偽天使のバラッド ~偽りの消失点~

南枯添一

第1話

 ビルは海に向かうくさびのようだった。8階建ての屋上には何もなく、一辺50センチほどのタイルが一面に敷き詰められていた。タイルは純白で目地は黒。碁盤の目のような黒い目地は屋上全体に伸びていた。陸側の隅にある階段室を出て、海側を見るとき、目地の描く黒の直線は屋上も何も、全てを突き抜けて、海の上にある消失点まで一気に伸びているように見えた。

 空はよく晴れているのにくすんだ青で、海は深い群青だった。いつもの夏の空と海だった。その手前に少女がいた。華奢な体型を黒のコートでくるんでいて、実際より長身に見えるタイプだった。時折、端正な横顔が見えた。

 礼子は黒いコートの少女に近づいた。麻製のようだが、さすがに暑くはないのだろうかとふと思った。コートとシャツは男物だし、化粧っ気は全くなく、長い髪も首の後ろで束ねただけだった。それでも〝偽天使〟は充分すぎるほど美しかった。むしろ、白のレースなど着込まれたなら、羽根など付いていなくても本物に間違われてもおかしくない。

 そして、そうしたことが礼子には疎ましかった。何の手も加えていない、素朴で生まれつきの美貌などというものは、礼子に言わせればまがい物だった。女の美貌は作り物でなければならない、と礼子は考えていた。まがい物だからこそ価値があるのだ。その意味で偽天使はまがい物のまがい物だった。

「すごいですね。目地が全部側壁と平行してるみたいに見える。縁のところでタイルを割ったりしてない」

 振り向いて偽天使は言った。

「祖父のわがままで無駄なお金がいっぱい掛かったって」礼子は言った。「とうさんがぼやいてた。無意味な金の使い方だって」

「おじいさんは立志伝中の人なんでしょう。街の小さなタイル工房の職人から、こんな本社ビルを構えるまでに会社を育て上げたって言う」

 礼子はそんな話に興味はなかったから、答える代わりに、今いる位置から陸側に少しずれた位置を指さした。

とおるが死んだのはそこ」

 その日も今日と同じような空だった。亮もやはり暑くないのかと思える、昔の映画に出てくるギャングのようなスーツを着ていた。そのジャケットの裾で、背骨のところでパンツに斜めに差し込み、ベルトに引っ掛けてあったリヴォルヴァーを隠していた。

 同じような空でも、今日より日差しは強かった。帽子の鍔が造る影で、額に浮かべた汗を隠した亮は、息を溜めるようにしてフッと笑い、いきなりジャケットの裾を両手で払った。そして、裾が落ちる前に、左手を背中に回すとリヴォルヴァーを引き抜いてみせた。そして、まるでジャグリングでもしているかのような仕草で、左手から右手に銃を持ち替える。

 亮はずっと笑っていてし、ふざけているかのような仕草だった。けれど、礼子には亮が真剣だと言うことが分かっていたし、彼を止めるには飛びつくしかないと思っていた。けれど、それには少しだけ、亮は遠すぎた。

 最後に亮は銃口を自身のこめかみに向けた。

「その日、わたしは始めてこのビルに来たの。亮がここへ来たいって言い出して。そうでなければ、こんなところにわたしは来てない。今日が二度目よ」

「へえ」

「亮が自殺をして、祖父はひどく怒ったわ」

「まったくです。命を粗末にしてはいけない」

「自慢のタイルを汚したって」

「ああ」偽天使は一瞬、毒気を抜かれた様な表情になり、「そう言えば、コルトの38口径。そんなものを日本で、どうやって手に入れたんだろう」

「ブラックマーケットで手に入りやすい、ちゃちな東南アジア製のおもちゃなんかで、彼は死ねなかったのよ」

「ああ、そうか。彼はその手のこだわりがあるタイプでしたね」

 そう、車でも、スーツでも、靴でも、時計でも。

 けれど、そうしたこだわりを周囲の人間は理解しなかった。彼のうんちくなど誰も聞いていなかったし、嘲ってさえ無駄だった。彼が「田舎者」と罵声を浴びせても、むしろ可哀想な人を見る目が返ってきた。

「死は平等です。意味が違うか。でも、お金を残しといてもしょうがないって考え方はあるかも」

 礼子は〝偽天使〟を眺めた。

 彼女のホントの名前は冬瀬滴ふゆせしずく。彼女は去年の夏、当時通っていた女子校で暴力事件を起こし、クラスメートを一人死に至らしめた。結局、正当防衛がどうこうで、刑事罰は受けなかったものの、学校の方は退学になった。その後、何を思ったのか、彼女は〈私立探偵〉の看板を掲げて営業を始めた――。

 友人の妹が、冬瀬滴が退学になった高校に通っていて、そんな彼女のプロフィールを礼子に教えてくれた。けれど、女子高生探偵などという、ラノベの登場人物じみた存在に、亮は何の用があったのか。礼子には疑問だった。

蔵内慎次くらないしんじを知ってる?」滴がうなずくのも待たずに礼子は続けた。「亮は蔵内を調べてくれってあなたに依頼したのね?」

「ちょっと違いますね」

「違う?」

「一応わたしにも守秘義務の意識はあって、依頼を受けたのなら、ノーコメントを貫きます。蔵内さんは昔みつぐさんのところへ出入りしていた時期があって、顔見知りなんです。亮さんはわたしに、蔵内さんへの伝手つてを求めて来ただけです」

「蔵内への伝手…」礼子はふと顔を上げ、「貢さんって、思想家の冬瀬貢?あなたの…父親だって言う」

 礼子はわずかにだが、言いよどんでしまった自分に苛立った。偽天使が冬瀬貢の私生児なのは有名だったからだ。その手のゴシップに興味があるような人間だと、偽天使に思われてしまうのが嫌だった。

 けれど、偽天使の方は気付いた風も見せずに「ええ」とうなずいた。

「一時期ほどではなかったそうですが、晩年まで貢さんの元にはいろんな人が出入りしてましたから。蔵内さんは傍観者タイプかな。貢さんの周りにいた人たちって、やはり生真面目で、熱い感じの人が多かったんですが、そういう人たちを少し離れた位置から、斜に構えて見てるって言う。その手の人たちって、自分が賢そうに見えるはずだって、勝手に思い込んでるんですけど、案外そうでもない。むしろ、トンマに見える。で、そのことを理解すると離れてく……逃げ出すんですけど、蔵内さんもそうでした」

「そうね。あの人らしい…」礼子はつぶやいた。

「亮さんは、どういうルートからかは知りませんが、蔵内さんに紹介して欲しいと言って、わたしの元へ現れた。でも、礼子さんには今更でしょうが、面倒くさい人で。事務的にやれば2分で済むことが半日掛けて終わらない。自分が何をしたいのか、なぜしたいのかを言葉にするのが恐かったのかな。果てはアリョーシャに絡んで、のされたんです」

「アリョーシャ?」

「わたしが行きつけにしているカフェの店員です。ロシア人じゃありませんよ。カラマーゾフの末弟から、わたしが付けたあだ名です。アリョーシャが強いのか、亮さんが弱いのか。亮さん、殴り合いよりワイズクラックを叩くのに忙しくてね。余計なおしゃべりに気を取られてる隙に、目の覚めるようなの2,3発もらって、あっさり、のされた。あげくは、店の前の掘割りに放り込まれて、『一つだけ忠告してやる。殴り合いは黙ってやれ』って。その一言しか言わなかったアリョーシャの方がよほど決まってたのは、さすがに気の毒でした」

「……いきがってはいるけど、殴り合いなんてしたことのない人だから」

「普通はそうですよ」

「それじゃあ、蔵内に会いたがった理由は結局、話さなかったの?」

「はっきりとは。でも想像はできます。あの二人似たもの同士だったから」

「似たもの同士?」

「よく分からないこだわりがあって、よく分からないことでいつも苛立ってる。昔、日本が豊かだった頃は、社会のレールに乗っかる前に、通過儀礼的に社会に刃向かってみせるのが割と一般的でした。レールなんて何処?のわたしの同世代なら、甘ったれやがってふざけんなって言いますけどね。それで、時々、レールへの戻り方を忘れてしまう輩が出てくる。蔵内さんはまさにそれです。亮さんも同じでしょう。今時珍しい」

「亮は来年卒業したら、お父さんの会社に入ることになってた。そして、お父さんの跡を継いで、将来は二代目社長になることを期待されてたのよ」

「そして、礼子さんと言う美しいフィアンセまでいる。なるほどね。そういう自分のくっきりとした未来図が、むしろ彼には息苦しくて、うっとうしい。けれど、そんな贅沢な不満を訴えたところで同世代の共感なんて得られるはずがない。亮さんが荒ぶるほど、周囲はしらける」

「可哀想な子を見る目で見られてたわ。でも、それでどうして、亮は蔵内に会いたがったの。レールへの戻り方を教えにもらいにいったとでも?」

「人の話を聞いてませんね。そんなことを蔵内さんが知ってるわけはない。蔵内さんはいつかはレールに戻ることを前提に荒ぶるなんてイケテない、だから戻らないなんてことをしたらどうなるかの実例です。あなたも知ってるんでしょう?あのとっちゃんぼうや」

 〝分からない〟と言ったときの蔵内が礼子の脳裏に浮かんだ。

 最後に会ったときのことだ。礼子はなぜ自分と寝たのかを尋ねた。蔵内はそう答えた。自分を好きかと礼子は更に訪ねた。分からないを蔵内は繰り返した。

 そこそこ精悍な彼の横顔を見て、礼子は悟った。この男にはそれしかないのだ。この歳になって、未だ自分が何をしたいのか、なぜそうするのかさえ分からず、分かろうともせず、むしろ、それが格好いいくらいに思っている。おそらく、彼が若い頃は本当にそれは格好がいいことだったのだろう。そして、今も、その決めフレーズを、そこそこ決まったポーズで口にすることしかできないのだ。吐き気がした。

「貢さんもそうですが、貢さんの周囲に集っていた人は社会のアウトサイダーが多い。蔵内さんもアウトサイダーのつもりだったから、貢さんの元へ顔を出していた。でも、違うんです。アウトサイダーって、結局、別のタイプの日常を生きるだけのことです。日常ですからイケテるわけはありません。そいうのは蔵内さんにはお呼びじゃないんです。蔵内さんには格好だけが重要なんですから。でも、よくある人生相談風に言うと、人生なんて格好悪いことに決まってます。故に格好いい人生なんて定義矛盾みたいなことを言ってると、何もかもが彼を素通りしていく」

「あなたはわたしの質問に答えてないわ」

「ああ、そうでした。箱庭みたいな人生設計図に従うことが嫌だった亮さんは、だから、従わなければどうなるか、を知りたかったんだと思います。蔵内さんは、亮さんにとって未来の亮さん自身だったんだと、わたしは思ってます」

「それで、蔵内に会って亮は……」

「絶望したんでしょう。今の生き方で突っ張り続けたら、自分もこうなるしかないと思ったら」

 礼子は首を振った。

「今更、お父さんに頭を下げて会社に入れてもらうのも、負け犬みたいで格好悪い。かと言って、今みたいな生き方を続ければ、待っているのは蔵内みたいな、ポーズだけの張りぼての人生。まるで八方ふさがり。だから?だから、亮は自殺したって言うの?」

 偽天使は肩をすくめた。彼女を見つめたまま、礼子はハンドバッグに手を入れた。

「そんなことで、人は自殺なんかするかしら。偽天使さん」

「しないでしょうね。少なくとも亮さんの場合は違う」

 礼子は偽天使を無視した。

「わたしね。蔵内と寝たの。婚約者の裏切りって、自殺の動機にならないかしら。それにね、そのことを亮に知らせたのって、あなたじゃない、偽天使さん」

 礼子はハンドバッグから抜いた手を真っ直ぐ偽天使に向けた。彼女を突き抜けた位置に鈍い青の海と、その上の消失点があった。金メッキが日の光を反射して、きらりと光った。

「違いますよ。彼はそんなことぐらい、とっくに知ってました」偽天使は驚くふりさえ見せずに言った。

「亮さんは蔵内さんと接点が無い。どうして関心を持ったと思うんです?あなたが彼と寝たからです。亮さんは礼子さんの人を見る目を信頼していたんです。自分のような生き方でも貫けば、蔵内のようにはなれるはずだ。そして、蔵内はあなたが認める男だ。彼はそんな風に思ったんです。第一、一番手近にいるあなたが、蔵内さんをよく知ってるのに、どうして、彼を紹介してくれとあなたに頼まなかったと思ってるんです?」

「そんなこと信じないわ」

「では信じさせてあげます」

 偽天使はあっさりそう言い、礼子は待った。けれど、彼女はその場に突っ立ったままで、礼子がじれかけたとき、不意に滑るように動いた。あっという間もなく、蹴上げられた礼子の手から飛んだそれは、タイルの上に落ちるとき、またきらめきを放った。

「こんなトコまで昔のアクション映画だな」拳銃型のライターを見て、偽天使は言った。「恥ずかしくなるから巻き込まないでくれますか」

「わたしを信じさせてくれるんじゃなかったの――」

「あれ?まだ分かってないんだ」偽天使が驚いたように言った。「どうして、あんなにあっさりとライターを蹴り飛ばされちゃったと思ってるんです?」

「なんのこと?」

「どうやら礼子さんはおじいさんのビルについて何も知らないようだ。でも自分で言った。おじいさんはこのビルの意味ないところにお金を掛けたって。おじいさんは元タイル職人で、こだわるとしたらタイルです。そして、このビルは海に向かうくさび形、つまり細長く引き延ばされた台形をしています。そう思って、辺りを見回して下さい。変なことに気付きませんか。そう、ビルの側壁とタイルの目地が描くラインが平行になってる。こんなことタイルが単純は正方形ならあり得ない。少しずつ形を変えたタイルを何百だが何千パターンだか用意して、実現してるんです」

「それが。それが何だって言うのよ」

「頭が悪いんですね」と偽天使。「それは単なるタイル職人のこだわりに過ぎませんが、そのせいで、この屋上は遠近感が過剰に出るんです」

「……」

「礼子さんがいる陸側から海側を見ると、実際より少し遠くに、逆だと少し近くに見える。タイルの描くラインが遠近感を強調するせいです。さっき、ライターを簡単に蹴り飛ばされてしまったのも、わたしが礼子さんが思っていたより近くにいたからです。亮さんの場合も同じです」

「同じ?」

「あれは自殺なんかじゃありません。事故です。蔵内さんに会って、さすがに生き方を変えるしかないと思った亮さんですが、踏ん切りを付けるためのイベントが一つ欲しかった。だから、亮さんは死ぬ気なんてなかった。最初から礼子さんに止めてもらうつもりで、あんなことをやった」

「死ぬ気なんてなかった……?そんなはずない。だって亮は」

「亮さんのつもりでは、礼子さんは充分飛びつける位置にいるはずだったんです。でも、あなたたちは二人とも、この屋上の遠近感のトリックを知らなかった。だから、亮さんが思っているより、礼子さんは遠くにいたし、礼子さんは亮さんが実際より遠くにいると思っていた。亮さんが刻みすぎたんでしょう、その結果、礼子さんはぎりぎり一歩が届かないと思って、飛びつくのを諦めてしまった。当てが外れた亮さんは引き金を引くしかなかった。元から死ぬ気がなかったことがばれたら、格好が悪すぎる。それは亮さんには耐えられないことでした」

「そんな下らないことであいつは死んだって言うの」

「もっと下らない理由で自殺する人が幾らでもいますよ。引き留めてくれると思って自殺すると言ったら、誰も止めてくれないから、自殺するしかなくなったなんて、むしろありふれてます。でも、あれはやっぱり自殺じゃなくて事故です。パフォーマンス前に舞台のコンディションをよく確かめなかった故の」

「そんな話をわたしが信じるとでも」礼子はしわがれた声で言った。「信じないから」

「信じようと信じまいと。まあ、解釈の一つに過ぎませんから」

「あなたが、みんな、あなたが悪いのよ」

「へえ。どんな風に?」

「……復讐してやるわ、あなたにきっと」

「御随意に。しかし、礼子さんも面倒くさい人だ。結婚してたら、似たもの夫婦でうまくいったかも知れませんね。周囲は迷惑したでしょうけど」

「そんな、そんな人生なんてバカげてる。そう思わない」礼子の言葉は途中で悲鳴に変わった。

「さっきも似たようなことを言いましたが」と偽天使は去り際に言った。「バカげてない人生って言うのも定義矛盾みたいなものじゃありませんか」

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