第10話第 サイリウムとミヤコさん


 なんだか最近、ミヤコさんの様子が変だ。中庭での事件以来、俺たち一年生組とどことなく距離を取っている気がする。部活中は一人で本を読んだり、していることが多いし、俺たちの雑談にも入ってこない。

 今だってそうだ。今日の活動は、秋葉原での発掘物の、最後のレプリカのお披露目だというのに、議論にほとんど入らずに、レプリカを取り囲んでいる俺たちをぼぉっと眺めているだけだ。前回のように俺たちがどんな議論を展開するのか目を光らせているふうでもない。マネキンみたいに、ただそこにいるだけという感じだ。

 そんなミヤコさんを尻目に、アケミとイマムラがレプリカの使途について激しく論争している。

「だから、何回も言っているようにこれは、魔法少女戦士のステッキよ!この持ちやすさと降りやすさからしてそれ以外ありえないわ!」

「いやいや、この前のステッキと全然違うじゃないですか!棒状の物全部ステッキに見える病気にかかってるんじゃないですか?これは道路交通警備員が持ってる誘導灯ですよ!あの工事現場の近くで車を止めたり勧めたりするアレです!だってパッと見そうでしょう!それ以外ありえません!」

「そんなもの後世に残しておいて何になるのよ!」

「ハウスワーカーのユニフォームがあるんですから、道路交通警備員の誘導灯があってもいいでしょう!」

 今回、箱の中から見つかったものは一つ、全長三十センチ、太さ直径二センチほどの円柱形をした棒だ。持ち手の付いた蛍光灯のようなもので、持ち手にあるボタンを押すと蛍光灯が光る仕組みになっている。重さはごく軽く、文庫本くらいだろうか。持ち手があるところを見ると、置いたり吊るしたりする照明器具ではなさそうだが…。

 二人の議論は平行線をたどっていて、このままだと永遠に結論が出ないような気がする。魔法少女戦士の人形の時の議論とほぼ同じ流れだ。となると、ここで俺がまとめ役として仲裁するのが定跡なんだけれど…、今回に限ってはどちらの意見も的外れな気がするんだよなあ。でも「気がする」だけだから論理の力で二人をねじ伏せることもできない。

「はあ、アケミさんと話していても仕方がないですね。ソネくんはどう思いますか?」

「そうよ。さっきから黙ってばかりだけど、アンタはどう思うのよ」

 俺の考えもあると言えばあるが、正直それほど自信がない。今までだんまりでいたのもそれが理由だ。

「あまり言いたくないな。多分正解とはかけ離れた答えだとおもうけれど」

「言ってみなさいよ。笑ったりしないから」

 いや、笑ってくれたらいいんだけれどね…。ま、駄目でもともとで言ってみるか。

「こういう光る棒ってさ、俺としてはあれにしか見えないんだけれど」

「あれって何よ」

「…大人の玩具的なやつ」

「はぁ!?」とアケミが怒鳴った。ほらね、やっぱりこうなる。

「アンタ頭湧いてるんじゃないの?」

「いやいや、アケミさん。実際あるんですよ。こういう風に光る玩具が。まあ僕も映像でしか見たことがありませんけどね」

「なぜそんな無駄なギミックを…」

「ま、光ってのは交感神経を刺激しますからね。より興奮するんじゃないですか」

 アケミが「ハァー」と深くため息をつきながら、頭を手で押さえて頭痛に耐えるようなポーズとした。構わず俺は続ける。

「アンタ、そんなもんばっかり見ているから馬鹿なんじゃないの!?」

「イマムラだって同じくらいみているはずだけど、学年上位の成績を残しているぞ」

「勉強できるできないの話ではないの!ほんっとこれだから男子は…。ミヤコさんはどう思いますか?」

 アケミがナチュラルに話をミヤコさんに振ってくれた。よし、よくやったぞ。皆が一斉にミヤコさんの方を向く。

「うーん。皆良い説なんじゃないか?どれもあり得そうで、面白いよ」

 これは…やはりおかしい。ミヤコさん、なんだかおかしいぞ。

 確かにミヤコさんは、温厚で寛容で中立を重んじる人だ。誰かの意見に肩入れするのをあえて避けるということも今まで何度かあった。しかし、泣きついてきた俺たちを放置することなんて今までなかった。指示はしないが示唆はする。断定はしないが主張はする。ミヤコさんとはそういう人だった。路頭で迷っている俺たちに、答えへとたどり着くヒントをくれる、そういう存在だった。それが今日はどうだろうか。こうして突っぱねられるなど、今までなかったことだ。顔つきもどことなく怖い。サメや爬虫類みたいな冷たい目をしている。

 素っ気ない言い方をされて、アケミも「そ、そうですか」と困惑した様子だった。それ以降アケミはミヤコさんに何か尋ねることは無く、議論は尻すぼみとなっていき、発掘物がいったい何なのかという結論も次以降に持ち越しとなった。

 部活が終わった後、俺はアケミとイマムラに声をかけた。

「ちょっと明日の放課後集まらないか」


 全国高校考古学部大会まであと二週間と迫った火曜日の放課後。

 考古学部一年生トリオは学校最寄りの学生喫茶に集合していた。試験期間が終わったにも関わらず、奥にある特別学習ルームからあぶれた学生たちが我々のまわりで教科書や参考書を広げている。さすが学園都市つくばといったところか。

 議題は最近のミヤコさんのおかしな様子についてだった。アケミが周りの学生の迷惑にならないよう声を抑えて話す。

「やっぱりソネも変だと思ってたんだ。ミヤコさんのこと」

「言われてみれば、確かにそんな気もしますね。最近妙によそよそしいと言うか、避けられているというか」

「ソネ、ミヤコさんに何かしたんじゃないでしょうね」

「してないしてない。ミヤコさんの前では、いつも通り振舞っていたはずなんだけれれど…」

「まあ、いつも通りって時点で愛想つかされてもおかしくないんだけれどね」

「いやいや、そんなことないだろう」

「アンタ自分じゃ気が付かないのかもしれないけれど、結構きわどいこと言ってるわよ。縫い目だの玩具だの…」

「あれは仕方ないだろう?たまたまそういう考察に辿りついちゃったんだから」

「そう?アンタ、面白がってなかった?」

「いやいや至って真面目だったね。それにミヤコさんがそんなことで腹を立てるような人かね?違うだろう?」

「そうねぇ…」とアケミが手元のグラスに口をつけた。注文していたのは確か、「はちみつのレモンづけ」だ。あんな甘いものよく飲めるな。一度飲んだことがあるが、歯が溶けるかと思うほどだった。

 ていうか、なぜ俺のコーンスープはいまだに届かないんだろう。あれって作るのにそんな手間暇がかかるものなのか?

「あんたのセクハラ事案何て今更だもんね」

「大会の準備なんかで最近忙しいですから、ミヤコさんもちょっとストレスが溜まってきているんじゃないですか?あんな大発見があった分、気負ってしまっている部分もあるのかもしれません」

 イマムラがミドリムシジュースをストローで吸い上げながら答える。ミドリムシジュースはその名の示すようにミドリムシを大量に入れた後大量の砂糖で味を締めたドリンクだ。植物でもあり動物でもあるミドリムシを摂取することでタンパク質とビタミンを手軽に効率よく摂取できる栄養機能飲料らしいが、俺はとても飲む気にはなれない。

「うーん、でも自分の気分で俺たちへの対応がいい加減になるような人でもないと思うんだよな」

「すると、やっぱり、中庭での事件が気に障ったのかしら」

 アケミがグラスの水面に目を落としながら言った。

「やっぱりアケミもそう思うか」

 俺は右手をついて身を乗り出す。

「アケミさんが素っ気なくなったのも、それからなんだよね」

「ミヤコさんは『怒っていない』と言ってくれていたけれど、やっぱりもう一度、きちんと謝った方が良いのかしら」

「そうですね。あのあと先生がたから色々言われたのかもしれませんし」

 イマムラのドリンクがなくなり、ストローの底がジュジュっと音を立てた。イマムラは「すいませーん」と手を上げて店員におかわりを頼んだ。ミドリムシジュースはタダでお代わりができる。在庫処分のための苦肉の策にしか思えないが…。

 ていうか、俺のコーンスープは!?ちゃんと注文が通っているのか?

「ソネくんはどう思いますか?謝ったほうがいいですかねえ」

「んー、そうだなあ。まあ、謝って損になるってことはないと思うけれど…」

 問題は中庭の件にあると思うのだが、単純に俺たちが勝手な行動をとったからこういう事態になっているわけではないと思う。ミヤコさんのことだからもっと複雑な感情が中で渦巻いていることなんだろうけれど、それが具体的にどのようなものかはちょっと想像がつかない。

「とりあえず明日、謝罪はしておこうか。それでもミヤコさんが元に戻らなかったら、俺たちのどこか悪かったのか低頭して聞くしかないよ」

 イマムラとアケミは頷いてくれた。基本方針が定まったタイミングで、ようやくコーンスープが給仕された。

「全く、遅いなあ」

「仕方ないですよ。コーンスープって作るのに結構手間がかかりますから。コーンスープのとろみは長時間の煮込によって鶏ガラから出たコラーゲンによるものですからね。温めなおすのも一苦労なんです」

「へえー、そうなんだ。イマムラはなんでも知っているんだなあ」

「んなわけないでしょ馬鹿ねえ」

「じゃあ、アケミさんはどうやってコーンスープを作っているか知っているんですか?」

「ええっとそれは…コーンをミキサーにかけたりして…えーっと」

「ほら、アケミさんも知らないじゃないですか。駄目ですねえ、そんなんじゃ誰も貰ってくれませんよ?」

「うるっさいわねえ、コーンスープなんて袋から粉空けてお湯を注げば事足りるでしょ!もう産めや増やせやの時代はおわったんだから、女は家事ってこともないでしょ!」

 そんな雑談をいていたらあっという間に六時を過ぎていた。ずいぶん時間がたつのが早いなと互いに言いつつその日は解散となった。


 結果から言えば、謝ってもミヤコさんの態度は変わらなかった。

 読書中のミヤコさんに頭を下げたところ、「や、気にしていないから」と、再びすぐ本に目を落とされてしまった。思い切って俺たちのどこが気に入らないのか聞いてみたが、「別に、そんな気持ちは特に持ち合わせていないんだけどなあ」と返され、取り付く島もなかった。

 もう大会まで時間がないため、棒型ライトの考察は一旦保留になり、煮え切らない空気の中発表の準備が始まった。ミヤコさんの対応は大差ないのだが、部全体の雰囲気は俺たちが謝ってから確実に悪くなっている。今まで水面下に隠してきた問題が表面化してしまったのだから当たり前だ。

 どんよりとした雰囲気の中で原稿を考えていると時々息が詰まりそうになる。イマムラとアケミもどことなく元気がない。そしてアケミさんも…明らかに落ち込んだ様子だ。猫背で机に向かいながら時々ため息を漏らす様子は明らかにおかしい。

 この状況を終わらせたいというのは考古学部全員の願いだと思う。一週間後には大会が控えているんだから、それまでにはわだかまりの無い状態にしておきたい。となると、もう時間がないぞ。迅速な行動を心がけねば。

 ミヤコさんの不調の原因が何なのか本人が教えてくれないならば、こちらで推理するしかない。分からなかったら調べる、考える。これがミヤコさんから教えてもらった考古学部スピリットだろう。

 俺は一度ミヤコさんとの会食を経験しているから、ミヤコさんがどういった悩みを抱えていたかが分かる。ミヤコさんは自らが部長としてふさわしいのか、また俺たちを一人前の考古学部員に育て上げることができるのか心配していた。

 きっとできの悪い俺たちが中庭で事件を起こしてしまったせいで、アケミさんはいよいよ俺たちに愛想をつかしてしまったのだろうとベットの中で一晩考えて結論付けた。だとしたら我々にできることは…。

 

「ミヤコさん!我々から言いたいことがあります!」

 週が明けた月曜日、一年生トリオは気を付けの体勢でミヤコさんの前に並んだ。いぶかしげな表情でミヤコさんが尋ねる。

「どうしたんだ、揃いも揃って」

「ミヤコさんに見てもらいたいものがあるんです。イマムラ、例の物を出してくれ」

 イマムラがバッグの中からホチキスで纏められた紙の束を取り出して、ミヤコさんに手渡した。ミヤコさんは一枚一枚捲りながら確認していく。紙にはカラー刷りで写真やグラフが乗せられている。

「これは…」

「大会での発表の資料ですよ。三人で、土日返上で作ったんですから」

 ミヤコさんの信用を取り戻すためにできること、それは俺たちも少しずつ成長しているということをアピールするほかないと考えた。三人で何回も推敲を繰り返したからそれなりにデキの良いものになっているはずだ。これを聴衆に配布するか、カメラで拡大してスクリーンで映せば、今すぐにでも秋葉原からの発掘物群について発表することができる。イマムラの家のコンピュータで一からグラフや表を作るのは、三人の力を合わせてもなかなか大変だった。

「総枚数二十五枚です。結構大変だったんですよ」

 とイマムラが鼻をならす。

「何か不備や間違いがあるなら、遠慮なく指摘してください」

 アケミが資料に目を落とすミヤコさんに声をかけた。ミヤコさんの肩がわなわなと震えている。もしかして感動のあまり涙を?

「どうして…」

「どうして?」

「君たちは…」

「僕らは?」

「いつもいつも…いっつもいっつも私を仲間外れにするんだ!」

 ミヤコさんが資料を高く放り投げ、叫ぶ。その声の大きさに驚いて窓のすぐ外の桜の枝に止まっていた小鳥が逃げ出してしまった。ミヤコさん、大噴火である。呆気にとられた俺たちは、天井高く舞い上がる資料を見上げることしかできなかった。

「いっつもそうじゃないか!今回もそう!中庭のときもそう!私が誘っても来てくれないのに、三人で学生喫茶に行く約束もしてたしさ!」

 紙がひらひらと舞い降りながら床にゆっくり着地していく。その様はまるで火山灰のようだった。そのうちの一枚がミヤコさんの眉のあたりをかすめていった。目じりには涙が溜まっているように見える。

「私が二年生だからか!?一年生と二年生が絡むのってそんなに不自然なことなのか!?それとも単純に私のことが嫌いなのか!?だとしたら何故!?今までそんなきついことを言ってきたか!?いったい私のどこが悪かったんだ!?」

 俺はまずこう思った。

「子供か!」

 でもよくよく考えればミヤコさんも俺たちより学年が一つ上なだけなのだ。子供であって、当然なのである。

「教えてくれ…。どうすれば仲間に入れてくれるんだ…」

 ミヤコさんがこうべを垂れて跪く。上から見るミヤコさんがとても小さかった。幼稚園児のようにしくしく泣いているミヤコさんに、手を差し伸べる。

「良かったです。安心しましたよ。ミヤコさんの変調がそんな理由で」

「そんな理由でとは何だ。私は物凄く、悩んだんだゾ!」

 ミヤコさんは俺の手を取ろうとしなかった。鼻声で、涙ながらに語る。

「そんな理由ですよ。要は寂しいから友達になろうって、そういうことですよね」

「そんな簡単な問題じゃない!」

「それなら、今から思う存分語ってください。あなたの内にあるモヤモヤを、俺にぶつけてください」

 俺はしゃがみ込み、ミヤコさんと同じ目線の高さになる。ミヤコさんがぼそぼそと独り言のように話し始める。

「私は、先輩のように、良い先輩にならなければいけないと思っていた。皆を先導して、高いレベルに連れていくことができる存在にならなければいけないと思っていた。でも、私がやりたいことはそうじゃなかった本当は…」

 今まで俯いていたミヤコさんがようやく顔を上げてくれた。両目じりから顎にかけてくっきりと川ができている。ミヤコさんは声を震わせながらも、力強い口調で言った。

「本当は、皆と一列に並んで、同じ景色を見ながら、君たちと考古学部をやっていきたかった。結局子供なんだ、私は。先輩のようにはなれないから、君たちの先輩になるのを拒みたかったんだ」

「子供であることと、良い先輩であることは両立できると思いますけれどね」

 ミヤコさんの目をまっすぐ見て言う。潤んだ目の表面はとても澄んでいて、凝視すれば反射した俺の顔が見えそうだ。

「別に先輩を目指す必要はないんですよ。ミヤコさんなりの先輩像を見つけたら良いんです」

「私なりの…」

「俺たちも認識を変えないといけませんね。今までミヤコさんに引っ張ってもらおうと、頼りっきりでしたから。これからは隣に歩けるくらいに、実力をつけていかないと」

 俺はもう一度右手を差し出した。ミヤコさんは初めて手をというものを見る赤ん坊のようにまじまじと凝視した後、涙や鼻水で濡れた手をポケットタオルで綺麗にふき取って、やっと俺の手を掴んだ。俺が腕を引き上げる必要なく、ミヤコさんが自分の力で立ち上がった。

 俺の背中の方で、勢いよく鼻をすする音が聞こえた。振り返ると、アケミが色んな体液で顔をぐしゃぐしゃにしている。

「ミヤコさん!」

 それは突進と表現して良かったと思う。それくらいの勢いでアケミがミヤコさんの身体に抱き着いた。

「私、全く気がつけませんでした。ごめんなさい。ミヤコさんがそんな風に思っていてくれたなんて、私嬉しいです。やっとですね。やっと本当のことが言えて。これからもっと楽しくなりますよ」

 落ち着いてきたミヤコさんが、アケミにつられて再びぐずり出す。

「うぐぅ、君は、良いのか。こんな部長で」

「当たり前です。これからもよろしくお願いします、ミヤコさん」

 そしたら二人とも赤ちゃんみたいに大泣きし始めてしまった。慟哭が部室中に響き渡る。ここだけ切り取ったら生き別れの姉妹が感動の再開を果たしたドラマのワンシーンみたいだ。その感動的な場面を、俺たち男性陣が撮影スタッフのように一歩下がって見守っている。

「隣の部室に聞こえていませんかね」

「聞こえてるだろうな。でも構わないさ。このドラマチックな和解に比べたら、そんなこと屁でもない」

「にしてもアケミさん、役得ですね。ミヤコさんに抱きつけるなんて」

「女子はいいよな。気軽に女子とボディタッチできるから。男子だったらこうはいかない」

「ソネ君もやっぱり、ああいう風に全身で喜びを分かち合いたかったですか?」

「…突っ込んでみるか」

「マジですか」

「物は試しだ。さあ行くぞ、イマムラ!」

 イマムラと一緒に、抱き合っている二人の元へ、オアシスにたどり着いたカエルのごとくダイブする。飛び込んだ先のおしくらまんじゅうをぱっくりいただく予定だったのだけれど、ぐちゃぐちゃの表情とは裏腹、案外彼女らは冷静で、するりと滑るようにかわされた俺たちは地面に激突するほかなかった。

 床の上で二段に重なって伏している俺たちを見て、ミヤコさんが慌ててしゃがみ込む。

「大丈夫か!?すまん、とっさに避けてしまった」

「ホント、油断も隙も無い連中ね。こんなら奴にかまう必要なんてないですよ」

 やっぱりミヤコさん、優しいなあ。それ比べアケミときたら。強く打ち付けた肘や膝が物凄く痛い。イマムラが上に乗っかってきたせいで、体重の二倍近いGがかかったのだ。

 が、しかし、これで良い。今まで検証作業などで忙しかったから、こういうじゃれ合いは久しぶりだ。良いアイディアとは、こういった遊び心なくしては生まれない。

 身体の色んな場所が痛いけれど、不思議と活力が漲ってくる。覆いかぶさるイマムラを除けて立ち上がり、俺は高らかに宣言する。

「さあ、それじゃあ早速、新生考古学部活動開始です!我々にはやり残した仕事がありますからね!」


 残した仕事とはもちろん第四の発掘物、つまり「蛍光棒」の使途の再検討である。部室のロッカーから箱ごと取り出してきて、机の上に並べ、四人で囲む。四人で。

「ミヤコさん、前回俺たちが言ってたこと、覚えていますか?」

「大丈夫だよ。議論には参加していなかったけれど、聞き耳はちゃんと立てていたから」

 ミヤコさんは早速棒状のライトを手に取った。

「それじゃ、まず光ることによって発生するメリット・デメリットについて考えてみようか。棒を光らせることで、光らない棒とどのような差が生じるか」

「はいはい」とイマムラ我先にと手を上げる。

「目立ちますよね。特に暗闇で」

「逆に言えば暗闇で目立ってしまいますよね。だから人を殴るような武器なんかじゃないはずです」

「棒を見れば殴りたいと言っていたあんたが言うと説得力があるわね。あと、辺りを照らすことによって視界が広がるというメリットもあるわよ。何にせよ、暗闇で使うものとみて良さそうね」

 ミヤコさんは俺たちの話を一つ一つ頷きながら聞いてくれた。

「つまり、自分が相手に見つかる目的と、自分が何かを見つける目的。この二つに大別されると考えていいかな」

「異議なしでーす」と三人の声が揃う。ミヤコさんがタイヤのパンクのようにクスリと噴き出してから続ける。

「うん、それじゃあ、この光る棒と蛍光灯の違いは何だろう。持ち手が付いていることで何が変わるか」

「はいはーい」とまたもやイマムラが声を上げる。

「持ち運びができるようになります。電池燃料だから電源が無い場所でも使うことができます」

「あと振ったり投げたりすることもできますよ」

「夜、屋外に持ち出して、振ったり投げたりすることができる蛍光灯ですか。こうして改めて言葉にしてみると、謎しか残りませんね」

 アケミが眉間にしわを寄せて首を捻ると、ミヤコさんが嬉しそうに人差し指を立てた。

「そう、その通り。言葉というものは思考の痕跡でしかないから、実態がなく分かりにくい。そこでだ」

 ミヤコさんがコホンと咳ばらいをしてから言った。いかにも「用意してきました」という感じだ。

「ここは実践と行こうじゃないか。新生考古学部、最初の課外活動だ」


 晩秋のつくばには筑波颪(おろし)という冷たい風が吹く。ノコギリザメの虫歯のような筑波嶺の尾根に冷やされた偏西風が市街地に吹き降ろしてくるので、帰宅のため駅に向かう人は皆寒そうに脇と二の腕をくっつけている。

 我々は駅へ向かうメインストリートを外れて人気の少ない道へと入っていく。目的地は「科学万博記念公園跡」だ。前史時代ここで大きな科学の祭典があり、その跡地に記念公園を作ったのだと郷土史の授業で習った。言うなれば跡地の跡地というわけである。今では池と林と申し訳程度の遊歩道があるばかりで博覧会の痕跡は跡形も残っていない。なぜこんな僻地で博覧会など催したのか、その理由は未だによく分かっていない。

 筑波颪に急かされて予定よりも少し早く目的地に着いた。生い茂る木々の間に遊歩道の入り口がモグラの巣のようにぽっかりと開いている。筑波颪が絶え間なく吹いていて、枝が葉を擦らせる音があたりに響いている。もしかしたら駅へ続くメインストリートのエンジン音よりも大きいかもしれない。時刻は六五十五分。日は完全に落ちているから問題なく課外活動を実行できる。

「電灯も付いていないのね。こんなに寂れた場所だったかしら」

「小さいころは街路灯がぽつぽつあったんですけれど、なくなってますね。コストカットの憂き目にあったんでしょう。人が増えて社会保障費もどんどん上がっていますからね。行政も大変ですよ」

 俺のすぐそばにぼんやりとイマムラとアケミの顔がある。口から吐き出される白い息が月の光を反射してきれいだ。

「これだけ月の光が明るいとそんなに怖くないわね。こんなところ、誰もこないだろうし」

「こちらは四人いますからね。もし危ない奴が襲ってきても力を合わせれば追い返せるでしょう」

「まあ、あんた等が何かしでかさないかって不安もあるんだけれどね」

「そんなことしませんよ。もうちょっと僕たちを信用してくれてもいいんじゃないですか?」

「ここだと月の光でまだ明るいな。森の奥に入ってみないか?」

 ミヤコさんの提案にアケミが少し心配そうに聞いた。

「大丈夫ですかね?いや、そりゃあ人も動物もこんな場所にいないでしょうけど、足元に何があるかわかりませんし」

「大丈夫だ、うちにはコレがあるんだからな!」

 ミヤコさんが満を持して自らの鞄の中から例のライトを取り出して、電源を入れた。カチリと子気味の良い音とともにパッと半透明の棒が輝く。ミヤコさんの自信にあふれる表情が照らされた。

「ほら、これで周りも見えるし、はぐれることもなくなる。電池で光るたいまつということだな。それじゃ、行くぞ!」

 などと勇んで出発したはいいものの、このライト、周りを照らすには光量が少なく、照明としては不十分であった。ミヤコさんの手元がぼんやりと明るく浮かぶだけで、肝心の前方および足元まで光が及ばない。

 結局我々は牛のようなスピードでゆっくり慎重に進むほかなかった。遊歩道として足元がコンクリで整備されているのが救いだ。

「…すまないな。思ったよりも進みにくくて」

「謝ることはありませんよ。これで携帯用の電灯として使われたという線は消えたんですから。こうやって徐々に絞り込んでいけば正解も自ずと分かってきますよ」

 ミヤコさんから棒を受け取って先頭を歩くイマムラが言った。ミヤコさんの計らいで棒をローテーションするこになったのだ。四人で棒を使うことによって四人分の「使用後の感想」を集められるというわけだ。

 歩みのペースが不規則なため何度も前を行くアケミの背中にぶつかる。ぶつかる度にアケミはこちらを睨んでくるので、早いうちにイマムラと先頭を変わってもらった。

 闇に手を広げた木々の枝が月の光を一筋も通さない。先頭はまさに一寸先は闇という言葉がぴったりだ。足を踏み出すともうつま先が見えなくなる。突然窪地や崖が現れるなんてことはまずないだろうが、念のため屈んで、足元を照らしながら進んだ。

 しかし、不思議と怖さは感じなかった。例え弱くても近くに光源があるだけでなんとなく安心する。警戒心のためか動悸はいつもより早いが、それがむしろ心地いい興奮を生み出していた。風が木々に遮られているおかげで寒さも和らいでいる。自然と口数も多くなって、議論も活発になった。

「辺りを照らして視界を広げるものじゃないとしたら、自分に相手の存在をアピールするものと考えて良さそうだなあ」

「屋外で自分をアピールしないといけないシチュエーションってどんな場合だろうね」

 列の一番後ろからミヤコさんの声が聞こえる。

「今みたいに、暗闇ではぐれないようにする時とかですか」

「いやいや、それこそ僕が以前言ったみたいな、誘導灯としての使い方が有力でしょう」

「夜道に歩行者が自動車や自転車に対して存在をアピールするためとか、そんな目的かもしれませんよ」

 ミヤコさんもイマムラもアケミも、心なしかいつもよりもはきはきしていてテンションが高いような気がする。興奮しているのは俺だけではないようだ。

「しかし、アケミくんとソネくんの説だと、別に棒状である必要性がないんじゃないか。相手に存在をアピールするだけだったらわざわざ片手を塞ぐような作りにする必要はない。やはり私は、振ることができるということが重要な個性だと思うんだ」

「ということは…!」

 イマムラが満面の笑みで言った。暗くて見えないが声色からしてきっとそうに違いなかった。

「今のところイマムラくんの説が最有力かな。しかしまだ結論付けるのは早い。ゆっくり検証を続けようじゃないか」

 俺が先頭に変わってから二分くらい経ったところで、ふいに遊歩道が広くなり、再び月の光が差し込んできた。林がぽっかり空いて、目の前には学校のプール大の池と、それを囲む丈の低い草っぱらが広がった。池の真ん中には月が写っている。上と下の二方向から明かりで照らされて、辺りは明け方のように明るい。

「ありゃりゃ。暗い場所を探していたら、いつの間にかもとより明るい場所に着いてしまったな」

「いや、でもこのくらい広い方が振ったり投げたりするには丁度良いですよ」

 俺は持っていたライトをブンブン振り回してみる。残像で、光が尾を引いたように見えた。暗闇に絵を描いているようで面白い。

「ちょっと、私だけまだ持たせてもらってないんだけど!貸しなさいよ!」

 楽しそうにライトを振り回している俺を見て、アケミが我慢できないという勢いで俺に飛びつきライトを奪った。アケミはまるで指揮でもやるかのように、なめらかな動きでライトを振ってみせた。

「これ、振ってるだけで結構楽しいわね!」

 アケミがライトを振るのを見て気が付いたのは、傍から揺らめく灯りを眺めているだけでもそこそこ楽めるということだった。不規則に揺れているライトを見るのは、蝋燭に灯った火を眺めるのに似ている。ゆらゆらとした灯りの挙動を見守るという行為は、人の原始的な部分を快くさせるのだと思う。

「もしかしたら、こういう玩具だったのかもしれないね」

 地べたに座りながら俺たちの挙動を見つめていたミヤコさんが、誰かに語りかけるように言った。確かに、そういうのもアリのかもしれない。

「ライトを振る」という行為は何も生み出さない。ただ振り回すだけの光る棒なんて、機能性と合理性を追求した現代では成立しない商品だろう。しかし、このライトは前史時代のものだ。もっと今よりもおおらかな時代に生まれてきたものだ。「振り回すだけの光る棒」なんて馬鹿げたものが世に出回っていてもおかしくないのかもしれない。

 ライトはいつの間にかイマムラの手に渡っていた。しばらく適当にライトを振り回していたイマムラがまじまじと手元を見つめていた。

「どうかしたか?」

「いや、さっきから虫が群がって来てしょうがないんですよね」

 なるほど、光が惹きつけるのは人間だけではないということか。

「まあ、水の側だからな。仕方ないだろ」

「ほら、見てくださいよ。こんなに大きな蛾が…」

「お、おう、そうだな」

「町で育つよりも森で育った方が大きくなれるんですね。ほら、アケミさんもどうぞ、なかなかこんなの居ませんよ」

「いや、フツーに見ないけど」

「つれないですねえ、チョウチョと同じじゃないですか。絹も作れる益虫なんですよ」

「うわ、馬鹿、近づけないでよそんなもの!」

 イマムラがライトを右手にアケミを追いかけている。ライトの先には、お腹周りをでっぷり太らせた蛾が一匹、黒い鱗粉をまき散らしながら律儀についてきていた。

 アケミは魔王の手先から逃げるが如くの必死さで全力疾走している。よっぽど蛾が嫌いなようだ。それを見てミヤコさんがカラカラと笑い声をあげた。

「ハハハ、中庭の時とは逆の構図だな。棒を持ったイマムラくんがアケミくんを追いかける」

「ちょっと!それだと私が追い付かれることになるんですけど!」

「いや、それ結構難しいんですよね。コイツ相当のデブで飛ぶのが遅いんですよ。コイツのスピードに合わせないといけないから大変で大変で。飛ぶことを覚えたばかりの小鳥のようなぎこちない羽ばたきというか。ほら見てください、お腹周りなんてゴムで縛ったみたいな段々重ねになっていて…」

「気持ち悪いから実況しないでちょうだい!」

「まうで虫を操る魔法使いのような気分ですね。アケミさんが最初に言っていた魔法少女戦士のステッキ説も案外アリなんじゃないですか?」

「虫を好きこのんで操る少女はいない!」

「アケミくん、もうちょっと頑張って走らないと!距離が段々と縮まっているゾ!」

 二人の追いかけっこを尻もちついて呑気に笑っていたミヤコさんだが、あることに気が付いて顔を真っ青にした。アケミがミヤコさんの方へめがけて逃げてきているのだ。

「おいコラ、こっちに来るんじゃないよ!」

「わざとじゃないですー、通り道にたまたまミヤコさんがいただけですー」

 ミヤコさんは急いで立ち上がるり、脱兎のごとく逃げ出した。アケミはそれを執拗に追いかける。もはや隠す気もなくわざとだ。かくして奇妙な三人鬼ごっこがここに出来上がった。イマムラがアケミを追い、アケミがミヤコさんを追いかける。ゴールは蛾が疲れて脱落するまで。

 この鬼ごっこを池のほとりで眺めていた俺は、猛烈な寂しさに襲われた。イマムラはもちろん、表面上は嫌がっているアケミやミヤコさんもどこか楽しくはしゃいでいるように見えるのはどうしてだろうか。ちきしょう、皆で楽しそうなことしやがって。自分だけ蚊帳の外というのはどうも気に入らない。

 ここで俺はふと、ミヤコさんもこんな気持ちだったのかもしれないと思った。だとしたら、ずいぶん悪いことをしてしまったな。この寂しさは、そんなつもりは無かったとはいえミヤコさんに悲しい思いをさせてしまった罰なのかもしれない。などとセンチメンタルな気分に浸っていると…。

「ソネ君、助けてくれ!イマムラ君をなんとかしてくれ!」

 と、ミヤコさんが走りながら俺のところに近づいてくる。

 ちょっと待ってくれ。男の子が全員虫大丈夫というわけじゃない。実は俺も虫は苦手なのだ。コバエくらいなら大丈夫だが、蛾は無理だ。数ある虫の中でも不快指数はトップクラスに位置する。モサモサした触覚、不安を感じさせる羽の色合い、自ら熱い電灯に突っ込んでいく間抜けさ、どこをとっても嫌悪感しか沸かない。

 俺は急いで立ち上がった。しかし夜露で濡れた草に足を滑らせて転んでしまった。頭の上で「うわっ」とミヤコさんの驚いた声が聞こえる。ミヤコさんの足が俺の膝に突っかかり、俺の上に覆いかぶさってきた。あばら骨の辺りに大きな衝撃が響く。思わず俺も「グエ!」と潰れたカエルのような声をあげてしまった。

 ミヤコさんに続いてアケミ、イマムラが将棋倒しに重なっていく。「ギャッ」「うわっ」「グエ!」。「おっとお!」「ギャッ」「うわっ」「グエ!」

 考古学部の四重の塔ができあがった。一番底の俺が三人の体重を一手に差さえている。重たいがその分役得もあって、今俺の胸の上にはミヤコさんの胸が乗っかっている。まあ、上から強い圧力がかかっているから、柔らかみとかは全く感じないのだけれど。

 などと考えている場合ではなかった。そうだ蛾!蛾が近くにいるはずだ。俺は足をばたつかせるよう試みたが、上の三人に押しつぶされて体を動かせない。こんな状態で蛾が近づいて来たらたまったもんじゃないぞ。耳を澄ますと、あのバサバサという不気味で不器用な羽音が聞こえてくる気がする。

「ちょ、退いて!みんな退いて!」

「二人とも、早く退くんだ!」

「ちょっとアンタいつまで乗ってるの!起き上がりなさいよ!」

「そうじゃないと蛾が!」「蛾が!」「蛾が!」

 地獄の亡者みたいに喚く俺たちを、イマムラは最上階から見ていた。神様みたいに余裕がある口調で眼下にいる俺たちへ語り掛ける。

「まあまあ、そう慌てることは無いですよ。僕も少し疲れたんで、ここらで休ませてください」

「何呑気なこと言ってんのよ!」

「虫が駄目な人間にとって蛾がどれほどの脅威なのか君は知らないんだ!」

「があああ!があああ!」

「ハハ、皆落ち着いてください。蛾がついてきたのなんてほんの最初だけですよ。しばらくしたら疲れてどこかに行ってしまいましたから」

 それを聞いて全身の力が抜けてしまった。なんてことだ。我々はイマムラにまんまと踊らされていたのだ。脱力感はお腹の上からも感じられた。二人とも安堵とやるせなさで体の力を完全に抜いてしまったようだ。その分の体重が俺にのしかかってきて、圧迫感は以前よりも強くなってきた。この重さ、全体で百四十キロと言ったところかな。イマムラが春の健康診断の時、「自分は体重五十五キロだった」と言っていた記憶がある。とすれば残りの数を二人で割るとすると、どれくらいの比率で…。

 頭の中でそんな計算をしていると、突如として四重の塔が倒壊した。二段目と三段目が緊張を緩めたためにバランスが崩れたのだ。まずは一番上のイマムラから順番に、アケミ、ミヤコさんと、続いて俺のお腹の上を去っていった。

 崩壊した四重の塔はそれぞれ地べたに寝転がると、疲労感と脱力感に従順になって草っぱらに体を委ねた。呼吸を続ける夜の草木が吐き出す冷気が火照った体に気持ちよく、起き上がろうとする気がなかなかおこらない。

 頭上の月と水面に映った月、二つの灯りに照らされて、猿の手のような木葉の葉脈が透けて見えるくらいに明るい。秋の夜空は星が少なくて寂しいというが、全くそんなことを感じさせない賑やかさだ。

 首を右に傾けるとすぐそこにミヤコさんの横顔がある。部室で座る席は何となく決まっていて、俺はいつもミヤコさんの対面に座ってきた。だからミヤコさんを横から見るというのは、これが初めてかもしれない。なんとなくだけれど、正面で見るよりも少し幼く見える印象がある。リラックスした表情のせいだろうか?

「ん、どうかしたのか?こっちを見て」

 しまった、じろじろ見ているのがばれてしまった。何か話さなければ。えーと。

「結局ライトの使い道ってなんなんでしょうね。ミヤコさんが言ったように、ただ振るだけの玩具なんでしょうか」

 ミヤコさんは仰向けになって、薄墨色の空を眺めながら答えた。

「うーん、もしそうだとすると、論理的な説明がつかないんだよな。『振ってみたから楽しいんで、こういう使途に違いありません』なんて、余りに直情的だ。とても大会で発表することはできないな」

「別に、発表に拘る必要は無いんじゃないですか?」

 ミヤコさんの一つ向こうからアケミの声が聞こえてきた。

「本当のことを知っているのは私たちだけ。そんなものがあっても良いと思いません?」

「アケミ君にしては随分ロマンチックなことを言うな」

「月は人を狂気に導く…なんて定型句はちょっとメルヘン過ぎますね。しいて言うなら疲労感と草の柔らかさのせいでしょうか。おおらかというか、牧歌的な気分になってるせいかもしれません」

「確かにそうだな。今の気分なら世界のすべてを許容することがでそうだ」

 風が吹いて水面に浮かんだ月がくねくねと揺れた。歪んだ月の真上を、先ほどの太った蛾がひらひらと飛んでいた。豊かな水と食料を湛えた森に甘やかされてすっかり栄養過多になった蛾は、自分がこの区域の王者であことを示すように池の一番明るい場所を占領している。あまりに体が大きいため体重が羽の大きさに見合わないのだろう、バタバタと懸命に羽を動かしているがその飛行は不安定だ。

 蛾をこれほど具に観察したのは初めてだった。不思議と嫌悪感は沸かなかった。なぜなのだろうか?

 いや理屈を考えるのはよそう。なんでも合理的に考えないと気が済まないのが現代人の悪い癖なのだからな。今はもう、合理性とか進歩性ばかりに気を取られる時代でもあるまい。もっと自分の感情とか直感に素直になるということも大切だろう。

「ミヤコさん、実は僕、ミヤコさんにお願いしたいことがあるんです」

「なんだ?遠慮せずに行ってみるといいゾ」

 ミヤコさんが首を九十度捻って俺の方を向いてくれた。この雰囲気なら、もしかしたら聞き入れてくれるかもしれない。

「もう一度、猫耳ハウスワーカーの衣装を着てくれませんか」

「んなっ」

 ミヤコさんは目を見開いて驚いていた。猫耳ハウスワーカーの衣装を着たことなどすっかり忘れていたようだ。

「できれば、大会の発表の場で着ましょうよ。あの衣装はミヤコさんが着てこそ、その価値が発揮されるものだと思っているんです。アケミには魔法少女戦士の格好をさせますから、そんなに恥ずかしくないですよ」

「ちょっと、私はついでなの!?」

 と噛みついてみせるアケミだが、その声色からにじみ出る喜びを隠しきれていなかった。人目を集めることってのはは慣れてしまえばある種の快感をもたらすからな、またあの格好で人前に立つことができるかもしれないということが分かって嬉しいのだろう。しかも、今回は猫耳ハウスワーカー・ミヤコさんという超大物助っ人が来てくれるかもしれないのだ。もし実現すれば注目度は倍増だろう。

 ミヤコさんは仰向けのままの「うーむ」と唸り声をあげた。いきなり大勢の人前と言うのはやはり厳しい条件だっただろうか。

「ミヤコさん、俺もお願いする立場ですから、どちらを選んでも構わないという気持ちです。でももし駄目なら、部室の中でも良いので、もう一度着てくれませんか」

「ちょっとあんた…」

 アケミが言い終わる前にミヤコさんがプッと噴き出した。アケミもイマムラもミヤコさんに注目する。さっきまで難しい顔をしていたミヤコさんが頬を緩めていた。

「なんだ、結局君は、それか。私に猫耳ハウスワーカーの格好をしてもらいたいと、そういうことなのだな」

「はい、そうです」

「ずいぶん正直者だな。君は」

「それだけの価値が、ミヤコさんとあの衣装にはありますから」

「うーん、そうだなあ」と、ミヤコさんが腕を組んで言った。まるで食後のデザートを何にするか迷っているかのような表情だった。考古学部部長ではなく、一人の女子高生としての表情だった。

「どうでしょうか。駄目ならヘッドセットだけでもいいので…!」

「学校の制服に猫耳ヘアバンドって、そっちの方が恥ずかしいだろ。いいよ、別に。大会で衣装を着ても」

 ミヤコさんの口調はけろりと軽いものだったが、同時に力強さも籠っていた。ミヤコさんの確かな覚悟が伝わってきた。俺の体中に感激のパトスが走った。

「本当ですか!」

「実際に誰かが着てみたほうが聴衆にも印象が伝わりやすいしインパクトも残るだろう。男の君たちが着るわけにもいかないし、そうすると、残るのは私一人だからな。私がやるほかないだろう」

「ありがとうございます!」

 寝ころんでいては頭を下げることはできないが、立ち上がるとミヤコさんよりも頭の位置が高くなってしまう。苦心の末、俺は身体を九十度回転させてミヤコさんの方を向くと身体をくの字に折り曲げた。ミヤコさんはそんな俺を見て優しい笑みを浮かべた。

「そんな、頭を下げる必要は無いよ。あくまで私の判断だからな。着た方が聴衆のためになると思うから着る。ただそれだけだ。それよりアケミ君は良いのか?もし嫌なら私一人でも…」

「いえいえ、そんな!ミヤコさん一人だと何かと心細いでしょうし、私も着ますよ!」

「本当は自分が着たいだけのくせにな…」

「何か言った!?」

「いや、何にも」

「しかし、女の子たちだけ華やかな衣装着て、ずるいですよねえ、僕たちも何か着ましょうか」

「お、良いねえ。じゃあ魔法少女戦士に合わせて怪物に変装でもしようか。イマムラがフクロウ怪人なら、俺はガチョウ怪人にでもしようかな」

「ま、アンタは素のままでも十分怪人(あやしげなひと)だけどね」

「だったらお前は、そのまんまぬりかべだな」

「…ちょっとそれ、どういう意味よ!」

 アケミがぬらりと立ち上がる。こうなっては俺ものんびり寝ていられ、急いで起き上がり走って逃げだすことにした。身体が冷えてきたところだから丁度いい。

 またもや鬼ごっこが始まった。行けの広場をぐるぐるとタービンのように回る俺たちにミヤコさんが手でメガホンを作って声をかけた。

「おーい、ミヤコくーん、頑張れー!」

「ええっそっちの応援なんですか!?」

「これは女の友情(シスターフッド)だからな!」

「そんな、そりゃあ酷いですよ!」

 走りながらミヤコさんまで届く声を出すってのは、思った以上に体力を消耗した。わき腹が痛い。もうアケミが背中のすぐそばまで来ている。

 俺は、いつまでもこの広場を回っていたかった。この時間、この空間がいつまでも続いてほしいと思えた。俺が捕まらない限りは、誰も「帰ろう」とは言えまい。大きく息を吸い、肺に空気を送り込む。もつれそうになる脚を精いっぱいかきまわした。

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未来人、秋葉原に降り立つ @ekusab

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