第17話 長屋暮らし

 大黒屋を出て、大通りから裏道に入って二区画ほど歩いたところに、大黒屋が従業員家族のために作った長屋がある。

 大黒屋の三代目であるりさの祖父が作ったので相当に古い物件だが、五つある部屋のうち、二つがまだ空き部屋として残っていた。その一番角部屋を、新吉にあてがうという。

 古びていて立て付けが悪い上に、長らく使っていないので、土埃で滑りが悪くなった長屋の引き戸を力一杯開けて、龍之介は新吉、善吉、はる菜の三人に中を見せる。

 畳は古ぼけていてほこっりっぽいし、いろりはあるが、土間には竈すら付いていない。


「明日には畳屋に新しい畳入れさせるから。しあさってくらいからは住めるやろう。家賃は月十五文。この辺の相場より格安やで。新吉、お前には勤務日は昼と夜は飯が付く。朝飯と、休みの日ははる菜ちゃんの手料理食うたらええわ」

 そこまで伝えて、龍之介はちょっと羨ましそうに、ぽんと、その家の古びた引き戸を叩いた。

「ええなあ……俺もここに来たいなあ」

「あんなに立派なお屋敷があるのに」

 龍之介の意外な言葉に、新吉は少し驚いた。

「俺の部屋は、親父の隣。お前、親父の隣で女房といちゃいちゃ出来るか?」

 龍之介の剣幕に、新吉がぶるぶると首を振る。

「俺は華といちゃいちゃしたいんや!!」

 龍之介がそんな事を叫ぶので、新吉が思わずぶっと吹き出した。

「笑うな!!」

「す、すいやせん。でも……」

 新吉が、少し俯いた後でもじもじとしながら、背の高い龍之介の顔を見上げる。

「なんだ。坊ちゃん、いっつも大人みたいにしてらっしゃるから、お華様の方が坊ちゃんに惚れ込んでらっしゃるのかと思ってましたが」

「は? 何言うてんねん、俺がお華に惚れ込んで。小石川に団子やらまんじゅうをこつこつ運んで……。やっと恋人としてクチ聞いて貰ったのが、3ヶ月目。それからすぐに親父には結婚の許しは得たけど、こんどはあの兄貴や。旦さん口説き落とすのに1ヶ月。やっと、恋人として認めて貰えたのが、……つい昨日やねん。祝言を挙げさせてもらう代わりに、たつの屋へのお引っ越しはナシや。嫁の兄貴と、自分の親父に挟まれながらの新婚生活……泣けるでぇ……」

 そう言って、龍之介が大きく溜息をつく。

「お華さまと祝言をお挙げになるんですか、それはおめでとうございます」

 お華とは旧知の仲の善吉が、龍之介に笑いかけた。

「小石川の療養所でお華に祝言を挙げさせてやるのが旦さんの夢やったが……祝言は大黒屋や。お父ちゃん、俺の衣装よりお華の衣装。今から最高級の絹糸を揃える言うて……」

 婿であるテツジの妹は我が娘も同じこと、と、娘のりさの祝言にひきつづき、お華の祝言も大黒屋で挙げさせると張り切る父親の顔を思いだしながら、龍之介は善吉に向かって嬉しそうに微笑み返す。そして、じっと、はる菜の顔を見つめた。

「……はる菜って名前も可愛いんやけど……外の世界に出たんや。新吉、お前、はる菜ちゃんに新しい名前考えてやらんか」

 急に名付けの話を振られて、新吉はたじろいだ。

「い、イヤですよ坊ちゃん。俺とはる菜はいますぐ夫婦になるわけじゃないんです。もし別れたら、こいつ、一生俺が付けた名前背負うんですよ。その方が可哀想でしょう?」

 新吉があまりにも嫌がるので、龍之介が呆れたように新吉の顔を見下ろす。

「ほんなら、俺が名前つけたろうか」

 龍之介が穏やかな口調でそう告げて、はる菜の顔を見つめた。

「せやなあ。今日から、はる菜ちゃんは、なずなや」

「なずな?」

「はるのなっぱやからな。せり、なずな、ごぎょう、はこべら、ほとけのざ。すずな、すずしろ」

 指を折って、龍之介が春の七草を数える。

「なずなって、ぺんぺん草じゃないですか」

 善吉が、便所の傍に生えている草の名など可哀想だと顔をしかめる。

「そやけど、なずなの花は小そうて可愛いよ。どこにでも生えて、生きていける。強い花やで」

 龍之介がそう言うと、当のはる菜が笑った。

「気に入った。あちきは今日からなずなの御名を承りんす。坊ちゃん、ありがとうございます」

 はる菜改め、なずながにこりと笑う。

「そうか、それはよかった。そやけど……もうそろそろ所帯も持つんや……その、坊ちゃんは辞めてくれんか。言われ慣れてへんから、どうにもこうにも痒うてこそばいねん」

 ボリボリと自分の腕を引っ掻きながら、龍之介が顔をしかめる。

「……ですが、なんとお呼びすればよろしいんで?」

「そら、お前……たつの屋の旦那さんやがな」

 龍之介が、元々大きな口を更に大きく開けて笑う。

「そりゃあ、坊ちゃんからえらいご出世ですね」

 新吉も笑った。

「だけど……大黒屋からたつの屋までは遠いでしょう。お華様が毎日お通いになるのは無理だ」

「華は今まで通り、夏は小石川。冬は大黒屋。夫婦や言うても……」

「だったら、もう少し」

 新吉は言った。

「一緒にいられる日は、お華様と一緒にいてあげてください。いちゃいちゃしなくて良いから」

 新吉にそう言われて、龍之介はきょとんとした顔で、新吉を見た。なずなが、ぶっと吹き出し、善吉がそんななずなをみて困ったように笑った。



 夜の仕事が控えているという善吉とは別れ、龍之介と新吉、なずなが大黒屋に帰ると、姉夫婦が住まいにしている離れにある小さな台所で、りかをおぶった華が、直太朗と一緒に団子を作っているのが見えた。   

「華~~、腹減った」

 龍之介が、背中側からりかごと華を抱きしめる。

「まって龍ちゃん、いまお団子作ってるから」

 そう言われて、龍之介は直太朗が握ったばかりの、丸なのか四角なのか分からない形の団子を口に入れる。

「あ! なおちゃんの!」

 直太朗が怒ったようにげんこつを振り上げ、机を叩いてみせた。

「ええやん、な。ちょっとだけ、おっちゃんに頂戴」

 龍之介のおねだりに、直太朗が「ええよ~~」とやっと生えそろったばかりの小さな歯を覗かせる。龍之介が、「ありがとさん」と呟いて、直太朗の小さな口に、きな粉をまぶした団子をぽんと放り込んだ。

「おいちい!」

 直太朗が団子の粉をたっぷり付けた手で自分のほっぺたを支え、自分の身体を揺らすと、

「おっちゃんも、おいちい」

 龍之介もその可愛らしい仕草をまねる。そうして、直太朗と二人、顔を見合わせてゲラゲラ笑った。

 そんな様子を眺めながら、新吉は踵を返した。なずなが心配げに新吉の顔を覗き込む。そんななずなの手を、新吉は乱暴に握った。

「借金五十両ある! まだ十七だ! 実家が遊郭で、いつかは俺はそれを継がなきゃならねえ。年季の上がる遊女と違って、お前は俺について、これから一生、あの郭の中で暮らさなきゃならねえ! お前はまだ十九だ! 逃げようと思えば、いつでも逃げられる!」

 新吉の強い言葉に、なずなは一瞬、呆然とした目で新吉を見つめた。

「遊郭に買われた女は地獄だが、それを使う男も地獄……天に昇るは、一刻いっときいくらで女を買う、お金持ちのダンナだけ……」

 いつか、新吉が呟いた言葉を、なずながポツリと呟いた。

「新さんみたいな優しいお人が、そんなお商売続けられるとは思えない……」

 なずなが、離れの台所にいる若い恋人達を見つめる。

「……あたしは、新さんはこのお店にいることが、幸せだと思う。だけど……あたし、静かにあの長屋で新さんの帰りを待ってるなんて、退屈すぎて死んじゃう」

 そう言って、なずなは新吉を振り返った。

「新さんの言うとおり、借金五十両。すぐに返せない額さね。あたしだって、どっかの茶屋か居酒屋で働くことにするよ」

 そうはいっても、と、新吉はなずなを案じる。

 何処の田舎からかは知らないが、七つで桃源楼にもらわれてきてから、なずなは一度も吉原の外の世界を見たことがない。田舎は雪で閉ざされた寒いところだったから、貰われてくる前のなずなの記憶は、囲炉裏の傍で鼻をすすりながら妹や弟のためにおむつを縫っていたことくらいしか覚えていないそうだ。

「心配ない。すぐ慣れるよ。それに、あたし、きよ菊姐さんの年季が明ける前には若旦那に借金返して、桃源楼に帰りたくてね……」

 ふと、どす黒い顔になって、なずながそう呟く。

「あの姐さん……なにがお袋様からあたしの身の安全をお引き受けしていただ……自分が野菊姐さんやいく菜姐さん、のり香姐さんが怖いもんで、全部あたしに言わせようとするんだ……姐さん達に説教受けるのは、全部あたしだったんだよ!」

 怒りをあらわにして、なずなが新吉を睨み付ける。

「こんど桃源楼に帰ったら、あたしは新さんの奥様。桃源楼の若女将だから、あの姐さんより立場は上さね……今まで受けた説教の数々……みてろあのクソババア……」

「俺の奥様って……お前……」

「そういうこと。善さんが帰ってきたら……三人……善さんの奥様と、四人でやろう。あんた達だけで、桃源楼を……吉原を背負うことはない。若い遊女達の苦しみも悲しみも、あたしが引き受けてやりたい」

「はる……」

 夕暮れの空が、なずなの頬を伝う涙をオレンジ色に染めた。

「新さん。あたしの名前は、なずなだよ」





 遊廓ゆうかくは、公許の遊女屋を集め、周囲を塀や堀などで囲った区画。成立は安土桃山時代にさかのぼる。別称として、花街、廓、色里、遊里、色町、傾城町などがある。

 江戸に遊廓が誕生したのは慶長17年(1612年)である。駿府(今の静岡市)の二丁町遊郭から遊女屋を移して日本橋人形町付近に遊廓がつくられ、これを吉原遊廓と呼んだ。大坂の新町遊廓、京都の島原遊廓、江戸の吉原遊廓は、三大遊廓と呼ばれて大いに栄えた。


吉原遊廓は明暦の大火で焼失。その後浅草山谷付近に仮移転の後、すぐに浅草日本堤付近に移転した。人形町付近にあった当時のものを「元吉原」、日本堤付近に新設されたものを「新吉原」とも言う。


江戸時代の遊廓は代表的な娯楽の場であり、文化の発信地でもあった。上級の遊女(芸娼)は太夫や花魁などと呼ばれ、富裕な町人や、武家・公家を客とした。このため上級の遊女は、芸事に秀で、文学などの教養が必要とされた。


Wikipediaより抜粋





――遊郭に買われた女は地獄だが、それを使う男も地獄……天に昇るは、一刻いくらで女を買う、お金持ちのダンナだけ……


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大江戸いろは(短編集) でんでら TACO @TACO2016

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