ゲーム依存は危険だが解決は難しいしすべきかも要検討
今回の一言「ゲーム依存は生活に破滅をもたらす」「しかし現実生活に価値はあるのか」
◇ 前書き
最近、仕事が忙しい。
しかし、忙しいとは主観的なものであって、他者に伝える方法としては、数値を出さなければいけない。
先週は、毎日、23時帰宅であった。その前は、毎日24時帰宅であった。
しかし、こうして時刻を書いたところで、それは、ダラダラさぼりながらやっていて遅いのかもしれないし、通勤時間が長いせいなのかもしれないし、実は飲み会とか仕事以外の理由かもしれない。
意外に、意外でもないかもしれないが、他者に何かを伝えるのは難しい。
だが、別にやってるブログでは、この手のことを書くたびにエクスキューズしているが、忙しい自慢でもなければ、「俺がいないと仕事が回らなくて」的なのでもなければ、頑張ってるアピールでもないのである(※)。
第一、もっと拘束時間が長いブラックな方々は大勢いると聞く。本当かどうかわからないが――というのは、実際、帰宅の電車は、最近(別にお盆の時期ではない)、遅い時間ほど空いている。働き方改革の成果なのか。
んで、まぁ、その、やってて楽しい仕事であればいいのだろうが、やれ人間関係的なやつだったり、クレームだったり、「何の意味があるのそれ。表現的な問題でしょ。どっちでもいいし」的なものもあったりと、面倒くさいことこの上ない。
勉強にはなると思う。知識も増える。考え方も参考になる。
が、「楽しい」かどうかと問われたら、別に楽しくはない。
WEBサイト運営したり、プログラムとか書いてたほうがよほど楽しい。そうしたことが「仕事」として存在することも知っている。
――しかし、じゃあ、WEBデザイナーやSEなりPGなりに転職したら? という正論があるかもしれないが、プロジェクトとして行うそういった業務に興味はない――いや、やってみたら楽しいかもしれないが、基本、むかーっしの人が作ったものをちょびちょち直していくような、おっきなプロジェクトのごく一部分の担当とか、きっとつまらないだろう。
楽しいのは、企画、要件定義から実装、テスト、リリース、利用者への研修など含めて、全部含めてやれると楽しいのである。
話がそれたが、今回は、「ゲーム依存」に関するニュース記事を読んで思ったことに触れながら、「他者に思いを伝える」とか「共感する(してもらう)」ことの難しさについてなど書いていきたいと思う。
※論理的な文章――ビジネス文書や課題論文などとは違って、日記とかブログとか随筆などを書くというのは、今自分が置かれた状況と動的に関係しあっていることを押さえておかなければいけないからである
◇ ゲーム依存に関する記事を読んで
とりあえず、主観的には「忙しい」という気分の中、体調もすぐれず、先日の貴重な休日は、ほぼ寝て過ごしてしまった。
やる気が起きないのだ。
様々なことに対して。せっかく、最近、「面白い」コメントなど多く頂いているにも関わらず、思考が、時間を、十分にそこに向けられない。それはとても悔しい。
そんな、朦朧とした状態で、「【特集】1日20時間、2年間外出せず…『ゲーム依存症』患者の現実」(ヤフーニュース)
との記事を読んだ。
まず、僕が考えるゲームに対する「前提」は以下だ。
・ゲームは楽しい
・ゲームにより暴力的になるというのは正しくない
・一方ゲーム依存は現実生活を脅かすため治療が必要だ
1日20時間は多いと思うが、休日であれば、8時間ぐらいは余裕だ、という人は多いだろう。
ただ、「毎日」というのはすごいと思う。
でもたぶん、全然俺もできちゃうんじゃないかという気もする――いや、睡眠時間は6~8時間は欲しいから、20時間はやっぱりすごいな(笑)。
(そういう意味で、睡眠時間、最近全然足りていない)
まぁそんな表面的なことを考えながら読んでいたのだが、その記事のコメント欄において、「ゲームより現実のほうが大切だ」という意見が――「やはりあったか」という気持ちではあったが――気になった。
◇ 大切な現実とは
とある、某じゃんけんで頭が破裂する作品を執筆中の尊敬する僕の友人氏は、「僻みとか思われるの嫌なんでな、あんまし言わないんだが、現実羨ましいとか思ったことないんだよな。物語の方が格段面白いやろ」と仰られていた(※)。
いや分かる。
――分かる、といってしまうと傲慢になるが、しかし、思いは分かる。
上の「ゲーム依存」は治療されるべき、ということだが、やはり問題は、「ゲーム」が埋めてくれていた時間を、他に、何の「価値ある時間」にするのか、ということだ。
大切な現実とは何か。
ゲームをやるってこと自体も、現実の一部を成していないか――というのは、もちろん詭弁だろう。
だが、詭弁で片付けちゃいけない気がする。
要は、繰り返しになるが、ゲーム依存の治療の先にあるのは、ゲーム以外のことをする「時間」ということだからだ。
※一字一句同じではないので、僕の解釈だが、遠くはずしてはいないと思う
◇ 本当は創作活動が優先だがブログで済ませている
僕にとって優先すべきことは、創作活動であると、2年前ぐらいに目標として定めたはずだった。しかし今は、比較的楽に書けるブログで、取り急ぎの「創作活動してる感」を満たしている。その点は反省している。
本当は、創作活動が、僕にとって、大切なことであるはずなのだ。
しかし、そもそもそれは何故だったのか。
今回のゲーム依存の記事を読んで思うのは、「現実ってそれほど大事なものなのか」という、某氏の感覚が僕にも存在する点があるからと思う。
「ゲームなんかより、創作なんかより現実の方が大事に決まってるだろ!」
こうした至極当たり前な意見を思えるようになるには、若い時に、例えば甲子園を目指して野球部で仲間と必死に汗を流したりとか、そういう経験が大事なんだろうと思う。
くっそつまんなかった。
(決して、そんな大層な目標は掲げていなかったが、学生時代僕も運動部に属していた)
いや、友人はできたし、そこでの友人たちのおかげで、クラスで孤立とかもなく、平穏無事に過ごせたといってよいだろう。
が、その、クラブ活動なり、部活動的なのは、嫌々行っていた。
(とかっていえば、親は悲しむかもしれないから、これらの記事は基本リアルの人には見せるつもりは一切ないから、まぁ構わないだろう)
別に、体を鍛えるのは悪いことじゃないと思うし、そのおかげで、筋トレとかするのも比較的簡単にルーチン化できたのかもしれない。
ま、そういう、「役に立った」的な意味であれば、いくらでも挙げることはできるだろう。
ただ、「現実の価値」的な意味においては、――これを「生きる意味」と置き換えて表現しても構わない――一切役に立たなかったと書いておいてよいだろう。
◇ 大切な現実なんてない
上のような経験がよくなかったのかもしれない。
先日、とある友人氏からコメントを頂いた。
「何故皆さまは、生きる意味について考えているのでしょうか。 (1)考える理由 (2)考えて結果どうしたいのか (3)何が目的なのか、これは個別の問題なので、人によって異なると思うのですが、ぜひお聞かせいただけないでしょうか?」
(筆者にて一部編集)
即答レベルで、特に考えずに回答をすれば、以下のようになる。
(1)理由:必要だから。
(2)結果:満足(充足)して(前向きに)生きたい
(3)目的:(2)と同じ。
就職面接においては、理由が足りないと思う。
もう少し理由を考えれば、「大切な現実が分からないから」になると思う。
――ちょっとばかし、これまた別の友人氏が書いてくれたコメントを引用したい。
「『自分の存在を世界に刻み付けること』これが私の生きる意味となります。自分という存在を、自分が今ここに存在することを、存在していることを、存在したということを知って欲しい、認めて欲しい、肯定して欲しい。
私という存在をまず自分自身が認めるために、やりたいと思ったことには積極的に、欲しいと思うものには手を伸ばし、したくないことや嫌なものは可能な限り避けようとする。今形成されている社会で生きていく上で支障が出ない範囲で、私自身のその時の思いや気持ちに正直に生きる。
つまるところ、私という存在がこの世界に生きているということを、私自身が肯定し、認めるために、私は生きている」
(筆者にて一部編集)
◇ 自分の存在を世界に刻み付けること
引用させて頂いた友人氏は、悩み、答えを比較的早い段階で見出し、それをベースに現実の生き方を構築できた方だと思う。
かっこいい。
僕の目指すところである。
いや、そもそも、「生きる意味」的なことを考えずとも、確固たる自己をもち、生活できている人のほうが大半な気がする(※)。
ただ、悩み、苦しみ、行動しといった部分を経ないで、触れないで、そもそも最初から現実にどっしり身を構えられた人たち――それを僕は広い意味で「リア充」と呼ぶ――は、どんだけ、現実的な能力が高くても、僕は、「参考にならない」と思うだろう。
だから、友人氏のような方と出会えたことは、僕にとって間違いなくプラスで幸せである。
この思いは、単に歯の浮くセリフというわけでは全くなく、事実思うことである。
が、その一方で、それほど大事な人の記述であっても、僕は完全には咀嚼できない部分がある、という意味で書いている。
何がかというと、「自分の存在を世界に刻み付けること」これについて、僕は真剣になれていない、ということである。――すぐさま書けば! ダッシュで書いておけば、友人氏の答えを否定するものでは全くない。
要は、僕個人は、今のところは本気になれない答えである、ということである。
結局、まわりまわって、その答えになるかもしれない。
※他者が自分自身の生き方に満足しているようにみえる、という点は、新たに疑義が呈されたり、逆に共感を頂いたりもしている部分であり、重要な部分と思う。この辺りについてもまた別の記事などで改めて書いていきたい
◇ 世界(現実)と自己
何故本気になれないか。
それは、「大切な現実なんてない」からだ。
コロンブス卵問題のようだが、要は、現実の重要度を深く感じられない状況において、その現実に対して自己の存在を刻み付けるということは、不安定な砂の土台にひょろひょろの棒を指すみたいなものに思えるのだ。
現実に対しての自己の肯定感が高まれば、自ずとその現実に対しての興味関心も増大する可能性はあるものの、その現実が「どうでもいい」と思ってしまう中で、その行為は中々本気になれないということである。
「どうでもいい」というのはもちろん言いすぎだが。
例えば、アインシュタイン氏レベルになれば、世界に刻み付けられた、と思うと思う。誰でも、何百年たとうが、きっと忘れられないだろう。
しかし、ニュートン氏レベルになると、「写真」ってなかった時代だから、たぶんこんな感じの人なんだろうという肖像画はあるけれども、人物は分からなくなってくる。伝記は残されるかもしれないが、そこから分かることと、その人自身のこととは大きく乖離があるだろう。
ソクラテス氏のことも、誰でも知っているだろう。無知の知。知らないって知ることが大事なんだよ、的な、思考までも、数千年たっても、知ってもらえているかもしれない。
が。
時間という疑いようのない事実の上では、「人物」としての痕跡は、殆ど失われてしまうのである。
ましてや!
これを書き始めると、単に努力の放棄に他ならないが、残念ながら僕は凡人である。
アインシュタイン氏レベルなことが、いかなる分野であろうが、例えこのクッソ長い記事を書き続けるといったことですら、他の多くの人たちと比べて抜きん出られる自信はない。
そんな程度な人間が、「世界に自分を刻み付ける」なんてことが、できるとは思えないのである。
◇ 不可逆の時間の中で
ええとその、つまりは、「友人氏の考え・答えは、きっと正しいし、それはすごいことだが、凡人ではきついッス」的なことだ。
子供作る的なことの例でもいいんだけど、子供作るじゃん? 子孫繁栄したとするじゃん?
ひいひいひいひいじいちゃん的なのを、誰か、覚えてるだろうか、ってことである。
要は、時間制限があるなかで、誰しも、満足した人生を送らなければならないのだ。一分一秒無駄なく。
最初に引用した友人氏からの問い「何故生きる意味を考えるのか」の答えを言い換えれば、「満足した人生を送る必要があるため」となる。
「別に満足しなくてもいいんじゃない?」って言われたことがある気がする。一理ある。確かにそうだ、でもけど、つまらなくないか、って思う。
仕事して毎日23時とか24時に帰ってきて、何やってんだろって思う。
いや、ストレスはあるかもしれないが、別に、人間関係が究極にギスギスしてるとか、超ど級パワハラにあってるとかではないから、睡眠時間やゲームしたり遊べる時間が足りなくて嫌だなぁぐらいといえばそうだ。
だが、こういった生活が定年(65歳? 70歳?)まで続いて、それがなんだってんだろう、って思う。
「いや、お金ももらえているし、生活に困らないし、いいじゃんか。もっと生活困窮して、意味なんて考える余裕なんてない人たちだってたくさんいるんだぞ!」
とお叱りを受けるかもしれない。
そうさな。
そうだが、そういう問題ではないんだ。分かってもらえるだろうか。恐らく、上手く伝えられていないだろう。表現ができない……。感覚の共有というのは、本当に難しいことである。
◇ あとがき
ゲーム依存の話関係なくなったな! いや違うぞ! 関係あるぞ! ゲーム依存と生きる意味、めっちゃ関係あるぞ! 要は、現実がくっそ価値あって、くっそ楽しかったら、ゲームなんてすぐ飽きるやろ? いや、じゃんけん頭破裂の某氏は「滓が。その程度の思考の俗輩が、創作を語るな」と仰られるだろう。天才め! いや、ふつー大半は、現実に楽しいことがあったらそっち中心になるだろう。物語は、現実を彩る単なる脇役に過ぎなくなるだろう。――だが、俺の場合は、能力は凡人クラスなのだが、その「現実」の扱いがどうしてもよく分からないのである。物語がないのだ。いやなんつーか、面白くないのだ。いや、面白さはあるが、それが、「点」なのである。繋がりがない。上手く表現できない。なんだろう。なんか頑張りたいんだが、頑張るに値することが見いだせない。いやそれは違うぞ。ブログとかに書くことや、創作(随筆含め)は大事だと俺は思っている。それと、「現実」が全然関連してないのがよくないのか。するってーと、やっぱり、今の仕事を辞めて、創作の道で食ってく的なことになるのが必要なのかもしれないが、いやまて、前提をちゃんと見ろ。「能力は凡人クラス」なのである。第一、今いる部署的なのが忙しいのであって、他の部署は定時で帰ってるところたくさんあるからな! だから、いよいよ追い詰められれば、人事とかけあって異動させてもらう方法が漸近的であろう。というか、別に仕事も頑張りたくないわけでもないのだ。頑張ってもいい。だが「だから何なの?」という思いが消えない。評価されて偉くなろうが、給料が上がろうが、そこがモチベーションじゃないんだよな。上司たちに問いたい。「偉くなって何がしたいの?」と。いや、面接でも聞かれるだろう当たり前の質問だ。それを逆に聞きたい。本音ベースのやつをだ! 大方、お金が増える的な問題だろう。あとは、現場業務より指示してたほうが楽だろうとか。くっそつまんねぇ奴らだ。楽しいから上司やれや。面白いから上司をしろ。上司の仕事がしたいからやれ。就職活動もそうである。人生を実現する手段は仕事だけでないはずだが、「御社で働きたいです!」アピールをしなければいけない。――話がそれたか! 全然書ききれない。いい表現も浮かばない。整理もできない。あああああ、だが、だがしかし、これこそ、こういったどうしようもない感情的な、感覚的な表現もまた、いやむしろ、そうだからこそ、創作といえるのではないだろうか。
<了>
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