第7話 プレゼント

ある日、職場に着くと、すでにパソコンの前に座っている茅野に挨拶をした。

「おはようございます」

茅野は少し悲しそうな顔で言った。

「おはよう……」

その顔を見て、俺は茅野に問い掛けた。

「何かあったんですか?」

茅野は苦笑いをしながら言った。

「ベースが弾けなくなったんだ……弦を強く押さえられない……パソコンの操作は出来るけどね」

俺はため息を付いてから言った。

「だから言ったじゃないですか……これからどうするんですか?」

茅野は苦笑いをしたまま言った。

「このバイトは続ける……バンドは辞める……もう楽器には触らない……後の事はこれから決める、と思う」

その言葉を聞いた後、龍治が職場に現れ、俺達2人に挨拶をした。

「おはようございます……おや?茅野さん、どうされました?」

龍治はいつもとは違う茅野の表情に気が付いたのだろう。

茅野は苦笑いをして龍治に言った。

「ベースが弾けなくなっただけだよ」

龍治は微笑んで言った。

「そうですか……私もそろそろなのです」

俺には龍治が言っている意味が分からなかった。


その日の夜、いつもの公園に行くと、大きな桜の太い枝に2本のロープが縛り付けてあった。その下にはいつもと同じ小さな脚立と、左隣に少し大きい脚立が置かれていた。龍治の姿は無かった。

俺は公園の周囲を見渡した。するとすぐ近くのベンチに座っている龍治を見つけた。俺はゆっくりと龍治に近付いて、隣に座った。

仕事の昼休憩の時に、龍治は今日の夜だけ女装をしないで来て欲しいと言われたので、俺は袖が短いTシャツとジーンズを身に纏っていた。龍治は半袖のワイシャツと黒いスラックスを身に纏っていた。

ベンチに座った俺を見て、龍治はいつもの様に微笑んで言った。

「来てくれましたね……待っていました……今日は、忍にお願いがあります」

俺は嫌な予感がしたが、龍治に問い掛けた。

「お願いって、何だ?」

龍治は桜の枝に掛けられたロープを見て言った。

「もう一度……今度は一緒に、自殺未遂をしてくれませんか?今日だけで良いので……ちゃんとロープには切れ込みを入れています」

俺はため息を付いてから言った。

「本当に今日だけな……苦しいから嫌だけど、1回だけなら良いよ」

龍治は微笑みながら白く縦長の封筒を俺に差し出した。

「後で読んで下さい、手紙が入っています」

俺が封筒を受け取ると、底に小さくて固い何かが入っていた。

俺がその封筒をジーンズの左ポケットに入れると、龍治が言った。

「もし……もしもですが、どちらかが自殺未遂に失敗したら、生き残った方は急いで逃げてください……警官に見つかったら面倒なので」

龍治は立ち上がり、俺の正面に立って右手を優しく掴んで言った。

「じゃあ、行きましょう……左が忍用です……脚立を2つ持つのは大変でした」

龍治に手を引かれるまま俺は立ち上がり、手を繋いで歩いて脚立の前に立った。

龍治は微笑んで言った。

「脚立に乗って、ロープに首を掛けてください……切れますから……一緒に」

俺は脚立に乗り、首をロープの輪に掛けた。龍治も首をロープの輪に掛けて横目で俺を見た。

「では、足を脚立から離してください」

俺と龍治は同時に脚立から足を離した。

「がっ……がっ……」

呼吸が出来ない苦しさで、俺は声を漏らした。龍治は何も言葉を発しなかった。

しばらくするとロープが切れ、俺は地面に落下した。

「これで満足か?龍治」

俺はそう言いながら龍治を見た。龍治は首にロープが掛かったまま、両腕を下に下ろしていた。体が少し揺れていた。

「龍治?龍治……龍治……」

俺は脚立に乗って龍治の首に掛かっているロープを見た。切れ込みは入っていなかった。

龍治の顔は無表情だった。

俺は脚立から降り、ぶら下がっている龍治をしばらく見ていた。その時、龍治の言葉を思い出した。

「生き残った方は急いで逃げてください」

俺は自分のアパートに向かって走り出した。


部屋の明かりを点けてベッドに腰を掛けると、龍治から渡された封筒の事を思い出した。ジーンズのポケットからそれを取り出すと、封緘はされていなかった。

中身を出すと、4つ折りにされた何枚かの便箋と鍵が入っていた。

俺は便箋に書かれている文字を読んだ。

「忍がこの手紙を読んでいる頃、私はすでに死んでいるでしょう。

私は小説家になりたかった。でも無理でした。何故なら私は空っぽな人間だからです。

空っぽな人間は何も生み出す事は出来ません。

近い内に全てを捨てようと思っていたら、忍と出会いました。

初めは姿を見て一目惚れをしました。次第に内面も好きになりました。

忍はいつも同じ時間に公園に来ます。私はその時間を見計らって自殺未遂をしました。

忍は私を抱き起こし、私は忍を抱き締める。それはとても幸せな瞬間でした。

私は何も持っていませんでした。だから忍を欲しいと思いました。

忍だけを欲しくなりました。

しかし、2度も振られてしまいました。

それでも、忍と同じ時間を過ごすという幸せを得る事が出来ました。

空っぽな私に大切な時間という物を与えてくれました。

自殺未遂以外の楽しい時間を与えてくれてありがとう。

今日は私の誕生日です。

忍の隣で死ぬ事は、最高の誕生日プレゼントです。

ありがとう。私は忍を愛しています。」

2枚目の便箋には、住所が書かれていた。

3枚目の便箋には何も書かれていなかった。



翌日は土曜日だった。

目を覚ました俺は、Tシャツとジーンズを身に纏い、いつもの公園へ行った。公園の入り口には規制線が張られており、数人の警官と多くの野次馬が集まっていた。それを一瞥してから、俺は便箋に書かれていた場所へ向かった。

額から流れる汗を腕で拭いながら歩くと、白い壁のアパートに辿り着いた。まだ警官は来ていない様だった。おそらくあの時、龍治は身分証明書の様な物を持っていなかったのだろう。

便箋に書かれてあった部屋番号の玄関ドアの鍵穴に封筒に入っていた鍵を差し込んで回すと、すぐにドアが開いた。

部屋には封がされたダンボール箱が1つだけ置かれており、その上に白くて縦長な厚い封筒と何かが入った茶色の紙袋と、おそらく使い残したと思われるガムテープが置かれていた。それ以外は家具も何も無かった。

俺は靴を脱いで部屋に入り、封緘されていない封筒の中身を見た。中には大量の紙幣と1枚の便箋が入っていた。

4つ折りにされた便箋を開くと、こう書いてあった。

「これはアルバイトで稼いだお金です。小銭は邪魔だろうと思って紙幣のみを入れました。これで忍の服を買ってください。それから紙袋の中身は忍へのプレゼントです。最後のプレゼントを受け取ってください。」

俺は便箋をダンボール箱の上に置いてから紙袋を開けた。中には女性用の下着が5セット入っていた。

「ブラジャーなんて必要無いのにな」

俺は微笑んだ。次第に可笑しくなり、大きな声を上げて笑った。

ひとしきり笑った後、便箋を入れた厚い封筒と紙袋を持って、部屋を出た。玄関ドアを施錠した後、アパートの入り口にある郵便受けに鍵を入れ、俺は自分のアパートに向かった。


俺はしばらくの間、女装をして、以前の散歩コースを歩いていた。

龍治が死んで1ヶ月後、俺は女装をして、小さなバッグと切れ込みを入れたロープと脚立を持って、あの公園へと向かった。そして脚立に乗り、大きな桜の木の太い枝にロープを縛り付け、ロープの輪に首を掛け、地面に落ちた後、バッグと枝から解いたロープと脚立を持って、いつもの喫茶店へと向かった。

店員が「喫煙席ですね」と言って席を案内した。店員は俺を憶えていた。俺は店員に「いつもの、1つ」と言うと、俺の声を聞いた店員は一瞬驚いた顔をしたが、すぐにホットコーヒーを運んできた。

俺はコーヒーには何も入れず一口啜ってから、龍治と同じ銘柄の煙草の箱をバッグから取り出すと、煙草を1本取り出して火を点けた。向かい側の席に龍治が座っている様に感じた。

俺は同じ行為を毎日続けた。すぐに喫茶店の店員は俺の声を聞いても驚かなくなった。自殺未遂を続けている内に、龍治の気持ちが分かるかも知れない、何故俺を欲したのかが分かるかも知れないと思いながら。

やがて首を吊る事に苦しさを感じなくなった。それよりも地面に落ちる方が痛かった。

少し龍治に近付けた様な気がした。


俺は龍治の様に空っぽな人間では無いと思う。しかし龍治という穴が開いてしまった。

俺にとっての龍治はどんな存在だったのかが良く分からない。友達でも恋人でも無い。

しかし、滅多に会う事は出来無い特別な存在ではあったと思う。もっと龍治と話をしたかった。俺の内面の何処が良かったのかを聞きたかった。

そして俺はこれから龍治という穴を埋めてくれる人と出会える事を願った。

今日も俺は、公園へと向かって歩き出した。

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ロープ越しの月 秋葉啓佑 @akibakeisuke

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