通奏低音たる生きる意味を求めて

◇ 前書き


 今回の記事は、目的先行ではなく、ルーチン先行である。要するに、特に書きたいことはないけれども、「書く」という目標ゆえに書いているのである。

 こういうときは割かし、珍しく苦痛である。

 だから、文章を書くのが嫌いだとか、面倒だとか、苦痛だという人の気持ちも分からなくもない。

 逆に、だからこそ分かるのだけれども、書くのが面倒だというのは、「タイピングが下手」という次元を超えれば、それは、「書きたいことがないから」なのである。

 ではその、書きたいこととは何かといえば、それは、「思ったこと」「伝えたいこと」なのである。

 しかし、それらが、他の誰かに、対面的なコミュニケーションにおいて伝えることができていれば、あえて、パソコンを立ち上げて、文字を書こうなどとは思わないのである。



◇ 書きたくないときに書くことはレア度が高い


 なので、書きたくない、書く、というのは、レアである。

 たいていのブログなんかは、「これを主張したい」もしくは、「この商品をクリックしてほしい」というわけであるから、「目的」が見えている。

 逆に、目的、が見えている記事は、分かりやすいのだろうけれども、面白くない。

 ストーリーの基本的な構成は、以下のような流れだという。

(パート1導入)

 ・つかみを入れる

 ・ストーリーの設定を伝える

 ・立ち向かうべき問題が発生する

(パート2反応)

 ・発生した問題に反応する

 ・問題解決の糸口を見つける

 ・問題への対処・攻撃を開始する

(パート3攻撃)

 ・問題と向き合い戦う

 ・途中ピンチになる

 ・最後となる新しい情報が示される

(パート4解決)

 ・問題に主体的に立ち向かう

 ・問題を解決する


 創作者は、こうした構成に物語をあてはめることを生理的に嫌うという。分からんでもない。僕も上で書いたように、「目的」が見えている記事は面白くないと書いた。

 しかし、実際に物語を書いたことがある人――それがたった一回でも――は、分かるだろうが、いくら最初にすばらしいアイディアだと思った内容でも、いざ実際に書き始めていくと、書き進める困難にぶつかる。

 自分で自分の物語を面白いと思わなくなっていくこともある。

 なんども推敲しているうちに、飽きてしまうこともある。

 であれば、ある程度の形を、ストーリーの構成として、それを多くの人はプロットと呼ぶのだろうが、プロットを立ててから書き始めていった方が効率がよいだろうことは想像できる。

 だが、日記はどうか。あえて、ブログという言葉は使わなかった。

 日記は、思考のプロセスの記録である。

 この記事は、パソコンから書いているのではないため、マルチウインドウを使えない、辞書をひいて日記という語を調べられない。上の定義は、僕の勝手なものだ。だが、はずれてはいないと思う。



◇ 日記


 答えや、目的がある場合に、日記など書く必要があるだろうか。

 僕は、その点が明確になるように、昔、「ログ」という言葉を使っていた。

 ログとは、プログラムの処理を可視化できるように、処理時間と処理を行う内容とその結果をテキストファイルなどに書き出したものだ。

 これを、僕は、自分の頭の中の思考や言葉を、そのまま書き出すようなイメージとして、ログと呼んでいたのだ。ゼロ秒思考ともいう。瞬間アウトプットと呼んでもいいかもしれない。呼び方はどうでもいい。

 何故これをしていたかというと、とにかく、不快な状況だったからだ、と一言でいうなら済んでしまう。

 人生、いろいろある。

 そのいろいろは、その人たちそれぞれにおいて違っていて、そしてその感じ方も違う。

 無限大に問題はあふれているのだ。

 しかし、混乱さなかにいると、その問題を問題として認識することも困難になる。

 だから、その問題を可視化するために、ログ等作業が必要になるのだ。

 だから、幸せまっただなかで、不満も何もないような人は、こういった作業は必要ないだろう。



◇生きる意味というのは普遍である


 僕は、個々個別の問題を取り上げて、その対処を考えるということを、この作品に託していない。だから、抽象的な表現になり、読む人は面白くないだろうと思う。

 一般論的なことを読んでも、人は面白いと思わない。

 しかしあえて、僕はそのつまらないことをする。

 恐らく、僕の問題自体も、10代のころとは、変わってきていることが分かる。

 要するに、異性の、女の子から好きになってもらえるのかという、恋愛の問題。感情的な次元では、その頃の方が、よほど精神的には堪えていたのだろうけれども、今思うに、それほど重大な問題には思えない。

 しかしその頃も、生殖によって生物は子孫を残していくのに、自分は異性に認められることがなく、そんな自分は生きている価値はあるのだろうか、といった、現状でも考えていそうなことも思っていたのだ。

 うん? どうなんだ? いま、すごく違和感があった。そんなこと思っているのだろうか? 当時も思っていたのだろうか?

 むしろ、当時は、好きになった女の子がいて、でもその子は他の人のことを好きで、諦めなければいけない、と。しかし、自分の中に生じるその人を好きになったと、大事にしたいという思いが満たされないならば、自分という存在は何か価値があるのかと、そういった感じだったような。子孫がどうこうということではなかった気がする。

 ……というように、もはや、よく分からないのである。

 昔のログでも引き出してくれば、その片鱗は感じられるかもしれない。しかし、それは実際問題、単なる記録に過ぎない。あれだ、物語と同じなのだ。自分のことであるのに、小説やアニメをみるのと同じ程度の感覚なのだ。しかも、自分のつたない文章力によるものだから、もっというなれば、小説やアニメにすら劣る感情再現率かもしれない。



◇ 物語の重要性


 物語と現実は別だ。

 だが、現実をつくっているのは物語だ、というトートロジー的なことを、上手に表現したい。分かってくれる人はいるだろうか。

 物、というのは、もう疑う余地もなく、現実に存在している。それがないとか、そういうことではない。しかし、物に意志はない。何か行動するのは、人間に固有の性質だ。

 筋肉を躍動させることだけが行動ではない。

 何か頭の中で考えることだって、行動の一つだ。

 行動するための源泉となるのが、物語なのだ。

 イヤ違うよ、労働契約だよ。就業規則に従って会社に行くのだよ、というのは、それはそれで事実だが、しかし、会社に所属しているのは、それは、自ら選び取った(もしくは与えられた)自分の物語なのだ。


 僕は、あまりにもつらいときに、ゲーム的人生という考えを試みていた。

 つまり、「自分」というのに拘るからつらいのであって、そうじゃなくて、「自分」という名前の存在は、ゲームのプレイヤーなのだと。

 人生というのは、壮大なゲームであって、それを演じているのだと。つらいとか苦しいとか言うのも、そういった仕様、というか、演出なのだと。

 この試みは、成功したのか、失敗だったのか。

 分からないが、まぁ、こんな感覚も悪くないと思う。

 人生の意味、といったときに、「人生なんてのは、壮大な暇つぶしなのだ」という言説も、一定数支持があるようだ。



◇ あとがき


 何やら、取りとめがなくなった、いつもか。

 まぁその、3000字は超えたから、とにかく投稿はしよう。この勢いを逃すと、またしばらく投稿できない気がする。


 ああ、ばたばたとしていて、結局12時を超えてしまったか。

 そうだな。

 しかし、人はいずれ死ぬ。

 何度も書いてきたフレーズだが、しかしやはり、死ぬよなぁと思う。

 そうした中、自分が生きているというのは、なんとも奇跡的なことだよなとも思うし、長く生きている人たちは、それだけで、まぁまぁ、よくやってきたもんだなぁとも思う。

 歩きたばこをするような奴は死んでしまえと思うわけだが、まぁそれでも、

生きてるってすごいことだと……ああホント、表現が小学生並みだが、仕方がない。


 いや、違う、そうじゃない、最後になって思い出した。

 ニーチェという人がだな、「何故」を知る人は、その殆どの「どうやって」に耐えられる、というようなことを述べていたということだそうな。

 今僕は、生きているだけですごいんだから、別に生きる意味なんて考える必要はないんだよな、って方向で締めくくろうとしたけれども、そもそも、この記事のどこかに書こうと思っていたのは、そうはいっても、「何故」はやはり重要なのだ、ということであった。

 この、書いている瞬間の感情。思考。これは本当に移ろいやすいのである。

「自分」なんて、固定的に書いてしまうが、さも、首尾一貫同じことを考えたり書いていますよと、そういった風体で書いているけれども、全然そんなことないのである。

 この曖昧性を、人の脳の性質は許容しがたいのであるが――そしてそれは、自然に対する生存戦略として正しいのであるが――、複雑化した社会、高度専門化した社会とか言われるけれども、その曖昧のままに認めるというか、受容することが重要だと思う。

 しかし、それはあまりにもカオスすぎて、人間としては耐え難い苦痛を与えるものなのであるので、だからこそ、生きる意味を徹底して考えることによって、そのカオスの中にも、通底する思想というものを見いだすことはできないのかと、そう思うわけである。


 もっと具体的に書けば、今僕は、30代であるが、これが、過去の10代や、20代、そしてその先の40代や50代といった先にも当てはまるような、根源的な思想というのを、見いだしたいということなのだ。

 更に、これから何が起こるか全く予想もつかないわけである。

 だから、個別具体的に何か対処を考えたところで、それがその先も使えるようなものとは分からないのだ。

 そうしたこともふまえた、何が起ころうとも、いついかなる時代も、自分の身体状態や思考状態がどうあっても、通底するような思想。それを探すことを、生きる意味を徹底して考えると、今は呼びたい。

 遠大、曖昧模糊で、砂上の楼閣のようである。

 だが、役に立つことだとは思わなかろうか。

 そんなことは無理だし、無駄だと、誰しも思うことだろう。

 しかし、もし実現できたら? それが例え自己満足だったとしても、その思想によって、客観的に幻想だとしても、自己が充足されたら?

 悪いことではないと思う。



◇ 本当のあとがき


 スマホ投稿で、5000字を超えようとしているのは、きっと初めてだろう。まぁ、エレコム製のBluetoothキーボードを使っているから、厳密にスマホ投稿ではないのだが、やはりデスクトップとは全然感覚が違った。まぁ、キーボードの打ちやすさは、まぁまぁよかったと思う。何が大きく違うかというと、コピペのしやすさと、前に書いた文書の読み返しやすさである。推敲という作業は全く持ってむいていない。メモ、には十分な気はする。なんだっけ、名前が出てこないが、キングジムの、メモだけできる電子機器。あれ使ってみようかと思ったが、たぶん、スマホとほぼ同じ使い勝手になる気がする。ディスプレイの大きさと、持ち運びやすさのちょうどいい感じが難しい。そういう意味で、大画面でゲームしてみたいというのはあったけれど、いざ大画面、40型とかでやってみると、すげー疲れることが分かった。やはり、21型ぐらいがちょうどいいきがする。なんの話だ。とにかくだ、最近ここ数年のことで書いておいた方がいいのは、積極的に死にたいということは思わなくなったということだ。0代や10代のころは、割と死にたいと思っていた。今生きているから、死にたい詐欺になってしまったが、結構本気であった。本気で試みて、いやでも、死んだ後もそれはそれで苦しいかもしれないという思考が働き、恐怖と、しかし現実もつらいし、とで、非常に困っていた。それを「生きづらい」と表現していた。今は、まぁ、この先の仕事の異動でどうなるか全然分からないが、まぁまぁ、なんとかはなるだろうと思っている。それと、これまで、くっそ苛つくことだとか、死にたいくらいイヤなことなどもあったし、それに比べたら、今後起こることって、それ以上なんだろうか、という楽観的な考え。こういうことを書くと、マジでそういう目にあったりするという、マーフィーの法則的なのがあるので、あえて書かないようにしていたけれども、今の精神状態というか、問題の渦中というか、まぁもう書いてしまえという気がしている。まぁ、何とかなる。この何とかというのは、くっそダメな状況も含めて、何とかなるのである。そう、例えばこういうこと、「何とかなる」というのは、通底して使えそうな思想の一つだ。こういったのを、なんか、もっと、固めていきたいなと、そんなことを深夜に思う。


<了>

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生きる意味を徹底して考える endo @sousakupower

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