第3話

    ****


「カバンよーし、財布よーし、戸締まりよーし、忘れ物……なーし。」

 玄関前の鏡に向かい華麗にターンを決めて服装にも問題が無いことを確認する。我らが近畿地方は、ただ今春らしい陽気に包まれ、本日絶好の行楽日和、降水確率は0%。

「ふぅ…」

 自分で作った遠足の冊子を広げる。

*行動班

 1班 新宅英司しんたくひでじ小平こだいら まな時田太郎ときたたろう長瀬可愛ながせえの街花和美まちはなかずみ・・・・

「あぁぁ…なんで私あんな事を口走っちゃったんだろ…」

 あれから二週間。長瀬さんとは学校で合う度一応「おはよう」とか「また明日」とか挨拶を交わせる関係になった。だがその挨拶もどことなくぎこちなく、照れくさいというかどうにも彼女を直視し難い日々が続いていた。

(あんなこと、なおちゃんにも言うつもりなかったのにな……)

 今日の遠足も、くじ運良く長瀬さんと同じになってしまった。踏切の前の言葉から今までほぼ事務的な会話しかしていないので、今日一日中一緒に行動することに私は少し億劫になっている。

(いやいや、周りは変わって、前に進んで行くのに、私だけ嫌がってその場で足踏みしてちゃ、どんどん置いてけぼりにされちゃってダメになっちゃうもんねっ、今日も頑張って委員長やるぞ! そう決めたもん!)

『ピンポーン』

 自分に今日分の気合いを自分に注いでいるとドアベルが直子なおこの到着を知らせていた。

「あっ、はーい今行くねー」


「おはよーなおちゃん! 今日はいい天気だね!」

「おはよう。まな? なんか…どうしたの?」

「え? どうしたのってどうしたの?」

「なんか今日のあんた、いつもよりだらしなさが軽減されてるっていうか、女の子してるっていうか……そうか! 寝癖とか着いてないんだわ」

「えーひどい、それじゃまるで私がいつもだらしない人みたいだよ!」

 直子は手のひらをポンッと叩き納得した様子だった。初めて違うクラスになったのと最近クラスの仕事で色々あったので、直子とのこんなやり取りも久しぶりだ。いじられるのは不本意だが、懐かしくてなんだか少し落ち着く。

(なおちゃんといい和美ちゃんといい、私ってもしかしていじられキャラなのかな?)

「で、うまくやってるの小平委員長さんは?」

「もちろん! 遠足の段取りも完ペキだし、日誌書くのとかあとは、あとは……まぁとにかくいろいろ大丈夫! なんとかなるって!」

「それ本当に大丈夫なの?」

「先生が教室に入って来てからの号令のタイミングとか、もう達人レベルなんだから!」

 

 そんなことを話しながら集合場所の駅のコンコース前に到着した。

「おっはーまなりん」

「おはよー」

 コンコース前のD組の列の先頭あたりに、和美は紙パックのミルクティーをすすりながら立っていた。直子は先程「じゃ、私はC組の方行くから、向こうでね。」と別れ最後に「しっかりやるのよ」と心配された。私は「私はやれば出来るタイプなので、そんなことは心配無用!」と返しておいた。

「あっおはよっ、長瀬さん」

 和美のすぐ後ろに長瀬さんが立っていた。

「おはよう…今日は晴れて良かったわね」

 普通に挨拶を交わしているだけなのに、やはり目を合わすことが憚られ、何とも言えない気持ちになってしまう。

「おーい小平ークラスの奴らが全員来てるか数えてくれー」

 珍しくスーツではない、ではないが、休日にハイキングに行く様な、なんとも言えないダサい上着と、リュックを装備した添田先生に出欠表を渡された。

「えっ〜と青島あおしまさん…赤堀あかほりさん、愛敬あいきょうくん、有田ありたさんはええと…」

「まだ来てないのは遠山とうやまさん、弘瀬ひろせさん、山本やまもと君とそして時田ときた君よ、」

 私が数分名簿とにらめっこしないとできないことを、長瀬さんはさっとまとめてしまう。

「へ〜さすが長瀬さん! クラス全体のこと把握してるなんて!」

「いっ、いやこれはただ癖というか…自然に人数を数えてただけよ…」

「あはは…私はやっぱまだまだだな〜長瀬さんに比べたら、」

「そんなことっ…ないわよ……」

「お〜い切符配るぞ〜委員長、こっちこーい」

 長瀬さんは少しうつむいて小声で何かを言っていたが、添田先生の号令にかき消されてしまった。

「これが目的地までの切符な、各行動班の班長らに渡してくれ」

 と切符の束を渡された。目的地の港町へは各班ごとにかたまって行くことになっている。県を跨いでの移動なのに、これだけ寛容な学校行事の行動も珍しいだろう。それだけ私たちの北高は大人しく、問題の少ない学校なのだ。

「オッス! 今日もちゃんと委員長してるなー小平」

 爽やか天気と共に爽やかな新宅君しんたくくんが挨拶をくれた。

「しんた君おはよ、そりゃ私は『委員長』ですからね、えっへん」

「俺らの班は集まったか?…うわっ!」

「おっは〜あみだで決めた班なのに、どうしてお前らと一緒になっちまうかね〜」

「ちょっ! おまっ、離れろ苦しい!」

 軽々しいスキップで登場し、太郎は軽快に新宅君に朝のヘッドロックを決めていた。

「あぁ、せっかくオシャンティーなハーバータウンに行くのに香奈ちゃんとは別のクラス…なんという悲運! だがしかし恋は離れる程に燃え上がるものなのだよ……」

 太郎は演技がかった動きで新宅君をいつものように振り回している。

「あははっ相変わらず仲いいね〜君たち! 羨ましいぞッ☆」

「かっ、和美! これのどこがそう見えるんだよ! 暑苦しいわ、はよ離れろ!」

「よーし、じゃあ全員来たみたいだし、出発するぞーお前ら」

 添田先生の号令で北高三年生の遠足が始まる。

「じゃあ一班もしゅっぱ〜つ」

 和美が先導し駅の改札をくぐる。高校生、ましてや三年生にもなって、遠足というのも子供っぽいと思う人もいるかもしれないが、この独特の雰囲気や普段制服でしか見ないクラスメイト達の私服姿や、平日の朝に快速電車に乗る非日常感は心を弾ませるものだ。

「え〜一番線間もなく電車が到着いたします。危険ですのでホーム上白線の内側までお下がりください…一番線到着の電車は快速急行……」

 駅のホームに接近警報が鳴り電車が到着した。四月末、明日からの大型連休を前に、浮き足立つ生徒達を乗せて電車は町を出た。

 

    ・・・・


「よっしゃ〜とうちゃーく。」

「はぁ…疲れた…」

 和美が改札を飛び出し背伸びをする。平日朝の通勤時間帯からはずれていたものの、それでも繁華街に向かう電車の中、二百人程の北高生が乗っているのだから車内は混み合い、私は少し疲れてしまった。

「もぉ〜まなっち〜初っぱなから疲れてどーすんの?」

「そうね、早くクラス全員いるか確かめないと」

「ああっ、そうだねっ!」

 長瀬さんに言われ、私は彼女と一緒にクラスの皆がちゃんといるかをどうか確かめ、まず第一目的地である小高い丘の上にある観光名所となっている洋館群を目指し学年全員でそこに向かって移動し始めた。

「そういや、今年のクラス対抗行事は二人三脚リレーなんだよな、」

 移動の上り坂の途中で新宅君に尋ねられる。

「うん、会議で決めたんだ」

「組み合わせとか大丈夫なのかよ?」

「そーんなのこのバスケ部エースの太郎様がいれば、優勝間違いナッシングだぜ!」

「いやいや二人三脚リレーだろ、お前一人でどうにかなるもんじゃねえって」

 太郎のいつもの軽い調子を新宅君がいつものようにいなす。

 この後臨海公園で行われる予定のクラス対抗二人三脚リレーは和美が出した案だった。名付けて『クラス対抗仲良しこよし二人三脚リレー!』だそうだ。

「ん〜まぁ仕方ねえ、俺と英司のペアがいれば大丈夫だぜ! と言い換えておこう!」

 実際、運動部のエースである英司と太郎がいる私たちD組が少し有利だろうが、他のクラスも侮れない。二人三脚のペア等は和美に一任している。「なーにあたしにまっかせなさいって! まなりんは普通に委員長委員長してくれればいいからさ!」いつもなんだかんだで上手くやる彼女のことだ、まず悪い事にはならないだろう、と思う。


 駅から続く坂道を上ると、観光地になっている古い洋館群の前に着く。

「よーしここから各班自由行動なー、3時までには全員臨海公園に着いてること、遅れた奴には俺が特別に感想文なりなんなりつけてやるからな〜」

 添田先生の号令に「えぇ〜」の声で答えた私たちは自由行動へと移っていった。


    ****


 臨海公園に到着、時刻は午後3時だ。私たちは途中大きな神社や中華街、ポートタワー等を回ってスタンプを埋めた。

「あの肉まん美味しかったね〜」

「いや〜さすがオシャンティな街だな〜俺らの町とは大違いだぜ〜」

 時田君が土産物屋で買った如意棒にょいぼうをくるくると回しながら、我らの町とオシャレな建物が立ち並ぶ港町を見比べる。

「いやいや、あたし達の町にも一杯いいのもあるって!」

「例えば?」

 くるりと如意棒を地面にステッキのように突きながら太郎は割と真顔で小平さんに尋ねる。

「例えば〜例えば……国宝の大仏とか…鹿! 鹿がたくさんいるよ!」

「だから鹿と大仏しかないから地味なんじゃないか、我が地元は」

「可愛いのにな〜鹿」

 彼女は悔しそうに首を垂れる。確かに私達の町には何もないが、公園の鹿達が可愛いのは私も同意だ。

「えのちゃ〜ん…」

「え?…うわぁっ!」

 時田君と小平さんの会話を見つめているとパンダのかぶり物をした街花さんに後ろから驚かされた。さっきの中華街で買ったのだろう。

「ちょっ! ビックリするじゃないのっ、」

「いや〜ゴメンゴメン。もうすぐ集まって二人三脚やるからさ、芝生のとこいこうぜー」

 無表情なパンダを被っているので色々怖いことになっている、小さい子が見たら泣き出すだろう。

「さてさて〜二人三脚の組み合わせなんだけど、みんな二列になって〜」

 彼女は非常に手際良く各クラスの走者達をまとめ、各クラスの走者が集まるスタートラインに生徒を集めて行く。

「おっしゃあ! D組優勝するぞ〜練習だ、英司ひでじ!」

「おっ、おう!」

「「一、二、一、二!」」

 第四走者である新宅君と時田君がその場で息を合わせる練習をしている。

(あれ? 第四走者?)

「はいっこれ足用のひもね〜」

 街花さんに二人三脚用の縄を渡された。

「…って私も走るの?!」

 全く予想していなかった、ペアは誰とだろうか。

「長瀬さんも頑張ってね!」

 小平さんが私に向かってそう言った矢先に

「も〜二人ともなに言ってんのさ、アンカーはまなっちとえのちゃん、委員長、副委員長の二人だよ?」

「「…ええぇぇ!!!!」」

 街花さんから衝撃の事実を告げられて、私たちは顔を見合わせ驚いた。

「ほらほら〜他のクラスもアンカーは委員長、副委員長ペアなんだから。はやく走者の列に行った行った〜」

「どっ、どうしよ…長瀬さんって足速いよねっ、なんか私でごめんなさい…」

「いやいや…そうだっ、ちょっと練習しましょう、」

 私の右足と彼女の左足首を結びつける。あの踏切での会話以来、微妙に遠くなっていた彼女との距離が近く、お互いに密着する形になる。

(ちっ近い! なんかいい匂いするし……あぁぁ冷静になれ! 落ち着け私!)

 肩を組むと彼女の髪の先が私の頬にあたる。シャンプーの匂いと彼女の息。甘い。蜂蜜1リットル分より遥かに甘い空気が私を包んでいる。

「ええっと、じゃあ…いち、に、いち、に…」

「あっ…!」

(あぁぁぁあぁぁっぁブラウスのボタンの間から…素肌が! しっ…下着があぁっぁぁぁ!)

 彼女が足を上げる度、その振動に揺れてボタンとボタンの合間からチラホラと見てはいけなさそうなものがいろいろ、たくさん見えてしまう。

(ダメダメ! 見ちゃダメ…あぁだから見ちゃダメだってっば!……あぁっぁぁぁぁぁぁぁぁ!)

 まるでRPGに出てくる混乱魔法を喰らったみたいだ、揺れる髪の匂いが余計私の心をかき乱す。

「いち、に、いち…あ、長瀬さんっ、きゃっ!」

「ダメっ!」

 私の混乱で二人はあさっての方向にドシャりという音と共に倒れてしまった。

「もぉ〜二人とも大丈夫? ほら、もう始まるよ〜」

「ハァ…」

「ごっ、ごめんね! 大丈夫? 長瀬さんっ」

(いや大丈夫じゃないです。)

 ルールは簡単。二十メートル先の三角コーンを二人三脚で回り、帰って来たら次の走者組にタッチをする。これを四回、最後に一位だった組が優勝。順位に応じたポイントがその組に入る。このポイントは二学期の文化祭終了後に発表されるA〜E組のポイントになるので是非とも優勝したい。

「よーし じゃあ準備はいいかー」

 先生の合図で第一走者達が一斉にスタートラインに立った。どうやら街花さんらこの企画を進めた各クラス委員の計らいで戦力にばらつきがないよう走者が組み合わせられているようだ。

小春こはるめぐみ〜がんばって〜」

「D組優勝! 頑張れ〜」

 生徒達の声援の中、文子も「えの〜がんばってね〜」と声を掛けてくれていた。

(もう、あやったら人の気も知らないで…)

 私が少し睨み返すと文子あやこはまた「ふふっ」と微笑み返してきた。

「長瀬さんっ! 頑張ろうね! えっと、いちで左足、にで右足…ああっでも長瀬さんと私の足が違うから…えっと…あれ? どっちだっけ?」

(大丈夫、前だけ見てればいいんだから。前だけ、前だけ…)

「よーい…ピーッ!」

 笛の音で各クラスの先頭が走りだした。

「いけ〜C組!」

「いいぞA組そのままいけ〜!」

 各クラス陣営の応援の中、レースはどんどん進んで行く。第四走者に回る頃、私たちD組は現在第3位。

「しんた君! 太郎君頑張って!」

 小平さんのかけ声に二人は「おう!」とだけ声を発し、コーンへと向かっていく。現在1位はB組だ。

「くっそ!Bは野球部一の俊足、赤堀と陸上部の鈴木か!」

「うおぉぉ負けないぜ! 香奈ちゃんもこっち見てるからな!」

 さすがは野球部&バスケ部両エースだ、みるみる先頭との差を詰め、そしてアンカーである私たちに1位と僅差でタッチした。

「小平、長瀬! まかせた!」

「はいっ!」

 お互いの肩を固く組みスタートラインを蹴りだす。

「「いち、に!いち、に!」」

 足踏みのかけ声にも自然に大きく、力が入る。

「うわっ!」

 折り返し、急カーブ。二人三脚のバランスが少し崩れ、倒れそうになる。

「くっ…!」

 だが、お互いに強く、より一層強く肩を握り、転倒の危機を脱する。

「B組! 負けるな!」

「D! いけー頑張れ!」

 残り十五メートル程、声援はこれまでで一番大きくなる。

「もう少し!」

「「いち、に!いち、に!」」

ゴールテープ手前、握った彼女の肩が熱い。彼女の髪先が私の頬を撫で、改めて彼女との身長差があることに気付く。百六十センチ位だろうか、私は彼女のこと少し知れた様な気がして少し嬉しかった。

「ゴール! D組優勝!」

「やった!…ってうわぁぁああ!」

 クラスメイトの歓声の中、優勝と同時に私たちは芝生に転がってしまった。

 芝生に仰向けになると、春の昼下がりの太陽が眩しく私の頭の上にあった。

「なっ、長瀬さん大丈夫?!」

「ええ…」

「ちょっとまって、今解くから、」

「いや、ありがと…」

「優勝できて良かったね! ありがとっ長瀬さん!」

「!…」

 私には信じられない程、その笑顔の輝きは暖かく、眩しく、春の陽気のせいなのか、その心地は私の喉の下辺りに広がって、なにかが開いたようだった。そんな、気持ちだった。

「草……」

「えっ?」

「髪に芝生ついてるわよ、ほら、」

 ふと彼女を見上げるとこめかみの付近に芝生の青がついていた。

「ほんとだ! あはは……」

「ふふふっ……」

 私は転がって髪や服がぐちゃぐちゃなった彼女を見て、その姿可笑しくって、笑ってしまっていた。

「あ〜長瀬さんが私をバカにしてる! …でも初めて見たかも、長瀬さんが笑うの、いつもなんかしかめっ面なんだもん」

「しかっめ…わっ、悪かったわね!どうせ私はいつも機嫌の悪い顔してますよーだ。」

「いっ、いやそうじゃなくて…なんというか…キリッとしてるっていうか…あはは…」

「もう二人とも〜そこでイチャついてないで集合写真撮りに行くよ〜」

 和美に呼ばれすでにクラス全員の準備が整っていた集合写真撮影に向かう。

 私は今、鏡が欲しいと思う。今、私の顔はどのように笑い、表情をつくっているのか。彼女の前の私の顔は、

(変じゃないかな…)

「は〜いD組のみなさーん、撮りますよ〜」

「ニッコリして〜はいっチーズ!」

 パシャリと旅の終わりを告げる音がした。


    ・・・・ 


『え〜次は〜学園前〜学園前〜西山学園せいざんがくえん前〜お出口変わりまして左側でございます。』

 山の上。車窓から望む都会の灯りが遠い。

 遠足は現地解散だったのだが、街花さんの「おなか空いた!」の一声で現地のファミレスに寄って行く事になり連休中の予定だとか、これから体育祭どうするかだとか去年の学校行事のことについて話し込んでしまい、結局日が暮れてしまった。


 シュウゥーと私と彼女の横を電車が通り過ぎて行く。駅のコンコースに戻ってくると街花さんの「解散!」宣言により私たちは解散し、今は線路沿いの帰り道を二人で歩いている。

 この田舎町を南北二つに分けるように、東西に伸びる大きな鉄道の線路。それに沿いながら二週間前と同じように、彼女が前を、私が後ろを歩いて行く。この町の南側に住まう彼女と、北側住民の私はこの先の踏切にて別れなければならない。

「いや〜今日は疲れたね〜」

「そうね…ファミレスに3時間もいたし」

 彼女の言葉に先ほどまでいたファミレスでのことを思い出す。

「いや〜それも今後の作戦会議ってことで…」

「作戦会議はいいけど、私たちは受験生なのに、受験の話とか一切なかったわよね、そもそももうすぐ実力試験と中間試験だって言うのに……どうかしたの?」

「いっ、いや〜そういえば私今年受験なんだって、今言われて思い出したっていうか……」

 彼女はくるりと振り返り、後ろ向きで「あはは」と笑いながらそのまま歩いている。

「いやいや、あなたねぇ…」

「でっ、でも私頑張るしっ、小学生の時から小平はやれば出来る子だって周りから……」

「あっ、後ろ…」

「あいたっ!」

 背後から迫る電柱に気付かず、彼女はそのまま後頭部から衝突し、頭を抱えながらその場にうずくまっている。通り過ぎて行く電車の光に彼女の横顔が照らし出されていた。

「ふふっ…あははっ、もうっ…大丈夫?」

 その様子が可笑しくって、私はまた笑い出す。彼女を起こそうと手を差し伸べる。彼女はそれを手に取った。

「……っ」

 起こした彼女がじっと私の目を見つめてくるので、恥ずかしくなり手を解こうとしたが、それがほどけることはなかった。

(あれっ…?)

 彼女が私の手を握っている。

「あの…長瀬さんってさ……」

「なっ、なによ?」

 彼女は今までにないほど澄んだ瞳で私を射抜く。

「ゴメンっ! 長瀬さんちょっとつき合って!」

「ええっ?!」

 私の手を握ったまま、彼女は駆け出した。

 上がったばかりの遮断機。赤錆の着いたレール。踏切を超えて彼女の住む町へ。

「ちょっ、ちょっとなによいきなり!」

「ごめんね、ちょっと来てほしい場所があるんだ、」

 春の夜を渡る。道路から一本脇道に入った。そこは恐らく鉄道のための防風林なのか、草木が生い茂る小高い丘の真ん中を細く舗装もされていない道が一本。

「こっ、ここに入るの?!」

「うん、駅に行くときはいつも、ここ、近道なんだ」

 街灯などはもちろん無い。夜色の林道。彼女は進む。私の手を引いて。

その手の温もりは私に初めて彼女に触れた日の感触を思い出させていた。

『だから、いろいろよろしくお願いします!』

 その日からまだ一ヶ月も経ってはいなかった。一ヶ月という時間の長さ。胸の内にある熱のせいで、時間の概念が曲げられてしまったのだろうか、その時間の短さも長さも私にはよくわからないものとなっていた。

(まだ、一ヶ月か……)

 彼女と初めて話した放課後から今までのことを思い出しながら手を引かれて歩く。

鬱葱とした草林の中、坂道を更に踏み込んでいった先。突然視界が開けた。

「ほらっ、着いたよ!」

 目を上げた。その場所に、青い世界。

「すごい……」

 丘の上、一面に咲く青く、小さな花たちの領域。高い木々の壁に囲まれたその国は晩春の星月に照らされて淡く、碧く、優しく、軽やかに甘く、静かな夜風のさざ波に揺れている。私の言葉だけでは足りない。しかし誰の言葉でも、そこにはふさわしくないだろう。

「へへっ〜すごいでしょーここ、小学生の頃うっかりして転げ落ちた時に見つけたんだ。秘密の場所なんだよ、この時期になると一斉に花が咲いてねっ、一番キレイになるんだ、花の名前なんかは全然知らないけど、ここに来ると落ち着くっていうか……」

「これは…瑠璃草るりそう…ね、」

「へーさすが長瀬さん、物知りだね。」

「いや、たまたま家の図鑑にのってただけよ…」

「…うん…久しぶりにここに来たよ。私、この花の色。この淡い青が大好きなんだ。それで毎年この時期は必ずここに来るんだ」

 彼女はその場にしゃがみこみ、花びらを手で撫でながら言葉を続ける。

「この前ね。今年初めてここに来た時、やっぱりなんか寂しい何にも出来ない平凡な私が一人いて、悲しい気持ちになっちゃってさ、少しここが嫌いになっちゃった。」

「……」

「でもね、もしかしたらと思って長瀬さんと一緒に来てみたらさ、やっぱりキレイでだけど昔とは少し違う新しい青色に見えるんだ……ってゴメン、私バカだからあんまし言葉が思い浮かばないっていうかさ……」

その少女は寂しく、美しく、愛らしい、今の私では何にも例えることのできない顔で私に向かって微笑みかける。

「そっ、そんなこと、あなたが何にも出来ないだなんて……私は思って、無いから…」

「えへへ、ありがとう。」

「………………」

 言葉が途切れる。彼女の瞳はまだ私を捉えたままだ。星月の光に映える美しい眼差しが全ての私を射している。

「……っ、なによ……」

 あまりの美しさに耐え切れずに私は少し、声を絞る。

「あはは……ごめん、私ね。長瀬さんと友達になりたいなって思って。」

 少し、目がくらんだような、地球の重力少しが軽くなったかのような感覚。

 この瞬間、世界はきっと私と彼女だけのモノなのだ。

「!……えっ……べっ別にいいわよ、こっ、小平さんがそう言うなら……」

「やった!、じゃあ『まな』って呼んでくれる?」

「えっ…?」

「だって『小平さん』ってなんかよそよそしいし、だいだいそう呼ぶのクラスで他にいないし、私も長瀬さんのこと『えのちゃん』って呼ぶからさっ」

「わっ、わかったわよ……まな……」

「えへへ…じゃあこれからもよろしくねっ! えのちゃん!」

 満面の笑顔で手を差し出された。春の夜、淡い青の世界で私は彼女に触れた。見上げた私より少し背が高く、私の手より少し暖かい。

「よ…よろしくお願い…します……」

 私は考える。その瞬間、彼女の姿、眼差し、唇、言葉、そして温度に私は何を感じたのだろう。

『嬉しい』

 頭に、身体に、私の中に生まれる熱、一秒に満たない長い時間がさらに長く、長く引き延ばされていく。私の世界はこの溢れ出す熱の正体に気付くのに一体どれだけの時間を要したのか。


 私は彼女が好きだ。


 なんて簡単なことだろう。正しさ、言葉、歩いて走って息をする。それら全ての意味が今、私の目の前に在る。私が私であるということの意味。気付けば私は自然に笑っているじゃないか。

「うん、やっぱ真面目でキリッとしてるえのちゃんより、笑ってるえのちゃんの方がずっと可愛いと思うな〜」

「そっ、そんなこと、恥ずかしがらずに言わないで頂戴……」

「ああっ、でもキリッとしてるえのちゃんもカッコ良くていいと思うよっわたしは!」

「…ばか……」

「?」


    ・・・・


「じゃあまたね〜えのちゃん!」

 踏切にもどり、彼女に手を振り今日分の別れを告げる。

 先程ほどではないが、夜空にはキレイな星空が広がっている。

「まな……」

 彼女の名前が心に浮かぶ度、それを口に呟く度、恥ずかしさがこみ上げ、自分の心臓が今ちゃんと動いていることを確かめたくなる。

私の身体の一番奥に今確かに存在するモノ、そのチャチな正体を見破るのに私はどうしてこんなにも遠廻りをしてしまったのだろうか。

 きっとさっき撮った集合写真でも私は普通に笑えていたのだろう。今はそう思える。

 期待して。落胆して。考えて。そして私はまた彼女に触れた。

 あの時、私は彼女に晴空に輝く真っ白な太陽を見ていた。しかしそれは「小平 愛」のあくまで一部分にしか過ぎなかったのだ。

 きっと私と同じ様にたくさんの「小平 愛」が彼女の中には存在するのだろう。

「あっという間に四月は終わるのね」

 五月、六月と日々を経て季節は瞬きの合間に過ぎ行き、やがて夏がくる。

 私は今日、明日、そしてこれからもずっと「長瀬可愛ながせえの」でありたい。いつか、もっとたくさんの彼女を知る日が来たその時にも。

(そうであることができるのなら……)

 そんなことを考えながら、私は春の夜を過ごしていった。

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君は太陽。 船場 南 @Semba_South

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