第6話(終) 呼吸


 ここで待っているよう教えられ、少女は静かに佇んでいた。

 アパートの立ち並ぶ只中、小さな公園の片隅。ボールを蹴り、遊具で遊び、賑やかに駆け回る、そんな子供たちを眺めていた。足元に転がってくるサッカーボールの柄をしたゴムボール。悠花が手を伸ばす暇もなく、小学生くらいの男の子が二人駆けてきて、声をかける暇もなく戻っていく。

 その間際、片方の少年がこっそり彼女を振り向いた。困ったように眉を寄せて、目を凝らして。おい、と声をかけられ、ちらちらと気にしながらも去っていく。

 その様子に、つい溜息が零れた。

「悪い、待たせたな」

 声に反応して顔を上げる。そこには目に見えて安心の色が浮かんでいた。

 心細さが解けたような。迷子にも似た。

 白城が左手に持つ紙切れ――既に確証を得たらしい。それを頼りに向かう先は、そう遠くないようだった。


 +


 工場の立ち並ぶ海辺を歩いた。海岸沿いに張り巡らされた落下防止のフェンスは中程から大きく破れ、真っ白な花が手向けてあった。それを横目で見ながら埠頭へ向かう。

 波消しブロックの上に座っている人影を見つけるまでに、然程の時間はかからなかった。

「××××さんだな」

 振り向いた顔に見覚えがあった。何度も目を通した、探し人のデータの中には写真も含まれていた。

 男がゆっくりと振り返る。何の感情も窺えない、疲労と途方に暮れた、その虚ろな色。

「誰だ、君は」

 時折彼の足先が波に触れる中、白城は慣れた風に、肩を竦めるポーズを取った。

「人探しを副業にやってるもんだよ。そして、俺達が探してるのがアンタだ」

 両手をズボンのポケットから出さないまま。それからやっと、思い出したように自身の象徴でもある紙巻き煙草を咥え直す。

「奥さんが探してる。非公式だけど捜索願いがあってね」

「妻が……?」

 潮風に掻き消される。真っ白な煙が、灰色の空に溶ける。

「そうだよ。面会に行ったらとっくに姿が無かったってさ、名簿を何度確認しても、あんたの名前が抜け落ちてることに気付いたらしい。早く戻ってやるんだ。手遅れになる前にな」

「冗談はやめてくれ。妻がそんなことを言う筈がないだろう」

 男は初め、突然現れた奇妙な男の話をぼんやりと聞いていたが、やがてその内容が不可解であることに眉を顰めた。そして果てには、妻の話題を出す煙草の男に不快感さえ示した。

 やや強い口調の否定。幽愁さえ感じられる鋭い目。男は遊ばせていた足で立ち上がり、白城に侮蔑の眼差しを投げた。

「言えるはずがないんだ。だって、そうだろう。もうずっと会ってない。当たり前だ。あいつはもう5年も前に先立ったんだから」

 男の声が波の上に反響する。それは白城と悠花の聴覚をも鋭敏にさせて、まるで彼の言葉だけが海の世界のすべてかのように透き通り、響き渡った。白城の数歩後ろで悠花は指先の震えを握り締めて堪え、男は尚も言葉を吐き棄て続ける。

「悪いが帰ってくれ。私はもう少し此処に居たいんだ。もうずっと海を見てる。いくら見ても飽きないんだ。此処は、あいつとの思い出の場所でね」

 船着場のコンクリートの上で、男が笑う。愛おしげに、懐かしむように。靄で海の果ての水平線など見えもしないのに、その先にある楽園を、妻のいる日々のことをじっと眺める。

「そうまでして過去に絡め取られたいのか」

「……若造に何が分かる」

 蜃気楼を打ち破ったのは白城だった。彼だけは眉根ひとつ動かさないまま、淡々と、男の戯言に耳を貸していた。

「適当なことばかり言って、私の邪魔するのか……そうか」

 癖のように吸っていた煙草は無味だった。先端は赤く照ることもなく、それでも立ち上る煙を現実のことのように眺めた。

「そうか――お前、妻に気があるんだな。俺の中から彼女の思い出まで全部盗るつもりだろう」

 異変を汲み取る。悠花が自分のほうに歩み寄ろうとしているのを、視線だけで留める。

 心配するな、と。

 そればかりで少女が落ち着く訳がなかった。それでも彼の聞き分けある助手は、じっと遣り取りに耐えるしかない。

「退け」

「どかない。あんたを連れ帰る」

 白城の噛んだ紫煙の端。波風に煽られて灰色の空に届くより早く掻き消える。

「いい加減認めるんだ。あんたはもう死んでんだよ」

 覚悟していたように、悠花の指先にまた力が籠る。

 男の顔色が変わった。冗談をと笑い飛ばすより先に、眼つきが鋭くなる。

 幽霊探しだと依頼を持ち込んだアカリが言っていた。死者を探す仕事だった。死後の世界に渡ることなく、生前の想いに縛られて動けない魂を救うのが、白城が暇潰しと呼ぶ副業の正体だった。

 男の肩が小刻みに揺れて――震えている。強くかけられた力の証拠。筋肉が萎縮する姿。

 それでも白城はやめなかった。

「見ただろう、あの突き破られたフェンスを。まだ直されてもいない。車は引きあげられてもう無いが、この光景に覚えはあるだろう」

「黙れ!」

「黙らない、納得して貰えるまでは。あんたが」

「――黙れ!!」

 白城の言葉の全てが発せられるより、男が駆け寄るほうが早かった。掴みかかる。男の拳が白城の頬を強かに打った。

 言葉尻よりも早いまま、勢いのまま白城へ体当たりする。

 何処から出したのかさえ分からない。いつのまにか男の手に刃物が握られていた。

「駄目!!」

 残ったのは悠花の、悲鳴になりきれない絶望の声。

「白城さ――」

 少女の目の前で、柄を残して刃渡りの全てが白城の脇腹に突き刺さった。白城は身動きすらしない。それどころか、驚いたように男が身を引く。

 手を離す、途端に身体に埋もれていたはずの包丁が、音もなくアスファルトの上に落ちる。血は一滴も流れない。

 男が膝から崩れ落ちる。まるで操り糸の全てが切れてしまったのか、力なく白城の身体に空くはずの傷口を見上げた。

 それから、握り直したそれを自らの喉に突き立てようとして、

「なんだ、これは」

 白城の口角が、皮肉気に持ち上がる。

 咥えた煙草は吸えど吐けど味がしない。潮の味も、苦さも感じられない。呼吸の概念が違うのだ。こんな場所に男は紛れ込んでしまった。悲しくも独り、自分の知り得ぬままに。

「何を、馬鹿な。だって、私は現にこうして――」

 言葉尻をついに遮る。そして真っ直ぐな目で男を、影の落ちていない男の足元を見詰める。

「馬鹿じゃねぇよ。とっくに死者なんだよ。俺もあんたも、この子もな」



 そして、自らの足元にさえ、そんなものは落ちてなどいなかった。

 ぎらりと閃いていた筈の刃物さえ。

 咥えただけの煙草から、ゆらゆらと淡い煙だけが立ち昇っていた。



 +


 暗い部屋の中に居た。

 床は冷たく凍えるようで、四肢は自由のままだったけれど、立ち上がって部屋を出ることは出来なかった。吐き出す息が白い。暖房は最初からついていない。伸ばした指の先が鉄の柵に触れて、あまりの冷たさにすぐ手を引っ込めた。

 少女はのろのろと、その小さな頭を床に下した。

 瞼が酷く重そうで、幾度もぱちぱちと重力に逆らうものの駄目だった。本当は、床板が冷たいから横になりたくはなかったのだけれど――その身体は情け程度の毛布に覆われていたが、小学校に上がったばかりの小さな体躯には防寒の足しにもなっていない――睡魔に押しつぶされて頭や身体を打ち付けるよりは利口だと判断したのだった。

 何時間も前に運ばれてきたトレイには手を付けていない。泣き飽きて既に赤くもない両目も、閉じてしまえばまた両親のことを思い出してじわりと熱くなる。もう会えないのかもしれないとその小さな心で寂しさを覚えた。もう息は白くなかった。胸が苦しい。幼い命は徐々に命の炎を弱くしていった。


 ――ふと、下の階からもやもやと騒々しい気配が伝わってくる。籠った騒音はどうやら乱暴に開閉される扉の音や何か大きなものが倒れる音のようで、それに混じって時折、人の怒声らしきものも混じっていた。

 けれど、それらも少女の目を再び開けさせるための切欠までには至らず、やがて静まった階下の異変にすら気付くことも出来はしなかった。

 いつの間にか扉の前の気配も消えていた。代わりに階段を上がってくる足音が聞こえて、幾分か駆け足のその気配は、少女の閉じ込められている部屋の前まできて立ち止まった。


「――おい!」


 少女が目を開けたのは、自分の押し込められていた檻の扉がこじ開けられ、温かい腕に抱き上げられた後だった。

 開かれた扉から日光が差し込んで、自分の顔を覗き込む誰かの輪郭を強く縁どっている。まるで白昼夢の中からそれをみているように。ぼんやりとその人を見詰めれば、強張っていた気配が僅かに緩んだ。すぐさま柔らかな毛布で少女を包んで、頭や体をぶつけてしまわぬよう慎重に抱え上げる。


「もう大丈夫だ。さぁ、お父さんとお母さんの所に帰ろう」


 その低くて穏やかな声が、言葉が、少女を安心させて。

 夢の中に落ちる直前に知ったのは、毛布の温かさと、その人から僅かに感じられる煙草の匂いだった。


 + +


 深夜。倉庫街には絶えず波音が寄せていて、積み上がったコンテナの間を抜けて、潮風がその仄暗さを彼女の元へ運んでいた。

 コンクリートで固められた足場。錆びついて半分開いたままのシャッター、腐食した壁の穴。その隅々までを月影が染め上げている。

「ハル」

 波音に耳を澄ませる少女の背中に、男が声をかけた。名前を呼ばれた少女は、落ち着いた表情で彼を振り返った。

「何してるんだ」

「月を見てただけです」

 そして尚も空を仰ぐ少女の脇に、白城は爪先を並べる。すぐ側にあったアンカーに腰を掛けて、黙ったまま同じように世界を眺めた。

「あの人、ちゃんと奥さんのところに帰れたでしょうか」

 波間に響く、独り言に似た彼女の言葉。白城はちらりと表情を窺って、

「大丈夫だろ。堕罪は、分かっていなかったってことだけだから。愛する人の傍に居られればもう迷うこともない」

 フィルターから唇を離し、持ち替えた指先で揺蕩う白い筋を目で追いかける。この味を思い出すには、自分達の街へ帰らないといけないけれど、もう少し、こうして海を味わうのも悪くないと、ふいに思った。

「沙月も言ってたけどさ。死者と生者の違いなんて俺達にとっては些細なものなんだ。何を持って死とするか。何を持って生きていると定義付けるか。本当は表裏なのかもしれない」

 掲げた紙巻き煙草で示すのは、海の果てに浮かぶ銀色の深淵。悠花は白煙に導かれるように深い空の色を見る。

「月の裏側、ですか」

 白城が頷く。

「そういうことだな。俺達は、生きているか、死んでいるか? 生の定義が魂の所在なら、俺達の存在はどうだ? どうしてここで月を見ていられるんだ」

 悠花は黙ったまま、いまの自分にその問いに答えられるだけのものが無いのを噛みしめていた。情報屋のように境界について詳しいわけでもないし、白城や灯のように『向こうの世界』に留まっている期間も長くない。何より、生者として得た時間そのものが少ないのだ。彼らにさえ出せない答えを、自分自身が探し出せる筈もない。

「取るに足らないことなんだよ。無意味だし、何より、思い悩むのは有意義じゃない。そういう意味では、俺達は恵まれてるのかもな。もう悩む必要はない。自分の欲するものだけを選び取ることが出来る。ただ、悩むことが好きで、それでも納得出来ないなら、ゆっくり考えればいい。時間だけは腐るほどある」

 白城が掌を開いたせいで、それは波に触れると同時に掻き消えて無になった。こうして彼らの手放したモノは、いつか向こう側のあるべき場所に戻る。こちら側には何も残すことは出来ない。白城にすらその仕組みは理解出来ていなかったが、そういうものだと割り切ってしまえば不思議でも何でもなかった。

 悠花は暫く月を眺めていたが、やがて思い至ったように白城のほうを振り向いた。


「そういえば、白城さんは結婚していなかったんですか?」

「結婚してたらもう少しマシな人生だったろ」

 ほんの少し眉を寄せて、それから仕返しとばかりに悠花を見上げる。

「お前は? カレシとかいなかったのか」

「そういうのはいいんです。必要ないから。それに、もう無意味でしょう」

 こちらは特に気分を害した風でもなく。ちょっと悪戯に微笑めば、瞳がくすぐったげに揺れた。それを受けて、白城が右の唇の端を釣り上げる。

「じゃ、お互い様だ」

 肩など凝る筈もないのに、大きく伸びをしてから立ち上がった。それにしたがって悠花もまた一歩後退する。

 月に照らされて、実体のないはずの輪郭が強く陰を引いた。銀色の光を纏う二人はまるで陽光の下に照らし出されているように見えて。その白城の横顔を盗み見ながら、悠花は、自分には必要な過去のことを思い出していた。

 あれはまだ幼い頃の話。その救い主の名前を知ったのは、それから何年かしてからだったけれど。

 ――私はあなたのおかげで、生き長らえることが出来た、なんて。

 既に背を向けていた白城が、ふいに怪訝そうに足を止める。

「どうした、ハル?」

「いえ。なんでもありません」

 悠花は柔らかに笑んで、首を振るばかり。だからそれ以上のことを、彼もまた問い返すことはしない。その代わり、これからの帰路の旅路を、迷いはぐれてしまわぬようにと手を差し伸べて。


「さて、俺達も帰ろうか。あんまり居ると追い出されちまう」

「はい」

 悠花は頷いて、大人しくその手に導かれることにした。

 一回り大きな白城の手の上に、自分のそれを差し出して。



 なんて冷たいてのひらだろう。


 人のぬくもりなんてもう何年も前から知らないけれど、それでも記憶の中にある人間の体温はもっともっと高くて、じりじりと焼けるように高くて。

 己の存在自体を焼き切ってしまうんじゃないかというほどに。


 水晶の鋭さにも似た、一回り大きな掌。少し伸びた爪の先。鼻をつく煙草の匂い。

 呼吸も、心音も、存在しない。

 『私達』は、ただ『次』を待つだけの存在でしかなくて。

 空になった器から、最後の一滴までが零れ落ちるのを、待つしかないけれど。

 けれど。


 そのてのひらは冷たいのに、ひどく愛しい。


                                  End.

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忘却の街 -Moratoriums- 朝斗 @Asatoiro

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