第2話 通話

 時計の針を少し過去へと戻そう。

 あれは数日前か数週間前か、でなければ数年前の出来事。埃塗れの、十畳ほどのワンフロア。室内はごちゃごちゃと机や棚が押し込まれていて、実際はもっと狭く見えた。

 部屋のドアを引き開けて、ひとりの少女が入ってきた。真っ白なワンピース姿の、まだ幼さを残した面影の女の子。彼女はどこかぼんやりと夢でも見ている面持ちで部屋の中を見渡した。やがてブラインドに仕切られた窓の傍、煙草をふかしている男の存在に気が付いた。

「いらっしゃい」

 対極がお互いを引き寄せる。視線が合った。男は突然の来客に動じることもなく、むしろ歓迎の笑みさえ浮かべて少女を迎え入れた。

「あ――あの」

 少女がやっと声を上げた。所在無げに胸の前で指を弄び、今更ながらドアを開けてしまったことを後悔したのか、申し訳なさそうに視線を落とした。

「ああ、そうか。客じゃないんだな」

 納得したように男は頷く。益々少女は萎縮して、それでも逃げ出してしまう様子はなかった。

 男は、穏やかに声をかける。

「お前、名前は? それくらいは分かるだろ?」

 ふわりと苦い香りが喉の奥に届く。煙草の匂いだと分かって、鈍っていた彼女の思考回路に働きかける。

「遠野悠花、です」

 まだ緊張したままだけれど、それでも少しばかりはほっとした表情で答える。二人の距離が一歩分近くなる。シロは聴いた音をトオノハルカ、と復唱し、それから机の上にあった新聞紙を四つに畳んだ。

「どんな字を書くんだ」

 黒の油性マーカーと新聞紙がぐいと少女のほうへ突き出される。その行動の意図するところを汲み取って、悠花はマーカーの蓋を引っ張って外した。

 さらさらと慣れた手つきで自分の名前を書く。けれど控えめに、記事の邪魔にならない場所を選んで。

 その文字列に視線を走らせる。華奢だけれど丁寧な文字。悠花という少女の性格をそのまま表しているような。細身の四文字を何度か音と合わせて読み返して、

「――よし。覚えた」

 小さく顎を引く。新聞を事務机の一番下の引き出しへと仕舞った。

「それで、お前は此処でいいのか? どこか行きたい場所はあるのか」

 途端に悠花の表情に困惑と不安の色が混じる。無理もないと思った。きっと彼女だって好き好んでこの部屋のドアを開けたのではないはずで、だからといってこの近隣に詳しいわけでもないだろう。

「よく、分かりません」

 案の定、消え入りそうな返答がある。折角狭まった一歩がふらりと退けられる。男は気分を害したふうではなかった。反対に気遣うように、そうか、と静かな視線を向ける。

「なら此処にいるといい。何処か行きたい場所が出来るまで。此処はそういう場所だからな」

 悠花の瞳が、じっと男の顔に注がれる。警戒しているのかもしれないし、男がどのような人物なのか確かめようとしているのかもしれない。彼の言動の真意を欲しているのかもしれなかった。

 やがて詰めていた息を、ふと解放する。それを感じ取って男もやっと肩を下した。

「自己紹介がまだだったな。俺の名前は――確かこの辺に名刺が――ああ、あった」

 机上の書類の山を崩しながら小さな紙切れを見つけ出す。透明の敷板に挟んでいた、少し色の褪せた紙片。それを彼女の目の前に差し出す。

 紙の上にはタイプライターのフォントで事務所の名前と住所、連絡先。中央に他より幾分か大きな字で並べられた四文字。

 『白城史朗』。

 つまり彼の名前らしかった。

 古い名刺で悪いな、と顎をなぞる仕草をする。悠花はその小さな名刺を、落とさないように両手で丁寧につまんで支えた。

「ちょっと読み辛い名前なんだ。言っておくがシロシロシロウじゃないぞ」

 読めるか?と問われたような気がして、じっと彼の名前を見詰める。それから、一呼吸の後に能動的に唇を動かした。

「シロキフミアキ」

「お、勘がいいな」

 ほう、と感心の息を洩らす。悠花の表情は翳ったままで、それでも先刻よりは真っ直ぐ白城の顔を見られているようだった。

 少女――悠花はこの場所にいることを選択した。それが彼女の強い意思ではなくとも、要望でなくとも、それでも迷子同然の彼女にとっては、この出逢いは救いのように感じられた。

 いまは右も左も分からなくても、いつか自分で道を選ぶ瞬間がくるかもしれない。その時は、その時で構わない。白城が先に述べた様に此処はそういう場所なのだ。彼らはもう自由に選ぶことが出来る。本当に居たい場所も、本当に持っていたいものも、全て自分で決めることが出来るのだ。

 未来よりはいくらか片付いた状態の応接セットの、テーブルとソファを占拠していた資料の隙間を縫って悠花が座れる場所を作った。促されるままに少女は腰を下ろし、灰皿に潰された紫煙とカップから立ち上る湯気を眺めた。二つの違いは現在の彼女には区別がつかなかった。

「さて、本題だ。落ち着いてゆっくり聞いてくれ。ハルはどうして自分がこんな場所に居るのか、分かるか」

 いま思えば、彼女を愛称で呼んだことさえ彼の優しさだったのかもしれない。呼びやすさも含めて、これから少しの間でも時間を共有する相手への距離の詰め方だ。

 或いは、先人としての。上司としての。

 いつか、呼吸よりも簡単に、別々の道を歩む瞬間がやってくる、それを頭の隅に置きながら。

 それが記憶の中の、彼らの初めての出会い。


 +


 まずは情報収集だと白城が言い、二人は『情報屋』の所在を探すことになった。

 とは言え件の人物の活動圏は限られるそうで、二・三当たりをつけている場所を巡ってみれば簡単に捕まえることができるらしい。

 案の定、並木通りの喫茶店でかちゃかちゃとキーボードを叩く姿を発見した。その風貌を見て悠花は些か驚嘆する。白城が懇意にしている情報屋だというから壮年の渋い男性を思い描いていたのに、手を挙げて合図した相手は、まだ二十代初めくらいの青年だった。

 縞のシャツに白色のニットなどを合わせ、顔つきは線が細く中性的。同性の目でも分かる、いかにも爽やかな好青年といった感じだ。

 目が合えば、白城が歩み寄ってくるのを認める。けれど奇妙なことに、一人がけのテーブルで彼は既に微笑さえ浮かべて喋っているように見えた。一体どういうことなのかと悠花がいぶかしむのも数瞬で、よくよく見れば耳に付けたイヤホンマイクで誰かと通話しているらしかった。

「あれが前に言った情報屋だ」

「――じゃあ、また直ぐに。よろしく」

「相変わらず忙しそうだな、沙月」

 通話の終わりを待つか待たないかというタイミングで白城が声をかける。沙月と呼ばれた青年は寸分の狂いもない笑みを浮かべて、

「そういうシロさんは相変わらず暇そうだね。って、あれ。知らない子がいる」

 青年の目が白城の傍らの少女に留まる。悠花は白城の背後で萎縮し、やっとの思いで小さく頭を下げた。

「隠し子? それとも恋人?」

「残念ながら助手だよ」

 呆れた心情を隠すこともなく、溜息を吐き出す。

 白城は振り返り、ポケットから両手を出すこともなく顎で示した。

「こいつが沙月だ。雨原沙月」

 名前を呼ばれて、再びにこりと微笑む沙月。

 悠花は軽々と言葉を交わす二人を交互に眺めていた。少なくとも悪い人ではなさそうだ。ただし、もしかしたら怖い人なのかもしれないとは気構えしながら。

「はじめまして。キミは何ちゃん?」

「答えなくていいぞ。からかわれるのがオチだからな」

「僕だってかわいい子を虐げたりしないよ」

 まぁ、苛めたりはするかもしれないけどね、等と付け加えるので、益々白城の表情が不快そうなものに変わる。けれども彼のそれは旧知の仲の相手に向けられるものだと見て取れたので、悠花もまた不必要に困惑することもなかった。

「遠野悠花です」

「ハルカちゃんか。可愛い名前だ。よろしくね?」

 あまりにも自然に褒めるので、つい視線を逸らしかける。けれどそれが失礼なことだというのは、あまり物を知らない悠花にも分かった。だから懸命に、よろしくお願いします、と頷き返して。

「それにしても、まだ若いのに。大変だったね」

 直前まで白城を茶化していた彼の、色素の薄い目が僅かに細められる。

 つられて微笑みかけていた悠花は表情を正し、いえ、と口の中で答えた。それから控えめに白城の顔つきを窺う。

「そういうしみったれた話は後にしろ」

 懐から引き出した紙の箱から一本を取り出す。沙月の向かい側、オープンテラスの一角にどかりと座る白城の姿は、なんだか不似合いだった。おまけに屋外とはいえ分煙スペースである。沙月は、今度こそ困惑の眼差しを彷徨わせる悠花へ着席を促し、

「とりあえず、15分なら」

 あからさまに白城が怪訝な顔つきになる。これには肩を竦めた。

「待ち合わせなんだ。僕だって忙しいんだよ。来週にはゼミの中間発表があるし、そろそろ就職活動だってしなきゃいけない」

 沙月の背後に立ったままだった悠花には、彼のパソコンの液晶ディスプレイが見て取れた。それから、白いテーブルの上に積み重なった数冊の本。どうやら民俗学らしい。『境界論』と書かれているが、他にも目に止まった単語から察するに――彼岸と此岸の境。

「気になる?」

 思わず拾い読んでいた彼女の思惑を、沙月が遮断する。少女は我に帰り、すみません、と慌てて頭を下げる。

「民俗学だよ。本当はこんなもの、僕の経験で打破できちゃうんだけどさ。ああ、逆かな。余計に複雑になるかな?」

「俺に聞くなよ」

 眉根を寄せながら、ふうっと灰色の息を吐き出す。白城はどうも彼の話に興味がないようだ。けれど悠花はそうはいかなかった。沙月が視線を注いだままキーボードを叩く様子を食い入るように見詰める。

「死者と生者の違いなんて些細なものだよ」

 手を動かしながらも、器用に少女に語りかける。少女が胸の前で僅かに拳を握ったのには気づくこともない。

「物を考えるか、考えないか。自分を大事にするかしないか。心臓が動いているか。魂なんてどこにあるかも見えないのに」

 視界の端で白城がちらりと悠花を確認する。そして相変わらず興味がなさそうに、眼前の煙と共に青年の持ちだした話題を振り払う。

「それより、こっちの話だ。15分しかないんだろう。それとも心の広い沙月サマは時間を延長してくれるのかね」

「――っと、そうだった。じゃああと10分だ。仕方ないから簡潔に、手短に話してくれる? シロさん」

 雨原沙月の笑顔は、どこまでも完璧だった。


 白煙を吐き出しながら、白城は探し人の名前や生年月日などを端的に述べた。

 ごくごく平凡、ありふれた名前、年齢も職業も、とりたてて特異ということもない。日々の生活に疲弊してふらりと姿を眩ました、そんな理由が至極妥当に思える男の話だった。

「以前はしがない会社員で、公私ともに平凡で幸せな生活を送っていたらしい。探しているのは配偶者、つまり奥さんだな。外見は中肉中背、顔つきは少しぱっとしない感じだ。写真がある」

 ノートパソコンのキーボードの上にぺらりと光沢紙を落とす。沙月はそれを打鍵の邪魔にならない場所までスライドして、数秒の間だけその『顔』を眺めた。

「詳しい素性は必要か?」

「いや。ああでも、出身地や戸籍元くらいは分かったほうが手っ取り早いね。あとは、死因?」

 それには一枚のルーズリーフを渡し、それを見ながら沙月は情報をパソコンに取り込んでいく。

 一方悠花は、青年の指さばきを興味深げに眺めていた。結局情報屋と同じテーブルにつくことはなく、かといって周囲に開いた席もないので、短時間であれば起立したままで充分だと判断したのである。

 元々、パソコンをはじめとした電子機器は不得意だった。だから沙月のように様々な端末を使いこなす人間を見れば、目を奪われずにいられない。それに気づいてか否か、タイピングの音もしないほど滑らかに文字が並んでいく。

「どれくらいかかりそうだ」

 互いの顔を見ることもないまま。運良く悠花の立ち位置からは、並木通りから向いた白城の視線と、軽く頷いた沙月の様子の両方を見て取ることができた。

「そうだね、これだけ派手なら3日もあれば充分かな。ただ、さっきも行ったようにゼミの発表が控えてるから、それも踏まえて1週間は欲しい」

 沙月が写真とルーズリーフをまとめて突き返す。

 知らずのうちに詰まらせていた息をふっと吐けば、その様子を偶然眺めていた白城がにやりと笑う。嗜められたように感じて、悠花は肩と背中とを萎縮させる。

「時間なら、いくらでも。ただ、あまり遅いと手遅れになりかねない」

「そこは重々承知だよ。だから、1週間以内だ」

 ほぼボランティアなんだから承知してよね、と笑顔を浮かべる情報屋。すっかり毒気を抜かれたのか、白城は伸びっぱなしの爪でがりがりと頭を掻いた。



 それでも、時間をかける価値がある程には彼の情報網は完璧だった。これまでの経験と実績。白城には真似できない、彼の性格と立場に強く裏打ちされた『結果』が開示される。

 柱に括られた時計を見あげれば、先刻タイムリミットを譲渡した頃から既に10分が経過していた。

 悠花は落ち着かない様子ではらはらと並木通り人の波を見た。沙月に対して合図を送るものはいないか、待ち合わせの相手が来るのではないかと、当の本人がまったりとカプチーノを味わう様子を盗み見る。

 と、沙月のイヤホンマイクのスイッチが光を発する。沙月は彼らとの会話中もずっとそれをつけたまま過ごしていた。時折点滅していたのを見ると、彼が忙しいのは事実で、もしかしたら白城達に申告している以上にスケジュールが詰まっているのかもしれなかった。

「あ、もしもし。――うん、分かった。いつもの場所にいるから」

 今回は僅かに2、3言葉を交えて終話する。それから、そろそろ時間切れかな、と腕時計を眺めて顎を引いた。

「それにしても、こんな人についてていいの、悠花ちゃん。随分と振り回されてるんじゃない?」

「……また蒸し返すのか」

 積み上げた古いハードカバーの本をきびきびと閉じながらも意欲的に叩鍵する。少女が首を傾げる姿は可愛らしく、対して白城の方はと言うと、煙よりも苦虫を噛んだが如き表情。

「だって、どう考えても変でしょ。生産的じゃない。こんな冴えないおっさんのとこに居て、やることがこんな幽霊探しなんて」

 花壇の片隅で吸い潰された吸殻。マナー違反だとは思いつつ、彼らにそれを正す力はなかった。

 遣り方を茶化されたとしても怒りなどは覚えもしない。

「生産性なんて最初っからねえんだよ」

 代わりに、言葉は独白や懺悔にも似た響きで、もう一本に火をつけた白城の顔つきに苦笑を溢す。

 反対に沙月は眉を下げてみせた。

「もし嫌になったら言うんだよ。僕で役に立てるかは微妙だけど、協力はするから」

 本気なのか冗談なのかも判別しかねてしまう穏やかな目元と口元。謎めいた感情、どちらかと言えば、同情よりも励ましの言葉に聞こえた。

 これに対する少女の『意志』はいつからか強く定められていた。

「いえ。私には他に行く場所もないですし。それに」

 心配してくれる沙月の言葉を捕まえて、いままでの自分の生活を振り返る。事務所のこと、外での仕事のこと、留守番のこと。自分を取り囲む世界のこと。いつだってそれは悠花を穏やかに甘やかして。

「それに、白城さんは親切ですから」

 そして、その筆頭は誰あろう白城史朗その人に他ならない。

 本心から訴える微笑。疑うこともなく信頼している表情。独りよがりの思い込みなどでは決してなかった。彼女にとっては絶対的な現実。いまいる世界こそが、遠野悠花の辿り着いた場所なのだ。

「そっか」

 悠花が思うよりもずっと簡単に沙月は頷いた。もしかしたら、最初から返ってくる答えを知っていた――確信していたのかもしれない。彼女の本心を所在を、彼女の瞳の中や僅かな口元に見出しながら。

「それならいいんだ。でも、愚痴ならいつでも聞いてあげるからね」

 余計なお世話だ、と溜息と共に、悠花の代わりに自ら名誉を挽回する白城。沙月の、にこりというよりもニヤリと形容出来る笑みにつられて、思わず一笑に付した。


 彼の連れが悠花達の視界の隅に映ったのはその直後だった。仕切り代わりにテラスを囲う植え込みの向こうで、こちらに手を上げる、沙月と同年代くらいの青年の姿が見えた。

「いたいた、慧!」

 応えるために片手を上げ返す沙月を、悠花は不思議そうに眺める。

「確か、沙月って名前じゃ」

 ノートパソコンの蓋を閉めて立ち上がる青年。彼はなんでもない事のように頷いて、それから秘密を隠した微笑で顔の前に人差し指を立てた。

「それは仕事用の名前。厳密に言えば、昔の名前なんだ」

 こんなにも綺麗にウインクを決める生身の人間がいるとは思ってもいなかった。


 +


「さて、こっちはこっちで、情報を集めないとな」

 錆びの目立つ事務所の扉を、まるで何日ぶりかという思いで引き開ける。

 相変わらず紙の溢れた部屋。それも古新聞や、昔に扱った『事件』の記録媒体ばかり。本当は捨ててしまって構わないものばかりだけれど、もう何年も片付かないでいた。

 悠花が此処に来てからも日々目にしている光景は変わらない。スチール棚や書類ラックに形ばかりも整理されたものたち。使っていない事務机の上に重なったファイル。けれど、それに不必要に触れることはない。彼女は彼女なりに弁えているのだ。

「とはいえまずは小休止だ」

「はい」

 白城が新聞の一部を手に取ったのを見て、悠花は給湯室へ向かった。珈琲を入れるのは彼女の仕事だった。サイフォンにフィルターをつけて、豆を計る。深い暗褐色が綺麗に出るのを待ち、彼の愛用のカップに一杯を注ぐ。

 丸盆を抱えて事務室を見渡せば、白城は来客用ソファの背の側に腰を預けて棚の新聞を漁っていた。先刻の新聞はテーブルの上においたまま。悠花は少し考えて、事務机の横を回って彼の居るソファへと近づいた。

 いつもの彼女なら、こんなに手狭な動線であっても難なく掻き分けて通れるはずだった。計算違いだったのは、悠花が自分の異変に気づいていなかったことだろう。頭痛を覚えるのは久々で、同時に慣れた感覚で。その痛みが意図するものが判らなかった。

 「珈琲を」と口に出しかけた瞬間、重く引きずった左足を、床に積み上がっていたファイルに阻まれる。上手く避けることが出来なくて、戸惑って手をついた机の上にまた別のファイルがあった。

 滑り落ちる紙の束。頼みにしていた先が崩れて、重力のベクトルに従って体が傾いだ。

 とっさに両目をきつく閉じた。なのに、覚悟していた床の冷たさも紙に埋もれる感覚も訪れない。代わりに少女の鼓膜を震わす穏やかな声。


「大丈夫か、ハル」

 開きなおした瞳の端で捉える、床に転がったマグカップ。

 散らばった古新聞。右肩と腰の辺りに、苦しいくらいの圧迫。煙草の匂い。

「あ……はい。すみません……」

 やんわりと開放されて、自分を支えてくれたのが白城だったのだと気づいた。

 消え入るような返答に、前髪に隠れてしまった表情に、白城が苦笑を溢す。それから、あーあ、と息を吐いて、

「珈琲、せっかく淹れてもらったのにそっちまで手が回らなかった。ごめんな」

「そんな、私が、ぼんやりしていたから」

 振り仰ぐ薄い色の瞳。ふるふると揺れる肩にかかった髪。少女は小さな背を向けて、

「すみません。いま片付けます」

「いいよ、俺がやる。それより、あちこち引っ張りまわされて疲れてるんだろう」

 布巾を取りに帰るその肩を捕まえて、落ち着かせる。声をかければ、悠花は不思議そうに見上げてくる。

 けれどその目は、やはり緩慢で重たそうで。

「そんなこと、」

 一瞬だけ合った視線が離れたので、言い聞かせるように覗き込んだ。捕まえていた手を放す。ゆっくりと繰り返す瞬きと、深めの呼吸。それが疲労だと、悠花はまだ理解していない。

「ほら。瞼、重いだろ」

 気まずそうにまた視線をそらそうとするのを、ふっと微笑んで留めた。それでやっと納得したのか、明らかに根を詰めていた肩を漸く下ろした。

「少し休め。俺はまた出てくる。何か困ったことがあったら灯と連絡を取れ。いいな?」

 幼子にするように頭を撫でてやる。嫌がられるかと思ったが、良いようにされているようなので、そのまま二度三度と繰り返した。そうすれば、撫で付けるリズムに合わせて更に瞼の動作が遅くなる。

「白城さんは……?」

 生理的な意志に抗うようにして声を絞り出す少女。そうしていれば本当に年齢よりもずっと幼いように思えて、白城は一層声の響きを優しくする。

「すぐ戻るよ」

 無言で頷いた様子を見守って掌を離す。ちらりと見上げ返された瞳が不安そうにも見えて、もう一度手を伸ばして微笑んだ。



 薄暗い世界にも朝はやってくる。

 正しい時間の流れは定かではないが、腕時計の時間を頼ればもう事務所を出てから二日半は経過している。

 結局浪費したのは時間だけで、身内から聞き出した情報も、探し人の立ち寄りそうな場所も、四方巡ってみてはいたが成果は上がらなかった。本当は助手の少女がいないうちに片付けようと思ったのにやはり簡単に上手くはいかない。大人しく情報屋が目星をつけるのを待っていた方が早いかもしれない。

 地下鉄を出て路地裏を進む。大通りより近道ということもあるが、何より通り慣れた道だった。昼を過ぎたばかりだというのにビルの合間は暗くて、どうかすると掠れたネオン管などが早々に店の名前を縁取っている。

 旧年代の遺物のような店構えと背中に板を張り合わせて客を呼ぶ男。身体のラインが如実に浮かぶ、煌びやかな衣装に身を包む女達。そのうちの顔馴染みが目敏く白城の姿を見つけては、通りの反対側からも快活な声を上げる。


「シロさーん、寄ってかないんですかぁ」

 体をすっぽり包むコートと、ネイル。顔を集めて談笑していた数人が手を振って寄越す。それに片手で遠慮を示して、

「悪いけど、いま忙しいんだ。またまとめて稼いだら遊びに行くよ」

 絶対ですよぉ、と残念そうでもない笑みで、きゃらきゃらと手を振る女達。この辺りはとりわけ昼夜の区別などあってないようなものだ。

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