36
音楽室は静かだった。あの日聴こえた歌声は響いていない。
月の光が射し込む音楽室は、飛び込んだ瞬間に部屋全体を見渡す事が出来た。いつも通りの音楽室。ピアノの裏にも、教壇の裏にも誰も居ない。上田さんは、居ない。
「どうした。急に駆け出して。びっくりするじゃないか」
友光が背中越しに声をかけてきた。僕は「うん」と言い、傍の椅子に腰掛ける。
「沢田?」
上田さんは完全に成仏した。もう僕の前に現れる事はない。今まで何となくそう感じていたけど、今、はっきりと理解出来た。
「お、おい。な、なんだよ。分かりやすく落ち込みやがって、元気出せよ……さっきは思い出させて悪かったって。女子は高橋先輩だけじゃないんだから。いい人なら他にも居るだろ」
僕が愛しているのは上田さんなんだ。上田さんじゃないと駄目なんだ。
「いや、失恋は辛いだろうけど……高橋先輩、今幸せそうじゃないか。高橋先輩の彼氏はあの先輩で良かったと思うぞ。俺もあの先輩、嫌いじゃないしな……愛する人が幸せだったらそれで良くないか?」
上田さんにとって一番の幸せは何だったのだろう。
「……あーもう! 俺の話をするからな! ……お、俺は中西先生の事、結構本気で好きだがな、中西先生がいい相手と結婚したら嬉しいぞ。まず好きな人の幸せが一番だろ。付き合ってお互いが幸せじゃなかったら意味ないし、高校生の俺が中西先生を幸せに出来る訳ないから」
もし上田さんが成仏せずに僕と一生を過ごしたら、上田さんは幸せだっただろうか?
「だからさ、高橋先輩が今幸せなら、残念だけど高橋先輩の相手はお前じゃなかったんだよ。そりゃ悔しいし、好きな相手は自分の隣で幸せになって欲しいけどな。でも世の中恋愛だけで出来てる訳じゃないから……だから……」
「友光……ありがとう、大丈夫だよ」
僕は鼻を啜った。
「お、おう……いや、泣けよ。泣いていいぞ。我慢するなよ。どうしようもないんだから。泣く位しか感情のやり場ないだろ」
上田さんが成仏してから何度も何度も何度も泣いた。もう涙なんか出ないと思っていたのに、友光の言葉は時計回りに僕の涙栓をほどいた。
一年前、肖像画の音楽家達も惚れるような綺麗な歌声が響いていた音楽室は、今日は音程もバラバラで音色も汚い僕の歌で満たされる。
何回目のサビに差し掛かった頃だろう。音楽家達もいいかげんうんざりしてたと思う。そんな僕の歌を打ち消すように一つの旋律が入ってくる。
それは、去年の夏休み、三人でカラオケに行ったときに上田さんが歌った曲。
上田さんが、好きだった曲。
驚いて歌が聞こえる方を見る。その歌の主は友光だった。
「……友光……え、なんで、歌?」
「ん? お前が落ち込んでるから」
「落ち込んでるからって歌う……?」
「友達なんだから、歌うだろ」
「そ、そうかな? ……あと、そんなに上手かった? いや、まあまあ上手いのは知ってたけど……」
「失礼な奴だな。俺だって発声練習してるんだから歌だって上手くなるわ」
「それにその歌は……なんでそれ?」
「この歌、今のお前に歌うべきだって思った。なんでかな? 去年からずっと好きなんだ。ほら去年三人でカラオケ行っただろ。そのときから」
「え、三人?」
「三人。あれ? あと一人、誰だっけ? めっぽう歌がうまい……変だな、思い出せない。それでこの曲好きになったのに」
「……二人だよ。僕と友光、二人でカラオケ行ったんだよ」
「そうだっけ? おかしいな、もう一人いたような気がするが」
「……幽霊でも、いたんじゃないかな?」
「沢田、幽霊なんていない」
「そうかな」
「いない。まあでも……」
「でも?」
「もしいたら、それはそれで素敵かもな」
「……お前、友光、だよな?」
「は? 当たり前だろ」
「……そうだよな。まぎれもなく友光だ」
「変な奴だな」
「お互い様だろ」
僕は少し吹いて椅子から勢い良く立ち上がった。窓を開ける。八王子の夜空は綺麗で、丸を少し削った月はとても明るい。涼しい風が、頬に出来た涙の道をなぞっていく。
夏が、もうすぐ終わる。
二十歳になったら、BAR MIZUHOにこいつと一緒に飲みに行こう。この高校時代の青春を、一緒に笑って話すんだ。
「なあ沢田、次の大会はどんな戯曲やりたい?」
「主人公が、失恋する戯曲かな」
この感情が、役に立つから。
了
僕と上田さんのマイズナーテクニック 積地蜂 密(つみちばちみつ) @Tsunekichiland
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