自殺をしてはいけない本当の理由
◇前書き
何となく、自己啓発本的なタイトルにしてみた。
以前、今回のタイトルのようなサイトがあって見てみると、随分とスピリチュアルな内容で、おどろおどろしく、自殺することの罪が書かれていた。
なんか、僕が求めていたものと違った。
先に結論めいたものを書いておくと、僕は、自殺というのは、人生の選択の一つの手段だと思っている。
また、僕は、毎日苦しくて、死にたい死にたいと思っていた時もある。
「自殺ダメ。絶対」とか、キャッチーなフレーズで言われると、違和感というか、沸々とした怒りを感じる時もある。
それでもやはり、自殺というのは、論理的によくない、と思っている。今回は、そのことについて書いていこうと思う。
◇本記事執筆のきっかけ
あぁ……、「前書き」書いていたら、もともと何を書こうと思っていたか忘れてしまった(かっこ笑い)。
何か、頭の中に何も浮かばなくなった。
こういうときは、美味しいドリンク(お茶・コーヒー・ビール)に限る。今回はコーヒーを選択しよう。
あーそれには、片付いた部屋も必要だ。
部屋の片づけには、3つのポイントがある。
片付けの容易性と、持続性と、効率性だ。
要は、メンテナンスのしやすさと、それが維持できる期間と、その状態による生活のし易さだ。そのバランスが整っていないと、快適な空間の醸成はならない。
――ある程度片付く。よし。
あ、思い出した。
「努力が認められた」
という言葉は、成り立たないと思ったことが今回の記事のきっかけだ。
(少し、タイトルとは関係ない話が続くかもしれない。結論だけ読みたい忙しい方は最後の小見出しだけを参照いただきたい。ただ、個人的には、この思考のプロセス自体にお付き合いいただければと思っている)
◇努力について
認めることが可能なのは、努力ではない。所詮は目に見える「成果」だ。
しかし、僕はこういった、「効率すべて」的な考え方が嫌いである。
例えば、「雑談」は無駄の典型、とされる。でも、雑談ぐらいあってもいいと思う。
ただし、僕は雑談は嫌いだ。それは、雑談だから嫌いなのではない、「興味がない話題」の場合が多いからだ。
気の置けない人と、何も考えずに、ただマリオカートをやる時間は、無駄だろう。
無駄なんだが、僕は好きだ。楽しい。充実している。
――充実? なんの生産もしていない行為が?
◇生産性と人生
人生で最も大切なことは、「欲望」だ。
人は、誰かのために成長するのでもなければ、誰かのために生きているのでもない。
人は、「やりたい」「したい」という欲望があるから、生きているのだ。
その結果、その「やりたい」「したい」が、人のためになることの場合が、最も充実感を得られるように生得的にインプットされているのだ。これを否定しても、例外的な反証にしかならない。
(本連載の3話目『不透明な時代を生きる』参照)
だから、「必ず人は〇〇だ」という表現をしたところで意味はない。例外は存在する。人を害するのが好きな人もいる。だが、一般的(大多数……これは、半数程度なのかもしれないが)には、人は、人のためになることをして、その結果で嫌な気持になるようには仕組まれていないのだ。
だから、取引先の人に、「あなたと仕事ができて良かったです。あなたのおかげで上手くいきました」と言うことは、大事なことなのだ。
それを言うことやメールなど文章を起こすことは、直接的に金銭的なサムシングを生むことはない。その微々たる効果は、時給換算時間対効果としてマイナスだろう。
しかし、自分がやってきたことが役に立った、認められたと、(それは社交辞令だろうという疑いの気持ちがあったとしても)感じられることは、今後の仕事に対する気持ちには、影響は少なくないだろう。
◇効率への嫌悪
単純に「効率」といった時には、生産性重視といった面の腐臭がする。
だから嫌いだ。
無駄があってもいいじゃないか。それは、換言すれば「ゆとり」だ。
例えば、「ゆとり教育」は批判されまくったわけだが――だが、その理念は間違ってなかったと思う。「教え込まれること」ではなく、「自主的に学ぶこと」が重要なのは明らかなのだ。仕事だってそうだろう? 「自分で考えてみろ」とか言われたことはないだろうか。
……まぁすぐさま書きたくなるのは、一方で効率は重要だと思っているし、「自分で考えろ」という無責任な指示が嫌いだったりもするし、要は僕は面倒くさい人間である。
◇話題提供されると指の動きが加速する
上のようなことを書くと、途端にいろいろ思考が生じてくる。これは面白い。
「無駄とは何か」
「効率とは何か」
「ゆとりとは何か」
「自分で考えるとは何か」
「自主性とは何か」
いろいろ生じる。書きたい。でも、別に誰かに理解してもらおうとは思わない――いや、理解してもらえたら嬉しいが、されなくても構わないと思う。なんとなく、理解してくれる人もいるということは、なんとなく、信じられるようになった、なってきた。だから、いい。
閑話休題。
話がそれている。戻す。こっからテンポを上げて元の話題、「自殺がいけない理由」について書いていきたい。
いやその、努力ってのは、主観である。というかそもそも、努力ってなんだ?
がんばる、ってことだ。
頑張るってなんだ?
辞書をひく。「忍耐して努力し通す」とある。
忍耐? また難しい言葉が出てきた。
つまり、耐えろということだ。
苦痛を感じろということだ。
嫌な思いをしろ、ということだ。
それが努力だ――そんなのイヤだーッ!!(かっこ笑い)
◇
同時にいつも書いておくが、僕は努力自体を否定する気はない。
ストイックというのもいい。
成長だって大事だ。
だが、「嫌な思いをする」ということが、何故大事なのか?
構造上欠陥じゃないか? 人は苦しむために生まれたのか? ――そうだ、と仏陀は言っている?
俺は違うと思う。
人生はふつーに過ごしていれば四苦八苦で「苦」だ、だけど、正しい実践(八正道)すれば涅槃寂静だぜ、というプロットだと思う。
曹洞宗を広めた道元氏は、修証一如といって、悟りと修業は一体なんだぜ、といった。修業は苦しいが、悟りを得るための手段ではなく、修行自体が悟りなのだということだ。だから、修業が苦しいと思っているうちは、そもそも悟りにまだ遠いのだ。
◇努力の意味
「努力」をはき違えてはいけない。
新しいことに出くわしたとき、僕らは恐怖する。
そりゃそうだ、今までの方法が通じない。戦えば負けるかもしれない。失敗するかもしれない。
だがそれは、「生き残りたい」という欲求に基づくものだ。
そのために、苦しいが、頑張るのである。
それは「主体的」だ。自分がやりたいからやるのだ。
勘違いしてはならない。やりたくないことをやることが努力なんかじゃない。
え? 理不尽な仕事を振られたときは、やりたくなくてもやらなきゃいけないって? そうだ。やりたくないが、やらなければいけない。
だが、次元をあげて考えてみたまえ、「やりたくない」のはその仕事自体だが、その仕事を達成しなければその会社で給料をもらえないから、やるのだ。その会社で働き続けたいからやる、のだ。その次元では、「やりたい」のだ。
――いやいや、現実感情とかけ離れすぎて、納得いかないという人は多いだろう。だが、何かをなすためには、時に感情に反することもする必要がある。常に四六時中幸せマックスハッピーな人がいたら、それはそれで一般的とは言えないだろう。
嫌なことや自分の本意に反することをゼロにはできないだろう。しかし、その「なすこと」自体は、自分の「やりたい」ことなのではなかろうか。
その「なしたいこと」すらもやりたくない、と思うのであれば、残念だがその会社は辞めるべきだろう。
「いやいや遠藤よ、俺は、働くことすら嫌でいやで仕方がないのだ、その場合はどうしたらいいのだ」
「働かなくても生きていける努力をすればよいのでは?」
と僕は言う。それすら嫌なら死ねばよい。
だが、そこで、「死にくない」と思うのであれば、イヤイヤ仕事をするのも、「やりたいこと」なのだ、ということをよく考えるといい。
僕は、生きること自体がもう嫌だと思っていた。こんな苦しい毎日なのに、何故就職して、働かなければいけないのかと思っていた。その次元においては、「死ぬ」ということが「やりたいこと」になる。俺は、その次元においては、「自殺」ということを否定しない。
◇自殺がいけない理由
だが、すぐさま書いておきたいのは、「新しいこと」に出くわすというのは避けられないということだ。
これから先、ずっと苦しみだけが続く人生かもしれない一方で、一筋の希望が見つかる可能性だってあるのだ。先のことなど誰も分からない。その不透明さは加速している。
その、よくわからねぇ時代において、何かうまくいくかもしれないという可能性、その可能性が「無い」と、どうして人間風情が言い切れるのか。
その可能性の全否定が自殺だ。
だから、自殺はよくないのだ。
◇
逆に、本当に自殺すること自体が目的ならよいと思う。自殺こそが、自分のやりたいことなのだと。人生の意義なのだと。
しかし、そんな人いるだろうか。文字として、文章としては成り立つ気はするが、自殺は、人生における問題に対する手段として立ち現れるに過ぎないと思う。例えば恋愛の失敗、いじめ、金銭資産ロスト、健康上の問題、など。
そのどれもが、軽いものではない。死ぬことよりも、生きることのほうがつらい場合だってあるだろう。
失敗し続けることはある。
人は、頑張っても認められないと、心理学がいうところの学習性無気力になって、何もする気がなくなっていく。「どうせ自分は頑張ってもダメなんだ」と。
例えば恋愛なんかは最たるところで、「好き!!」というのは、欲望のかなり強い部類だろう。その「やりたいこと」に対して、しかし、相手は自分に見向きもしてくれないかもしれない。つらい、死にたい。珍しいことではない。若いウェルテル氏に共感した人は多かったとのことだ。
だがそれでも、「可能性」だけは、否定できない。
一生最後の本心から愛せる人だと思っても、――いやその思いはきっと嘘ではないのだろうが、時間経過はその感情を変化させる。もちろん、強い意志をもって、その感情を抱き続けることは可能だろう。しかし、変化する「可能性」(ここでは、他の誰か大切な人に出会うこと)自体も、否定できないだろう。
それゆえに、僕らは、時に、呪いのごとく(論理的に)自殺することはできない。
<了>
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