【9月刊試し読み】タクミくんシリーズ完全版7
角川ルビー文庫
Pure
眠くて眠くて、たまんなかった。
一時間目の社会のテスト。
散々やらされた志望校別の学力テストなんかじゃなく、これは本番の、ホンモノの入学試験なのに、朦朧とした視界に問題がぼやけてよく読めない。──かろうじて読めたところも、意味がわからない。
猛烈な睡魔と闘うだけでかれこれ三十分は過ぎていて、答案用紙はほとんどが空白のままだった。
「まじ、やべ……」
どうしてもここに入りたくて、交換条件のようなワガママを通して受験したのに。このままじゃ試験になんか受かりっこない。わかっているのに、どうにかしなけりゃヤバイ、マズイとわかっているのに、意識はぐらんぐらん揺れるばかりだ。
カリカリと、ライバルたちが答案用紙を順調に埋めてゆく筆記用具の音が、静かな教室に流れている。
皮肉なことにその音すらも、眠りを更に誘うのだ。
もう、駄目だ……。
深い眠りに引きずり込まれるようにガクンと頭が落ちたとき、机に体を支えていた肱が脇に滑って、床へ筆箱を落とした。
お気に入りのセルロイドの筆箱が、静寂を賑やかに裂いてゆく。
「あっ」
拾おうと、慌てて上体を屈め、床へ手を伸ばそうとしたときに、隣の席の机が見えた。──空白のない、びっしり答えで埋められた答案用紙が、見えてしまった。
ふと、視界が遮られた。
「落とし物は拾わなくていいと、最初に注意を受けただろう」
いつの間にか、教室前方の教壇で試験監督している先生ではなく手伝いの、教室の後ろに配置されていた制服姿のひとりの在校生が、隣席とを遮る衝立のように傍らに立ち、にこりともせず筆箱を拾い上げて机に置いた。
「す、すみませ、ん」
見られた、だろうか。──うっかり隣の答案用紙が目に飛び込んできてしまったこと、この人に、バレてるだろうか。
「私語厳禁」
謝罪でさえも、冷ややかに窘められる。
いきなりカラカラになった喉。
心臓がドクドクと、忙しない。
空白だらけの答案用紙につと目を落とした在校生は、チラリとこちらの顔を見て、だがそれ以上は何も言わず、視線を外して元の監督場所に戻って行った。
鼓動が、忙しない。
絶対、バレてる。
試験終了のチャイムが鳴り、後ろの席から順に回ってきた束に、裏に伏せた答案用紙と問題用紙を重ねて、前へ送る。
背後から見守っていた在校生は用紙が全て前方に集まると、机の間を抜けて監督の先生に近寄った。集められた答案用紙をその場でパラパラとチェックしながら、受験生たちには聞こえない声でふたりは何やら会話をし、途中でふっと、教師が教室を見回した。
反射的に顔を伏せる。
眠気など、もうこれっぽっちも残ってなかった。ただただ、動悸が激しくて、落ち着かなくて、――いたたまれなかった。
失格だ。
もう、ここには入学できない。
これ以上試験を続けても不合格なのは目に見えていて、潔くこの場を去るしかないと、荷物をまとめて椅子から立ち上がったとき、
「百三十五番、真行寺くん」
教師に呼ばれた。
「は、はいっ!」
真行寺兼満は、硬直したように教師を見る。
「きみ──」
でもだからって、こんな所でカンニングを指摘しなくてもいいじゃないか! ……ああ、自業自得か。
「──体調が良くないようなら、この休憩時間に、医務室へ行ってきなさい」
「え……?」
見ると、あの在校生は一礼して、教室前方のドアから出て行くところだった。
「どうするね? 行くようなら、場所を教えるが」
こちらに一瞥の目線すら投げることなく、在校生は廊下の奥に消えてゆく。
真行寺は首を横に振ると、
「だ、大丈夫です。なんでも、ないです」
そのままゆっくり、椅子へ座り直した。
無意識に、溜め息がこぼれた。
『落とし物は拾わなくていいと、最初に注意を受けただろう』
冷ややかに動いた、肉付きの薄い、頬の線。
自分の顔と答案用紙に注がれた、冷静な眼差し。
なのに、
「あの人、俺のこと、報告しなかったんだ……」
助かった。と、ホッとしていい場面なのに、どうしてか、忙しない動悸は一向におさまる気配をみせなかった。
人里離れた山の中腹にへばりつくように建っている、広大な敷地を持つ全寮制男子校、私立祠堂学院高等学校。入学試験の行われる一月下旬、山奥祠堂は、そこら中が雪だらけだ。
志願者に、圧倒的に専願が多いのにもかかわらず、どうして他の私立高校よりかなり試験日が早いのかというと、二月になると天候状況がかなり悪くなってしまうから、らしい。しかも、午前中の四時間で筆記試験は終了で、即ち試験科目が一科目、これまた他の私立高校より少ないのである。
欠けているのは、なんと国語。
試験がないその代わり、重要なのが面接で、ここで“話す能力”をかなり厳しくチェックされるのだ。一般的に国内全域から受験生が集まる私立高校の入試では、内申書もさほど重要視されないし(県や地域によってフォーマットや評価の基準がマチマチなので)、面接だって、悪態をつくようなひどいことをしでかさない限り、取り立てて合否に影響を及ぼすことがないのが実情で、重要なのは、専願か併願かという点と、筆記試験の点数である。
なのにここ、祠堂学院の場合は(系列の祠堂学園とも違い)、大学の一芸合格ではないけれど、面接の内容が良かった、との理由で、筆記試験の点数がかなり低かった受験生がひょっこり合格してしまったりするのだから、侮れない。
要するに、面接は一科目扱いなのだ。そのつもりでいないと、大変なことになるのだ。
午後からの面接に備え、筆記試験終了と同時に全員に配られた食券を使って、広い広い学食で、祠堂生(未来の先輩たちだ!)に交じって昼食を摂った。
真行寺の中学からここを受験する人は他にいなくて、ひとりで昼食なんていつもなら寂しい限りだが、今は、眠くてだるくてそれどころじゃなくて、おまけに寝不足のせいか、胃がどうしても食事を受けつけてくれなくて、ものすごく美味そうな唐揚げ定食なのに、ほとんど箸をつけられなかった。
こんなんじゃいけないと、真行寺は己に活を入れるべく、限りなく零下に近い外へ出た。
結局、あれからも学校側から呼び出されるでなく、特別に注意を受けたわけでもなく筆記試験を続けることができて、あの在校生がどういうつもりかはわからないが、とにかく、あの一件のおかげでドキドキのあまり眠気が吹っ飛び、災い転じて真行寺はまともに答案用紙を埋めることができたのだ。
ところが、午前の筆記試験が無事に終了した途端、猛烈な眠気が再燃したのである。
庇の下の乾いたベンチに腰を下ろし、
「ちょっとだけ、眠ってもいいかな」
腕時計の目覚まし機能を二十分後にセットして、もこもこのコートの前を合わせてベンチの座面にごろりと横になる。
それだけで、休息を求めていた体が喜んでいるのがわかる。
「気持ちいいなあ。でも、このまま熟睡したら、凍死かなあ」
なにせ、ここは、零下の世界。
それでもいいけど。
「……なんちゃってえ」
冬の晴天。
庇に遮られ、もろに直射日光は受けないものの、淡く霞んだ青空がなんだかやけに目に染みて、澄んだ空気すらしぱしぱと目に痛くって、少ない光量をも乱反射させる一面の雪景色、地上にも白銀の光は溢れていて、寝不足の身にはひどく眩しいこの世界、その全てを手のひらで避けて、目を閉じた。──なにもこのタイミングでケンカなんかしなくてもいいのに。
一晩中ののしりあってた両親の険のある声が、耳の奥に甦る。
いくつになったって、両親のケンカが気にならない子どもはいない。明日が入試の本番で、早く寝るべきとわかっていたけれど、不安で心配で気になって、結局真行寺は自分の部屋のベッドの上で一睡もできないまま朝を迎え、朦朧としながら、こんな遠くの学校まで、電車に揺られてやってきたのだ。
離婚を決めた夫婦なのに、それでもまだ、ケンカするんだ。
別れることにしたんだから、もう互いのことをあんなふうに責めあわなくたっていいのに。
やるせなくて、涙が出た。
ふたりして、ひとり息子の兼満を引き取ると譲らなくて。それすらもケンカの元になって。父か母、どちらを選ぶと訊かれても答えられないし、ならばと彼らに勝手に行き先を決められても苦しいし、それに、選べないだけでなく、実はどちらとも一緒にいたくないから、好きとか嫌いとかでなく、きっと毎日相手の悪口を聞かされてしまうから、それがとても辛いから、全寮制の祠堂学院を選んだ。
親権はどちらが取ってもかまわない。ここを卒業したら、もう大学生だ。そうしたら、今度はひとり暮らしをすればいいのだ。大学へ行かずに就職するにしても、やっぱり独立してひとり暮らしをすればいいのだ。
本当の理由は内緒にして、どうしても祠堂学院(実家により近い祠堂学園ではなく)を受けたいと、両親にワガママを言った。幸いにして学院の評判は悪くなかったので、父か母、どちらが出すことになるにせよ、学費や寄付金の高さにも目を瞑ってくれることになったのだ。
試験に落ちたら、どうなるんだろう。
両親がそれぞれ用意しているいくつかの高校のどれかに、てぐすね引いて待っている、それらの高校のどれかひとつに、入学を余儀なくされる。そういう約束だったから。
そしたらまた、争いの日々だ。
離婚したって、きっと終わらない。恨み言や繰り言を、今までのように聞かされ続ける。それがたとえ事実でも、悪口なんか聞きたくない息子の気持ちは、やっぱりきっと、わかってもらえないのだ。
「それどころじゃ、ないんだもんな」
きっと、彼らは彼らで、自分たちの気持ちで手一杯で、真行寺の辛さはわからないのだ。この選択がいかに正しいのか、真行寺にわからせようとして、飽きることなく相手の短所を言い連ねるのだろう。離婚の正当性を、ひとり息子に納得させるべく、強引に押しつけてよこすのだろう。――これまでのように。
ばあちゃんが生きてたら。
そしたら、あそこに逃げ込んだのに。
皺だらけのあったかい手で、何度も頭を撫でてくれただろうに。
こちらに近づいてくる賑やかな笑い声と雪を踏む複数の足音に、真行寺は急いで指先で涙を散らした。
指の隙間に、先の在校生の笑顔が覗いた。
「あ……」
──笑ってるよ、あの人!
冷ややかな眼差しがあまりに印象的で、その彼と、あの笑顔が、どうにも結びつかなくて。しかも別人のような柔らかな笑顔が、ものすごく、ものすごく意外で。
真行寺は、ぽかんと、指の隙間から彼を追う。
「遅刻した三年生の代理に、一時間だけとはいえ、一年生の身の三洲に試験監督押しつけるなんて、相変わらず無茶苦茶するなあ、相楽クン」
数人の生徒のひとりが、長身の、飄々とした雰囲気の生徒の頭を軽く小突いた。
はっはっはー。と、お気楽に笑う長身の生徒。──あの人が“サガラくん”で、あ、じゃあ、さっきの人は“ミス”なんだ。みす? 英語でミスは独身女性のことだよな。え。あだ名? 男なのにmissって呼ばれて――る、わけないよな。漢字だとどんななんだろう。将軍とか公家とか、昔の偉い人の寝所の前に垂れ下がってるあれ、御簾とかだったよな。でも御簾なんて、ちょっと字面が名字っぽくないなあ。としたら、どんな字、書くんだろう。
入試の前日に眠れぬほどの悲哀に暮れていたはずなのに、真行寺の全部が、今や、三洲に釘付けだった。
「そっかー? 三年ばかりの中にいたって三洲ならちっとも見劣りしないじゃないか。なあ?」
「おいおい。いくら自分が“伝説の男”だからって、発想の天衣無縫さは、大学に行ったらほどほどにしておけよ」
――ああ、彼らは直に卒業なんだ。三年生たちに囲まれた、唯ひとりの一年生。それが、あの人なんだ。
「三洲、コイツの無茶に結局、最後の最後までつきあわされちまったんだなあ」
同情めいて言う誰かに、
「それでも、相楽先輩のように一年生のうちから生徒会長をしたわけではないですから。無理にやれとも押しつけられませんでしたし、試験監督の代理は、さほどの無茶とも」
柔和な口調と柔和な笑顔で、あの人が返す。……やっぱり、違和感。
「くーっ、かわいいなあ三洲! 大学まで拉致っちまおうかなあ」
むぎゅっと彼を抱きしめる“伝説の男”に、その腕の中で、彼がちいさく息を呑んだ。──真行寺まで、どうしてか、ドキリとする。
そのやにわ、
「あっ、崎!」
“伝説の男”が叫ぶなり、雪の原を走りだした。
その途端、向こうを通りすがったひとりの生徒が弾かれるようにダッシュした。猛烈に。反対方向へと。
その後を必死で追いかける“伝説の男”。雪の原をひた走る。
「こら待て、ちょい待て」
派手に雪を蹴散らして、どうにか追いついた生徒の腕を必死に■み、「逃げるなって、おい」
「なんなんですか、先輩はもう」
しつこいなあ、と全力で主張して、「逃げたくもなるでしょ、いい加減にしてくださいよ」
ふたりの激しく吐く息が、周囲に白く躍っていた。
「卒業を前に、たまには真面目な話もしたいんだって言ってるだろ」
「勘弁してくださいって。どうせまた面倒なこと言い出すんでしょう」
「なんだよ、またってのは」
「日頃の行いから類推しました」
「憎ったらしいなあ、この超絶美少年はあ!」
「その言い方もいただけませんね」
冗談なのか本気で嫌がられてるのか真行寺にはとんと不明ながらも、彼らのやりとりを他の面々は面白そうに眺めていた。──あの人を除いて。
「あの崎を相手にあれだけふざけられるってのも、相楽ならではだよな」
恐れ多くて、俺たちにはとてもできない。
羨むような感心するような呆れるような、彼らの表情。
手で顔を覆うのも忘れ、ぼんやりとそれらの様子を目で追っていた真行寺へ、柔和な表情を掻き消して、三年生たちから半歩退がり、ふざけるふたりを淡々と眺めていたあの人が、なんの気なしに振り返った。
もろに、目が合ってしまった。
もし眼差しで人が殺せるものならば、この場合、真行寺は即死だろう。
だが、鋭く真行寺を睨みつけた彼の眼差しが、不意に弛んだ。──不思議そうに、真行寺の顔を見入っている。
その無防備な表情に、真行寺も見惚れた。不思議そうに小首を傾げた、──それは、愛しくてたまらなくなる、とても無垢な表情だった。
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※この続きは是非、9/1発売ルビー文庫『タクミくんシリーズ完全版7』(著/ごとうしのぶ)にてご覧ください!
【9月刊試し読み】タクミくんシリーズ完全版7 角川ルビー文庫 @rubybunko
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