雨葬
なかがわ
雨葬
五月のある日、細い雨が降り出した。
霧雨は景色を煙らせて降り続いた。一週間経った頃、やまないなと思い始めた。それから一ヶ月以上降り続いている。
こんなに降るのに、どうして世界は水浸しにならないのだろう?
そう思いながら、僕はずっと眺め続けている。
木立と、滑り台やブランコがある公園の、四阿の下にある赤いベンチに座っている。四阿は、護ってくれるには頼りないものの、雨を防ぐことはできる。いくら僕でも、濡れねずみになるのはなんとなく嫌で、ここにいる。
公園は坂道を登ったところにあって、ベンチからは街を見下ろすことができる。といっても、今はほとんどすべてベールをかけられたようにあいまいだ。
そんな中で、僕の目を引く建物。景色のいちばん向こう側に、細い長方形のシルエットが規則正しく並んでいる。古い団地だ。今は人が住んでおらず、取り壊す予定だと春先に耳にした。この雨ではそれもどうなったか分からない。懐かしい場所だから、ずっとあればいいのだけれど。
強い風が吹いて、頬と髪が少しだけ濡れた。
頭を振って滴を飛ばし遊んでいると、前髪の隙間に、ちらちらと影が見え隠れした。
人間だ。僕は一瞬、緊張で身体を固くしたが、でも大丈夫だと息をつく。
人影は、縦に揺れたり、右に左に大きくぶれたりしながら近づいてくる。傘をさす代わりに透明の雨合羽を着ていることが分かった。雨合羽の下は、ありふれたジーンズと灰色のパーカー。パーカーと合羽のフードを重ねて被っている。全体に雨雲と似た服装の中で、黄色いレインブーツが目立っていた。僕も昔ああいうブーツを持っていて、気に入っていたな。
けんけんぱ、と聞こえるくらいに近づくと、冷ややかできれいな顔が見えた。
同じ年くらい。少年のような美少女なのか、少女のような美少年なのか。どちらだろうと考えていると、その人は僕の隣に腰をかけた。
――そう、ベンチの空いているところにきちんと収まって。
偶然だろうか?
僕はどぎまぎしながら、その人の横顔を見つめた。
それともまさか、僕のことが見えているんだろうか?
しかしその人は、ちょうど古い団地のあたりに視線を向けたまま、こちらを向くことも話しかけてくることもしない。
僕に気付いているわけじゃなさそうだ。
そう思うと、さっきの自分の動揺がおかしくて仕方ない。期待に似ていて、不安に近い変な気分だった。人と接しないことに慣れてしまっているから、久しぶりに隣に人が来て僕はびっくりしちゃったんだな――
と思ってニヤニヤしていると、その人がおもむろに動いてひじが僕をかすめたので、今度こそ本当にびっくりしてベンチから落ちそうになった。
その人は、ジーンズのポケットから何かを取り出そうとしている。
そして、バランスを崩している僕を、見て、唇の端を上げたのだ。
僕は声を出すこともできず、ベンチの背もたれにしがみついていた。
その人がポケットから取り出したのは、箱だった。文庫本よりひとまわり小さいサイズで、十センチほどの高さがある。飾りや模様はなく、クラフト紙に見える素朴な箱だ。
「やまない雨はないと言う人がいるけれど、どう思う?」
喋った声を聞いて、たぶん男の子だろうと思った。
どう答えていいのか、声に出して答えることができるのかも自信がなくて、僕は困ってしまう。彼はちょっとの間だけ僕の目を覗き込んで、返事を待つ風に見えたけれど、すぐに視線を手元に移した。
そして、箱を開けた。
真っ先に目に飛び込んだのは、ふたの内側を塗りつぶした鮮やかなブルー。ターコイズの明るい色だ。ところどころ白い斑点が淡く描かれている。真ん中の丸いレモン色は、特殊な絵の具なのか、それ自体が発光している。その光と青色のコントラストが目に刺さって、眩んだ。
しぱしぱと瞬きをしてから、今度は箱の本体に目を遣る。
底には砂が敷き詰められていて、一角に、小さな灰色の消しゴムが並んで立っている。消しゴム群の対角線上に、砂が盛り上がっているところがあり、その上にはモールで作られた木立があり、信じられないほど精巧な遊具がある。滑り台の錆の加減など、目の前にある実物大のそれとまったく同じだ。僕のため息で、ミニチュアのブランコが微かに揺れた。
小さな四阿。赤いベンチ。マッチ棒みたいな僕が、独りで座っている。
「うちは代々、雨乞い師でね。うさんくさいだろう? 二十一世紀にいかがなものかと僕も思うよ。でも血は争えないんだな。人間達はいつも、雨が降って欲しいとかやんで欲しいとかそんなことばっかりで、おかげで大繁盛しているよ」
頭に浮かんだストーリーは――長い雨は、彼が雨乞いをやりすぎてしまい、やませる術がないというものだった。そのわりに、失敗した人の感じはないけれど。
「……この雨、君が?」
ふりしぼったら、掠れているもののきちんと声が出た。
「まさか! 何を言っているんだよ、張本人のくせにさ!」
彼は、小さい四阿の下にそっと指を差し入れ、マッチ棒サイズの僕の頭をつまんだ。ベンチから立ち上がらせて指を離すと、小さい僕はゆらゆらしながら自立した。彼が宙に指を滑らせ、小さい僕が遅れてついていく。操り人形のようだ。
彼はそうやって、適当なふうに小さい僕を歩き回らせながら、話した。
「なんで一ヶ月も降り続いているか、わからないって? 雨は、乞われれば降るものだ。足りればやむ。そういうものさ、本来は」
彼が指を踊らせる。
応えるように、砂の数カ所かがむくむくと膨れあがり、そこから小さな少年達が現れた。少年達は自動で歩き回り、やがて小さな僕の周りに集まった。声はないものの、仕草を見ると楽しく遊んでいるようだ。
ああ、と僕は思う。ああ。なんて懐かしい。
もう手が届かないものを遠くから眺めるている。諦めや羨ましさを、自分の中に見つけ出す。
突然、彼はふたを閉じた。
ミニチュアの世界と輝く偽物の太陽が消えた。覗きこんでいた僕は我に返り、顔を上げた。
彼が小さい箱を差し出し、僕は受け取る。
「中途半端がいちばん良くない。足りないんなら、思うぞんぶん降らせたら良いよ。いつかは枯れる日がきて、晴れ上がるから。そう、やまない雨は本当にないんだよ」
箱の中はまぶしかった。でも、この中に収まっているほうが、今の僕には寄り添える気がする。そして、そう思うことが許されたんだという安堵の気持ち。
僕はきちんと座り直し、掌に箱を載せて、じっとそれを見つめていた。
大切にしようと思い、箱をポケットに仕舞おうとした。でもなぜかポケットが見つからない。そのうちに、自分の手もどこにあるか分からなくなる。
ふと気がつくと、足首まで水に浸かっていた。四阿が水に侵されている。
雨脚は、降るという言葉が不似合いなほど激しくなっていて、囚人を閉じこめる鉄柵のようだ。柵の向こう側に、去っていく彼の後ろ姿がある。黄色いレインブーツを見送っている間にも、水は怒濤の勢いで増えていき、ふくらはぎまで、ひざまで、僕は水に縛られていく。
だけど僕は怖くなかった。沈みながら、こんな雨なら悪くないと思う。なんだか包まれているみたいだから。
やがて僕と水の境界がなくなって、小さな箱がぷわぷわと泳ぐ軌跡のイメージだけが、そこに残った。
「箱、ありがとう」
声に出したつもりはなかったのに、返事をするようなタイミングで、轟音が水を渡ってきた。古い団地が瓦礫に帰す音だと、僕は分かった。崩壊に、立ったかもしれない飛沫はすべて豪雨にかき消され、世界は優しく葬られていく。
悲しい時間が終わったら、いつか青空の下で彼に会いたいと思った。
了
雨葬 なかがわ @nakagawa
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