第3話 新聞
一人きりのフロアに、ふと電子音が鳴り響く。
それが白城のデスクの上の黒電話だと気が付いて、悠花は慌てて彼の机に駆け寄った。間延びしたコール音が5回目を終える前に受話器を上げれば、聞きなれた声が少女の脳へと届いた。
「はい。第七テナントビル、事務所です」
『こんにちは、ハルちゃん』
「
ひとり?という声に受話器越しに頷き返しかけて、はい、と答え直す。
「留守番なんです」
『ああ、そっか。あいつ副業に出てるのね』
それから、他愛もない話題に花を咲かせること数分。と言っても悠花は相槌を打つのが殆どで、時折灯の投げかけてくる質問に端的な答えを返すのが精一杯だった。
淋しくない?と灯は尋ねる。悠花は、平気ですと首を振った。
『あたしも仕事がひと段落ついたら遊びに行くね』
「ありがとうございます」
また癖で丁寧に頭を下げる。肩まで届いた、髪質の柔らかな少女の髪がさらさらと揺れる。
事務所の中には彼女の声と、遥か遠くを駆けていく列車の音。ブラインド越しの空は相変わらずどんよりしていて、鳥の一羽も飛んでいない空は灰色に凝固してしまっているように見えた。
あまりに静かな空白に、思わず窓の外を眺めていた。ふいに吹き付けた風が換気扇を回して過ぎていく。
ゆっくりとした瞬きのあと、灯の声が悠花の意識を事務所の中へと呼び戻した。
『それでね、あなたの所にお願いしたいことがあるんだけれど、いい?』
灯から提示されたのは翌日の正午前で厳密な時間の指定がなかったが、悠花の行動は普段通りあまり左右されなかった。今日も朝からいままで、分厚いファイルと睨み合いながら入力作業を続けている。本当は悠花の仕事ではないし、第一急ぎの内容でもないのだから、こうしてせっせと作業することはないのだけれど。
それでも何かに打ち込んでいなければ、この空白はあまりにも長い。
分厚い綴りの漸く半分を過ぎた頃、事務所の入り口の磨硝子に人の影が映った。呼び鈴もインターホンもない代わりに響くノックの音。悠花が返答すれば、恐る恐るといった風にドアが開き、初老の男性が顔を見せた。知らない人間だった。
「こちらで、新聞を見られると聞いてきたのですが」
その言葉に、彼が灯の言っていた客なのだと気づく。フェルトの帽子に同じ色の背広姿で、身嗜みに気を使っているのだと知れた。帽子を取って会釈をするので、悠花は立ち上がり、男性を迎え入れた。
「日本のものに限られますが……日付はいつですか」
「2011年の、3月15日です」
「新聞社の指定はありますか」
簡単に二、三要望を聞き、男が必要とする新聞を棚の中から探し出す。2011年のものであれば先日整理したばかりなので留守番役の少女でも代替が可能だった。
硝子戸の鍵を開けて、三月の棚から一部を引き抜く。念のため前後1日分ずつの新聞も一緒に取り出した。
来客ソファに腰掛ける男に手渡せば、すぐそれを読み始めた。熱心に食い入るように一枚一枚と捲っていく。その様子を少女は、自分の席から見ていた。
「――ああ」
液晶画面に没頭していた少女の耳に、俄かに男性の嘆息が届く。
顔を上げる。残念ながら悠花の席からは背中しか見えなかったけれど、彼が此処に入ってきた瞬間の緊張感が解け、安堵の色に変わっているのが分かった。
「あった。そうか。じゃあ、すれ違ったのはやっぱり彼女だったんだ」
それは独り言だと知っていたので、黙ったまま彼の背中を見詰めた。そうか、と、何度か頷き重ねる客人。他の月のものより大分薄い新聞。反して大きく見開きの見出し。彼は愛おしそうに紙面を指でなぞった。
「これ、借りることはできますか」
穏やかな表情が振り返ったので、促されるように席を立った。そうして部屋の隅の大柄な機械を指差した。
「コピーなら取ることが出来ます。1枚10円かかります。どうしますか?」
「お願いします」
悠花が予想した通り、彼の返答は明快だった。
少女はまた一人きりになった。
一人きりになってから、夜が来て朝がやってきた。此処に来てからというもの、こんなに長い時間を一人で過ごすのは初めてだった。
暗くなってから悠花は同じ階にある居住スペース――と言ってもベッドと据え置きの家具しかない殺風景な部屋だけれど――に戻って、あまり眠くもない体を横にして時間を経過させていた。もしかしたら、少しくらいは眠りに落ちたかもしれない。夢すら見ないこの夜では、針の進む速さなど一定ではなかった。
+
「はい、あたしの勝ち」
あれはある日の昼下がり。
テーブルを挟んで向かい合わせに座る二人の眼前には、白と黒の石が並ぶ正方形の板が控えていた。ただでさえ物の多い白城のデスクの上に、無理にスペースを作って広げたボードゲーム。しかし現状でその緑板の上には圧倒的に暗色が多い。
「あんた本っ当リバーシ弱いわね。白か黒かで統一していくだけなのに、どうしてそんなに手こずるのよ」
彼女のほうはファッション誌まで開いて片手間だったというのに、いつの間にか端末をシャットダウンしてまで挑んだ結果がこれだとは、当人でなくても溜息を吐かざるを得ない。
「得意分野はカードなんだよ」
すっかり不貞腐れて、緩慢と目を逸らす。
「それも賭け金がないと調子が上がらないとか。つくづく手本にならない大人なんだから」
ぶつぶつと何かを言う白城。力なく咳払いをしてパソコン本体のスイッチを押したものの、待ちきれずに引き出しから新聞を出して広げた。
ボードゲームを片付けて漸く見えたデスクマットの上に、トレイを抱えた少女の影が写る。
「あの。珈琲、入りました。高座さんもどうぞ」
「わぁ、ありがとう」
「さんきゅ」
灯が太陽のように微笑めば、緊張した面持ちで頭を下げた。灯の分と、白城の分をひとつずつ丁寧に置く。それからぺこりと一礼して立ち去る。
やがて自分の席に戻って、再び必死に慣れないキーボードをぽちぽちと突っつき始めた。時折ハンターのような目で画面を凝視しながら。
「――猫だよなぁ」
「なにが?」
珈琲をずずと啜ってから、灯が不思議そうに尋ねた。白城は誰とは口にしなかったが、その視線は端末に奮闘する少女の後姿に注がれていた。
「捨て猫を拾った感じに似てるんだよ。人になついてんのか、家についてんのか。空腹を満たしてくれた恩義を感じてるだけなのかもしれない」
灯は黙ったまま、いつになく感慨深げな言葉に耳を傾けた。がさり、折り返した新聞紙が渇いた音を立てる。
「シロは、任期はあと何年残ってるんだっけ」
白城は少し考える素振りをしたものの、答えることはなかった。
「あたしたちはそうだけど、あの子は雇用じゃないから。貴方より早く出ていくことになるでしょうね」
年も若いし、十年か百年かわからないけど、きっとあっという間よ。と、意味ありげにも気遣わしげにも、はたまた面白がっているようにも見える灯の両目。
「いつかきっと、来た時みたいに、ふらっと出ていくんだろうな」
「たしかに、シロには勿体無いくらいの美人猫だもの」
すっかり読み尽くしてしまった雑誌を丸めて屑篭に棄てる。チャコールグレーのパンツスーツで器用に足を組み替えながら。
「本当はどこかで飼われていた血統付きなのかもね。本物の飼い主が見つかったら、もう戻ってこないかもしれない」
セルフレームの内側から、問いかける眼差し。白城がそれを目の端で迎えて、数秒間の無言の中でお互いの主張を探る。
なのに白城の目には普段と同等の倦怠さしか無くて。僅かに滲んだ寂しげな色が、どの虚しさを受けて作られたものなのかは、仕事仲間である灯にすら読み取ることは出来ない。
猫を、養う気はあるのか。
それともいつか逃げられてしまうのか。
華奢な首筋、澄ました無表情。
自分だけのお気に入りの日溜まりを見つけた猫は、きっと振り向くことはない。
けれど。
「それが本物の幸福なら、それに越したことはないさ」
長い間一人だった『人間』には知る術がない。猫のお気に入りの日溜まりが一体何処に在るのかなどは。
拾い主の男は、物分りの良い人間の顔をしたまま、独り煙草を燻らせる。いまはまだ足元で丸くなる、毛並みの良い猫の背を撫でながら。
時計の針がまた、正しい時間の流れへ集束していく。
+
さすがに重くなった体を引き摺って、漸く住処にしているビルまで辿り着いた。正面入り口の自動ドアは立てつけが悪く、最初から非常口の柵を越える。
剥がれの目立つモルタルの壁に沿って上階を目指す道すがら、階段の中央に陣取る毛玉の塊に遭遇した。つやつやの毛並の中に四肢を折り込んで、急にやってきた客人のことなど微塵も気に留めず、悠々と寝息を拵えていた。ロシアンブルーの首元には、きちんと赤色の首輪が隠れている。
あと一段まで近づいても髭ひとつ揺らさないその住人に、根負けするのは白城のほうだ。踏みつけてしまわぬよう、起こしてしまわぬように、ゆっくりと足の置き場を選んだ。
ぐるぐる、喉の音が聞こえる。どうやら良い夢を見ているらしい。
その様子には、つい手を伸ばしてしまいたくなって。
思わず、事務所で留守番をしているはずの少女を思い出した。
指先は、ひやりと冷たくて。
+
物音がした気がした。
目を開ければ、いつの間にか薄い遮光カーテンの外が白く綻んでいた。夜気ですっかり冷えた床の上に両足を下せば、ひたり、心のほうへ冷たいものがせり上がってきた。
予感がした。物音はもしかしたら幻聴かもしれないけれど。室内用のスリッパが見当たらなかったので、素足のままで廊下へ出た。
辿り着いた磨硝子の先に気配を感じた。ドアノブを廻せば、昨夜かけたはずの鍵が開いていた。
起き抜けの、薄い紗幕のかかった記憶のまま、ゆっくりと鉄製のドアを押し開ける。ブラインドから真っ白な光が注いで、室内に埃の影を浮かび上がらせている。
新聞やファイルに埋もれた部屋の姿は普段通り。少女が昨夜電気を消した瞬間と変化は見られない。積み上がったバインダー、古新聞、スクラップノート。それらが床から事務机までを支配していて。
少女の机の上には蓋の閉じた端末。この部屋の責任者の机にも変化は見られない。けれど唯一。
単色の朝日が室内を照らして埃の影をつける。応接セットのテーブル。それを囲む二人掛けの皮のソファ。その上に、身体を投げ出している誰かの姿。
否、それが誰かなんて、悠花には顔を見る前から分かっていた。からからと回る換気扇、それに重なる嘆息の声。スーツ姿の背格好、疲労に染まった白い顔。
「白城さん?」
それは呼びかけではなくて、驚きによって発せられた独り言だった。自分の声が想像よりも強く響いて、悠花はとっさに口を噤んだ。
彼女の心配を余所に、白城は良く眠っているようだった。
横向きに、窮屈そうに身体を折って目を閉じる白城の姿。眉間に僅かに皺が寄っていても見間違う筈はないけれど、思わず傍に近寄って確かめたくなる程には久々の再会だった。
おそらく部屋に戻るのが億劫で、仮眠のつもりで此処に横になったのだろう。身動ぎの呻き声を交えながら、自分の上着を掛布団代わりにして顔を埋めている。
悠花は、まだ夢か幻想か分からないまま、ぼんやりと彼の様子を眺めていた。ソファの背の側から彼の顔を遠目に覗き下して、やがて何かに気付いたように来た道を戻った。
再び事務室に現れた少女が抱えてきたのは、一枚の毛布。
その瞳から彼女自身の意思は読み取れない。白城を覆い隠すようにふわりと毛布を掛けて、ただいつものように真剣で。口を引き結んで、ソファのすぐ傍に立ち止まる。正面から、ソファの肘掛部分に頭を預ける白城の顔をじっと見詰める。
息も殺したまま。
白城の、ひとえに身嗜みに気を使っているとは言い切れない前髪が顔を半分隠している。それがとてももどかしかった。悠花はひとりでに導かれるまま、真っ白な指を彼の顔に差し延ばした。頬にかかった髪を掻き避けるために。
指先がかすかに頬の表皮に触れる。その些細な違和感に白城の眉が反応する。
それも一瞬のこと。慌てて引っ込めようとした指先は、ふわり、彼の手に捕えられてしまう。
驚いて声を上げようとして、息を呑む。見れば白城は目を閉じたままで、ただ寝ぼけているのだとすぐに知れた。
一瞬だけ強く引かれたと思った掌は、間もなく力なくソファの上に落ちてしまった。それでも尚、悠花の腕を取ったまま。
振り払うのは簡単だった。逃れようと思えば容易くそう出来るはずだ。それがどうしても出来ずに、どうしても抗いたくなくて、そのまま手の届く場所、ソファの足元に座り込む。
裸足のままで床は冷たい。それが心地良かった。毛布の間から伸ばされた掌。前髪で隠れたままの横顔。それだけは空いた左手で掬い避ける。眉間に寄っていたはずの皺は消えて、気だるげな唸りも聞こえなくなっていた。
白城が枕代わりにしている肘置きにこっそり背中を預ける。振り向いて覗き込めば、すぐそこに彼の顔がある距離に。
時折吹き付ける風の音。それ以外はどんな音も聞こえない。代わりに覚える、よく馴染んだ煙草の匂い。
いつしか指先は離れてしまっていたけれど。
悠花はソファに凭れたまま、次第に明るくなっていく空の輝きを見ていた。
「おかえりなさい」
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