第4話 ゾーン
「一如庵」での瞑想が終わった後、老師が「望月君はビリーヤードをやるか?」と尋ねた。
「はい、学生時代はけっこうはまってました」
「そうか。それは楽しみだ」と老師は言うと望月をビリヤード室に誘導した。
「ゲームはナインボールだ。それで良いな」と老師は言った。
「はい」
老師はビリーヤード台を持っているだけあって、とても上手かった。次々に的球を連続で落としていき、望月にはなかなか順番が回って来ないのだ。
「老師が上手すぎて勝負になりませんよ」と望月は言った。
「では、ビリーヤードが上達するとっておきの瞑想を教えよう」
「えっ、とっておきの瞑想ってそんなものがあるのですか?」と望月が驚いて言った。
「ビリーヤードに限らず、あらゆる競技のトップアスリート達がやっておる瞑想があるのだ。イメージトレーニングと言って成功イメージを何度も何度もイメージする瞑想だ」
「あっ、そういえば何か聞いたことあるな」
「できるだけ詳細に、ありありとイメージすることが大事だ。望月君くらい瞑想体験を積んでおれば大きな効果が期待できるぞ」
望月は自宅に帰る前に本屋に寄ってスポーツのメンタルトレーニングの本を買った。
自宅に帰ると望月は今買って来た本を早速読んだ。本に書いてあったルーティン(心の迷いをはらい集中力を高める為に行う決まった一連の動作)に興味を示し、自分もやっとみようと思った。
望月の考えたルーティンは、ショットする位置から三歩離れた所に立ち、三歩歩(さんぽある)いてビリヤード台の前に立つと、三秒間合掌してからキューを構えて五回ウオームアップストローク(ショットの前の準備にキューを前後に振る事)をして、六回目のストロークで手球をショットするというものだ。
ルーティンが決まると次にイメージトレーニングをしてみた。枯山水庭園の瞑想や阿字観によってイメージする力を養成していたので、ありありと詳細にイメージする事が出来た。まずルーティンを行ってからブレイクショットをし、ショットの度にルーティンを繰り返しながら次々に的球を落とし、手球を次の的球を落とし易い位置にもっていく為に回転をかけるといった具合にイメージするのだ。
二ヶ月後、望月は老師にビリヤードの再戦を申し込んだ。この二ヶ月間のイメージトレーニングとルーティンの成果を試したかったのだ。
「イメージトレーニングはしっかりとやったのか?」と老師が尋ねた。
「はい、ばっちりです」
「そうか、それは楽しみだ」
望月はブレイクショットの前にまずルーティンを行った。ルーティン動作が集中力をうまく高めてくれたおかげで、ブレイクショットがイメージトレーニング通りに完璧に決まった。あまりにイメージトレーニングのイメージの通りだったので不思議に感じて気分がのって来た。ショットの度にルーティンを繰り返しながら次々に的球を落とていく。非常に集中力が高まり失敗する気がしない。球を突くキューと自分の体がまるで一体になったように感じた。玉の配置がまるで上から眺めているように良く分かる。初めて1ラック(1ゲーム)突き切りができた。
「ゾーンに入ったようだな」と老師は言った。
「ゾーンって何ですか?」
「トップアスリート達がまれに経験するとても集中力の高まった状態だよ。例えば野球選手の場合ならピッチャーの投げた球が止まって見えたりするらしいぞ」
「トップアスリート達でないと到達できない領域に私なんかが到達できるわけないじゃないですか」
「トップアスリート達と同等レベル以上の真剣さで瞑想修行に取り組んだからだろう」
翌日、会社に行くと岡田が話しかけてきた。「望月、聞いたぞ! ゾーンに入ったんだって? すごいじゃないか!」
「うん、でもたぶんまぐれだよ」
「まぐれで到達できるようなものじゃないぞ」
「ルーティンが集中力を高めてくれたのが良かったみたいだ。ブレイクショットをしたら、イメージトレーニングと全く同じショットになって、それで不思議な感じがして、なんかスイッチが入ったみたいなんだ」
「デジャブ体験がスイッチになったんだ!」
「うん、そうみたいだ」
「俺もビリヤードを始めてみようかな。今度、教えてくれよ」
「いいね! 今晩にでも行こう」
「よし、決まりだ」
自宅に帰った望月は職場で仕事をしているところをイメージトレーニングしてみた。伝票に記載された品を棚からピックアップしてダンボールで梱包して伝票を貼り付け、行き先別に仕分けするのだ。仕事の一連の流れがスピーディで効率的に進んでいる様子を出来るだけリアルに何度もイメージした。
望月は職場で昨日のイメージトレーニングに近い仕事をしようと集中した。とても集中力が高まっていて、瞬時に伝票を読み取り、無駄のない動きで素早く商品を棚からピックアップして、ダンボールで梱包して伝票を貼り付け、行き先別に仕分けする。とても正確でスムーズな動きだ。とても体が軽い。まるでどう動けばよいのかが事前に解っていて動いているようだ。すばらしい集中力だ。どんどん仕事が片付いてゆく。仕事のストレスも感じなかった。むしろ仕事が悟りへの修行になっているという喜びさえあった。
望月は今日は仕事が休みなので、自宅の近所を散歩がてら歩く瞑想をしながら歩いていた。ふと空を見上げると青空が広がっているが、一つだけ大きくて真っ白な入道雲があった。望月は雲を見ていると、空にプカプカ浮かんで気持ちいいなと感じた。そこで、今自分がまるで雲になったかのように感じた事に気付いた。エゴが
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