第21話 轍に咲く花 <7>

 午後、戦傷者専用の治療施設でリリーは手伝いをしていた。

 この休戦期間には多くの兵士が親元や己の家庭に戻り、ひと時の平和を存分に味わう。しかし猛虎兵団の兵たちは未だ少なくともこの王都には居なければならなかった。新将軍の任命や今後の隊の在り方がはっきりするまでは解放されない。この町に帰る場所がある者は良いが、他の町村に待ち人がいる兵は気の休まらないまま用意された宿舎などで過ごしていた。

 自分の決断が長引けば長引くほど彼らの精神的な疲労も募っていく。リリーは十分にそれを理解している。その上で、一度気持ちを落ちつける為に看護を行っていた。


「リリー様は……ご休暇を取られないのですか?」

 消毒の鋭痛に顔をしかめながら金獅子隊の兵士が尋ねる。

「ええ、私には帰るべき場所がありませんし、そういえば趣味のようなものもありませんね」

 彼女は小さく苦笑した。

「す、すみません。それなのに俺の手当てなんかさせて……」

「いえ、そんなお気になさらずに。私にとってはこうしていることが日常なんです。不思議と気も休まりますから」

 苦笑が柔らかな微笑に変わり、細めた両目が優しく青年に注がれる。彼はどぎまぎしながらうつむいた。すると隣の寝台に臥せる男が口を開いた。

「リリー様、今日小耳に挟んだのですが……」

 彼女が「え……」と顔を向ける。

「もしかしたらリリー様が新しい将軍になるかもしれない、という噂は本当なんですか?」

 治療を受けていた青年が眼を円くする。リリーはうつむいた。

「まだ、分かりません」

「では……少なくともそういった話が出ているんですね」

 彼女がうなずくと、彼は少し考えてから再び言葉を紡ぐ。

「俺は、賛成です。リリー様が俺達の将軍になるならいっそう頑張れます。絶対、レストリアどもの刃は届かせません!」

 驚いて見つめる彼女の耳に、別の寝台からも声が飛び込む。

「おいおい、抜け駆けすんなよ! 俺だってリリー様が将軍なら何倍もの働きをしてみせるぜ!」

 すると、この医務室に入っていた猛虎兵団の男達が次々と声を上げた。競い合うように誓いを立てる。勇敢に戦うこと、必ず勝利すること、彼女を守ること……。高揚するその“戦意”にリリーは複雑な想いを抱くが、自分を慕ってくれていることそのものには感動も覚えずにいられなかった。それは次第に部屋中に満ち、他の部隊の者たちまでが必勝を掲げて盛り上がった。

「み、皆さん……ここは重傷の方もいらっしゃいます。どうかお静かに」

 おろおろして宥めるリリーに、近くの男達から反省の色が広がっていく。誰しも苦笑いを浮かべながら、しかし、その瞳はまるで少年のようにきらきらと熱を蓄えていた。


「やはり……貴女は将にとって一番重要なものを持っている」


 驚いて振り向いた彼女の瞳に、杖をついて部屋に入ってきたトッドの姿が映った。周りの兵士たち、特に猛虎兵団の男達は慌てて顔を伏せる。

「トッドさん、安静にしていなくては……!」

 リリーが駆け寄り支えようとすると、彼は空いている方の手でそれを制した。

「きっと、支えるのは私の役目でしょう。貴女が我々の光になってくださるのなら、この一命を賭して新しい部隊を作り上げます」

「私は……まだ……」

 彼はうなずいた。

「ええ、もちろん貴女の意思を尊重します。……良ければ少し、私の話を聞いてくれませんか?」

 リリーは戸惑いのまま彼の瞳を見つめる。そこには説得を試みようという強い光は感じられず、むしろどこか寂寞とした色が見え隠れしていた。

「……では、少し」

 トッドは杖のまま会釈をするとゆっくり身を翻す。彼に続いて部屋を出ていくリリーの背を、兵達は様々な表情で見送った。



 施設から外へと出ると、まだ夕刻には時間があるにも拘わらず空気は昨日よりやや冷えて感じられた。あるいは不安に揺らぐ心の殻が身を弱くしているのかもしれない。

「トッドさん、そんなに歩かれては傷に響きます」

「……それでも他者を案じられるのですね、貴女という人は本当に……」

 彼は苦笑に似た表情を浮かべようやく足を止めた。

 此処は施設の表通り側ではなく、裏口から出た広い庭だ。怪我が良くなった者がリハビリに運動することもある。今日は疎らにしか人影はなかった。

 木製の簡素なベンチに並んで腰を下ろすと、トッドは立てた杖に両手を預けながら遠くの空を見やった。西方……迫り来る雪雲の向こうでまだ陽は傾きかけだ。リリーは隣で同じように空を見上げ、そのまま彼が口を開くのを待った。


「……私は、かつて結婚していました」

 予想もしていなかった一言目に、彼女は少し驚きをもって彼の横顔に視線を下ろす。

「まだ戦が始まる以前のことです。私も妻も、兵役とは外に対しては備えに過ぎず、主な役割は国内の治安維持にあると信じていた頃です。まだ若かった私ですが、いつしか警備の指揮などを任されるようになり、それを大きく誇りに思っていました。妻も、小さな娘を腕に抱きながら、仕事に出かける私を快く送り出してくれていた……」

 しかし八年前、レストリアの不義により戦争が始まる。

 トッドはその能力を買われて軍の指揮官の一人に抜擢され、ダナトリア渓谷を自らの生き場とせねばならなくなった。

「妻はやはり反対しました。娘もまだ幼く……何より私の身を案じてくれていました。ですが、国を護らなければ彼女達を守れない……私は戦地に赴くことが夫として父としての務めだと自らに信じ込ませ彼女の言葉をはねつけ続けました」

 その結果はリリーにもなんとなく想像できた。彼が纏っている哀愁と、“かつて結婚していた”という最初の言。

「戦争初期の頃、レストリアの国力と戦火の拡大を恐れて国を出ていく者達が時折いました。多くはサイゴンへ渡りそこから助けを借りて西方の地……レストリアよりもさらに遠い地を目指したようです。その流浪者達に妻は娘を伴って加わりました。別れ際に見た彼女の悲しみに満ちた瞳は忘れられません。抱き締めた二人分の温もりも……」

 彼が己の掌を見つめる。それを見守るリリーもまた胸の痛みを覚えていた。


 彼女達が無事に異国へ辿り着いていたこと、そしてどんな現状に置かれているのか、トッドが知ったのはそれから三年も月日が流れたある日のことだった。

「真冬に届いた一通の手紙です。一枚目の書き手は妻ではありませんでした。彼女と娘が懇意にして頂いていた老夫婦が、彼女の死と、娘を養子にするという意思を綴ったものでした」

「そんな……」

 その救いのなさにリリーは思わず口元を覆う。

「……二枚目の便箋は、かつて妻が私に送ろうとしてやめたらしい手紙でした。そこには彼女の日々の苦しみが訥々と綴られていた。恥じ入るように、申し訳なさそうに……そして私への少しの恨みも行間から垣間見える気がしました。彼女は新天地で上手く生きられなかった。そこは戦争とは無縁の、外交に優れた裕福な国……ですが、それだけにと言うのでしょうか……戦火を逃れた流民であり、小さな子を持ちながら夫のいない彼女を、周囲の多くの人はまっとうな人間として見てくれなかった。手に職を得るのにひどく苦労をし、その後の日々でも手紙に書ききれないような心身の苦しみに苛まれ続けたことが、言葉の端々から見えていました。その末―――」

 一度、喉を詰まらせたように言葉を途切れさせる。リリーは首を振りそうになった。言わなくてもいい、と。

「―――妻は半ば自ら全てを手放すように、病魔を受け入れて眠りについたそうです。娘を、彼ら老夫婦に涙ながらに託して……」


 沈黙が流れた。冷たい風がそよと吹き、二人の肌を小さく刺していく。失った温もりはもう還ってはこない。過去は決して変わらない。そして未来も、この戦争の続く限りは、何処へも拓けはしないのだ……。


 胸の漣が治まるのを待っていたのだろう、トッドは眼差しを上げる。

「国を護ることが必ずしも家族を守ることには繋がらない、それを知った今も私はあの渓谷に生きています」

 西空が色を帯び始める。

「……もはや片田舎の父や母の為ですらない。ただ、ずっと指揮してきた兵士の一人一人が私にとっては己の子供にも思える。“国と家族を同時に守る”……その幻想に取り憑かれた憐れな男が私です……」

「…………」

 リリーは何も言えなかった。いつも理知的で頼もしく、猛虎兵団の兵達にとっては確かに親にも似た存在感を持つであろうトッドが、こんな過去を抱えて悲しみを引きずり続けてきたなど誰が知っているだろうか? きっと、彼は初めて人に明かしたのではないだろうか……。

「……どうして……」

「どうして貴女にこの話を、ですか?」

 彼女は躊躇いがちに首肯する。

「明確には私自身にも判りません。ただ……私は所詮、自分の感情の為に戦っているのだと言うことを知ってほしかった気がします。貴女は貴女の気持ちを一番大切にするといい。無理に作り上げる使命感よりも、もっと純粋な心の声を基に決断を。それならばどちらであっても、貴女の存在は我々の勇気を支え続けてくれるでしょう」

 そう言った彼の顔に浮かんでいる笑みはきっと、娘を幸せへと送り出す日の父のようなそれだっただろう。今の二人には知り得ない想いでありながら。

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