第5話 踏切

 夜は、長い。

 手垢のついた比喩ではなく、この街では事実として『夜』の占める割合が大きいのだった。

 太陽が昇る時間を朝や昼だとして、それが消えて代わりに光や影をベタついたネオンが縁取る頃。これを同様に夜と呼ぶのならば、白城が矯めつ眇めつ生きていたあの頃とは違って明らかに明けるのが遅かった。

 6時を指すこの文字盤は、果たしていつの6時なのか。

 疑問視してしまえるくらいには自分もまだせせこましく暮らしているということかと納得する。年貢を納めるにはまだ時間に余裕があるらしい。

 とは言え、ガタついたテーブルの向こうでこっそり目を擦る相手のことを無碍にすることも出来ず、その間も着々と減っていく古新聞の山に感心しながら、何も急ぐことはないだろうと思い直すのも彼の仕事だった。

 緩慢と、秒針が夜陰を刻んでいく。

 まだ長い夜の端を少しずつ削り取っては明日の貯金に積み立てる。

 小さく捻ったままのラジオのBGMに埋もれるように、事務所にしているこの部屋の空気が生温く蟠っていく。


「ハル」

 突然耳に入った異音に反応したのか、ふいに上げられた視線が音源を探して真っ直ぐ彼の方へやってくる。それでも充分上手なようで、口元にも頬にも睡魔の欠片はこれっぽっちも残っていない。

 もしかしたら、気のせいだったのかと見逃しかけるくらいには。

「お前は先に休め」

 短い返事を待つか待たないかというタイミングで続け様に切り出せば、疑問符の浮かんだ目元で壁の時計を確認する。すると僅かに両肩が下がって、慣れた人間には分かるくらいの落ち込み様で小さく「はい」と答えた。

「白城さんは?」

「俺は、もう少し片付けてから」

 指先では無意識的に煙草を一本引き出しながら。我慢しているのでも、元よりこの街の住人である彼女に影響が出る訳でもないのに、何故だか少女と空気を分つときは自然と本数が減るようになっていた。

「おやすみ、なさい」

 淋しそうに目を伏せる。心中に何を思っているかは大概分かった、どうせ彼女は部屋に戻れば数分と意識が持たないだろう。きっとそれは――いや、それも彼女自身理解しているだろう。

「……おやすみ」


 パタリ、余韻を残してドアが閉まる。

 居住に使っているのは此処の一つ上の階で、其処を目指して螺旋階段をカタコト昇って行く気配がする。

 部屋には再び煙るくらいの白煙と、それに押し負ける音量で細くラジオが流れていた。もう扉の閉じる音も足跡も聞こえることはなく、平坦になった部屋の空気を充分に吐き出してから、立ち上がる。

 普段使いにしている非常階段を反対に、ぐるぐる地上目指して降っていく。

 手摺の間から窺える極採色の夜の様子を、今宵もまた何事もない日常として受け入れながら。


 夜が明けるまでにはまだ時間があった。

 独りで潰すには幾分持て余す程の時間だった。



「ねぇ、聞いてる?」

 不思議そうに顔を覗き込んでくるその傍ら、水滴で濡れた天板をするりと拭き取っていく。単にお喋りに興じているように見えてよく洗練されている仕草だった。彼女達の極める接客業のなんたるかを目の当たりにしながら、白城は漸く言葉の爪先が自分に向いているのに気が付いた。

「ん。あーごめん。でも聞いてた」

 本当?調子いいんだからと、銘々ころころ笑う。その様子に充足して、また一口喉を潤おす。

 客足はそれ程多くはないが、この界隈では中々流行っている店だった。

 最初は馴染みを一人呼んでアルコールを傾けていた筈なのに、いつの間にか周りに女の子達が集まっている。煌びやかな路地に噴き溜まった噂や世間話を、それこそテーブルの上の果物を切り分けるのと同じで分けてくれる。夜を消費するには格好の場所、格好の街。


「でもシロさんが来てくれたの久しぶりね。お店変えられちゃったのかと思った」

「まさか。仕事が立て込んでただけだよ。いまちょっと忙しいの」

「お仕事、なにしてるんだっけ。新聞屋さん、記者さん?」

 隣に座った子が、小首に人差し指を添えながら尋ねてくる。ミントカラーのAラインドレスがよく似合っている。ぱっちりと飾った両目が真っ直ぐと注がれて、白城は曖昧に唇の角を引き上げる。

「まぁ、そんなもん」

 空になったグラスは、ロックと告げれば再び並々と満たされていった。

「じゃあ私もそのうちお世話になるかもね?」

「その時は誠心誠意お仕事しますよ。料金据え置きで」

「えーなにそれ、ケチー」

「それともサービスしてくれる?」

「それとこれとは話が別!」


 白城が冗談めかして笑えば、それにつられたようにまた表情が綻ぶ。

 この街では、何もかもが曖昧になる。そのために創られたのだから理に適っているし、郷に従えば自分もまた正しい住人の一人となる。

 はみ出す者など一握りだ。遣り方は違えど、誰もが『思うが儘』、余生を過ごしている。余生、という言い回しが正しいかは知らないけれど。それに、彼女達に新聞は必要ないだろう。勿論それは彼女達自身、よく理解しているように見える。

 此処の女達には女達なりの仕事がある。


「ユミちゃんミサキちゃん、お客さんよ。交代」

「あ、はぁい」

 ソファの背越しに名前を呼ばれて、忽ち軽快に腰を上げる。それでも名残惜しそうな素振りは忘れず――或いは本当に残念そうに――手を振って離れていく。

「じゃあまたね、シロさん」

「あたしが戻るまで、良かったら待っててね」

「はいはい。またね」


 残されたのは半分開けたボトルと、水滴の付いたグラスと、それから娘達を呼びに来た女性。彼女は溜息をつきながらそれを見送って、それから彼の傍に腰掛けた。

 手際よく慌しくなく、それでいて滑らかにテーブルの上を整えていく。


「相変わらず賑やかだなぁ」

「それって褒めてるのよね? それとも指導が足りないってクレーム?」

「勿論、褒めてますよ」

 差し出された新しいグラスを受け取り、澄まし顔で静かに息を吐く。今夜は別段控えているつもりはないし酒の味は普段通りよく澄んでいるのに、やはり回らない。もう限度なのかもな、と、人知れず心の片隅で諦めかけている自分がいる。

「貴方も相変わらずね」

 ふ、と柔らかく細められた目元は、サービス業のそれとは少し違って随分身内めいていた。ロクデナシの兄弟か友人か同志、そういったものを目の当たりにして達観しているように。事実、彼女との付き合いはこの店では一等長くなっていた。

 珍しく距離が詰められる。間仕切りの役にも立たない硝子玉のカーテンが空調で揺れて、白城がグラスを放した隙を付いて顎に指先がかかる。

「ねぇ。上、寄っていく?」

 甘苦く囁かれた言葉に、膝に置かれた掌の重さにふっと思案しながら。

 視線が絡まって、挑戦的に押し返される。けれどもその目はどこか、責めるように感じられた。――否、そうでなくとも、どうせそう感じられなくとも、返事は最初から決まっていた。

 すらりと細い指先を掬い上げて、反対の手ではもう一度、グラスを傾ける。

「うーん、今日はやめとくかな」

 ちょっと天井を見上げながら、まるで悩んでいる素振りで首を振る。

 すぐ側で瞳が射るように細められる。返事を待ちながら一瞬だけ、また線を繋げる。

 そうすると、意外にも返されたのは溜息だった。

「だと思った」

 あっという間に離れて行った腕の感覚をじわじわ忘れながら、苦笑を交えて尋ねる。距離は最初より少し遠く保たれて、もう一度軽く溜息が吐かれた。

「ひやかしだって怒る?」

「まさか。顔見せてくれただけで充分よ。シロさんが来ると女の子たち色めき立つから」

 どうやら最初から鎌だったと気付き、白城は改めて女の顔を眺めた。今夜初めて、じっくりと眺める目に馴染んだ顔。こんな場所にいなければ、ただのオフィス勤めになっていたのだろうか。例えば知り合いの雑誌記者のように。それならそれで彼女は上手く遣っていくのだろう。

「また、どうしようもなく暇になったら来て頂戴」

「なにそれ、折角の金ヅルを安々手放していいわけ」

 茶化して振った手の陰に、真っ直ぐな双眸が垣間見える。

 全てを内包する、そう、包容力とも言い換えられる眼差しと言葉。腕組み。その仕草に、ああ、女性は鋭い生き物だと再認識する。とくにこの人は、さすがにもう何年も彼の時間潰しに付き合ってくれているだけはある。

「貴方の中で変わったことがあるんでしょう?」

 其処に座っていたのはただの姉だった。きっと白城よりずっと若くて年下の。他人同士が時々袖を擦り合わせて過ごす、そんな寄せ集めの街の中の。

 また嘘か本当かも分からない探偵の言葉に、彼女は優しく頷き返す。

「ただ、猫を拾っただけだよ」

 そうして、酔えない本当の理由を、また胸の奥に仕舞い直した。



 数時間をやっと消費して戻った事務所は出て行った時のまま机の上のライトだけが灯っているのが部屋の外からも分かった。擦り硝子の、表面に並んでいたはずの金色の印刷文字。いまはもう事務所という字の輪郭だけが残り、此処が本来何のための場所だったのかも分からなくなっていた。

 夜が明けるまでにはやはりまだ時間があった。仕方なく住処に戻り、ソファで一眠りしようかとノブを捻ったまでは良かった。

 後悔は先に立たない。けれど代わりに、例えるなら風邪の予兆をどことなく感じながら働きに出るような、そんなチラつきは最初からあったように思う。それが扉を開けた瞬間に一斉に拡散して、違和感を覚えるのと殆ど同時に『それ』に気が付く。


 応接セットの、正に彼が眠りに着こうとしていた二人掛けのソファ。どんなに薄暗くても分かる、そのシルエット。大きさ。傷みのない長い髪、白い頬。

 何よりも先に溜息が出た。それでも彼女を起こしてしまわないよう、極力息を潜める自分にも驚嘆する。

 どこからか、おそらく寝室から引き摺ってきた毛布に包まって、小さく丸くなって寝息を立てている一人の少女。

 誰もいなくなった部屋で。一人。

 白城を探して降りて来たのか、彼がいなくなったのを見計らって降りてきたのかは知らない。けれどこの子は一人にするとこうして部屋の片隅で丸まって眠ってしまう。今日は大人しく部屋に下がったようだから勝手に安心してしまっていた。

 落ち着いているのに、どこか不安定。

 迷子のペットか擦り込みを受けた雛のよう。

 手を伸ばし、頬を撫でる。どのくらい前から此処に居たのか、随分と冷たい。


 『まるで本当に猫を飼ってるみたいね』。


 小さく小さく、自分の膝を抱えそうなくらいに丸くなって。

 最初はこうではなかった。もう少し精神的にも大人びていて、放っておいても自立できるくらいの、勝手に過ごしていけるくらいの頑丈さがあった。

 言葉少なで感情の起伏が小さくても、良く見れば充分豊富な表情をさせつつ。

 なのに最近は、子猫の様に纏わりついて――その温もりを掌に擦り付けてくる。


 嗚呼。

 背凭れから静かに身体を離して、天井を仰ぐ。


 この感触が消えることを、少なからず淋しく思ってしまうのは。

 とんでもなく厄介なことだと彼も自覚していた。



 それから、何度目かのある日の朝。


 薄暗い部屋で目を覚ます。半身を起して、やや肌寒い室温を覚えながらカーテンの隙間の灰色を眺める。

 色素の不足した空。それは間違いなく夜の終わりで、闇に慣れた身体には少し物足りなさを思わせる。

 半透明な帯が目の前を横切って、その端が彼女の白い頬に落ちているのを見る。折れそうな肩が毛布の縁から出ているのに僅かに眉を顰め、面差しを隠す前髪を払ってから静かに引き上げてやる。


 一人で眠るには広く、二人で眠るには狭い筈だった。

 それを意識したのはもうずっと前で、それでも自分の家にはなかった大きさの寝具に優雅さを覚えたのも過去のことだった。

 少女は、いまも小さく萎縮して夢に浮かんでいる。

 まるで丁度良く在るべくして、居るべくして此処に納まっている錯覚。

 薄く跡が残る頬に手を伸ばす。それが彼の、味を占めてしまった数少ない純度の高い安息であり、同時にその輪郭が良心の呵責のようなざらざらした焦燥を知らせる。

 涙のあと。

 軽く拭っても、消えない。

 淡い唇が自分の名を呼んだ気がして、悔しくなる。


 何処で間違えてしまったのか。


 そうして目を覚ました少女は、いつも普段よりほんの少しだけ穏やかに綻ぶ。

「……おはよう、ございます」

 答える代わりに思わず頭を撫で、その、されるが儘に目を細める様子にまた良心が軋む。

 ごろごろと喉を鳴らす猫の幻想。それに癒されて、尚も撫でつけ続ける自分のような。

 居心地の良さに覆い被さり、麻痺するに至るまで。

 果たして主導権を握っているのは誰なのか。分からなくなる。


 ――手を離せば、猫は離れていくかもしれない。

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