16. ヘリオス

「いいか。お前は絶対に、エマ・クリスタルを取らなければならない。それがお前を連れていく条件だ」


 小型飛行機の中で、険しい顔をしたドナ・F・ルロワはそう言った。四十歳をゆうに越えているのに、ドナは若々しい見た目を保っている。高級スーツの下の筋肉は鍛えられ、はち切れんばかりに膨らんでいるし、肌には若者にも負けないハリがあった。蒼眼はぎらぎらと鋭く、無造作にたらされた金髪は緊張のせいで額や頬に張りついている。今のドナは興奮した獣のようで、身なりに気を遣う余裕もないらしい。十三歳のテレンスはじゃっかん呆れていた。自分は将来こうはなるまいと決意し、テレンスは軽口をたたく。


「わかってますよ、師匠。それより、もうすこし身だしなみを整えませんか? 世界に知られた調香師、ドナ・F・ルロワがこれじゃあ形なしだ」

「本当にわかっているんだな? 俺は、俺の後継者としてお前をヘリオスへ連れていく。遊びじゃないんだぞ」

「わかってますって」

「──どうだか」


 ふん、とドナが飛行機の座席にもたれると、彼のまとう香りがスーツから柔らかくこぼれ落ちてくる。テレンスは、「他に類をみない」とドナからお墨付きもらった鋭い鼻で、運ばれてきた匂いを吟味した。


「ジンジャー、オレンジ、フィグ、少量のムスクとペッパー……アリアステ兄さんの新作を?」

「アリアステはいい仕事をする」

「てっきり、エマ・クリスタルの香水を使われるかと」

「言ったろう。あれは特別な日に使うものだ」

「ふうん。それっていつなんです?」


 ドナはむすりと黙りこんでしまった。機嫌を損ねたらしい。彼が不機嫌なのはいつものことなので、テレンスは窓の外を眺めた。小型飛行機は特別保護区域・ヘリオスへ近づきつつあった。窓の外はどこまでも続く針葉樹だ。大都市を離陸してから三時間、消毒薬と化繊臭の漂う密閉空間に押しこめられ、テレンスの過敏な鼻は不快さに苦しめられている。ドナがいらついているのも、たぶん同じ理由だ。


 ドナは世界でも名を知られた調香師だ。高級ブランドの依頼で香水を作り、「ドナ・F・ルロワ」の名でフレグランス店も構えている。大富豪なのに山ほど仕事を抱え、スケジュールも秒刻みだが、ドナはさらに「国際調香師」という雑務付きの肩書を受け持っていた。「国際調香師」とは世界基準の国家資格で、国からの依頼で祭典用の特別な香水を作ったり、特殊な香料の扱いを許されたりする。とりわけ大きな特典として、特別保護区域・ヘリオスに入れるというものがあった。ヘリオスには、そこでしか採れない最上級の香石、エマ・クリスタルがある。その香りは天の花園とも形容され、万病を癒すとか、怪しげな噂まで出回っている。


「研究に使われるんでしたっけ? 採取したエマ・クリスタルは」

「八割は、研究試料として国へ渡す決まりだ。残る二割で香水をつくる」

「なるほど。その二割は師匠の懐に入る、と」

「馬鹿なことを言うな。国儀用の香水と、公式オークションに出す分だけだ」

「じゃあ、なんのためにこんな面倒を毎年、引き受けるんです?」

「味見の権利をえるためだな」


 眉間のしわを深め、不機嫌な師匠は答えてくれた。味見、と聞いてテレンスは納得する。エマ・クリスタルの香りをじっくり味わい分析する機会はなにより貴重だ。ドナのように、技量と経験のある調香師に十分な機会を与えれば、人工的に似た香りを生み出すことも可能だろう。もしエマ・クリスタルの香りを再現できれば、「ドナ・F・ルロワ」の名は世界最初の偉業を成しとげた人物として永遠に残る。

ドナは窓外を指さした。


「見えたぞ。あれがヘリオスの中心地だ」


 事前に聞いてはいたが、すさまじい光景だった。森が途切れている。焼けただれた真っ黒な都市の残骸が少しずつ見えてきた。ヘリオスは大きな円状の区域だ。中心に近づけば近づくほど都市の残骸は少なく、人の痕跡は吹き飛ばされている──かつて、ここには一大都市があった。ドナやテレンスが産まれるずっと前、もう何百年も昔の話だ。


「本当に、あそこに隕石が落下したんですね」

「ヘリオス、か。皮肉なもんだな」


 太陽神の名を冠した隕石・ヘリオスは、一夜にして都市を焼きつくした。甚大な被害をもたらした隕石には未知の有害物質が含まれ、その欠片が今でも大地にちらばっている。ここが保護区域に指定されているのはそのせいだった。事前オリエンテーションでは、数日の滞在なら人体に影響はないが、現地の水や植物はけして口にしないようにと言われていた。今回の滞在も一泊二日と日程は厳しく制限され、食料も支給されている。

 瓦礫と化したビルや街並みを眺めていると、かすかに生活の跡がみえた。薄暗い都市の亡霊が浮かびあがってくるようで、テレンスは無意識に唇を引き結んでいた。かつて、ここで暮らしていた者たちはもれなく死んでいる。死者の町に降り、今からエマ・クリスタルを採りにいく。


「心配するな。現地まではヘリオスの子らが案内してくれる」

「ヘリオスの子?」

「案内人だ。区域の森の端に住んでいる。エマ・クリスタルのことは、彼らのほうがよく知っている」

「……人が住んでるんですか?」


 こんなところに? という言葉をテレンスは飲みこんだ。


「あの都市ができる前から、彼らは森に住んでいる。土着の民だ。密猟者や盗賊から森とエマ・クリスタルを守っている。……礼儀正しくしろよ。くれぐれも粗相のないように」

「わかってますって」


 テレンスは外の景色に目を奪われていた。降下準備に入ったようで、針葉樹の緑が近づいてくる。小型飛行機は開けたスペースに振動とともに着地した。


「っ、おい!」


 誰よりもはやくテレンスは師匠を押しのけ、開いた扉からタラップを降りた。得意げな笑い声をあげると、背後から師匠の怒れる声と舌打ちが聞こえる。

 四方は森だった。風はしっとり濡れた緑の匂いがした。ヒノキや松の樹皮、腐敗した土の臭気が、高ぶっていた神経を鎮めていく。都会育ちのテレンスは、今日初めて本物の森の香りを知った。人工ではない木々の香りは奥行きがあり、余分な雑味と生き物の気配を多分に含んでいた。テレンスは恍惚と空気を何度も味わった。森の香りは生々しく、てんでバラバラでえぐみすら感じられた。それでいて、超然的なバランスでひとつにまとまっている。空は曇天、踏みしめる土は茶色かった。眼前には背の高い針葉樹の森が、神秘的な薄暗さで広がっている。


「こら! はしゃぐな」

「痛っ、叩かなくても」

「遊びじゃないと言ったろう」

「わかってますよ」


 ドナは凪いだ湖畔のような瞳を向けてくる。


「まったく。忘れるなよ。お前は必ず、エマ・クリスタルを採取する。俺の後継者になるつもりなら、必ずな」

「なんですか、しつこく言わなくても──」

「約束しろ」


 ただならぬ雰囲気にテレンスはとりあえず頷いたが、口はひとりでにふざけた言葉を吐き出していた。


「たとえば、エマ・クリスタルの前で師匠が熊に殺されかけてても?」

「そうだ。俺が頭から熊に喰われていてもだ」

「冗談……」


 はは、と出しかけた笑みがひきつる。ドナは笑っていない。見つめ合うだけの微妙な沈黙が落ち、ドナは足早に森のほうへ歩いていった。森の中から歩いてくる人影が見えたからだ。テレンスはほっとしていた。今日のドナはまるで彼らしくない。どことなく緊張し、気分が高ぶっているようにみえる。エマ・クリスタルの採取にはそれほどの危険が伴うのだろうか?


 жжж


 森から親子が歩いてきた。髭の生えた父親と娘で、娘のほうはテレンスと同じ年ごろのようだ。ふたりとも美しいプラチナ色の髪と瞳をしており、白い毛皮の外套を着ている。暖かそうな服だと見ていたテレンスは身を震わせた。そういえば、風はすこし冷たく感じる。ドナは親しげに挨拶をかわしていた。


「お久しぶりです、ザイ。今年もまたお願いします」

「ドナ。お待ちしておりました。実は、今年は個人的にお願いしたこともありまして……そちらの方は?」

「甥のテレンスです。以前、お話ししたかと思いますが」

「なるほど──遠路はるばるようこそ。優秀な方だとドナから伺っております。私はザイ、こちらは娘のニカです」

「どうも」


 テレンスは軽く頭を下げた。知らぬところで褒められていたらしい。ほんのり頬が熱くなり、ちらりとドナを窺ったが、彼はテレンスを見もしなかった。真面目な顔でザイと穏やかに話している。ザイが穏やかに頷いた。


「さあ、まいりましょう……ニカ、お渡しして」


 凛とした睫毛の長い少女が近づいてきて、一枚ずつ、ずっしりした重みの外套を渡してくれた。ふわふわの白い毛並みの外套を着ると、ほのかに甘い香りが漂ってくる。不思議な香りにテレンスは鼻をひくつかせる。この甘い香りはなんだろう。ムスクでもチュベローズでもない。あらゆる香料を思い浮かべたが、どれもしっくりこなかった。

 ザイの案内でそのまま森へ入っていく。


「最近は森も落ち着いています。一族の者はまた減りましたが」

「そうですか。その後、おばあさまのお加減はいかがです?」

「実は──それが個人的にお願いしたいことで。祖母の調香をお願いしたいのです」

「……なるほど、そうでしたか」


 ドナは珍しく馬鹿ていねいに対応していた。いつもは巨匠らしくふんぞり返っているのに、敬語を崩そうともしない。おかしくてテレンスが後ろでニヤついていると、隣を歩くニカという少女と目が合った。肩をすくめてみせたが、ニカはひどくつまらないものを見たという風に顔をそむけてしまった。


 しばらく歩くと、本格的な森の気配に包まれた。踏みしめる土は柔らかく、腐葉土と落ち葉の匂いがした。一歩進むごとに足元から匂いが這い上がってくる。周囲は天つく巨大な針葉樹で、テレンスの鼻はむわりとこもる緑でいっぱいになる。葉から露が樹皮にしたたり、木そのものの香りを拡散している。テレンスもウッド調の香りは知っていたが、ここまで奥深いものは初めてだった。人工香料では表現できない複雑な香りは、テレンスをうっとり夢見心地にした。どれくらい進んだだろう。小川を横目に、鳥の鳴き声に耳を澄ませ、白い群生花の清らかな香りを楽しんだ。野営地に着いたとき、テレンスは満面の笑みだった。


 案内人のザイたちヘリオスの子らは、移動式テントで生活しているらしい。ドナは「挨拶するから待ってろ」と、一番大きな白いテントにザイと一緒に入ってしまう。取り残されたテレンスは、テントの入り口のアラビアンカーペットを眺めていた。中から漂ってくる甘い香りに意識を集中させる。どこかでお香が焚かれているらしい。かすかなウード調で、蜜のような甘さも感じられる。テレンスは無意識に眉をひそめていた。漂ってくる香りの正体がわからない。この不思議な香りは、外套についていた甘い匂いと同じものだ。判別できない香りがあるということが、テレンスには驚きだった。ドナに後継者として認められるくらい、テレンスの嗅覚は優れている。この世のすべての香りを嗅ぎ分けることができるし、一度嗅げば香りを忘れることはない。犬並みの鼻だとドナにもしょっちゅう揶揄されていた。その鼻が漂ってくる香りの内容を識別できないのだ。甘く上品にくゆる複雑な香りだった。今まで嗅いだことのない匂い──ある可能性がひらめく。ひょっとしたら……。


「きみも調香をする?」

「え?」


 ニカがじっとテレンスを見つめていた。長い銀のまつげを瞬かせて、ニカはテントを示した。


「ドナのように。君も調香できる?」

「そりゃ、できるよ。師匠ほどすごくはないけど。どんな香りが好みなの?」

「……すぐにできる?」

「えっと、数十分もあれば」


 テレンスが外套を開き、腰に下げた調香キットと試験管を見せると、ニカは片眉を吊り上げてみせた。素直に驚き、感心しているようだ。何かを言いかけてニカは口をつぐむ。ドナとザイがテントの中から出てきた。ニカは「あとで」と小声で素早く告げ、頷く。そのかすかな響きを、テレンスは脳内で心地よく味わった。「あとで」──きっと彼女には秘密でつくりたい香りがあるのだ。テントから出てきたドナが空の明るさを確かめている。広大な自然に挑むみたいに険しい顔をテレンスへ向けてきた。


「暗くなる前に、ザイにヘリオスへ連れていってもらう。これを嵌(は)めろ」

「手袋ですか? 要りませんよ。それほど寒くはないし」

「ヘリオスでは必要になる」


 ニカをその場に残し、ザイの案内でまた森を進んでいった。木々が途切れて開けた空間がみえてくる。焼けただれた都市の残骸と黒い大地──ヘリオス区域だ。

 一歩足を踏み入れた瞬間、炭と化学塗料、乾いた木の匂いがした。卵が腐ったような硫化水素の匂いも感じる。燃えにくいものが燃え、残骸として打ち捨てられた悪臭が土に染みこんでいる。森に近い外縁部は隕石の爆風被害が少なかったらしい。かなりの建物が当時の面影を留めていた。歩いているうちに、テレンスは身に染みる寒さを感じてきた。吐く息はいつの間にか白くなっている。まだ昼間だし森との距離も近いのに、ヘリオス区域はあり得ないほど低温だった。先導するザイが白い息で言う。


「エリアDへ行きましょう。最近見つかった区域で建物の損傷もすくない。──気をつけてください。鉄が皮膚にじかに触れると、怪我をしますよ」


 片方の手袋を外していたテレンスはハッとした。先頭をいくザイの優しい目と、自分の前にいるドナの鋭い目が、剥き出しの鉄骨に興味本位で触れようとしたテレンスの指を見ている。テレンスは慌てて指を引っ込めた。


「あ、あの。ここはどうして、こんなに寒いんですか?」

「ヘリオスの影響です。隕石自体に含まれる有害物質が、大気の組成に影響を与えているのだとか……詳しくは、私も知らないのですが」


 大地に留まる隕石は、未知の有害物質を出し続けている。その悪影響が各所に出ているのだという。


「こちらです」


 案内されたのは五階建てのマンションだ。外階段を上がり、ザイは二階の一室へ入っていく。ドアを開けると玄関で、古びたスニーカーが転がっていた。埃っぽさと、つんと鼻に染みる腐敗臭がする。古書とかび、ふるびた皮の匂い。室内は綺麗だった。生活の痕跡がそのまま残されている。爆風が通ったせいで窓ガラスはすべて割れ、ところどころ物が倒れていた。テレンスは居心地の悪さを感じていた。人の家に土足で押し入った気分がする。何かを踏んで足を上げると、熊のぬいぐるみだった。左に子供部屋があるのを見てぞわりとした。幼い子供がいたのだ。


「ありました、エマ・クリスタルです」


 ザイに呼ばれて、慌てて奥の部屋へ向かった。巨大な隕石の欠片がそこに落ちていると、テレンスは予想した。エマ・クリスタルは一般的に隕石の欠片か、隕石のそばで有害物質を浴びた鉱物だといわれている。研究例は少なく、扱える人員も限られているので世間に知られていることは少ない。衝突の際、隕石はバラバラになり四方へ飛び散ったが、そのひとつがここへ落ちたのかもしれない。けれど、テレンスが向かったその部屋にはなにもなかった。大きな木棚がふたつ、部屋を覆うように倒れているだけだ。ザイとドナは屈みこみ、棚の下を覗きこんでいる。ドナが懐中電灯で白く照らし、ザイが棚をゆっくり持ち上げていく。埃とともに棚がよけられ、テレンスはそれを見た。


「さあ、テレンス」


 ドナが立ち上がり、テレンスの肩を支えるようにして前へ立たせた。近づく間もテレンスの目は釘づけだった。出した声は震えていた。


「なんですか、これ」

「エマ・クリスタルだ」

「だって、……」


 それは人の形をしていた。巨大な赤水晶から人の彫刻を切り出したようにもみえる。成人女性が横向きに、片手を投げ出した形で倒れていた。衣服は風化し消えたのか、胸のふくらみもわずかにみえる。皮膚や目、髪などはすべて、赤いクリスタルに変わっていた。テレンスには彼女の表情までもがよく見えた。眠る前のように茫洋とした顔で、どこか遠くを見ている。屈んだドナは両目を伏せ、祈りの言葉を小さく口ずさんだ。死者への祈りを済ませたドナは革袋を取り出し、赤いクリスタルへ手を伸ばす。ためらいもなく、手首から腕までの部分をむんずとつかみ、軽い音とともにクリスタルを割り取った。


「さあ、お前も」

「っ、でも……」


 革袋へ収められたクリスタルを視線で追っていると、背後からザイのやさしい声が差し出された。


「心配いりません。もう、数百年も前に亡くなっています。──隕石の有害物質には、人をクリスタル化する効果があるのです。かつて隕石の衝突時には、有害物質は今よりもずっと濃く、爆風に乗り市街地へふり注ぎました。……彼女は、おそらく瞬時にクリスタル化したでしょう。痛みはなかったでしょうし、死に際は安らかだったと思います」


 ザイの言葉は部屋に浮かぶ埃のように、すこしずつテレンスの胸に落ちてくる。思えば古来より、香りは動物由来のものが多かった。ムスクはジャコウジカの香嚢こうのうから採れ、アンバーグリスはマッコウクジラの結石から生み出された。高価な動物由来の香りは、今では調合された人工香料へとすっかり置きかわり、ほとんど使われることはない。ドナは疲弊したように息をつく。


「俺は……もう五年もこの香りを嗅いできた。エマ・クリスタルの人工香料を調合するためだ」


ドナはエマ・クリスタルを袋へかき集めながら言う。


「ここには盗掘者が多く来る。エマ・クリスタルが香料として高く売れるからな。ヘリオスの子らがここを守ってはいるが、目の届かない部分はある。盗掘者は年々増える一方だ──もし、俺たちが人工的に似た香りを作り出せたら、盗掘は減るだろう。俺たちの名で、世界にエマ・クリスタルの香水を販売できれば……人工香料のほうがずっと安上がりだからな」

「俺たち?」

「俺とお前だ」


 話している間に、ドナは手首から肘までの部位を袋へつめ終えていた。袋の中で固いものがこすれる音がする。テレンスの目の前に、彼女の左手首から先が残されていた。手首から先のうつくしい薬指に、銀の指輪が光っている。


「テレンス。お前をここへ連れてきたのは、俺を助けてほしかったからだ。五年だ……どれだけ分析してみても、これと同じ香料をまだ産み出せない」


 劣化したのかもな、とドナは自身の鼻をそっと拭う。思わず反論しそうになって、真っすぐな青い瞳と目が合った。


「俺は老いた。嗅覚もセンスも、これからさらに衰えていくだろう。だがお前は、若くて才能がある。俺の後継者になるお前なら……ここへ来る前に俺が言ったこと、憶えているな?」


 ──この手で必ず、エマ・クリスタルを採取すること。


 答える代わりにテレンスは、視線をエマ・クリスタルへ移した。うつくしい左手の形だ。なめらかなルビーにも、赤いガラス細工のようにもみえる。震える両手でそれを拾い上げ、ドナが広げてくれた袋の中へそっと移し入れた。ドナは無言でテレンスの肩をやさしく叩き、またすぐに作業を再開する。テレンスは自分の両手のひらを眺めていた。エマ・クリスタルは想像よりもずっと重い。拾いあげたときの重みを、きっとこれから夢にうつつに、テレンスは何度も思い出すだろう。


 жжж


 帰りは全員無言だった。ザイが気遣うような視線を向けてきたが、彼はなにも言わなかった。水平線に落ちたオレンジ色の太陽が、廃墟の世界をやさしく包みこんでいる。森へ戻ると辺りはすっかり暗くなっていた。テントの前に焚火があり、ニカが座って待っていた。炭と燃えた木と、燻製の煙の匂いがした。テレンスはほうと息をつく。


「ここにいろ」


 ドナはそう言って、ザイと一緒にテントの中へ入っていく。テレンスは焚火のそばでぼんやり立っていた。


「座りなよ」


 丸太に座ったニカが言う。隣に腰を降ろすと、面白がるような目を向けられた。


「そんな顔してたな。ドナが最初、ここへ来たときにも」

「師匠が……?」


 焚火の炎が少女の灰色の目に映り、美しくきらめいている。長い枝で火をいじり、ニカはテントのほうを顎で示した。


「外の人はみんなそう。けど今じゃ、ドナはおばあさまの体の調香までしてる」

「体の……なに?」

「ザイが頼んだんだ。そろそろ最期だからって」


 反応の鈍いテレンスに、ニカは自分の左手に巻かれた包帯を示した。ニカの指には一本ずつ包帯が巻かれていたが、彼女が小指の包帯を外すと、なめらかなエマ・クリスタルの輝きが現れた。小指の第一関節あたりまでが、赤く透明なクリスタルに変わっている。ニカはゆるりと口角を上げる。


「私たちはいずれ、エマ・クリスタルになる。すこしずつ体が変わっていくんだ。おばあさまのように、やがて全身がこうなる」

「──ここを、離れようとは思わないの?」

「どうして?」ニカは首をかしげた。「なにも怖いことじゃない。一族のものは、みんなそうやって死んでいく。死期が近づくと、外からきた調香師に香水をつくってもらえるんだ。死者の香りは、近しいものに渡されて永遠に残る」


 ニカは首から下げた香水瓶を見せてくれた。透明な瓶に薄いピンク色の液体が入っている。ニカは声量を小さくした。


「自分の体で香水をつくるのは、死ぬ前だけなんだ。今のおばあさまみたいに……けれど私は、もっとはやくつくってみたい。──君は、調香ができると言ったね?」

「それは……できるけど」


 ニカはテレンスの表情をじっと見て、小指の包帯を巻き直した。


「なにも、今すぐでなくてもいい。来年もここへ来るんだろう? 再来年でも、その後でもいい。私は、肩に大きくエマ・クリスタルが広がっているんだ。それを使ってほしい」

「どうして? 死ぬ前じゃなく、いま香水をつくりたいの?」

「決まってる」ニカは口角を上げる。「楽しむためさ。どんなに良い香りでも、床から動けない体になってからじゃ意味がない。みんなは昔からのしきたりに従ってるけど、私は外の景色とともに香水を楽しみたいんだ。森や小川、お気に入りの見晴らしのいい場所へ行くときなんかにね」


 微笑むニカの肩のあたりをテレンスは凝視した。そこにあるエマ・クリスタルを使って自分が香水をつくるところを想像してみる。途方もない不安と無力感が、底冷えするような冷気とともに足元から押し寄せてきた。自分にできるだろうか。エマ・クリスタルを取るとき、彼女は痛みに苦しまないか。純金よりも貴重な香石を使い、もし失敗したら──? 同時に、畏敬の念でドナのことを考えた。ドナは毎年ここでエマ・クリスタルを採り、香水をつくっている。それがとんでもないことだと今ならよくわかる。ドナはひとりでずっと向き合ってきたのだ。未知の香りの謎を解明するために、五年もかけて──なりふり構わず、ついには未熟なテレンスにも「助けてほしい」と言ってきた。ニカとドナ、ふたりの力になれるだろうか? すべてはテレンスの覚悟と技量しだいだった。これまでは優れた嗅覚という才能に頼り過ごしてきた。学ぼうという気がなくても、香りにまつわるものは自然とテレンスの世界に入ってくる。けれどエマ・クリスタルを扱うとなれば話は別だ。ありとあらゆる知識と経験、技量が必要とされる。人生のすべてを燃やしつくし、香りに立ち向かう生き方になるだろう。

 テントからザイが出てきて、焚火の反対側に立った。森の闇に溶けこみそうな静かな目で、ザイはまじまじとテレンスを見つめている。


「あなたは、ドナとはずいぶん違いますね」

「えっ」


 優秀なドナとは比べ物にならないと言われた気がして、心臓が跳ねた。ザイは不思議な笑みを浮かべていた。彼の声は夜に馴染み、風のように穏やかだ。


「ドナが初めてここへ来たとき、エマ・クリスタルのことを知って、その辺で吐いていましたから。立てるようになるまで、かなり時間がかかりました」


 当時のことを思い出したのだろう、ニカが噴き出した。軽やかな笑い声が焚火の炎を揺らし、ザイは懐かしむ目になる。


「あの頃のドナは大人でした。あなたは、……まだ幼いのに。ずいぶんと落ち着いている。きっと素晴らしい調香師になるでしょう」

「俺が、ですか?」

「ええ。きっとドナよりも優れた調香師になりますよ」

「なんの話ですか。俺の話を?」


 むすくれた顔のドナがテントから出てきて、ザイは「おっと。私は夕飯の支度を」と逃げていく。


「ったく。テレンス、後で森の中を見て回るぞ」

「え。こんな暗い中を、ですか?」

「この辺りだけだ。豊かな自然と大地の香りは都市じゃ嗅げないからな。お前はもう少し、雑味のある香りも嗅いでおいたほうがいい」


 頭をやさしく叩かれ、「行くぞ」と師匠はザイの後を追っていく。胸の奥がほんのりと暖められた気がした。期待されている。ドナは来年も再来年もここへ来るだろう。その後ろをついて歩く自分の姿を想像するのは簡単なことだ。


「来年、──」立ち上がり、テレンスはニカに言った。「また来る。もっと勉強して、君にぴったりの香水をつくれるようになる……だからそのときまで、待っていて」

「ああ。楽しみにしている」

「テレンス! いつまで喋ってるんだ!」


 遠くから師匠の怒れる声がする。慌てて身を翻すと、銀砂のまぶされた夜空がみえた。すこし先の森は鬱蒼うっそうとして、眠る木々と夜霧の香りが風に運ばれてくる。今日泊まるテントの前で、師匠がいらいらと待っていた。なめした革と油の燃える匂いと、不思議な甘い香り。昼間歩いた森の方角をちらりと見やった。暗い木々の向こう側、ひらけた大地にヘリオスの暗い都市が広がっている。つめたい静寂に覆われた死の大地──そこには今も、無数のエマ・クリスタルが眠っている。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

System error 冷世伊世 @seki_kusyami

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ