第9話 融け合う色彩
「―――白馬隊、死者は出なかったんだってね」
グラスに小さく口をつけたままジョシュが呟く。
「ええ……大したものです。一戦して自軍から死者を一人も出さないということは敵を百人殺すことよりも難しいでしょう」
スピナーの手が肉の切れ端へ伸び、ひょいと口中へ送り込む。
「死なせたくない……ただその一心で指揮を執っているんだよね。自軍の綻びを見つける能力も、結局そのためだけに磨かれてきたんだし」
「ええ、だから訓練だとからきしなんですよ。誰も殺されないと分かっていますから。兵を仕込んだトッド副官の努力にも頭が下がります」
ジョシュの眼差しが正面に定まる。いまは主の居ない席。
「四年かぁ……」
感慨深そうな声音。
スピナーは片肘をつくと細く尖る顎をのせ、幕舎の外に目をやる。
「四年ですね……」
両国とも進軍を中断する真冬のダナトリア渓谷。四年前のその季節、夜明けのダナス関に雪に紛れる白い少女が突然現れた。
ボロボロの姿。服にはすでに乾いたドス黒い血糊。少女は見張りの眼前で雪に倒れ込んで意識を失った。
当時、そこには史上最年少で将軍になったばかりのジョシュ率いる黒狼隊が駐屯していた。
迅速な保護と手当てによって幸いにも凍傷を免れた少女は、翌日の昼になってようやく目を覚ます。
名前はリリー。
それ以外の記憶は何一つ存在しなかった。
行く当てのない彼女は身体の回復を待って衛生班の一員として働くようになった。
女性の居ない戦場、そして彼女自身の不思議な存在感、月日と共に彼女を慕う兵士は増えていく。
二年もした頃にグレゴリア王直々の令で、四大軍の一翼“猛虎兵団”の将軍補佐という新造の地位へ祭り上げられる。それからさらに半年ほど後には将軍へと押し立てられ、今に至る。
ただただ優しい少女。そろそろ少女というには失礼な年頃かもしれないが、記憶がない為に正確な年齢は判らない。
「……オレはさ、リリーが将軍にされるとき猛反対したんだよ?」
「でも彼女が受け入れてしまった……でしたね。貴方もいまだ悔み続けているのですか」
「……分かんない。止めたかった、けど、リリーの本当の気持ちも知っていたから」
スピナーの銀色の眉がぴくりと浮きあがる。彼はグラスを口元から離すとコトリ……と卓に下ろした。
「本当の気持ち……というのは? 彼女は周りの声に応え、彼らを守りつづけるために受諾した……そうではないのですか?」
ジョシュはスピナーに一瞥を向け、再びリリーの空席を見つめながら小さく首を振った。
「それももちろん本当。でもね……」
漆黒の瞳を手元に落として口を噤む。
しばらく静寂が続き、外の喧騒が鼓膜に触れるようになってきた頃、スピナーは深い溜息をこぼした。
「分かりました。この戦いが無事に終わったら、その時には教えてください」
ジョシュは無言でこくりと頷いた。
「……何やら私の知らない彼女を知っているようですね、羨ましい……。貴方と彼女はある意味とても近いですからね」
「ん、近いっちゃ近いけど……でも結局さ、オレはリリーの支えにはなれないんだよ……」
大きな両目が瞼で埋まる。跳ねるような黒い睫毛が寂しげに伏せられている。
きゅうっと下唇を噛む姿はやはり可憐な美少女にしか見えない。
スピナーは碧眼に憐れみとも哀しみとも取れる感情を滲ませて、ジョシュとその過去を覗きこむ。
奪うしかなく、殺すしかなく、そうして育った少年。
抜き身の刃であり、今すぐにも消滅する闇色の花だった、出会いの頃の彼。
そんな少年を今の彼へと変えてくれたのはリリーだった。
天涯孤独の二人は、共に何かが大きく欠けていた。いや、今もそれは埋まっていないのかもしれない。
対照的であるがゆえに繋がっているようにも見える二人だが、ジョシュはどれほど「オレのリリー」と口にしても、自分が彼女の支えになれるとは考えていないのだ。
こんなに明るく、天真爛漫と見えるほどに心を開いた彼だが、永遠に棄てられない忌まわしい顔を持っている。それは一度戦場に出ればたちどころに現れ、欠片の躊躇いもなく過去の己のように恐ろしい風を吹き荒れさせる。
「……オレには資格がない。だからせめて護るんだ……。それだけが願いなんだよ」
すぅっと睫毛が持ち上がり、右に座る銀色の美麗騎士に眼差しを向ける。
「なんだかんだ、スピナーならいけると思うよ。リリーも好いてると思うよ、アンタのこと」
ジョシュの言葉を受けて彼はふっと微笑みを浮かべると髪をかきあげた。後ろに送られた銀髪は灯りの揺らめきを滑らせて滝のように輝く。
「分かっていないんですね、貴方も。彼女にとって私はただ優しいだけの男です。頬は染めても心の中までは染まってくれません」
長い人差し指をグラスの口にそっと添えると、その縁を辿ってゆっくりと円を描いていく。
「月は太陽に勝てませんよ……。本当に彼女が心を許せるのは、彼女と同じ苦しみを抱き続けてきた者だけでしょう……」
細長い指先が、きゅっと音を立てて動きを止めた。
「まぁそれでも、この決戦を乗り越えることができたら……伝えるだけは伝えてみようと実は決めています」
へぇ、とジョシュが双眸を膨らませる。
「“彼”より先にね。そうでなければ勝率はゼロですから。それに……私の行為が彼の腹を決めさせるならそれはそれで価値のあることでしょう? リリーさんには幸せになって欲しい、これは飾りのない本心です」
「……気が合うね」
男達は柔らかに頬を緩めてグラスをぶつける。喉を潤すと、戻りの遅い二人に目を細めるように外の篝火を眺めた。
用が済んだ後も、リリーとケイオスはまっすぐに戻らず兵達を眺めながら歩き回った。
その姿に気付かれるたびに浮かれた声が掛かり、時にはそれに応えて回し飲みの中に混ざりもした。もっともリリーの分はケイオスが代わったが。
季節は夏の足音を遠くで鳴らしている。夜でももう寒くはない。
陣中を折り返して幕舎に向かいながら、時おり吹き抜けるそよ風にリリーは解いた髪を心地好さそうに梳いた。白い波が背中で揺蕩い、まるで羽を広げようとする聖なる存在を思わせた。
「……この一年半……いや、二年か……。辛かっただろう?」
彼女を盗み見ていたケイオスの口から、ふとそんな言葉がついて出る。
壊すには惜しい穏やかで甘いひと時。本来なら不似合いな、傷口への接触。だが……リリーは顔を曇らせはしなかった。ただ何も答えずに、隣歩くケイオスを見上げて微笑む。
彼は微かに息を呑み、僅かに狼狽する。込み上げる何かを押さえるように密かに拳を固めた。
「……今度の戦いで全てを終わらせる。十年に渡る不毛な、哀しみしか生まない争いを。そしてリリー……君をそろそろ解放してやりたい」
ふいに彼女の姿が消える。ケイオスは足をとめて振り返った。
一歩後ろで佇むその女性は、何故か今になって哀しそうに彼を見つめている。
「何か……まずいことを言ってしまったか?」
彼女は白い睫毛をうつむかせて、静かに首を振った。
「……ケイオスさん、貴方こそ解放されてほしいです。ずっと……ずっと、私よりも遥かに長い時間を貴方は、苦しみ悶えて来たんですよね?」
その瞬間、彼が奥歯を噛みしめるのがはっきりと見て取れた。眉間に寄る縦皺も揺れる篝火に照らされる。
「私には解かる気がするんです。一人殺めるたびに貴方の心がどれだけ軋んでいたのか。勝利の歓声の中で、貴方が必死に押し殺している悲鳴も……。だから、私は―――」
リリーの言葉が呼吸とともに途切れた。
胸の圧迫感。両肩の微かな痛み。そして背中に感じる優しい温もり……彼女はケイオスの大きな腕に包まれていた。
「…………」
押しつけている耳に、命の鼓動が聴こえてくる。ただ生きているだけではない、心の鼓動も。
「……すまない。少しだけ……許してくれ……」
その声は戦場で怒号のように指揮を飛ばす男のものとは思えないほどか細く、そして心なしか漣を連れていた。
彼女の言葉は返らない。だが彼は、己の胸に触れる小さな頭が微かにうなずくのを感じた。
「……先を越されましたね。もう私の出番など無いのでしょうか?」
幕舎の入口に立って遠くのシルエットを見つめるスピナーは、口惜しげな言葉のほどには無念さの滲まない声色でつぶやいた。むしろ微笑みの色すら浮かんでいるが、一歩前に立つジョシュは振り返って確かめることはしないでおく。
「ケイオスはもっと自分を抑えられる男さ。決戦前に皆の支えを奪い去りはしない……それはスピナーの方が知ってるでしょ?」
寄り添う二人の姿はちょうど陣幕の陰。兵士達には見えていないだろう。
「きっと抑え続けていた色んなものが少しだけ溢れちゃったんだ。でもあれ以上はいかないだろうね」
「いけない……が正しいでしょうね。いま一番苦しいのはあの二人ということですか……」
ジョシュが軽やかに跳ねて階段を飛び越した。土を踏んだ彼に「どこへ?」とスピナーが呼びかける。
「助けてくる」
少年は小さく振り返ると花のような笑顔で答え、すたすたと歩いていった。暗がりの二つのシルエットを見据え、その脳裏にいつの日かの記憶を甦らせながら。
そして今宵、決戦を前に四人の胸に去来する想い。
それはかつて運命に導かれた四つの
過ぎ去った季節は時として、宿命の歯車を動かす最後の欠片であるかのように甦る―――。
序章 幕
『Florally-四将伝-』へ続く
Florally -最強の将- 序章 仙花 @senka
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