ゆきのせかい
森沢依久乃
ゆきのせかい
雪乃は生来体が弱いたちだった。少し無理をすれば、すぐ熱を出してねこんだ。両親は心配して、空気のきれいな町に住む祖父母に、当時八さいの雪乃をあずけた。しかし、十さいになっても雪乃の体はちっともよくならなかった。
今日も雪乃は熱を出した。運が悪いことに、この日はみんな出はらっており、家にはだれもいなかった。冬の、寒い日のことだった。
静かな家の中で一人、雪乃は熱でもうろうとしていた。雪乃にとって熱を出すことはもう慣れっこだ。けれど、そばで手をにぎってくれる相手がいないことは辛かった。
静けさに、辛さに、苦しさにおしつぶされそうになる。雪乃はにげるように、顔を横にむけた。汗でぬれたかみがほおにはりついて気持ち悪かった。
顔をむけた先には大きな窓がある。カーテンが引かれていたが、ちょうど雪乃の前だけ少しだけ開いていて外の様子がうかがえた。
雪乃はぼんやりとうつろなひとみで外を見つめる。いつもと変わらない、窓の外。そのはずだった。
「あ……」
かすれた声が雪乃の口からもれる。
いつも通りの景色に、真白いものが舞っていた。灰色の空からおりてくる、小さなかけら。
――雪。
雪乃がこの目で雪を見るのは、はじめてのことだった。
雪乃は水をすったようにおもたい体を何とかして動かして、ふとんからはい出る。そして、そろりそろりと窓の方に近づいた。一歩進むごとにからだはぐらつくし、ふるえがとまらない。それでも、雪乃は歩みをとめなかった。
窓の前でとまり、そっと手をのばす。かぎを開け、つめたい窓わくに手をかけ、横にすべらせた。とたんに部屋に入ってくるさむさに、雪乃はいっしゅん気が遠くなる。しかし、なんとかふみとどまり、しっかりとやきつけるように目を開いた。
外はいつも以上に静かで、家の中と同じようだった。寒さのためか、人の気配もない。……しんとしていた。
なんだか落ち着かなくなって、雪乃は外にむかって、手をさらにのばした。落ちてきた雪のひとつぶが、雪乃の手にふれる。つめたさがはりのように雪乃の手にささった。あわてて手を引っこめる。手のひらを見ると、そこに白いものはない。どうやらとけてしまったみたいだ。
雪乃は自分の手のひらをじっと見つめていたが、やがてあきらめたように手をおろす。そして窓をしめ、またそろりそろりとふとんにもどっていく。行きよりも足どりはおもかった。
浅いねむりを何度もくり返しながらも、雪乃はずっと外を見ていた。雪ははげしさをましていた。まるですべてを真っ白くぬりつぶそうとしているかのように。それなのに、外も家もこわいほど静かで。
――さみしい。
真っ白で音もぬくもりもない世界。それが今の雪乃をとりまく世界だった。
「雪乃! 大丈夫か?」
ふいにひびいてきた声に、雪乃はおどろいて顔を反対の方へむける。
「すまない! 雪で道がこんでいて……」
「おじ、さん」
部屋のとびらの前で息を切らしていたのは、おじの春馬だった。
雪乃と同じようにこの家にいそうろうしている春馬。雪乃にとってそんな彼は、父のような、兄のような人だった。
「どう……して。しごと、は」
「雪乃が熱出してるっていうのに、おちおち仕事なんてできないさ」
何でもないことのように言った春馬の言葉が、雪乃にはひどくうれしかった。同時に少しもうしわけない気もした。
春馬はすばやく着がえると、さっそく雪乃の世話をやいた。あたたかい手。体の調子をきく声。春馬は雪乃の父の十も下の年だったが、それでもやはり雪乃にとってはたよるべき大人だった。安心感が雪乃をふわりとつつむ。
「今日はさむいな……ここじゃあめずらしい、雪がふるくらいだしな」
世話が一だんらくして、春馬がぽつりとつぶやく。
「うん。わたし、雪、はじめて、みた」
「おお、そうか。そうだよなあ」
「すごく、さみしい、ものだね」
雪乃の言葉に、春馬はまゆを上げる。
「もっと、いいものだと思ってた。わたしの名前、だもん」
それは雪乃の本音だった。物語などで語られる雪は、きれいで美しいだけのものだった。それに、自分の名前になったものだ。希望もあった。
「そうか」
春馬は雪乃の頭をそっとなでた。
「でも、おれは雪、好きだよ」
雪乃は目を見開く。春馬はそんな雪乃にやさしくわらいかけた。
「白くて、きれいだし。それに、雪がふると世界が変わるから。たしかにさみしい世界かもしれないけど、小さなひとかけらのあつまりが世界を変えるって、なんかすごいことだって思うよ」
春馬は目をかがやかせて、いきいきと語る。本当に雪が好きなのだろう。
雪乃はしばらくあっけにとられていたが、やがてどこか期待した風に春馬を見上げた。
「ほんとう?」
「ん?」
「ほんとうに雪、すき?」
「もちろん。だから、雪乃の名前もいい名前だと思うよ」
まようことなくすぐに返事をした春馬に、雪乃はほほえんだ。なんだかとてもあたたかい気もちだった。
雪乃は目をとじる。心地よいねむ気がおとずれる。いい夢を見れる気がした。
「おじさん、手、にぎってくれる?」
舌足らずな声で、雪乃は春馬におねがいをする。春馬はわらってうなずいた。
雪乃の手に、大きな春馬の手がのせられる。じんわりと広がっていく温度に幸せを感じた。そして、やわらかくねむりにおちていく。
ねむるすんぜん、ふと思ったことが雪乃の口からこぼれた。
「今度雪を見るときは、おじさんといっしょがいいな……」
きっと、さみしくなんかなくて。もっとあたたかですてきなものになる。つないだ手と手のような。そんなことを思っていた。
ゆきのせかい 森沢依久乃 @morisawaikuno
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