ「パパ止めて」と親子はじゃれあっていた。

少し話をしようかと、公園に移動する。

龍太郎とグァルツィネが木陰のベンチに座り、シュヴァイツウィンドとカインは脇に佇む。

「私は龍太郎に王になってほしい。王になるとは血族になることだ。人間はいつか死んでしまうからね」

「パパ…」

「時間はまだまだあるから、ゆっくり決めなさい。王位が不在でも私の側近達が何とかしてくれるだろう。頼んだ」

御意とヴァンパイア達は声を揃えた。

シュヴァイツウィンドは親子の会話を見守っていた。全く似てないと思っていたが、やはり似ていないな。

コーヒーを飲み干したグァルツィネは「私はもう帰るよ」と立ち上がった。

「え?どこへ?イギリスの城?」

見上げる龍太郎の頭を撫でる。

「またいつか、逢えるかもしれない。さよなら龍太郎」

優しく撫でられた手の感触が消えたと同時に目の前の姿も消えてしまった。

「パパ?!パパ!!」

勢いよく立ち上がり左右を見回す龍太郎の後ろでシュヴァイツウィンドとカインも気配を探っていた。

「どうだ」

「いらっしゃいません。どこにも」

「グァルツィネ様…」

「なぁ!!パパは?!どこ行ったんだよ」

「…もうお会いすることはできないかもしれない」

「そんな…」

龍太郎とヴァンパイア達はいつまでもベンチを眺めていた。



ベッドに仰向けで寝ている龍太郎の視線はただ空中をさまよっていた。

未だ喪失感から抜け出せないでいる。ほんの少ししか一緒に居なかったのに、別れのダメージから脱出できない。

これが親子の絆ってもんなのか?

ヴァンパイアの事、血族の王になる事、絶えず続く渇望感の事、父親と母親の事。幸福な死と永劫の死。

意味がよく解んねぇなぁ。パパは消えたけど、ヴァンパイアが本当の意味で滅する事はないってカインが言ってたからなぁ~。今呼んだら出てくるのか?

名を呼ぶ代わりに瞼を閉じた。

鮮明に焼き付いた美貌は、このさき忘れる事はできないだろう。今まで、否、これから先もこれ程美しい人には会う事はない。

また人って言っちゃったよ…人じゃないっつーの。

一人で突っ込みを入れている所に、ノックの音が響いた。

「何だ?」

弟だと思い、中に入るように促すが、入ってきた人物を見て龍太郎は顔を顰めた。

「……なんだよ、何の用だ?」

反射的に上半身を起こし、視線をやや下に落とし睨み付ける。

後ろ手でドアを閉めたシュヴァイツウィンドは龍太郎の寝ているベッドに腰をかけた。

このガキ、ちょっとは遠慮しやがれ。

「邪魔をする」

あくまで居丈高な物言いに、龍太郎の眉間がピクピクと反応した。

文句を言おうとした龍太郎は、座っているシュヴァイツウィンドの足が床に着いていない事に気づき急激に憤りが修まっていった。

子供だなぁ……小っちぇ~。

考えてみれば、これ程間近でシュヴァイツウィンドを見るのは初めてであった。

小さな顔に宝石のような大きな翠眼、日本人とは違う鼻筋の高さに、不思議なくらい紅く小ぶりな唇。透き通るかのような白い肌。

うっわ――――――カワイイ!!天使だ。

何?!オレ天使って言った?!ぎゃぁぁぁ~コイツはクソガキなのに!!何てこった……

龍太郎が激しく自己嫌悪に陥っているのを傍目に、シュヴァイツウィンドは口を開いた。

「お前がどちらを選ぼうが、僕はそれに従う。お前の選んだ方が、グァルツィネ様の決定だ」

「…はぁ……」

「まさか選ぶのに50年もかけたりしないだろうな。人間はすぐ死ぬくせに優柔不断だ」

「はぁ?!50年経ったらジジイになっちまう。そんなに長く悩みたくねぇよ」

「どちらを選んでも後悔は付きまとう。いっそ自らに課せられた使命を真っ当するんだな」

「使命?」

「血族の王」

「…………………あのさぁ、お前が王になろうとか、そういうのは無いわけ?一応お前も高貴な純血っつー部類に入るんだろ?」

「僕の王はグァルツィネ様だけだ」

こういうのを盲目っていうんだ。でもパパ相手なら解る、と妙な納得をする龍太郎を、シュヴァイツウィンドは感情の読めない眼で観察していた。

血族を統べる王は必要だ。絶対的なカリスマ性を持った者は今の血族にはいない。

可能性があるとすれば龍太郎が覚醒した場合のみだ。

グァルツィネ様は無理強いを望まれていない。この馬鹿の決断を待つしかないのか……王が不在でいつまでもつか定かではないが。この状態が続けば第二、第三のアルガロイドが発生するだろう。

シュヴァイツウィンドも秘めたる葛藤に悩んでいた。

小さな溜め息が紅い唇から洩れる。

「急かすつもりはない。せいぜい悩むんだな」

勢いを付けてベッドから降りる姿は、無邪気な子供そのものだった。

小さな姿が去って行ったドアを何気なく見つめていた。

何の用だったんだ?……クソガキ、もしかして、励ましに来たのか?パパが頼むって言ったから。

思いっきり頭を振って、龍太郎はベッドから降りた。

「こういうのは考えるもんじゃない!!取り敢えず水でも飲もう」


「いい夜ですわね」

今夜は新月で夜空には一切の輝きが失われていた。絶望にも似た暗い闇夜が最もリラックスできる夜だとカインは考えている。我が身が闇に溶け込みやすい。

「こんな夜は食事もしやすく、過ごしやすいですわね」

佳月宅の2階屋根上である。カインは先客であるシュヴァイツウィンドの隣に腰をおろした。

「グァルツィネ様は、いってしまわれたな」

「そのようですね。セツナ様を、龍太郎様を愛してらっしゃったのでしょう」

「……愛か…僕には理解できない」

グァルツィネ様への盲目なほどの感情をそのように呼ぶのでは?

口に出さなかった。否定されるのは解っている。

「龍太郎様が決断されるまで、私達もここから動けませんね」

「飽きたのか?」

「いいえ。食糧も尽きる事はありませんし、龍太郎様は可愛らしい方で楽しいですわ」

「可愛い?確かに顔立ちは悪くはないが………」

明らかに不満そうなシュヴァイツウィンドを軽くスルーして、カインは夜空を見上げた。

龍太郎様は可愛らしく、魅力的だ。彼が王になるのなら、血族に新しい風を招き入れるかもしれない。例え資質や能力はグァルツィネ様に劣るとしても、キャラクターでどうにかなるだろう。何よりも覚醒すればどうなるか未知数である。

この場所を離れたくない理由は別にある。それはカインの胸の奥底にずっと留めておくつもりだ。


「おはよ」

「おはようございます、龍太郎様。食事の準備が整っておりますので、お席について下さい」

「龍、寝癖すげーぞ。直してこいよ」

「いい。先に食う」

何時の間にか朝食はカインが用意する事が定番となってしまっていた。

どうしてだっけ?と龍太郎は考えたが、きっかけが思い浮かばない。

結局シュヴァイツウィンドもカインも、ついでにギイも佳月家に居候している。

尤も、昼間は学校があるので会う事もなく、夜は夜で彼等はヴァンパイアの本能に従っている為、顔を合わせるのは慌ただしい朝か夕方ぐらいである。

凪は不屈の精神でカインに再挑戦を考えているらしい。

学校の帰りに茲那兄のところ寄ってみようか…

赤毛のおばさんは故郷に帰ったってカインが言ってたから、絡まれる事はなくなったな。良かった良かった。このまま暫くは無事に過ごせます様に。せめて明るい高校生活を送りたい。

「行ってきま~す」

玄関で見送るカインに声をかけ、自転車を漕ぎ出した。

暫く走ると奇妙なデジャヴに襲われる。

自転車が前に進まない。力を込めても全く動かない。

振り返りたくはなかったが、つい、龍太郎は振り返ってしまった。

キレーな外国人の男が腕を組んで龍太郎の全身を嘗め回すように観察している。

うっわ―――!!!この後の展開、オレ知ってるぞ―――!!こんな朝早くからなんて卑怯だ――!!

龍太郎は精一杯、ぎこちない笑みを作る。

「は、ハロー。多分人違いだと思いますがぁ……」

ニヤリと笑った男の唇から、異常に発達した犬歯が除く。

「ぎ、ぎゃぁぁぁああああぁぁあぁぁぁぁ!!!!!」


「愚か者が。また僕に手間をかけさせおって」

上空から嫌味な声が聞こえたが、龍太郎は聞こえなかった振りをする。


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クレイムクレイズ @sakagami32

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