第22話 轍に咲く花 <8>

「―――リリー!」

 医療施設を出て物想いに耽りながら南へと歩いていた彼女の背後から、高く中性的な声が飛び込んでくる。振り返った彼女に駆け寄って来たのは髪も服も瞳も黒尽くめの少年だった。

「リリー、聞いたよ! 将軍にさせられそうなんだって?」


「ジョシュさん……」

 もしかして自分を探して走り回っていたのだろうか? 彼にしては珍しく呼吸を荒げ、しかもそれが落ち着く前に一気に捲し立ててくる。

「王や城の連中は分かってないんだよ、リリーがどんな想いで戦場に立っているか! いや、たぶん兵士たちだってキミの本当の気持ちは知らない。しっかり断りなよ!? 四の五の言われたらオレが味方になってやるから!」


「…………」

 リリーの瞳に、じわりと光が滲む。

 王都への帰還、ライゼン殉死の報告、想像もしなかった重責、迫られる選択肢、隊士達の期待、トッドの想い……短期間に抱え込んだ数々、それらに渦巻いていた思考が不意に止まり、ふっと剥き出しの感情と熱が胸の中心に起こった。

 そうなのだ。

 自分の抱えている本当の痛みを知ってくれているのはこの世界にただ一人、彼だけなのだ。

 人を救えた時だけ生きることを許される気がする……そんな弱さを、骨にまで絡み付いている罪の意識を、彼だけが知っている。そんな自分が今日まで戦場に立って多くの死を見続けなければならなかった苦しみも。

 もし将軍になることを選べば、自分の采配で人が死に、人を殺させることになる……耐え難いのはそれなのだ。軍略や剣術や指揮力なんて取ってつけた不安要素に過ぎない。一番怖いのは、“自分が死を生み出す”ということそのものだった。

「……ありがとうございます……ジョシュさん……」

 緩んでしまった胸の琴線。顔を伏せて、零れそうな弱さを隠しながら彼女は心の底から礼を言った。

「いいんだよ。それに、一番初めにキミを苦しめたのは……オレなんだから……」

 まるで詫びるような彼の言葉に彼女は小さく首を振る。それから一つ深呼吸をして、ゆっくりと顔を上げた。

「でも、ジョシュさん。私……迷っています」

「……え?」

 彼の顔に呆けに似た表情が張りつく。

「王の描いた理想が正しければ、もしかしたらこの終わらない戦争に幕を引けるかもしれません。それに、これを辞退したとして、皆さんが命を散らしていくことを知りながら離れたどこかで見ぬふりをするということに……そのとき私は耐えられるか分かりません」

 それは作り上げた使命感と、心が零す本音、その両方からの言葉だった。

 唖然としていたジョシュの顔が、見る間に怒りに染まっていく。

「なに言ってんだよリリー! 指揮官になったら今より遥かに命を背負わなけりゃいけないんだよ! 特にキミの場合、きっと味方だけじゃない。戦場の全ての死に責任を感じちゃう。絶対にやめるべきだ! 俺が先に王を説得してやってもいい!」

 彼は左手で彼女の肩を揺すりながら言い聞かせた。右手は胸のあたりで拳を作っている。僅かに震えているそこには何かが握られているようだったがリリーは気付かなかった。ただ彼の真摯な声に全身が熱くなる。

「本当に……ありがとうございます……。でも、もう少し、ちゃんと考えたいんです。本当にごめんなさい。ジョシュさんの気持ち……すごく嬉し―――」

 最後まで言えずに声が震えた。細い肩に彼の手のひらを感じる。スピナーの優しいそれとも、ライゼンの力強いそれとも違う、温かさと哀しさを持った手のひら。まるで自分の半身のように痛みで繋がる人……。一度は堪えた涙が堰を切って溢れ出した。


 肩を掴んでいた手から力を抜き、ジョシュは深く吐息をこぼした。

「……分かったよ。そうだよな、キミの責任感じゃ簡単に答えを出せないか……。でもこれだけは覚えておいて。辞退しようと決めた時は、誰のどんな批難も恐れないこと。オレが守ってやるから」

「……はい」

 彼女は濡れたままの瞳を向けて微笑む。そしてもう一度感謝の言葉を告げると彼と別れた。



 ジョシュと別れて暫く後、リリーは一人空を見上げている。

 枯れ枝が絡み合うその間に間に、分厚い灰色のうねりが覗いていた。

 この町にももうすぐ冬の報せが降りてくる。吹き抜ける風はいっそう冷たさを増して彼女の肌と髪を撫でていく。一足早い雪色のそれが背中でふわりと揺れた。

 リリーの視線は空から静かに下りる。そこにあるのは、昨日は宵闇の中で出会った墓石。血で血を洗う戦の相手、その魂を弔おうとする痛々しい墓碑だ。あの手向けられた酒はすでに乾ききっているが、石の上に乗せられた首飾りは変わらぬ姿でそこにあった。


「許して……くれますか?」

 リリーはつぶやいた。

 応えるのは、冬枯れの間を縫う風と、微かに舞い上がる落葉のざわめきだけ。


 リリーは目を閉じた。

 許されるわけなどない。命を奪うことに、どんな理由を掲げようと。奪われた者の声は永遠に聴こえない。聴こえてくるのは胸の声。自分の胸の答えだけ。

 ――貴方は……ずっと……ずっとこの問いを繰り返してきたのですか……?

 目蓋を開いた。

 お世辞にも上手いとは言えない、歪な墓石。角の不自然な欠け方。上部の細く長い亀裂。墓碑銘も浅すぎたり深すぎたりしていてじっくり見るとひどく不格好だ。不慣れな手つきで懸命に打ち、削り、手元が狂うたびに顰められるその顔……まるでそこに見えるような気がした。


 赦してくれ、と願いながら削ったのだろうか。


 恨んでくれ、と願いながら彫ったのだろうか。


 せめて安らかな眠りの中にいることを願いながら、必死に磨き上げたのだろうか。


 決して返ってくることのない答えを、確かめる術のない魂の安寧を、彼はせめて忘れまいと胸に刻みながらここに黙祷を捧げ続けてきたのだろう。

 そして、全てを無駄死にしないために、踵を返して戦場へと歩き出したのだろう。振り返れば見える木々を縫う道を、無数の墓石の間を往く路を。その罪を背負って。


 ――独りじゃない

 リリーの胸に、不意に生まれた言葉。

 今より遥かに命を背負い、戦場の全ての死に責任を感じて、それでも眼を逸らさずに歯を食いしばっている指揮官がこんなに近くにいたのだ。今までずっと孤高の闘いを続けてきた将軍が、こんなに近くに。

 ――独りじゃない

 心の声がいっそう強く響く。

 彼女はもう一度空を見上げた。いつ泣き出してもおかしくない淀んだ灰色。立ち込める苦しみを懸命に押し留めているようなその色。

「ケイオスさん、貴方はもう―――」

 その先を冷たい風に乗せて口にしたとき、彼女のエメラルドの瞳には覚悟の光が灯っていた。



 猛虎兵団は、その名を白馬隊と改められた。

 リリーの美しい佇まいに“白馬将軍”という呼び名はこれ以上なく似合った。これから彼女と共に闘う部下たちの全ての心に、冬の陽のような煌々とした光を与えるだろう。そしてそれが戦を終わらせ平和を照らす光になることを、国中の人々が胸に願うことになるだろう。


 任官の儀を終えて玉座の間を後にするリリー。

 城を囲う防壁の中央で大きく開かれている門。朝の光を背負うその中に、大きく、そして小さい、二つのシルエットが見えた。


 堀にかかる橋が見え、薄っすら積もった雪の上に立つ二人の顔も鮮明になる。

 ジョシュは少しだけ不満げな表情で右手を差し出した。贈り物、と付け加えたそれは、白い花を模った髪留め。

 喜びに瞳を膨らませる彼女を見ながら少年は凍った溜息を吐き出す。

「結局、受けちゃったんだね。そうなる気はしたけど……」

「ごめんなさい……」

 申し訳なさそうに言いつつ、リリーは可愛らしい髪留めを胸に抱きしめた。

「……これから、よろしくお願いします」

 丁寧に頭を下げる雪色の少女。

 ジョシュは諦めたように「こちらこそ」と返す。

 ケイオスは何処か哀しげな顔で、何も言わずにただ深く頷いた。


「さーて、こうなったら今夜は祝賀会だね! いや、激励会!?」

 開き直るように声色を変えて宣言するジョシュに、リリーは驚いて異議を挟もうとする。

「そうだな……こうなったら呑むか。今夜はとことんな」

 ケイオスの発言に言葉を堰き止められて唖然とする彼女。

「オレの誠心誠意の意見を無視したんだから、せめて一晩くらい付き合ってよね、リリー!」

 唇を蛸のようにして睨まれ、しばらく隣の金獅子との間に視線を右往左往させる。そして軽口を叩く二人の表情の裏に、遣り切れない複雑な想いの色を感じた。彼女は胸に刺さった小さな痛みを覆い隠すように深く溜め息を吐いた。

「では……せめて人目に付かない場所なら」

「ってことはケイオスんちだね。それともオレが居候してる街外れの屋敷にする? 使用人以外に人居ないし、メシ美味いよ」

「そこにしてくれ。俺の実家ではどんな客が居るか分からん」

「じゃあ決まり! スピナーには悪いけどネ」

 少し小意地の悪い笑みを浮かべるジョシュを見て、リリーはどういう意味だろうと首を傾げ、ケイオスは瞳だけで西の空を見やりながら頬を掻く。


 遠ざかっていく三つの背中を、荘厳なハリス門がいつまでも見送っていた。




 この一年七ヶ月後、彼らは十年戦争最後の決戦を迎えることになる。

 そこに待つ運命をこの時はまだ、誰一人知らぬまま―――。




                    四将伝-轍に咲く花- 了

                    Florally-最強の将- 決戦へ続く



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Florally -四将伝- 仙花 @senka

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