第3話 解りかけ

 今日は休みなので朝の随息観の後、朝食をとり、食後にコーヒーを飲んでいる。温泉に行った時に教えて頂いたように、コーヒーの色を観て、匂いを嗅ぎ、よく味わいながら雑念を起こさずに飲むのだ。

 コーヒーを飲んだ後にモーツアルトのアルバムを聴いている。歌詞のないクラシックの曲を聴くと脳にアルファー波が現れ、瞑想状態に近いと聞いたからだ。このアルバムにはお気に入りのトルコ行進曲が入っていたから買ったのだ。トルコ行進曲は瞑想に不向きな気もしたが、好きな曲の方が集中しやすいと思い選んだ。望月は雑念を起こさないように曲に集中して聞いている。

 曲が終わって、望月は音の世界に浸ってみるのも良いものだとしみじみ思っていた。すると、音は空気の振動であり、人の感覚器官が音として感じているにすぎない事を思い出した。視覚や嗅覚・味覚・触覚についても同様だろうかと思索し、まわりの世界とは実は感覚器官からの信号に基づいて脳がつくり出した仮想世界ではないのかという仮説を思いついた。



 翌日、望月は「一如庵」に着くと昨日思いついた事を老師に話した。「視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚の五感が作り出す世界とは実は感覚器官からの信号に基づいて脳が作り出した仮想世界ではないかと、ふと思ったのですが、いかがでしょうか?」

「ほう、よく気付いたな。まさにその通りだ」と老師は答えると、例え話を持ち出した。「昔、達磨だるま大師が弟子から『心が不安である』と相談を受けた。達磨大師は『安心させてやるから心を出してみろ』と弟子に言った。弟子は『心は出せるものではありません』と答えた。『ほら、安心させてやった』と達磨大師は言った。つまり心と思っていた思考や感情は幻想であり、本来はないものをあるように思っていただけなのだよ。本当の心は望月君の言うように夢のような仮想世界であり、また鏡にも例えられる。本当の心は鏡のようにまわりの世界を映しているのだ。つまり、この世界は心に映し出されたもの、と言うよりこの世界そのものが心なのだよ」

「ええっ! この世界そのものが心! そんなことって……」

「にわかには信じがたいことであるが、これが真理なのだよ」と老師は言うと、更に説明した。「心がまるで実体が在るかのように夢を見せているだけなのだ。つまり望月君も人間として存在していると思っているだろうが、心という鏡に映った世界の中から自分だけを勝手に切り取って人として存在している夢を見ているにすぎないのだ。つまり、夢から覚めた悟りの世界では人ではないし、生きてもいないのだ。生きていないという事は死ぬ事もないという事だ。心の働きで人として生まれたり、存在したり、死んだりするように感じていただけたっだのだ。つまり妄想だ。もう一度言うぞ、本当の心とは今までまわりの世界と思っていたもの全てなのだ。今まで誤って心だと思っていたものは鏡の汚れのようなものなのだ。鏡の汚れは物事をありのままに観る妨げとなるので、瞑想をして心という鏡を綺麗に掃除してやらないといけないのだ」

「皆が当たり前のように自分のことを人だと思っている事が妄想だったとは。あっ、そう言えば前に本来は仏なのに誤って人だと思い込んでいるって聞いたし、マトリックスの話の時にも夢を見せられているって聞いていたけど、よく解ってなかったな。では、この世の全てが心なら、仏も心なのですか?」

「そのとおり。今この瞬間に目の前にある世界全てが心であり仏である。ただし、今この瞬間に目の前にある世界といっても望月君の思っている世界とは違うぞ。自分と他人を区別する以前の世界、あるいは物と空間を区別する以前の全てが一つである世界なのだ」

「この世の全てが心であり夢のような世界だという事は、本当は何も無くて、全ては妄想だったんだ……」

「何も無いわけではないぞ。ただ観ている意識、つまり瞬間瞬間の感覚だけがあるのだ」

「少し解りかけてきました。では、老師が以前に仏とは廊下であるとおっしゃったり、松の木であるとおっしゃったのは、全てが仏である目の前の世界の中から仏の一例を示されていたのですね」

「そのとおり。ようやく解ったか」

「拭き掃除をしている時に『自分の心を拭いているつもりで拭いてみよ』とおっしゃった意味もようやく解りました」

「これからは自分の心を拭いているつもりで丁寧に心を込めて拭くのだぞ」

「はい。それと、枯山水庭園の庭石の問題で、見えていない十五個目の石が私自身であるというのは、私は本当はいなくて、いるという思い込みだけがあるという事なのですね」

「そのとおり。よく解ったな。自分の体があると思っているだろうが、それは自分の体に関する過去の記憶を寄せ集めたり、他人の体を参照したりして作り上げられたイメージなのだ。実際にそのイメージ通りの体が体験される事はないのだよ。試しに今望月君が体験している内容を全て言ってみよ」

「目の前に老師がいて、その後ろに壁があって、壁には墨蹟の掛け軸が掛かっています。私が口を動かして話しています。私の話している声が聞こえます。私が立っている足の感覚が有ります。足の裏で床を感じています」

「口と足の感覚はあるようだが、体全体はどこにあるのだ?」

「さっきの瞬間には体全体は意識していませんでした。たしかに常に体全体を意識なんてしないですね」

「もう解ったと思うが、意識していなかったのではなく、体全体は存在していなかったのだよ。体験していないことは無いのと同じなのだ。今この瞬間に実際には口と足の感覚しかないのに、(架空の)体があるという先入観のために自分を肉体のある人間だと誤って思い込んでいるのだ。今この瞬間に実際に意識している体験だけが事実なのだよ」

「でも、私が存在していないなんてまだ信じられないという気持ちが強いです」 「信じられなくて当然だ。だから三昧の境地に至り、見性体験をして確認するのだよ」

「三昧の意味がいまいち良く解ってないので、教えて頂いてもいいですか?」

「三昧には三つの意味がある。以後、三つの事に留意して修行するように。一番目は『正念の一貫相続』正念とは何回も出てきた『ただ観る』という事を別の言葉で表しただけにすぎない。つまり、エゴを働かせない事。価値判断をしない事だ。雑念を払い、今している事に徹底的に集中する事で実現できるのだ。そして、その正念を途切れることなく、一貫して続ける事が大事なのだ。例えば、瞑想時は意識の空白状態になるのではなく、随息観なら呼吸を『ただ観る』ことを決して途切れることなく続けることが大事なのだ。二番目は『心境一如 物我不二』私はまわりの世界から切り離された存在ではなく、世界と一体であるという意味である。自他を区別する事なく、他人には自分の事のように親切にしてやれ。以前会社で言い争いになったと言っておったが、わしから観れば自分の右手と左手が喧嘩しているようなものだ。三番目は『正受にして不受』これは墨蹟の掛け軸をやったから覚えておるだろう。暑い時は暑いと正しく感じて、それ以上、二念三念に展開させない。つまり、雑念や妄想を起こさないという事だ。最後に修行とは気合だ。木刀を振った時の気合を忘れるな」

「はい」と望月は答えると深く低頭して退室した。


 望月が歩く瞑想をしながら「一如庵」に向かっていた。三ヶ月ほど前からラベリングはやめて、呼吸と足の感覚に集中しながら歩くようにしていた。しばらく歩く瞑想をしていると、ふと気付くと自分のまわりに見えている物の存在感が増しているように感じた。見慣れたはずの風景なのに、どういうわけかまるで風景の中のひとつひとつの物が何か特別な物であるかのように心にその存在を強く感じさせるのであった。

 望月は「一如庵」に着くとすぐに老師に質問した。

「老師、見慣れたはずの風景が強い存在感で心に迫ってくるのですが、どうしてでしょうか?」

「瞑想修行が進み、エゴが徐々にくうじられてきたからだよ。今まではエゴという色眼鏡を掛けて見ていたから良く見えていなかったが、色眼鏡の色が徐々に薄くなって来たからよく見えるようになったのだ。修行がもっと進むと驚くほど見え方が変わるぞ」

 瞑想が終わり、帰路についた望月は歩く瞑想をしていた。いつもよりまわりの景色をよく観て、景色の存在感をより感じながら歩いて帰った。瞑想の上達を実感できて晴れやかな心持ちで歩いていたのだ。



 今日は「一如庵」で老師の法話があった。 

「昔、ある禅僧が客人が来たので茶を出した。客人が茶を飲もうと湯呑を手に持ったところ、禅僧がが客人の手をたたいたので茶がこぼれた。客人はは驚いて『何をするんだ』と言った。禅僧は顔色ひとつ変えずにこぼれた茶をさっと拭くと『茶がこぼれたら拭く。我々はこういうあたりまえの事をやっております』と答えた。この話を何とみる? 誰か解る者はいるか?」と老師が言った。

「…………」誰も答えない。

「悟りを開いた者はエゴの欲望に基づいた行動はしなくなり、あたりまえの事・やるべき事・正しい事を行うようになるという事だ。つまりこの例題の場合はエゴが拭きたいから拭いたのではなく、茶がこぼれたのを見た瞬間に、思考を介さずに自然と手が出たのだ。これが無我の境地に至った者の行動だ」と老師は説明した。



 今日は「一如庵」に行く日ではなかったので、仕事終わりに望月と岡田は居酒屋で飲んでいた。

「公案を頂きたいと老師に願い出たけど、まだ早いと言われてしまったよ」と岡田が言った。

「公案て何だ?」と望月は質問した。

「悟りを開くきっかけとなる問題だよ」

「へー、そんな問題があるんだ」

「でも、かなり修行の進んだ者にしか与えられないんだ」

「早くその問題が頂けるようにお互い修行を頑張らろう!」



 自宅に帰った望月はさっき居酒屋で岡田から聞いた公案の事を考えていた。岡田が公案の事を悟りを開くきっかけとなる問題だと言っていたので、悟りが開ける魔法の問題だと大げさに受け取っていたのだ。公案を頂きたいと老師に願い出てみたかったが、先輩の岡田がまだ早いと言われたのに自分が先に頂いたりすると気まずくならないかなどと考えていた。



 翌日望月は「一如庵」に行くと、どうしても公案の事が気になり老師に質問する。「公案という問題があると聞きましたが、どのようなものでしょうか?」

「公案はまだ早い。修行の進み具合をみて、その時期だと判断したらこちらから公案を授けるから、あせらずに精進して待て」

「はい」と望月は言うとすごすごと退室した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る