乙姫様

椿叶

乙姫様

「乙姫様、またため息ですか」

 そばにいた侍女が苦笑した。

「幸せが逃げてしまいますよ」

「じゃあ飲み込めばいいかしら」

 乙姫が近くの空気を飲み込む素振りを見せると、侍女だけでなく、通りかかった踊り子も笑った。

「何にため息ついているのです? 浦島様のことですか?」

「……」

 浦島か。

 浦島がこの竜宮城を去ったのは、つい最近のこと。それから、乙姫はため息ばかりついている。

「浦島様、玉手箱を開けたのですかねえ」

 侍女が呟く。

「さあ、どうかしら」

 そう口では言っても、乙姫は浦島が玉手箱を開けたような気がしてならなかった。

 人間とは、何かを禁止されると、逆にやりたくなるものだ。きっと浦島も、玉手箱の中身が気になって開けただろう。

 浦島が戻った陸では、相当な時が流れている。ここで感じる時よりもずっと速く。浦島の家族や知り合いはもういないに違いない。おかしいな、おかしいな、と陸をさまよったことだろう。

「箱を開けたら死んでしまうのにね」

 例え箱を開けていなくても、もう老いて死んでいるかしら。もう陸では、それくらいの時が流れているでしょうから。

「私、もう一度陸に行きたいわ」

「また虐められても知りませんよ」

 侍女がお茶を入れながらクスクスと笑う。その様子に、少し苛立った。

(私は本気で言っているのよ)

 浦島は今どうしているのだろう。死んでいるのはわかりきっているが、それでも気になる。彼が魚を釣ったりして、のんびりと生きているのを見て安心したいのだ。

 浦島を帰さなければよかった。ずっとここにいて欲しいと言えばよかった。そうすればこんな思いしなくて済んだのに。

「乙姫様、浦島様のことが好きでしたものね。会いたいんでしょう」

「うるさいわね」

 あなたに言われたくないわ。そんなに軽い調子で言わないでちょうだい。

「失礼しました」

 そう言いながら、侍女は何かものを取りに行った。その後ろ姿を少しだけ睨みながら、またため息をつく。

 また浦島に会えたらどれだけいいだろう。浦島が帰ってから、ずっとこのことばかり考えている。

 陸に行きたい。この竜宮城から出て、海を泳いで、陸に行きたい。

 もう一度、浦島に会いたい。

 乙姫は立ち上がって、外に向かって歩き出した。

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乙姫様 椿叶 @kanaukanaudream

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