忘却の街 -Moratoriums-

朝斗

第1話 ネクタイ

 聳えるビルはどれも暗い灰色で、それが大地を埋め尽くす所為で世界そのものが褪せた色で形成されていた。

 天上から覗き込めば箱庭のように、でなければ、時折細く差し込む光はまるで海中で、空を平行に覆う雲が水面だとしたら横切る鳥は餌を求める魚の群れ。底に沈んだ石碑からゆるゆると色の溶け出した、それがこの街の成れの果てだった。


 その石碑、つまり外装の剥がれたビルの一つ。地上五階の事務所の扉を蹴破る勢いでパンツスーツの人影が入ってきた。後頭部で器用に纏めた赤めの髪と、色つきフレームの眼鏡。職場からそのまま抜け出してきたと言わんばかりの出で立ちは、煤けた部屋には不似合いだった。

「相変わらず汚い部屋ねぇ」

 書類なのか紙屑なのか判別のつかないもので溢れた棚と机。応接用のテーブルの上にまでそれは積み上がっているせいで到底接客には向かない。扉を開けた反動で雪崩れた山の端をひとつ拾い上げながら、客人は溌剌と声を張った。

「シロ、いる? いるわよね?」

 光源も少なく、薄暗いままの部屋。しかし反応があった。埃の舞い上がる光の中に紙の擦れる音がして、また別の声が答える。

「相変わらず、うるさい奴だ」

 返事をしたからには彼がシロという人物なのだろう。男はとても億劫そうで、その証拠に、読み耽っていた新聞から目も上げない。互いの態度にも慣れているらしい、交互に眉を顰めて見せはしても、取り立てて気分を害する訳でもないようだった。

「随分な言い草。どうせ暇だろうと思って仕事持ってきたんだけど」

 新聞のスクラップらしい紙の束を手近な山の頂上に乗せた。山は絶妙なバランスを保ったまま、すぐ脇で女が仁王立ちしても再び潰えることはなかった。

 反対に二人のやり取りにはらはらしているのは、部屋の隅に居た少女だった。自分用に宛がわれた事務机でパソコンと格闘していたのを中断して、突然の来客と上司の言い合いに明らかに顔色を変えている。元々高くない背を更に萎縮させ、そのまま紙束の影に埋もれてしまいそうだった。

 その姿に気付き、女が明るい声を発した。

「あら、助手さん? やっと雇ったのね」

 視線が自分に向けられて、脅えながらも会釈を返す。それが精一杯だった。ふわりとしたシルエットのワンピース。淡い色合いも兼ね合って、いまにも消えてしまいそうな儚さがあった。

「かわいい子じゃない。あなた、お名前は?」

「あ……悠花、です」

「ハルカちゃんかぁ。名前も可愛い! はじめまして、あたしのことは気軽にアカリちゃんって呼んでね」

 アーモンド形の瞳が揺れる。薄桃色の唇が恐る恐る開くのを庇って、シロがぱたぱたと腕を振った。

「あんまり吠えかかるな、脅えさせるな」

「本っ当、お客に優しくないのね」

「身内と依頼人には優しいさ」

「だから依頼だって言ってるでしょ。はいこれ、ユーレイ探し」

 眼前に突き出されたのはB5サイズのがさついた紙と一枚の写真だった。自分が持ってきた仕事だというのにそれ以上の説明はなく、仕方なくシロが自ら目を通すことになった。

 藁半紙のほうは尋ね人の張り紙のコピーで、写真は白黒でバストアップの人影が幾分か鮮明に映っている。

 男の左手が灰皿の喫い掛けを探る。銜えざまに引き出しの上段から100円ライターを取り出せば、忽ち彼の輪郭を紫煙が包んだ。

「って、また厄介なのを……これ、どう考えても向こうに行ってんだろ」

「迷い人なんてそんなもんでしょ。ミレンばっかりあって、自分では帰れない」

 彼の目が同情を含んだまま、写真の男に注がれる。屈託なく微笑んだ口元が、余計にもの悲しさを感じさせる。

 光沢紙の表面を灰色の煙が撫でる。

「浮かばれないねぇ。可愛そうなのは誰だってな」

「どうせ暇なんでしょ。鈍らないようたまには運動したら?」

 意地悪く、それでいて妖艶にその口角を引きつらせる。かちり、アメジスト色のフレームを押し上げて。

 一方の男、シロは相変わらず苦笑めいた溜息を零すばかり。

「そうだな――格好の暇潰しだ」



 着古したスーツ、不釣合いの真っ白なシャツ。彼の私服であり仕事着であり正装だった。革靴も擦り切れてボロボロ、頭もかろうじて櫛を通してあるものの、整髪料や何やらで整えているようには見えない。

 首元にネクタイはない。助手の少女が此処で世話になってからいままで、ネクタイを締めている姿などは一度も目にしていないだろう。男にとってはそれが正しかった。ネクタイにしろマフラーにしろ、首に巻きつけるものは好きではない。人間の中には身が引き締まるだとか気持ちが切り替わるだとか言い訳をつけているが、シロにすればただ息苦しいだけだった。同じ理由で腕時計も外している。お陰で彼のポケットには常に煙草の箱と目薬と腕時計が陣取っている。外出する際には此処にライターが混じる。

 アカリの帰った部屋には再びシロと助手の少女と静寂が残った。その静けさは風圧で回る換気扇の音さえ打ち消して、けれど空気感は男には落ち着けるものだった。

 煙草の先を潰し直すまでに余り時間は要さなかった。空いた手で新聞を畳み、まだフィルムを開けていない箱を引き出しの奥から引っ張り出してポケットに押し込む。その間も少女は緊迫した面持ちで、もしかしたらさっきのアカリの件で驚いたままなのかもしれないと、気に留めることもしなかった。

 けれどそれが見当違いだったと、シロは直ぐに気付く所となる。


「じゃあ、ちょっと行ってくる」

「あ、あの、白城さん」

 男の言葉にほとんど食い掛かる勢いで声を上げた。それはシロの動作を一瞬止めるだけの威力を充分に持っていた。もしかしたら、今日になって初めてその呼び声を聴いたかもしれない。否、灰色の空では昼夜の基準など時に曖昧になるのだが。同時に、その声は充分に聴きなれていて、今更鼓膜に届いたとしても不快な思いにはならない。

 意外だったのは確かだった。少女がこうも必死に呼び止めることなどなかったから。いつもより少し大きな声で男の名を呼んで、その割には二の句を探しかねて、勢いで立ち上がったままそわそわと自らの袖の引っ張っては正した。

「その……あの……い、いってらっしゃい」

 やっと絞り出したのがその言葉。明らかに途中で諦めたとしか思えない、ふいにしゅんと下がってしまった両肩。そう、確かにちらちらと様子を窺う視線に気づいてはいたが。

 だから、座り直すことも出来ないままの小さな体を見遣って。どことなく泣き出す手前の迷子でも見ているような気持ちになって、自分でも驚くくらい優しい声をかけた。

「一緒に来るか?」

「いいんですか?」

 ぱぁっと桜色に染まって見えた両頬に、くすりと笑い返して。

「いいも何も。お前は俺の助手だろ」

 それから勿体付けて、ああ、いや、と煮え切らない態度を演出してみる。

「それに、そろそろ俺の仕事を見てもらっていい頃だろう。勿論、お前が来たければ、だけど」

「行きます。行きたいです、一緒に」

 人形みたいな両手を懸命に握り込む。ぐっと意気込んでは、さっきまで彷徨わせていた瞳でシロを見上げた。

 益々少女を可愛らしく思う。心を開き出した小動物のようだ。それではさしずめ迷い猫だろうかと可笑しくなる。もしかしたら自分は猫派だったかもしれない。確かに庭先でしゃんと背を伸ばす犬よりは、素知らぬ表情のまま道端で丸くなっている猫のほうが好ましく思える。

「はぐれるなよ?」

 分かりきった忠告にも機嫌を損ねたりしない。あっという間にぱたぱたとシロの傍までやってきて、そわそわ出立を待ち焦がれている。

 加えて、はい、と優雅に頷く様子は、少なくとも雑種には見えなかった。



 埠頭の倉庫街というものは、どこまでも探偵らしい場所だとつくづく思う。

 誰から教わったということでもないけれど。閑散とした灰色の海、カモメの声、貿易船の汽笛。どれもが霧に隠れて曖昧で、まるで少女自身の存在さえも背景の一部になってしまったかのような、それでいて何もかもを一歩後ろから眺めている第三者の感覚に陥る。

 ここが、白城の場所なのか。

 潮風で錆びたシャッター、薄く紗のかかった硝子窓。剥き出しの鉄筋。終焉の地と形容するに相応しい光景だった。生きているものの気配が、とても薄い。

「ハル?」

 直接声が響いて、悠花は瞬きを繰り返した。途端に波の音が近くなって、自分の足元がコンクリートだということを思い出す。

「あ……すみません。少し……ぼんやりしていました」

 素直に答えると、にっと快活な笑みで頭を撫でた。数瞬前まで見詰めていた筈の白城の両目は既に物思いに耽ってはいない。もしかしたらそれ自体悠花の思い過ごしだったのかもしれない。

「そろそろ行くか」

「はい」

 吐き出された白色の煙に視線を奪われながら。

 残念なことに、海風の塩辛さを感じることまでは出来なかった。



 繁華街までは僅かに十数分。交通機関を使えばもう少し早く辿り着けただろうが、幸いにして時間は充分にあるのでのんびりと足を運ぶことになった。

 海の気配が遠くなるにつれ、人の生活の気配が強くなっていく。駅の近くまで行けばアーケードに溢れる大勢の人々を目にすることになり、散見されるセーラー服の少女達は、誰彼も笑いながらお喋りに花を咲かせている。

 楽しげな表情に思わず目を奪われていると、隣を歩く白城が彼女に尋ねた。

「この辺は初めてか」

 悠花は僅かに思案したあと、戸惑いがちに首を傾げた。

「見覚えはないように思いますけど」

「ハルは高校生だったんだよな」

 その左手がポケットを探っているのを見つけて、歩き煙草はよくないですよと窘める。そうすれば白城は観念したように両手を上げてみせる。

「はい。でも、知らない制服ですね。やっぱりこの辺りは私の住んでいた場所じゃないのかも」

「そうだな。ハルくらいだったら覚えてるはずだもんなぁ」

 すれ違う人にぶつからないよう器用に人の波を掻き分ける。置いて行かれないように、ぴったりと彼の横に付き従う。

「お前、俺のとこに来てどれくらいになるんだったか」

「まだ半月くらいでしょうか」

 そんなもんか。と、意外そうに眉を上げるのは白城だった。

「なんだか随分長いこと一緒にいる気がするな」

 通りかかったカフェのオープンテラスにも窺える、テーブルを囲んで談笑する少女達の姿。こちらは制服姿ではないけれど、やはり年の頃は十代半ばというところだ。

「お前も少し前までは、ああして過ごしてたんだもんな」

「……そんなことは」

「ん?」

「ああ……いえ」

 嘆息に似た呟きは悠花の耳にも届いた。見上げれば視線は真っ直ぐ道の先を見るばかりで、既に悠花のほうを眺めることもない。

 表情は穏やかだった。普段通りの白城の姿。けれどよくよく注視すれば、眉の端が僅かに下がっている。それは一種の癖なのだと、悠花はもう知り得ていた。

「けど、惑わされるな。意識を取られすぎるな。帰れなくなるぞ」

 悠花は咄嗟に掌で胸元を抑えた。そんなことをしなくとも、もう痛むことはないのに。

 電光掲示板の示す昼下がりの時刻。賑わいを増す街の中心地。その只中に紛れる二人の姿など、行き交う人々の誰も気にかけたりはしない。

 カチリ、また新しい生の時間が刻まれる。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る