第20話 轍に咲く花 <6>
「―――え……」
それは余りにも、いや、それこそ雪の一粒ほども想像していなかった言葉。あるいは己の聞き間違いではないかと、彼女はやや唖然とした瞳でフィリップを見、さらに王を見上げた。
「リリー、そなたに任せたいのだ。猛虎兵団の次代を」
彼女の全身から体温が消えていく。頭の中が真っ白になっていく。
「そ、そんな……私になんて無理です……! ライゼンさ……ライゼン将軍とトッド副官が全て動かしていたんです。私は本当にただ居ただけ……何も出来ません!」
彼女はトッドの名前を口にした時に彼を一瞥した。それから言葉を言い切った直後にもう一度、ハッとして彼を見る。その横顔には王とフィリップ参謀長の発言に対する驚きが欠片も見えず、落ち着いた表情で赤絨毯に視線を置いていた。
「トッド副官には昨日すでに話をした。彼はそなたが引き受けるのならば今後も副官として全力を尽くすと誓ってくれた」
彼女の胸中を察して王が補足する。
言葉もなくただ当惑の眼差しでトッドを見つめ続けるリリーに、王は一つ溜息を挟んでその名を呼んだ。彼女は我に返ったように視線を戻す。
「春、そなたを猛虎兵団の将軍補佐官に任命した時、余には二つの期待があった。一つは、ライゼンとトッドの二派に割れかけていた兵達の一丸化。もう一つは、その二人の歩み寄りだ。それは間もなく余の思惑通りにいってくれたように思えた」
しかし、と続ける。
「やがてそなたの存在はそれ以上の利点をもたらし始めたのだ。まず兵達の士気が非常に高くなった。自分たちが負けることが何を意味するか、それがより鮮明になったからだろう。そして……」
王がちらりとトッドを見た。
「これは彼から聞いた話だが……リリー、そなたは交戦中、自軍の綻びやその予兆を誰よりも早く見つけることが出来ていた、そうだな?」
「それは……ただ……誰にも死んでほしくないと……」
彼女は消え入りそうな声で言う。
「トッドはそなたの言を軽視せず、兵の局所的な厚みを流動的に変えていくことを試みた。猛虎兵団は常々、攻めに特化した部隊だった。ライゼンの気質によるものだ。それは長所であると同時に短所……一度勢いを止められると脆く、押し返される傾向が強かった。それがどうか……そなたの“眼”に従うと途端に粘り強く堅固な部隊に変わったというではないか」
「わ、分かりません。私には……」
戸惑い、頭を振るリリー。だが王は言葉を続ける
「現在、ダナス四軍はどれも将軍が先頭に立って自らの武勇を交えながら兵を率いている。我が国には代々勇将が多いのだ。しかし、それでもあの渓谷をレストリア関まで突破して戦を終わらせることが出来ずにいる。それは何故か? 恐らくは守勢に回ったときの弱さにあるのだ。攻めに全力を注ぐということは隙を作るということでもある。いざという時に守りきれないという想いがあるから、攻めきることも出来ないのだ。結果、徒にこの戦争は長引き、余りにも多くの死者を出し続けている。両国にな……」
攻める、それは命を奪うということと同義。リリーは耳を塞ぎたい気持ちでその言を聞いていた。しかし、王の“両国に多くの死者を”という発言に心臓が強く打つ。
「リリー……そなたに作ってもらいたいのは、ダナス関の防衛を一手に引き受ける鉄壁の部隊だ。他三軍には長所を伸ばしてもらう。つまり攻めの戦術を集中的に磨き上げてもらうのだ。そなたの部隊が守に長ければ、残る三軍は安心して闘える。それに戦には一時的な退却も付き物だが、その時にダナス関の防衛線が敵を堰止めてくれれば
王の言葉が途切れ、玉座の間に重い沈黙が立ち込める。居並ぶ重臣たちも、フィリップも、トッドも、誰も口を開かずにただ一つの言葉を待つ。王の期待に応える一言を。
「……本当に……」
リリーの声は微かに震えていた。
「本当に、私にそれが出来るのでしょうか……。何の軍略も持たない、剣の振り方も知らない、大声で指示を叫ぶことすらできない私に……」
王に発言の許可を求め、フィリップ参謀長が代わりに説く。
「リリー殿、貴女が心配されていることは全て、トッド副官にお任せすれば何の不安も要りません。彼は陣形や用兵と言った軍略において我が軍でも最も信頼できる男です。貴女のその能力を生かす為の訓練、そして戦場で貴女の指揮を兵達に伝える役割、十分に果たす力を持っております」
彼女はトッドの横顔を見る。彼は僅かな角度で振り向き、右頬に微笑みを感じさせながら小さくうなずいた。お任せ下さい……そう言っているようだった。
「余は―――」
玉座からの声に三者とも視線を上げる。
「指揮官と言うのは本来こうあるべき者だと考えている……。兵達に己の居場所をはっきりと感じさせる存在感を持ち、自軍の問題点を明確に示す能力を持つ。そして前線に立ちながら、敵の矢が届かない場所で身を保持し続ける。彼らと共に在りながらも決して死んではいけないのだ。示した問題を解決するのは指揮官の手ではなく、信頼出来る部下の仕事……そなたが振るべき剣とは、彼らの実行能力に他ならない」
そして王はこう締めくくる。「即ちそなたは既に、指揮官足る力を備えているのだ」と。
リリーは服の胸元をぎゅっと握り皺を作った。自分の鼓動がはっきりと感じられる。冬場なのにこめかみから汗が伝っていく。そっと瞼を下ろす。己の居場所……問題点を明確に示す……彼らと共に在ること……決して死んではいけない……
――“余りにも多くの死者を出し続けている。両国にな”
耳の奥に繰り返し響く王の言葉。細い顎先から汗の滴が離れ、絨毯に呑まれた。そして瞼の裏に一つの景色が浮かんだ―――。
「……少しだけ、考える時間を頂けないでしょうか……」
居並ぶ重臣たちの顔にやや落胆の色が過ぎる。だがフィリップは小刻みに頷き、そして王は微笑を浮かべた。
「それでいい。しっかりと考え、答えを出してほしい。力が備わっていようと、多くの重圧を背負うことには変わりないのだ。受けるには本当の覚悟が、辞するには本当の勇気がそこに無くては余もその決断を尊ぶには足りない」
王の言葉に多くの重臣たちが改めて敬服した。リリーもまた、彼の器を深く感じた。
数日のうちに答えを出すことを約束して彼女は玉座の間を後にした。
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