第4話 腕時計

 目を開けたことで、悠花は自分が眠っていたのだと気付いた。

 部屋を見渡すつもりで身体を起こした。先刻まで朝焼けに霞んでいた空はすっかり灰色で、大分時間が過ぎていることを知る。

 それから、自分がソファに横になっていたこと、身体に見慣れた毛布とジャケットがかけられていることも。

 僅かに紫煙の香りのする上着。数日間無人だったデスクには灰皿と吸殻。なのに、肝心の誰の姿も見当たらない。

 夢だったろうか。それとも、いま見ているこれこそが夢か。毛布を半分被ったまま呆然とブラインド越しの空を眺めていると、ふいに彼女の耳が食器の擦れる音を拾った。

 カチャカチャと硬質なその音色はいつしかすぐ側に。視界に影が落ちて見上げれば、目の前に真っ白なマグカップ。そしてココアの香り。悠花はぼんやりと座ったまま。

「おはよう……ございます」

 その眼差しへ、まだ夢見心地で応える。相手は柔らかく微笑んだ。白城だった。

「ばっちりだったな。タイミング」

 彼は差し出したマグカップを悠花に握らせると、自分のデスクへと戻った。そこには読みかけの新聞が広げられていて、左手でコーヒーの入ったカップを持ったまま器用に折り返した。

 悠花は温かい陶磁の感触を確かめてから、冷えた唇を触れさせる。

「――ありがとうございます」

 ほろ苦く、甘い。いつも飲んでいるものとは違う味。

 けれど、白城がさっき持っていたカップの香りはそちらのものだった。悠花がよく彼に淹れるものと同じ、砂糖もクリームも入らない飲み物。つまりこのホットココアは、悠花のために淹れられたもの。

 もう一口。マーブル模様が溶けて、みるみるうちに現実が撹拌されてゆく。ここは事務所で、白城は確かにここに居る。朝方に彼の姿を発見したのも、幻想ではなかった。

 それにしても、自分は確かに床に腰下していたと思ったけれど。ソファで眠っていたのは白城のほうだったはずだけれど、これは一体どういうことだろう。

「どれくらい経った?」

「4日くらい、です」

 尋ねられたままに悠花が返せば、そうか、と思案顔で珈琲を飲み下す。

「長い間留守番させて悪かったな。何か問題は起きなかったか」

 悠花は短いようで長かった時間経過を思い返し、責任者である彼に伝える必要がある出来事を探した。しかし基本的に人の出入りの少ないこの事務所では、取り立てて懸案事項は見つからない。

「いえ。でも、お客さんがありました」

 首を振ってから思い直すと、白城はちょっと眉間に皺を寄せて、

「そっか。ありがとな。助かった」

 視線が端末と新聞越しに少女へと届く。少女は小さく頷いて、毛布の内側から外の世界を窺っていた。そう、自分が毛布の中のままだということを思い出す。

 ソファの上で丸くなって、やがて、そろりと床に足を下ろした。目に映る光景が正常な角度になる。傾いでも歪んでもいない、普段の自分自身の視点。だから俄かに白城の様子が気になって、右手をカップとキーボードに行き来させている姿を盗み見た。左手は新聞を放さないまま。両目も基本的には新聞のほうに向かっていて、時折キーボードを叩くのに合わせて液晶画面を確かめている。

 ややあって、白城が口を開いた。

「沙月と連絡が取れた。詳しくは聞いてないが、どうもアタリがついたらしい」

 彼が何の話をしているのかは悠花にもすぐに理解できて、ほんのちょっとだけ背筋に力を入れ直して彼の顔を注視する。

 その名前は勿論悠花も覚えていた。数日前、白城に連れられて会いに行った情報屋の名前だ。白城は助手が自分の方を見ていることに気付き、心なし顔を上げた。

「それで、俺はまた暫くしたら出掛けないといけない。今回はすぐ帰れると思うが――」

 視線を少女の方へと確実に向ける。

「また留守番頼んでもいいか」

 問い掛けの形を取っているが、悠花の返答など最初から一種類しか用意されていない。だから彼女は簡潔に、ぐい、と顎を引く。

「はい。大丈夫です」

 白城が気付かない訳が無かった。

 言いながら、あからさまに表情が暗くなったこと。暗いというよりはもっと複雑で、怒っているとか呆れているとかいう感情よりは、不服そうにも残念そうにも、哀しそうに見える。

 黙ったままココアを飲む悠花。それ以上何を問い返すでもなく、只々気落ちしているのが見て取れる。どちらかというと『待て』を指示されているペットのようで、加えて白城は彼女に対しては滅法甘い傾向があるので、

「――と、思ったけど。駄目だな」

 苦笑して呟けば、落ちていた悠花の視線が戻ってくる。小首を傾げる様子は、やはり小動物のそれに似ている。白城はちょっとだけ口角を上げたまま、冗談のつもりで尋ねる。

「なんて顔してんだ。そんなに留守番は退屈か?」

「はい」

 真っ直ぐな視線。返事は思いもよらないものだった。

「ハル、お前」

「……いえ。なんでもないです」

 反射的に確かめると、少女にも自覚があったのか、罰が悪そうにまた目を伏せる。明らかに動揺しているのが新鮮で、思わずまじまじとその表情を見廻してしまった。

 悠花はというと白城の視線には気付かないふりで通したいようで、明らかに彼のほうを気にしている割には目線は絶対にかち合わなかった。早く白城の関心が逸れることをいまかいまかと待ち望んでいるようだった。

 それでも、どこかの誰かのように気さくに話題が転換できる性格でもなくて。

「仕方ないな」

 微笑み、こめかみの辺りを掻きながら。溜息ではなくて嘆息で、呆れというより喜びで。

 決断するのはいつだって上司の仕事だ。保護者と言い換えてもいい。こんな寂れた街に迷い込んだ一人の少女の。

「スポーツ欄を読み終えるまで時間があるから、着替えておいで」

 悠花の顔が目に見えて明るくなる。

 だから白城が、ただし間に合わなかったらおいて行くぞと付け加えたのも大した効力を持たなかった。ぴしりと姿勢の良さを保って、二つ返事で立ち上がる。逸る気持ちはそわそわと抑えつつ、なんとか彼の話を最後まで聞こうと意気込んでいた。


 白城が頷いて見せると、少女は大急ぎでドアの外へ出て行った。いつもより速足で、慌て気味で。少し離れた場所でドアの閉まる音がして、彼女がすっかり部屋に辿り着いたことを確認する。

 応接セットのテーブルの上には置き去りのココア。毛布は悠花が抱えて戻ったし、白城のスーツのジャケットは、いつの間にか丁寧に畳んでソファの隅に置かれていた。

 一人だけになった部屋の沈黙は淋しくも耳に心地良かった。だから安心して、自分だけの独り言をそっと零す。

「先に連れ出したのは俺の方だからな。あんまり良いことじゃないと思うんだが。仕方ないか」

 見詰めるのは閉ざされたばかりの事務室の扉。思いを馳せるのはまだ経験の浅い少女のこと。純粋な器には些細なスパイスさえ刺激が強くて、あまり味わってしまえばいつかは身体を蝕む毒になる。毒を毒と気づかないまま帰れなくなった人間を、白城は自分の職業の中で嫌というほど見てきたのだ。

 そうは言えど、真実を知らせなければいけないという事実。それがいまぶち当たっている傷の程度とは関係なく、それでも悲観しすぎることはなく。だって遅かれ早かれ、それが本物だと言うのなら。自分たちが通る道は同じなのだろうから。


 それに、いまの白城には少しの自信が残っていた。それだけで充分すぎる程だった。

 大丈夫。迷子になったら探しに行くよ。

 正面きってそう言葉にすることはないけれど、その根底にある感情は決して偽物ではない。

 あの小さな指先をぎゅっと掴んで、彼女が消え去ってしまういつかが来ることを臨んで。


 +


「いい香りね」

 来客ソファにゆったり腰掛けて、高座灯が白磁のカップを傾けている。正面にはカップがもう一つ。時計の針の音ひとつしない室内は、その香りだけでどこかの英国庭園でのティータイムに変貌する。

「たまにはいいわね。むさいオッサン抜きでお茶にするのも。本当はあたし紅茶派なのよね」

 ハーブティーも好きよ、と付け加えて微笑む彼女に、悠花は、

「じゃあ次からは紅茶を用意しますね」

 そう言って自らもベルガモットの香りを楽しんだ。

 これは少し未来の一場面。

 テナントビルの最上階にある事務所で、また一人で留守番をしている少女の元へ、いつかの約束通り灯が遊びに来たある日のことだ。彼女はお気に入りの茶葉を手土産に、きっと退屈しているだろうと悠花の様子を見に来たのだった。

 灯は普段通り、かっちりとしたパンツスーツ。赤めの髪を器用に後ろで纏め、その鼻先にはアメジスト色のセルフレーム。いつだって彼女は『働く女性』そのもので、悠花はそれを知ってからも認識に変化はなかった。ただ唯一、左の手首に巻いたままの、針の止まった腕時計、それからは静かに目を反らしてしまう。

「ありがとう。こうしてお喋りして相手の趣味を知るのはとても素敵なことね」

「はい。私もそう思います。ただ、私はあまりお喋りが得意じゃないですけど」

 それから、がんばります、と手振りを加えて意気込んでみる。こうしてみれば、悠花も随分この環境に慣れてきたように思える。

「努力はいいことね。前進するということは有意義だわ」

 大儀そうに足を組み替えては、ふと天井を見上げた。年季の入ったロックウールの天井版。建てたときのままのそれらは所々くすんで、隅のほうは欠け落ちているものもあった。

「本当は何もかも無意味なのよ。事務所を成り立たせることも、偽善的に人助けをすることも、あいつが好んで吸う煙草も、珈琲も」

 ふうっと宙へ向かって溜息を吐いた。埃の影が絶え間なく揺れる。まるで波紋のように部屋全体へと広がっていく。

「『過去』のことなんてどうでもいい。それでも、無意味でも、あたしたちは身体に染み着いていた習慣を懐かしんで、誰かを愛したことを思い出しながら待ち続ける。そうするしかないし、そうしていたい。この身がついに消えてどこかへ廻り出るまで」

 悠花は、彼女の言葉を真っ直ぐに聞いていた。手放したティーカップの中にも小さな波紋が広がって、すぐに見えなくなる。抑揚も薄く形作る言の葉は、いまも尚空中を歪ませている。

 灯は、きっと自分でも気付かないまま左の手首を抑えて、

「あたしの本当のことはシロから聞いてる?」

「はい」

 唐突に向けられた眼差しに、悠花はややあって頷いた。肯定に引かれた顎。灯がここにきて僅かに口角を上げる。その表情はどこか皮肉めいていた。

「変なやつだって思ったでしょ。この喋り方も元々は、女に間違われるのが面倒で始めたことだけど。でも、いまは気に入ってるの。綺麗に着飾ることも、あたしにとって意味の有ること。こうなってから気付いても遅いと思うかもしれないけど――そんなことない? うん、ありがとう。そうね、最後には何も残らなくても、こうしていることが無駄で無意味だとは思わない。だってそうでしょう? あたしたちは留まることを許されているんだから」

 それが良いことか悪いことかは、置いておいて、ね。付け加えて、目を細める。

 堪えきれずに悠花は首を振った。握り込んだ自分の手に、ぎゅっと力を込めて。臆病な震えを押し隠すように、それでも懸命に灯を見る。

「変なんかじゃありません。それに私も、此処にいることが無意味だとは思いません。此処に来たから私は高座さんや白城さんに会えたんです。だから、後悔もしていません」

 悠花の真っ直ぐな言葉に灯は幾分か呆けていた。それからすぐいつものように女性的な微笑を浮かべて。

「ハルちゃんは、本当に可愛いね。シロのものでなければあたしのものにしたいのに」

 少女が首を傾げれば、灯は益々愉快そうに笑った。

「うちの事務所って男だらけなの。こんな可愛らしい花が一輪でも咲いていれば毎日の仕事も楽しいのに」

 悠花は僅かに目を伏せる。小さく微笑んで、ゆるゆると首を振る。

「多分、白城さんは私のことなんてなんとも思っていませんよ。……もしかしたら、迷惑に思っているかもしれないけれど」

 無意識的に目を向けたデスクは相変わらずファイルの山がうずたかい。白城が事務所を空けてからまだそれ程時間は経っていないはずだ。それでも客足はぽつぽつと途絶えることなく、日によっては何人も、自らの過去を探し出そうとこの倉庫にやってくる。

 こんなにデータが蓄積していても、それでも、自分の過去を探す気にはなれない。それは灯の言葉通りだった。この世界では過去は無意味だ。此処では何物も自分に意味など見出せず、その代わり何よりも自由に自分という存在を形成するに至っている。

 だから彼女――彼は、純粋な眼差しで問い返す。真っ当な疑問だった。

「じゃあ、ハルちゃんはどうしてシロの所にいるの?」

「それは……」

 そう、悠花がこのビルにやってきたことも、全ては意味のあること。

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