第5話 公案禅

 望月が「一如庵」に通いだして二年が経った頃、老師から個室に呼ばれた。

「いよいよ公案を授ける時が来た。しかし、その前に心しておいてもらいたいのが、禅の修業がなぜ命懸けになるかというと、公案の解答がなかなか認めてもらえないからである。ここからは命懸けの修行になるがその覚悟はあるか?」と老師が言った。

「はい。悟りが開けないなら生きていてもしょうがないと思っています」

「生きていてもしょうがないという事はないが、その覚悟があるのであれば公案を授けよう」と老師は言うと、更に続けて「両手でかしわ手を打つと音が鳴る。では片手ではどのような音がするのか聞いてこい」と言われた。

「…………」あまりにも驚くべき公案の内容にとっさに返答できなかったので、低頭して無言で退室した。



 自宅に帰ってから望月は公案について考えていた。どう考えても片手の音など聞こえるはずないとしか思えなかった。これはどう考えたらよいのかさっぱり解らなかった。



 翌日、職場で岡田が聞いてきた。「公案を頂いたって?」

「うん」

「どんな内容だ?」

「それは言えないんだ。自分だけで取り組まないといけないんだ」

「そうだよな」と言って更に続けた。「望月は修行する態度が誰よりも真剣そのものだったから上達が早いわけだ」

「そんな事ないよ。公案を頂いても、いきなり行き詰ってるし」

「どうしてそんなに頑張れるんだ?」

「悟りを開いても終わりじゃなくて、更に修行をして悟りを身に付けて人格の完成を目指さないといけない。いったい人はどこまで昇って行けるのか、その『高み』を見極めたいんだ」



 老師から個室に呼ばれた。公案の解答と指導は必ず個室で行われるのである。

「片手の音は聞けたか?」

「いえ。まだです」と望月は恐る恐る答えた。

「どのように取り組んでおるのか?」

「いったいどのように取組めば良いのかいろいろ考えていたのですが、全く解りませんでした」

「ばかもの! 考えるより先に何かやってみるのだ!」と老師は言うと短い警策のような棒で望月をバシッと叩いた。

「申し訳ありません」と望月は言うと低頭して退室した。



 自宅に帰った望月は今日の出来事を思い返していた。棒でしばかれるというひどい目にあった事、公案が通るまでしばかれ続ける可能性が高い事、しばかれるのがいやなら早く公案の解答を認めさせるしかない事などを考えていた。なるほどこれは命がけの修行になるわけだと望月は思った。その後、しばらく公案にどう取り組むべきか考えでいたが、やはり全く解らなかったので、解らない事をいつまでも考えていてもしょうがないと思い、一旦考える事を中断して随息観の座禅をすることにした。しばらく座禅をしているとふと閃いた。公案禅は別名看話禅とも呼ばれているので、これがヒントではないかと思いついたのだ。



 数日後、望月は老師からまた個室に呼ばれた。しばらくして望月が個室から退室すると岡田が話しかけてきた。「どうだった?」

「ある取組み方を思いついたから、このようにしていますって言ったら、間違っているとは言われなかったからこのまま続ければ何とかなりそうだよ」

「おっ! やったじゃないか」

「でも、老師から『もっと気合を入れて真剣にやれ!』と言われて棒でしばかれたけどね」

「しばかれたのに嬉そうだな」



 瞑想道場に通いだして三年が経った。つまり望月が公案を頂いてから一年が経っていたが、未だ片手の音は聞けていなかった。公案を頂いてから一年間それまでの人生では経験した事がないほど真剣そのものの修行が続いていたが未だに片手の音が聞けない事で望月の心にふと弱音が生じた。これほど真剣にやってきたのに、まだ片手の音が聞けないのは自分に才能がないからではないだろうかと思ったのである。

 そんな望月の様子を見ていた老師が言った。「集中力がとても高まるとっておきの方法があるが、やってみるか?」

「はい、是非やらせて下さい」

「では一週間の断食のぎょうに入るので、会社に夏季休暇を申請して日程が決まり次第連絡するように。断食をすると非常に集中力が高まり、修行が一気に進む可能性があるぞ。また、長寿遺伝子のスイッチが入って健康にも良いぞ」



 望月は「一如庵」に1週間泊り込みで断食の行に入った。始めは空腹を感じたが、一日経つ頃にはもう空腹は感じなかった。

 断食中、座禅して必死に片手の音を聞いているが、なかなか片手の音が聞けないので、夜も寝ずに頑張った。



 三日後、望月は断食によって生命が危機にさらされる事で尋常ではないほど集中力が高まってくるのを実感した。自分の中にこれ程の力が眠っていた事に驚くと共に、深い喜びを感じていた。



 五日後、夜も寝ない望月が心配になった老師は「限界を超えているようだから少し寝たらどうだ」と声をかけた。

「この一週間で必ず片手の音を聞くと決めたのです。ここで片手の音が聞けなかったらこの先ずっと聞けないと思うので、死んでも寝ません」

「その心意気見事だ。しかし、あまり目的意識を持ち過ぎないほうが良い。目的を意識するという事はエゴが働くということだからだ。ただ座る、ただ片手の音を聞く、という姿勢が大事だ」

 声をかけただけで止めなかった老師の様子を見ていた岡田が言った。「止めなければ本当に死んでしまいますよ」

「あの目はまだ大丈夫だ」と老師が答えた。

「なぜそんなに無茶をさせるのか?」

「極限状態になると偽の自分であるエゴが先に音を上げて、本当の自分が輝きだすからだ」

「私は弱い人間なので公案禅は無理ですね」

「そんな事はない。弱いと思っているのはエゴであって、本当の自分は思っているよりもずっと強いのだよ」



 望月が断食の行を開始してから予定の一週間が経った。しかし、まだ望月は片手の音を聞けていなかった。望月がきっと落ち込んでいると思った岡田は何と言ってなぐさめれば良いのか思案していた。しかし、望月の様子を見るとすさまじいまでの気を発していて、全く止める気などないと理解した。岡田にはその様子は神々しくさえ感じられ、たましいが震える程の感動を覚えた。



 翌日、瞑想室で十人ほどが座禅をしている。望月は明鏡止水のごとく心を研ぎ澄まして片手の音なき音を聞いていた。そんな時、誰かが警策けいさくで左肩を打たれて、「パーン、パーン」と音が鳴り、次に右肩を打たれて「パーン、パーン」と音が鳴った。

 その音はそれほど大きな音ではなかったが、望月にとっては天地をゆるがすほどの大音声として響いた。普通の感覚でいうとそうなのだが、この時は不思議な事が起きていて、望月は音そのものになっていたのだ。深く禅定に入っていた望月はその音でハッと我に返った。そして、完璧な無心状態になっていて「くう」を体験したのだ。つまり、三昧の境地に至り、見性体験をしたのだ。

「老師、片手の音が聞こえました! …………」と言うと望月は言葉を詰まらせた。万感胸に迫り、涙が望月の頬を濡らした。

 しばらくして「不思議です。自分の体とまわりの物の境界が無くなって、全ての物がつながっています。全てが自分のように感じます」と望月は言うと更に続けた。「自分の体が無くなって、見えない十五個目の庭石が存在しないという事がはっきりと理解できました」

 まるで自分の体の上を歩いているような不思議な感覚で廊下を歩いて枯山水庭園が見えた時、「あっ!」と声が出た。今まで塀の外の電柱がせっかくの庭園の景観を損なっていると思い込んでいたが、その嫌いだった電柱が美しく見え、愛おしくさえ感じられるのである。今までは見ているようで、何も見えていなかった事が心底理解できた。今まではエゴという色眼鏡を掛けて見ていたから本当の世界が見えていなかったのだ。

「悟りを開けばそれで終わりではないぞ。後悟の修行で悟りを身に付けてゆき、人格の完成を目指さねばならんのだぞ」と老師が言った。



 翌日、望月が「一如庵」に行くと岡田が来ていて、「おい聞いたぞ。悟りが開けたんだって。おめでとう! 老師も後継者ができたと喜んでおられたぞ。どんな感じだ?」と言った。

「自分が無くなって、世界が光輝いて全てが一つになっているんだ。そしてとめどない喜びが湧き上がってくる。ああ、これが天国なんだって感じ。岡田さんが言ってた死をのがれるという事も解ったよ。世界そのものが本当の自分だったんだよ。人間である事も、生きている事も、死ぬ事も全ては妄想だという事が『くう』を体験して本当に理解できたよ」



あとがき

 最後までお読み頂きまして誠にありがとうございます。

 一週間も寝ずに断食なんて絶対に不可能だ! って思われたことでしょう。しかし、実際に比叡山延暦寺では千日回峰行という修行の中で七百日目から九日間の不眠不休の断食の行が行われており、戦後十三人が達成されたそうです。

 主人公の望月は見性体験をするまでに大変な苦労をしましたが、これは個人差が大いにありまして、人によってはかなり短期間で見性体験をされる方もいらっしゃるようです。

 最後にこの小説のテーマである「悟り」について補足説明します。多くの方の認識は、まず世界の中心に私がいて、そして私が物を見たり、私が音を聞いていると思い込んでいると思います。しかし、物を見る体験や音を聞く体験というのは本来は私と対象物というふうに分割して認識するべきではなくて、全てが一つの体験なのです。片手の音というのはそういう体験の分割が生じる前の純粋な体験のことだったのです。そして瞑想によってエゴを無くして、分割が生じる前の純粋な体験をすると全てが本来の自己であったと理解し、悟りが開けるのです。思考が分割するべきではない体験を架空の自己エゴと自己以外に分割していたからです。つまり悟りとは一言で言えば私って実はいなかったんだ、という事です。これを仏教用語で諸法無我と言います。また禅宗では無我の境地とも言います。瞑想して雑念を払い、思考を無くすことで無我の境地は実現します。

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色即是空 @tetsuo468

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