第8話 彼が変わったきっかけは
突然メールで呼び出しを受けて、休日だというのに由多博樹は彼の通う二二ノ木坂学園近くの喫茶店に足を運んだ。
「いらっしゃいませ。何名様ですか?」
ウェイトレスがにこやかに声をかけてくるのを、「待ち合わせなんで」と片手を上げてやんわりといなし、博樹は店内に視線を巡らせた。
自分を呼び出した張本人はすぐに見つかったが、そのあまりの険しい表情に博樹は失笑した。
「なんつー顔してんだよお前」
「うっさい」
テーブルに近付きながら博樹がからかうように言うと、白河まひるはふくれ面をする。
彼女の目の下には大きな“くま”があり、まぶたも妙に腫れぼったい。
顔のパーツの一つ一つが小柄なだけあって、目元のそのツーポイントは妙に目立って見えた。
「昨日眠れなかったのか」
「うん」
「泣いちゃったのか」
「泣いてないし」
嘘つけ明らかに泣いてた顔だろ、と言及するのはよして、博樹は手を上げてウェイトレスを呼ぶ。
「ブレンドコーヒーで」
「ブレンドコーヒーですね。ミルクとお砂糖はご用意してもよろしいでしょうか?」
「ミルク、気持ち多めで」
博樹が冗談めかしてそういうと、ウェイトレスも半笑いで「かしこまりました」とテーブルを後にした。
「ミルク多めだなんて、子供っぽいんだ」
「甘々のカフェラテ飲んでるやつに言われたくねえ」
博樹がカフェラテの入ったまひるのカップの横を指さす。
まひるはハッとして、空になった棒砂糖の紙ごみをパッと手の中に隠した。
鼻を鳴らして、博樹が口を開く。
「で? ご用件は?」
「言わないと分かんない?」
「大体は分かるけど詳細は分からん」
タイミングからして、要件は結弦に関することだろうというのは博樹にも容易に想像がついていた。
昨日の下駄箱前での結弦の衝撃的な発言を聞いたまひるの表情を思い返して、結弦は一人で失笑してしまう。
「なに」
「いや、すまん思い出し笑いだ」
「気持ち悪……」
あの時のまひるの表情を博樹は当分忘れることができないと思った。
尻尾を踏まれた猫のように、目と口が開いて、毛も逆立たんとするほどの強烈な驚愕が彼女から発されていた。
もちろん、当事者の結弦はまったくそのことには気づいていなかったのだが。
しかし、まひるがそんな表情になるのも無理もないことだと、博樹は胸中でまひるを憐れむ。
「ブレンドコーヒー、お待たせいたしました」
「あ、どうも」
ウェイトレスが湯気と香りの立つコーヒーカップを博樹の前に置く。
続いて、ミルクの入った小さなポットがテーブルに置かれた。
「“気持ち”、多めに注いで参りました」
「あ……どうも」
そう言ってウィンクしたウェイトレスに、博樹は少し照れた様子で頷く。
ごゆっくりどうぞ、と言い残してウェイトレスがテーブルを離れた。
「なに鼻の下伸ばしてんの」
「惚れるかと思ったわ」
「馬鹿でしょ」
けたけたと笑って、博樹は“気持ち”多めにポットに入っていたミルクをコーヒーに注いでいく。
最近は融通の利かない店員が増えたものだと博樹は思っていたが、こういうささやかなサービスをしてくれる店もある、と認識を改める。
黒に近い茶色だった液体に白色が投入され、ブワッと全体をクリーム色に染めていく。
そんな様子を眺めながら、博樹はしみじみとつぶやいた。
「しかし、初恋の子、とはなぁ」
昨日の結弦の発言である。
下駄箱の中の、怪文書じみた手紙に目を通した結弦が唐突に涙を流し、そう言った。
すっかりコーヒーをかき混ぜ終えて、博樹がカップから視線を上げると、そこにはこの世の終わりのような表情でうつむくまひるがいた。
博樹が思わず噴き出すと、まひるがキッと博樹を睨んだ。
「なに笑ってんのさ!」
「いや、だってこの世の終わりみたいな顔してっから」
「この世の終わりだよっ!」
「唾飛ばすなよ」
コーヒーをズズと啜って、博樹は手をひらひらと振った。
「初恋の相手だから会いたいって言ってたけど、別に今すぐどうこうなるわけじゃないだろ」
「分かってるけど! 分かってるけどさぁ……」
どんどん意気消沈していくまひるを見て、博樹は苦笑する。
高校に入学してから大体二か月。最初の席替えでたまたま席が前後ろだったということで打ち解けた博樹と結弦だったが、結弦と行動を共にしていると常にその隣にいたのが白河まひるという少女だった。
まひるが結弦に好意を寄せているということは彼女の態度を見て容易に察することができた。
三人で行動しているうちに、結弦を介さなくとも博樹とまひるは自然と話すようになり、気付けばまひるの結弦に対する愚痴やら恋心やらの話を博樹が聞く、という関係が出来上がってしまったのだ。
博樹は色恋にはあまり興味がなかったが、まひるのコロコロと変わる表情や語り口が妙に気に入ってしまい、まひるに呼び出されれば断ることもなくやってくるようになった。
「でもそんな話、一度も聞いたことなかったし……」
「そりゃ言わねえだろ初恋の話なんて」
「しかも泣くほど嬉しいってさ……」
まひるは意味もなくカフェラテの入ったカップを左右に揺らし、中身の液体をぐるぐると回転させている。
「相当、その子のこと好きってことなんじゃないの」
「その時の恋心が今も続いてるとは限らないし」
「でも会いたいって言ってた!」
「会いたいだけって可能性もあるだろ」
博樹の反論に、まひるはウッと言葉を詰まらせた。
「まあ、そうかもだけどさ……」
「結局さ、その初恋の子がどうだろうと、結弦がその子のことどう思ってようと、お前がやることは変わらないんじゃないのか」
博樹がはっきりと言うと、まひるもその意味を理解したように、少し顔を赤くして、こくりと頷いた。
「まあ……そう、だよね」
「おう。ピーピー騒いでもしょうがない」
結局、まひるが結弦に想いを伝える以外にまひるが望む結果を得る手段はないのだ。
博樹から見ても、結弦はあまり色恋に興味がある部類の人間ではないように見えた。
だからこそ、彼の昨日の発言は博樹も少し驚いたものだった。
結弦があれほどの感情を揺らして、はっきりと誰かに「会いたい」と言うのを、博樹は初めて見た。
普段は感情の起伏が読みにくい結弦だが、あの時は子供のように欲求が発散されていたように思えた。
もし、その初恋の子が現れて結弦と再会したならば、まひるの勝算は限りなく低いだろうと博樹は考える。しかし、今それを口にするのはどう考えても良いことではないと彼は理解していた。
少しの沈黙ののちに、まひるが口を開いた。
「少し、思い当たることがあるんだ」
「思い当たること?」
博樹が訊き返すと、まひるはこくりと頷いて、言葉を続ける。
「結弦さ、中学生の時に急に雰囲気変わったんだよね」
まひるは昔を思い返すように目を細めて、ぽつりと言った。
博樹は高校に入学してから結弦と知り合ったが、彼女は小学生の頃から結弦と一緒にいたのだという。
「昔は、なんというか、もっと柔らかくて優しい表情してたの」
「あいつが?」
「そう、いつもやんわりとした笑顔浮かべててさ」
「想像できねえな……」
まひるの発言に、博樹はうすら笑いを浮かべて、コーヒーを啜った。
今の結弦は本当に感情が顔に出てこない。いわゆるポーカーフェイスというやつだ。
冗談を言い合って笑う時も、くすりと笑うだけで、結弦が腹を抱えて笑っているのを博樹は見たことがない。柔らかい笑みなど、言うまでもなかった。
「結弦さ、中学生の時、お昼休みだけはいつも屋上に行ってたの」
「へえ……」
「一回ついていこうとしたら、断られちゃって」
「はっきりと?」
「はっきりと」
博樹はへぇ、と首をかしげて、その話を聞いていた。
結弦は何か気に食わないことがあるとき、嫌そうな顔はするもののあまりはっきりと拒むことはしない。
博樹と結弦の付き合いは2か月弱といったところだが、そういった習慣は一朝一夕で身につくものではない。昔からはっきりと断らない性質だったのだろうと博樹は結弦を分析していた。
「あいつがはっきり断るってのは、相当だな」
「そうなの! でも断られたのに無理やりついてったら嫌われちゃうかもじゃん。だから、屋上で何してたのかは知らないんだ」
「なるほどな……」
話の流れからして、この後のまひるの言葉は博樹にも容易に想像がついた。
「今思うと、お昼休みに屋上で、その“初恋の子”と会ってたんじゃないかなって」
「まあ、そう考えるのが自然かもな」
そこまで聞いて、博樹はまひるの発言の文脈に違和感を覚える。
「ん……? 会って“た”、っていうのは?」
博樹がずばり尋ねると、まひるは少し言いにくそうに言葉を詰まらせてから、少し声のトーンを落として、言った。
「急に、屋上に行かなくなったの。中学二年生の、夏ごろだったかな」
まひるは表情を曇らせて、言葉を続ける。
「それと同時に、急に、雰囲気も変わっちゃった。あんまり笑わなくなって、一人称も“僕”だったのが“俺”になって」
「それって単純に中二病じゃ」
「茶化さないでよ」
「うす」
一蹴されて、博樹がしょんぼりとすると、まひるは深刻になっていた表情を少し緩めて、肩をすくめた。
「だから、多分その時にその子と会えなくなった、ってことなんじゃないかなって思うんだ」
「会えなくなったってだけでそんなに結弦を変えちゃう女、ね」
博樹が言うと、まひるはすっかり黙ってしまう。
言葉にしなくとも分かる、結弦のその“初恋の子”に対する思いの強さ。
「まあ、いないやつのことを考えてもしょうがないよな」
博樹はまひるを元気づけるようにそう言ったが、まひるは暗い表情のままだった。
それを見ていたたまれない気持ちになった博樹は、取り繕うように次の言葉を吐き出す。
「でも、結弦言ってただろ」
昨日の結弦の発言を思い出しながら、結弦は言葉を続けた。
「その初恋の子に会いたいから、あの事件の謎を解きたいって」
「言ってたけど……」
「つまり、あの事件を解決することが、その女の子と会うことに繋がってると結弦は踏んでるわけだ」
博樹の言葉に、まひるはこくこくと頷いて、耳を傾ける。
「だから、お前も一緒にあの謎を解いちまおうぜ」
「え、なんでよ」
「そしたら結弦が惚れてた女がどんなやつだかわかるかもしれないし、相手が分かればお前にも勝算があるかもしれないぜ」
「そ、そうかなぁ」
首を傾げるまひるに、博樹は追い打ちをかけるように言葉を畳みかけた。
「どのみち、お前は今まで通り結弦の近くに居続けて、アピールするしか方法はないんだからよ。ついでにあいつの初恋の相手の対策もできるかもってんなら一石二鳥だろ」
「ま、まあ……確かに?」
半ば無理やり納得させたような形だが、なんとか言わんとしていることはまひるに伝わったようで、博樹はほうとため息をついた。
これで、あの事件を調べる仲間を増やすことができた。
純粋にまひるの恋を応援してやりたい気持ちもあったが、博樹にはそれ以上の関心ごとがあった。
それは、先日の『財布ワープ事件』である。
あまりにも奇抜で、異質な事件。
“チカラ”で引き起こされたのは間違いないと分かっているのに、真相がまったく見えてこない状況。
博樹は妙に、あの事件の真相に関心が湧いてしまっていた。
どうしても、真相が知りたい。
そのためには、真相を探る仲間が多いに越したことはないのだ。
まひるはあまり頭を使える方ではないが、フットワークは軽い。足を使った調査が必要な時には一役買ってくれそうな予感が、博樹の中にはあった。
「とにかく今は、ひたすら結弦の近くにいること。それと、『財布ワープ事件』の真相を一緒に調べること。この二点に集中するといい」
「ん、そうする」
すっかり納得したようで、素直に頷くまひるを見て、博樹は満足げに口元を緩ませた。
まひるの恋心を多少なりとも利用してしまっているような気がして、少し良心が痛んだが、博樹の胸の中には同時に高揚感のようなものが渦巻いていた。
結弦が、『事件の真相が、初恋の少女につながっている』と言ったのと同じように、博樹の中にも一つの確信めいた思いがあった。
『事件の真相が、“チカラ”の真相につながっている』
そんな思いに、博樹は妙な胸のざわめきと、興奮を覚えたのだった。
「ちょっと、砂糖入れすぎたな」
まひるが一口カフェラテを飲んだあとに、べっ、と舌を出して見せた。
博樹は小さく笑って、自分もコーヒーを啜る。
「俺も、ちょっとミルクを入れすぎた」
せっかく増やしてもらったのに、と独りごちて、博樹は店内を見渡す。
最初に給仕してくれたウェイトレスは、見当たらなかった。
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