第8話 誓いの酒宴

 日も暮れ落ち篝火が煌々と照らす陣営の中を、リリーはジョシュの手に引かれて足早に歩いていた。

 一つの幕舎の前に辿りつき、彼が先に入口をくぐる。

「リリー連れて来たよ!」

 後に続いて中に入った彼女は目を円くした。

「あの……緊急の作戦会議……ですよね?」

 そこには金獅子将軍ケイオスと銀鳳将軍スピナーがすでに揃い、椅子に腰かけて彼女達に目を向けている。だが二人の間には小さめの円卓があり、戦時なりに精一杯の豪華な料理が並んでいた。さらにグラスが四脚と酒瓶が用意されている。

「リリーさん、お待ちしていましたよ」

 微笑を浮かべたスピナーが涼しげな眼差しで言う。

「ようやく飯にありつけるな」

 ケイオスが酒瓶を掴みとると口を開けた。

 呆気に取られている彼女の顔をジョシュが覗きこんで両手を合わせる。

「ごめん、リリー……それ実は嘘なんだ。ホントはただの酒席。ああでも言わないと負傷者の陣幕から離れないでしょ?」

「え……嘘……?」

 彼女はいよいよその両目を大きく見開き、可愛らしい口をぽかんと開けて三人を眺めまわした。

「わ、私……皆さんのところに戻ります……」

 しかし慌てて踵を返そうとした彼女の左手がジョシュに掴まれる。

「行かないでリリー。今夜くらいは四人で楽しい時間を過ごそうよ」

「でも……」

「明後日はきっと、この十年で一番厳しい戦いになる。もしかしたらオレ達が四人揃って酒を酌み交わせるのは、今夜が最後かもしれない……だろ?」

 ハッとした表情で彼女はジョシュの目を見る。ほとんど同じ高さにある小柄な彼の、黒曜の瞳。美少年のような、美少女のような、そんな麗しい面立ちの奥に、床上の老人のような静かな覚悟が灯っていた。

 言葉を失った少女はゆっくりと奥の騎士を見る。

 無言で視線を返す二人の瞳にもまた、この少年と変わらない決意が確かに宿っていた。勝利以外の結末は受け入れぬ、その為に己を捨てることになろうと厭わないという……悲壮な決意。

「さぁ、リリーさん。貴方の席を埋めてはくれませんか?」

 スピナーの右手が奥側の椅子へ向けられる。

「……ご相伴にあずかります」

 リリーは胸元を押さえて深々と礼をした。貴族の女性のような優雅な会釈ではないが、その飾り気のない振舞いがとても彼女らしく、三人は視線を交わして満足そうに頷いた。


 ケイオスの手でサイゴン産の葡萄酒が注がれる。酒瓶が立てられるとそれぞれにグラスを持ち上げた。

「……ダナスの勝利を」

 ケイオスの少し割れた低い声。

「最高の栄誉を」

 スピナーの艶やかなアルト。

「本物の自由を」

 ジョシュの鈴のようなボーイソプラノ。

 三人の眼差しが、リリーの言葉を待つ。

「永遠の……平和を」

 少し掠れた切なく優しい声が、か細い身体に抱えきれない願いとともに紡がれた。

 精悍、優美、可憐……それぞれの輝きを持つ三人の美丈夫が、彼女を見つめながらこれ以上ない微笑みを浮かべる。

「加えて……少し早いですが、明後日のケイオス28歳の誕生日も祝して」

 スピナーが付け加えると、リリーとジョシュは“あっ”と言う顔をし、ケイオスは少し照れて左手で金髪をかきあげる。

「そっか、じゃあなおさら勝たないとね! 人生最高の日にしよう!」

 ジョシュの笑顔に皆も頷き、一斉にグラスを掲げた。

「乾杯っ!」

 四つの声を揃え、誓いの酒が傾けられた。



 今夜は陣中のそこかしこで兵士達が火を囲み、飲み歌い語らい合っていた。

 今日成した数ヶ月ぶりの大きな勝利。

 己が挙げた武功を互いに比べ合い、つい昨日までは隣に座って食を共にしていた戦死者達を悼み、四将軍の見事な戦略とその勇姿を讃え、何度も乾杯を繰り返す。

 第一功労者と言えるスピナー将軍の圧倒的な強さ、ジョシュ将軍の人とは思えぬ縦横無尽の活躍、一度も先頭を譲らずに黒馬を駆り続けたケイオス将軍の背中、リリー将軍の凛然とした指揮姿と胸を揺さぶられる慈愛の心……そして悲しいほど美しい涙。

 話題は尽きず、歌は止まず、篝火に伸びる影は踊り続けた。

 “明日死ぬかもしれない”

 それが戦場の常。戦士達は今という夜を全身全霊で過ごす。悔いを残さないよう、想いの限り笑うのだ。


「―――結局何勝何敗だっけ?」

 ジョシュ達の酒席も思い出話に花が咲いていた。

「37勝36敗だ、俺のな」

「ケイオス、だいぶ酔いが回っているようですね。私が37勝ですよ」

「スピナー……名家オルトラスの気位は分かるが潔くないぞ」

「もしや私の槍を折った時をいまだ一勝に数えているのではないでしょうね。貴方が斬り上げたのは私が切っ先を止めた後でしょう?」

「俺の刃が食い込んだから槍は止まったのだ。しかも持ち手への籠手打ちを寸止めしながらな」

 ケイオスが自慢の二刀さばきを再現するように手振りを入れる。

「呆れましたね……。ジョシュ、あのとき貴方の目にはどう映りましたか?」

「うーん……」

 少年の黒い瞳が二人の顔をちらりちらりと交互に窺う。片や有無を言わせない威圧的な褐色眼、片や涼しさの奥に冷ややかな切っ先が見え隠れする碧眼、少年は困り果てて正面に助けを求めるような視線を送る。

「うふふ……」

 救いの女神は据わった緑玉の瞳で見つめ返しながら肩を小さく揺らしていた。絶望的にアルコールに弱い彼女の微笑みはいつもの憂いと慈愛の塊ではなく、普段決して見られないような艶っぽさと小悪魔的な茶目っ気が混ざり合っていた。

「うう……オレのリリーが壊れてるよぉ……」

「あはっ」

「誤魔化すなジョシュ。大事な問題だぞ」

「いえ、それよりも何ですか“オレのリリー”って。蕩けかけた彼女に妙な虚言を刷り込むことは許しませんよ?」

「ぇ……わたし……ジョシュさん……の……?」

 夢を見ているようなほわほわした表情でリリーがふんわりと小首を傾げる。結えた長髪が白馬の尾のように軽く揺れる。

「いえ、騙されないでください。貴女は私のフィアンセです」

「待てスピナー!」

「ちょッ、なに言っちゃってんのコイツ!」

「うぅ……ん? スピナーさん……フィアンセ……?」

 とっくに赤い顔の一部に淡い桜色が加わる。

「リリー! リリー目を覚まして!」

「いいんですよ、このまま幸せな夢の中で。貴女をお守りするのは私の使命……いえ、宿命なのですから」

「どうやら38敗目が欲しいようだな」

「38勝目の間違いでしょう? どちらにせよ今夜は付き合えませんけれどね」

「いい加減にしないとオレも本気だすよッ?」

 すると、ふいにリリーが立ちあがった。いや、正確にはいつの間にか立ちあがっていた。この三人をして見逃すほどに気配を動かさぬ幽鬼のごとき動きだ。

「リリーさん、どうしたんです? 私の幕舎へ行きますか?」

「あの……お小用を……」

「分かりました。お連れしましょう」

「イヤ、スピナーだめ。オレが一緒に行くよ」

 二人が言い争い始めた時、ケイオスがスッと差し出した左手にリリーが細い右手をあずけた。

「うむ……俺がついていこう。いまは周りも酔っ払いだらけだ。番人は目立つ方がいい」

「ぅん……? よろしくお願いしますね……ケイオスさん……?」

 口を開けたまま見送る美青年と美少年の前を、ふらつく酔いどれ姫と精悍な勇騎士が手を繋いで出ていった。


 陣中は大いに沸いていた。

 ケイオスと繋がる右手もそのままに、リリーは少し涼しい風を浴びながら兵士達の笑顔をゆっくり眺めゆく。葡萄酒にとろけた眼差しで、口元には幸せそうな微笑みを浮かべて。

「あっ! リリー様来てたんすか! どうすかこっちで一杯!」

「いやいやこっちで一緒に歌いましょうよ! ケイオス将軍もどうです?」

 リリーは嬉しそうに小さく手を振り返し、ケイオスは苦笑いを浮かべて手を上げる。

 普段の兵達ならリリーにはともかくケイオスにこれほど気安く声をかけてはこない。基本的に寡黙な彼は自然と威圧感を纏ってしまうので、彼らは遠目に畏怖するばかりなのだ。しかし決戦をすぐそこに控え、今夜は特別な夜であることを誰もが大なり小なり感じているのだろう。

「絵になるよなぁあの二人……リリー様ぁぁ……」

「諦めろって、三将軍を見てたら俺らなんかにゃ望みねぇよ」

「むしろ三将軍だって分かんねぇよな? グレゴリア王が独身なのってリリー様狙ってるからだろ?」

 遠目の二人を酒の肴にしながら、兵士達はあれやこれやと噂をする。

 この戦争を勝利で終えることが出来たらその後には何が待っているのか。輝く夜明けに想いを馳せながら、酒に浮かぶ月を呑みほしていくのだった。

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