超越した佳代子さん

しめさば

プロローグ

佳代子さんが、消えた理由


「私、ふつうに生きてれば、幸せになれるって思ってた」

 

 佳代子さんは、ぽつりと言った。

 その言葉に呼応するように、強い風が吹いて、彼女の髪を乱暴に揺らす。

 なびく髪を抑えた彼女は、可笑しそうに口元を綻ばせて、僕が聞いているかどうかなどおかまいなしに、言葉を紡いだ。


「でも、そんなことなかったよ」


 ぽん、と投げ捨てたようなその言葉は、寂しそうな色をしてビルの屋上に響いた。


結弦ゆづるくんはさ、幸せ? 今のままで、さ」


 佳代子さんは僕のほうに目をやって、首を傾げた。

 すっかり夜だというのに、地上の過剰な街灯やビルの窓からの光がまぶしい。

 辺りが眩しすぎて、彼女の目を見つめ返すのには目を細める必要があった。

 そのせいか僕の目には、彼女がとても神々しいもののように映る。


「幸せ、って」


 僕には、彼女の問いの意味が理解できない。


「幸せって、難しいよ……。どういうことを、幸せっていうんだろう」


 僕は情けないことに、問いを投げ返してしまう。

 彼女は呆れたように目を細めて、


「それは、結弦くんにしか分からないよ」


 静かに言った。

 

 僕が返す言葉に戸惑っていると、彼女はふいと僕に背中を向けて、すたすたとビルの屋上の縁へと歩いて行った。


「危ないよ」


 僕の制止など構うことなく、佳代子さんはビルの縁へと到達した。

 そして、僕を振り返る。


「こんなにおかしくなっちゃった世界でさ」


 佳代子さんは、ゆっくりと、僕に投げつけるように言った。


「君は、君のことを見つけられる?」


 強い風が吹いた。

 その風は佳代子さんの亜麻色の長い髪をなびかせ、そして、彼女の言葉を僕へと運んでくる。


「私は……私のことが、分からなくなっちゃったよ」


 ビルの光が僕の目を刺すように差し込んでくる。

 彼女の姿が、ぼやける。


「佳代子さん」


 僕は急に不安になって、彼女の名前を呼んだ。

 それでも、佳代子さんは、自分の言葉を紡ぎ続ける。


「この世界の中に、私はいないの。この世界にあるのは私の中の“チカラ”だけ」


「そんなこと……」


 そんなことない、と言いたかった。


「私の“チカラ”が、私って人間の存在を証明してくれるの。ううん、私だけじゃない、みんなそう。みんなそこにいて、そこで生きているのに、それを証明するのはみんなの中にある“チカラ”なんだよ」


 僕の言葉を遮った佳代子さんは、擦り切れそうな声で、吐き出すように言った。


「私は、ここにいるのに。みんな、そこにいるのに」


 どうして、と。

 彼女は、涙した。

 僕には、彼女の言葉の意味も、彼女が涙する理由も、分からなかった。


「私は、私を見つけられないよ」


 そう言って、彼女は整った顔を涙でくしゃくしゃにした。

 そんな彼女の顔を見るのは、つらかった。


「佳代子さんは、そこにいるじゃないか」


 僕はそんな言葉を捻りだして、彼女の近くへ行こうと、一歩踏み出した。


「僕には君の声が聴こえているし、君の顔が見える」


 佳代子さんは僕の言葉を、じっと僕の目を見て聴いていた。


「君に近づけばきっと君の温度を感じるし、もしも君を胸に抱いたら、君の柔らかさが分かるよ」


 頬を赤くしながら必死で言葉を紡ぐ。

 

「だから泣かないでくれよ。君が君を見つけられなくても、僕が君を絶対に見つけるから」


 僕がそう言い終わったころには、僕は彼女の目の前まで歩みを進めていた。

 

 佳代子さんは驚いたように目を開いて、僕を見ていた。

 そしてすぐに、眉にぎゅっとしわをよせてて、目から大粒の涙をこぼした。


「ちょっと、どうして泣くんだよ」


 僕が慌てて彼女の顔を覗き込むと、彼女は笑っているとも泣いているとも分からない顔で、嗚咽交じりに言う。


「嬉しいこと……言うからでしょ……!」


 佳代子さんは涙をパーカーの袖でごしごしと拭いて、僕の目を再びじっと見た。


「いまの、嘘じゃないよね」


「え?」


「いまの言葉、信じていいんだよね」


 佳代子さんの目は、真剣だった。

 僕が首を縦に振ることを懇願するような視線を送られて、僕がそれを拒めるはずがなかった。


「うん。信じて」


 僕は頷き、力強く言い放つ。


「君が世界のどこにいても、僕は君のことを見つけるよ」


 僕の言葉を聴くと再び佳代子さんは大粒の涙をこぼした。


「泣きすぎだよ……」


「嬉しいこと言うからだってば!」


 すっかりびしょ濡れになったパーカーの袖に涙を乱暴に吸わせて、佳代子さんは深く息を吸い込んだ。

 

 その様子を見て、僕は安心して彼女に手を差し伸べた。


「さ、帰ろう。家に帰らないと、両親が心配する時間だよ」


 そもそも、こんな時間に、こんなところにいること自体、佳代子さんの両親からしたら心配でならないだろうに。

 

 僕が差し伸べた手をまじまじと見つめて、少しの間を持たせた後、佳代子さんは首を横に振った。


「ううん、私は帰らない」


「え?」


「私は、幸せになりたい」


 僕は困惑しながら彼女の目を見る。

 彼女の目の中に、もう先刻見せたような悲しみや戸惑いはなかった。


「私、幸せになりたいの」


 はっきりとした声音でそう宣言する佳代子さん。


「……だから、帰らないの?」


「そう!」


 佳代子さんは元気に頷いて、ビルの屋上の縁に、ぴょいと飛び乗った。


「危ないってば!」


 風の強いビルの屋上で、塀のない縁の上に佳代子さんは立っている。

 相変わらず僕の制止はまったく聞いてくれない。


「どこにいても、結弦くんが見つけてくれるよね」


 佳代子さんは、大切なことを自分に言い聞かせるように、言った。


「だから、結弦くんが見つけてくれるまで、私は隠れることにするよ」


「え?」


「世界とかくれんぼしようと思う」


 佳代子さんはそう言い放って、小さな手でピースサインを作った。


「それってどういう……」


 僕の言葉は遮られ、気づくと佳代子さんは僕の胸の中にすっぽりと納まっていた。

 抱き着かれた、と気づくのに数秒を要したけれど、それに気付いた瞬間に顔の温度が上昇していくのを感じる。


「な、なにして……」


「ねえ」


 またもや僕が言い終わるよりも先に、佳代子さんが僕の胸にうずめていた顔を上げて、僕の目を見た。

 今まで一度も迫ったことのない近すぎる距離感に、心音が高鳴る。


「きっと、私を見つけてね。そうしたら……」


 彼女は僕の胸に手を置いて、ゆっくりと、言った。






「そうしたらきっと、私も、私を見つけられるから」





 


 それが、佳代子さんとの最後の会話だった。


 僕の目の前で魔法のように姿を消した彼女は、未だに誰の前にも姿を見せない。


 僕の恋した女の子は、僕を残してどこかに消えてしまった。



 




 僕はずっと、初恋の女の子を探している。

 

 

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