第2話 修行
仕事が終わると望月は「一如庵」に向かった。昨日習ったばかりのヴィパッサナー瞑想の歩く瞑想をしながら歩いて行くのだ。室内でするときはスローモーションであるが、道路でする場合は普通のスピードで歩く。歩きながら「左」「右」「左」「右」と心の中でラベリングするのである。
玄関を入ると老師が出て来たので、質問した。「老師、悟りとはどのようなことなのでしょうか?」
「悟りとは本来の自分に気付く事だ。つまり、本来は仏であるにもかかわらず、自分を誤って人間だと思い込んでおるから目を覚まさせてやるのだ」と老師は答えた。
「…………」あまりにも想定外というより驚くべき回答に思考が空白状態となり、望月はそれ以上質問する事ができなかった。
自宅に帰ると望月は今日の老師とのやりとりを振り返っていた。今日、老師が言った事が全く理解できないでいた。そもそも仏とは何かさえ解っていないのであるから、解るはずがなかったのである。そこに気付いた望月は明日は仏とは何かを質問してみようと思った。
翌日、望月が「一如庵」に着くと老師は廊下の拭き掃除をされていた。昨日から気になって仕方がなかったので、すぐに聞いた。「老師、仏とは何ですか?」
「廊下だ」
「ええっ? 廊下? ……」あまりに予想外の返答に思考がまたもや空白状態となり返事が出来なかった。仏が廊下とは全く訳が解らなかった。しかし、冗談を言っている様子ではなかった。直接言わずに暗にほのめかすという日本人に特有な言いまわしの可能性とか他にいろいろな可能性を考えてみた。しかし、全く解らなかった。
瞑想が終わり、歩いて帰る途中も仏が廊下だという事について考えていたが、全く解らなかった。しばらく考えてから、こんな考え事をしていてはいけなかったんだと気付き、ここからはヴィパッサナー瞑想の歩く瞑想をしながら家に帰った。
数日後、「一如庵」に着くと老師は玄関前の庭で植木の手入れをされていた。望月は仏とは何か考え続けていたが全く解らず、気になって仕方がなかったのですぐに聞いた。「老師、仏が廊下とはどういうことか考えてみましたが、さっぱり解りませんでした。もっと解り易く教えて頂けないでしょうか?」
「仏とは松の木だよ」
「ええっ? 今度は松の木? 全く訳が解りません……」またもや全くの想定外の答えにとまどうが、しばらくすると、ヒントを与えるから後は自分で考えろという事なのだろうと望月は思った。
望月は家に帰ってからヴィパッサナー瞑想の歩く瞑想をしていた。「左足」「上げます」「運びます」「降ろします」とやっていると、ふと気付いた。老師は廊下を掃除している時は仏は廊下だと言い、植木の手入れをしている時は松の木だと言った。これは今望月がしているヴィパッサナー瞑想と似ていると思ったのだ。つまり今している事が仏なのだろうかと思ったのである。しかし、今はよく解らないが、瞑想道場に通っていれば、いずれ解る時が来るような気がした。
望月が「一如庵」に通いだしてから一ヶ月が経ち、次の段階に進む。「今日からヴィパッサナー瞑想の座る瞑想を行います。今までやっていた歩く瞑想はもうやらなくてよい訳ではありません。道を歩く時は必ず歩く瞑想で歩いて頂きたい」と老師は言って、次に瞑想の説明に移った。「『坐ります』『足を組みます』などと動作をラベリングしながら、
老師は更に説明を続けた。「『背筋を伸ばします』と、ラベリングを入れながら背中をまっすぐにします。『目を閉じます』と目を閉じます。『吸います、吐きます』とラベリングしながら深呼吸を三回します。次に『待ちます』と、自分の中に生じてくるものを待ちます。それから、『痛み』『しびれ』など、気になるからだの感覚を、ラベリングし続けます。『雑念』『妄想』『眠気』『苛立ち』などの心の感覚も、ラベリングします。どれかひとつのことに集中する必要はありません。ありのままの状態をラベリングします。そして、最後は『終わります』としっかり確認してから終わります」
説明が終わると、望月は座る瞑想を始めた。「待ちます」と心の中で唱えて心に生じるものを待っていると、不思議とあまり雑念が湧かずクリアな状態が長続きする。しかし、始めはうまくいくが、しばらくすると集中力が散漫になり、雑念が生じる。始めのうちは「雑念」とラベリングしていたが、次第に雑念に取り込まれてラベリングをするのを忘れてしまった。体を動かす歩く瞑想よりも集中力を維持するのが難しいと感じた。
「あ痛たた……」瞑想が終わって望月が足を崩すと、足に痛みが襲ってきた。
「足が痛いか?」
「はい。とても痛いです。こんなに痛いとは。瞑想が続けられるかな?」
「痛いのは始めのうちだけだ。そのうちに慣れるから心配しなくてよいぞ」
ヴィパッサナー瞑想の歩く瞑想と座る瞑想にかなり慣れてきた望月は朝起きたらすぐにヴィパッサナー瞑想を実践していた。歯磨きする時は歯ブラシを「取ります」「濡らします」「(歯磨き剤を)付けます」「磨きます」というようにラベリングをするのだ。完璧にするのは難しいが、できるだけ全ての行動をラベリングをするのだ。ポイントは決して価値判断をせずに、ただ観る事に徹する事と、ラベリングが単なる掛け声にならないように感覚に注意を向けてラベリングと感覚をリンクさせる事だ。
職場で仕事中もできるだけラベリングするようにした。ずっとし続けるのは難しかったが、なるべくやるようにした。ラベリングする事で間違いがないか再確認できるので仕事の精度は上がった。更に雑念が減った効果なのか仕事が少し早くなり、より多くの仕事をこなせるようになった。仕事をする事で生じるストレスも随分減り、生き甲斐を感じられるようになっていた。
今日は「一如庵」に行く日ではなかったので、望月は仕事が終わると岡田と居酒屋で飲んでいた。
「仏とは何かと老師に質問したら最初は廊下という回答で、全く訳解らんから、二回目に同じ質問をすると、今度は松の木だって言うんだ、どういう事だろう?」と望月は質問した。
「仏とは本来の自己であると前に聞いたように思うが、どういう事なのか解らないんだ。多分、簡単に教えたのでは身に成らないから、ヒントなのか一例を示されているのか解らないけど、そういう答え方をされているのだろうな」
「廊下や松の木なんかどうやっても仏に繋がりそうにないよな」
「そうだな」と岡田は相槌をうつと、更に続けた。「いきなりそんなに老師に質問しまくっているんだ。かなりはまってるみたいだな」
「そうなんだ。俺、はまりやすくて学生の時もビリヤードにはまってたし。悟りとはどういう事なのか気になってしょうがないんだ」
「俺も悟りがどういう事なのか知りたいが、頭で考えてもだめらしいぞ。瞑想修行をものすごく頑張っていると悟りの境地に至るらしいぞ」
「そうか、やっぱり地道に頑張るしかないんだね」
数日後、仕事が終わってから望月は「一如庵」に来ていた。いつもと様子が違う望月に気付いた老師は「今日は何かあったのか?」と尋ねた。
「実は、職場でささいな事で言い争いになり、相手の言葉に怒りが収まらないのです」と答えた。
「ばかもの! 何の為にヴィパッサナー瞑想をしたのだ。怒りの感情を感じたらすぐに『怒り』とラベリングすれば感情はその力を失うのだ。そんな事で悟りに近づけると思っておるのか! 一度でダメな場合は『怒り』『怒り』『怒り』と何回かラベリングして意識の光で照らしてやる事で感情に取り込まれずに済むのだ」
「…………」思いもよらない老師の言葉に望月は咄嗟に言葉を返す事ができなかった。
「もっと修行が進むと感情が起こる瞬間を捕らえることができるようになる。そうなったらもう感情に巻き込まれることもなくなるであろう」
「怒りの感情が生じる瞬間を捕らえるなんてそんな事ができるのですか?」
「常に客観的な視点から自分を観ることが定着すれば可能だ」
「早くそうなれるように精進致します」
瞑想が終わり望月は帰路についていた。今日はヴィパッサナー瞑想を実生活に活かす方法を知り、すごい事を教わったような気がしていた。そして、怒られたのに不思議とうれしかった。人生の師に出会えた喜びだろうか。
望月が入会してから三ヶ月が経ち、今日から新しい瞑想を習うことになった。禅宗で行われている
「まず
望月は老師の説明通りに数息観を始めた。始めはうまくいくが、しばらくすると集中力が散漫になり、雑念が生じる。集中力を維持するのは結構難しいと感じる。
線香一本が燃え尽きる約四十五分間が経ち、座禅が終わると「集中するのは難しいだろう?」と老師が言った。
「はい、始めはうまくいっていたのですが、途中から集中が途切れて雑念だらけでした」
「雑念が起こったら『雑念』とラベリングをしてただ観ればよい。意識の光で照らしてやると雑念に取り込まれる事は無くなるのだ。そして更に修行が進むと、次は雑念に気付いているている自分をただ観るのだ」
「『雑念に気付いているている自分をただ観る』って難しそうだな」
「簡単ではないが、これができるようになり、更に一日中その状態を維持できるようになると本来の自己に出会える日は近いぞ」
「それって見性体験ができるってことですか?」
「そのとおり」と老師は答えると更に続けた。「これからは一日も欠かさずに必ず毎日数息観を三十分以上するように。できれば四十五分できると更によいが。つまり、数息観を基本の瞑想として、他の瞑想は休日などの時間のある時に数息観をした上に更にする場合にすればよい。最後に、座禅が終わったからといって気を抜いてはいかんぞ。せっかく整った心を乱さないように気を付けるのだぞ」
「はい、ヴィパッサナー瞑想の歩く瞑想をして帰ります。それでは失礼します」
翌日、望月は仕事が終わって、職場の休憩室にやって来ると岡田が先に来ていた。
「昨日は初めて数息観をやったよ」と望月は言った。
「おっ、ついに座禅に入ったか」
「でも数息観はただ息を数えるだけなんで、シンプル過ぎて退屈なんだよな。もっと興味がそそられて集中し易い瞑想がやりたいな」
「解ってないなあ。座禅はそのシンプルさが大事なんだよ。人生には興味をそそられる事ばかりじゃなくて、シンプルで退屈な事もあるだろう? どんなに退屈な事にでも全力で集中できる能力をつけることが大事なんだよ」
「へー、そうなんだ。だから老師は数息観を基本の瞑想として必ず毎日するようにって言ったんだね」
自宅に帰り着いた望月は仏つまり本来の自己について考えていた。普通の意識の下に自分では気づいていない潜在意識があると以前聞いたことがあったので、本来の自己とは潜在意識のことだろうかと考えていたのだ。いくら考えても解らないからこの問題はまた今度「一如庵」に行ったときに老師に質問することにして、今日は数息観を三十分してから寝ることにした。
数日後、仕事が終わってから「一如庵」に行こうと会社から外に出ると急に雨が降ってきた。うっとおしい天気だと望月は思った。しかし、その直後、ただ観るになっていないと気付いて、ここからはヴィパッサナー瞑想の歩く瞑想に集中して雑念を起こさないように歩いた。
望月は「一如庵」に着き、老師に会うと気になっていた事を質問した。
「老師、本来の自己とは潜在意識のことですか?」と望月が質問した。
「違う」と老師は答えると更に続けた。「雑念を止めようと思ってもなかなか止まってくれんだろう?」
「はい」
「雑念は潜在意識から湧き上がってくるから、意識の力ではなかなか止まってくれないのだよ。つまり潜在意識とは欲望・思い込み・記憶・感情・思念といった
「へー、そうだったんだ」
「だから、エゴを作り出す材料を貯めないように瞑想をして心を掃除してやらないといけないのだよ」
「はい、精進致します」と望月は言うと瞑想室に移動した。
しばらくして、瞑想室で座禅が始まった。望月はしばらく座禅をしていると仕事の疲れが出たのか眠気に襲われた。こういう時は合掌すると
望月が「一如庵」で座禅をしていると助警が望月の背中に警策を立てて当てた。背筋が曲がっているから姿勢を正せということだ。望月が姿勢を正すと助警はアドバイスした。「背筋を伸ばそうと頭で考えてはいけない。頭が天井から吊るされているとイメージすると自然と背筋が伸びる」
座禅が終わって、望月は「一如庵」から自宅へと帰路についていた。いつものように歩く瞑想をしながら帰るのであるが、今日習った頭を天井から吊しているイメージを歩く姿勢に応用しながら歩く瞑想をしているのだ。老師の美しい歩行姿勢に強い憧れの気持ちをいだいているからである。
今日は休みなので望月は昼間から「一如庵」で座禅をしていた。そして、座禅が終わった後、老師が「今日はこれから温泉に行かないか?」と言い出した。五人が行きたいと言い、計六人で行くことになった。車で一時間ほど走ると景色はすっかり山の景色となり、温泉旅館が、見えてきた。老舗旅館といった感じで、古さのなかにも風情を感じさせる佇まいだ。この旅館では宿泊客でなくても一人千円で温泉に入浴する事ができるのだ。服を脱ぐとまず露天風呂に入った。とても広い露天風呂だ。植栽の木が効果的に植えられていて、地面は苔に覆われている。とても風情がある。温泉の色は薄く水色を帯びた乳白色で周りの緑色ととても良く合っている。すばらしい雰囲気だ。
「老師、ここの温泉めちゃめちゃ雰囲気いいっすね!」と望月が言った。
「そうだろ。わしもお気に入りの温泉なんだ。雰囲気だけじゃないぞ。源泉掛け流しで、湯量も豊富なんだ。ほのかな硫黄の匂いと白い湯の花が温泉気分を盛り上げてくれるだろう。湯の肌触りを感じてみよ。少しツルツルする感じがするだろう? 本物の温泉にはこのように個性があるものなのだ。ここからが瞑想の勉強なのだが、ただ観るというと視覚だけのように思うかもしれないが、そうではなくて、聴覚・嗅覚・味覚・触覚についてもただ観るにならないといけないのだ。例えばこの温泉で植栽の緑や温泉のわずかに水色を帯びた乳白色を見て、ほのかな硫黄臭を嗅いで、高いところから豪快に落ちてくる源泉の湯音を聞き、温泉らしくやさしいツルツル感を感じて、ぬるめの温泉がゆっくりと体を
「ただ温泉の特徴を感じればよいのですか?」と望月は質問した。
「ただ感じればよい。しかし、このただという事がなかなか難しいのだ。すぐにいい温泉だとか価値判断をしてしまうからだ。余計な思念の生じる隙を与えないほど全身全霊を傾けて感じる事が大事なのだ」
しばらく皆で温泉三昧を楽しんだ後、内風呂に移動した。内風呂は昔の湯治場のような雰囲気で、とても趣がある。露天風呂の温泉は白濁の湯であったが、内風呂の湯は無色透明であった。
「あれ、こっちのお湯は透明だ。温泉の種類が違うのかな?」と望月が言った。
「同じだよ。同じ源泉なのだが、温泉の入れ方によって個性が違ってくるのだよ。露天風呂では高い所から源泉落として入れていただろう? そうする事で空気により多く触れさせて白く濁らせているのだよ。内風呂では浴槽の中からそっと源泉を入れているだろう? そうする事で空気に触れさせないようにして、できるだけ新鮮なお湯にしているのだよ。つまり、新鮮な為まだ濁る前だから透明なのだ」と老師は説明して、更に続けた。「早く入ってみろ、驚くから」そう言われたので望月は浴槽に入ってみた。
「あっ! 泡だらけになった!」と驚いて望月が言った。
「そうだろう。ここのお湯は新鮮だから泡が体にいっぱい付くんだよ」
「露天風呂では付かなかったのに不思議ですね」と望月は言って、更に続けた。「体に泡が付くせいか露天風呂よりも肌がツルツルする感じが強い気がするな」
「おっ、なかなかいいところに気が付いたな。泡付きがあると擬似的なツルツル感が生まれるのだよ。こうして五感に集中して、できるだけ詳細な温泉の特徴を感じ取るのも修行のうちなのだよ。良い事も悪い事も価値判断をしないで、全て味わい尽くす。これがただ観るという事だよ」と老師は言って、更に続けた。「では、またしばらく温泉三昧といくか」
帰り道の車の中で望月が言った。「温泉に入って瞑想の修行ができるとは思いもしませんでした」
「朝起きてから、夜寝るまでの間の全ての行為が修行となるように心がけなければいけないのだよ」と老師は言った。
入会してから五ヶ月が経ち、望月は数息観にも慣れてきて雑念もかなり減ってきていた。
「一如庵」での座禅が始まる前、老師が望月に話しかけた。「前期の数息観はなかりできるようになったようなので、今日から後期の数息観に入る。普通は後期に入るにはもっと期間が必要なのだが、望月君の修行する姿勢が真剣そのものなので、このような異例の早さが実現したのだ」
「はい、ありがとうございます」
「では始めるぞ。後期の数息観では一から十まで数えたらまた一に戻るのだ。そして一切の雑念を起こしてはいけない。ほんの少しでも雑念が起こった場合はまた一に戻るのだ。後期ではこのルールを厳格に適用する。そして一から十までを五回連続達成できる事を目標とするように」と老師は言った。
一回目の座禅瞑想が終わった。望月は長時間の瞑想ができるようになったので、この後もう一度数息観を行う。数息観を二回行う場合は、二回の数息観の間に
「考える事もいけないのですか?」と望月は質問した。
「思考も雑念や妄想と同じようなものであり、できるだけ無くしてゆかなければならないのだ」と老師は答えてから、説明に戻った。「『念々』と左足を出し『正念』と右足を出し、次ぎに『歩々』と左足を出し『如是』と右足を出し、これを繰り返す。見本を見せるから付いて来い」と老師は言うと経行を始めた。望月は老師の真似をしながら後を付いて行く。
経行が終わってから、望月は二回目の数息観をしていると不思議な体験をした。
「老師、ふわりと宙に浮いたような不思議な体験をしました」と望月は数息観が終わってから言った。
「瞑想をしているとそのような体験はよくある事だ。とらわれずにただ観るのだ」
数日後、思考や雑念をなくせと前回言われたが、思考は大事な事だと思っていた望月はいまいち納得できないでいたので、老師に質問した。「どうして思考や雑念を徹底的に無くさないといけないのですか?」
「思考や雑念は本当の自分ではないからだ。思考や雑念はエゴという偽の自分から生じており、エゴを本当の自分だと思い込んで人生を乗っ取られているようなものなのだよ。そして、思考や雑念を消すと本来の自己が現れてくるのだよ」
「えっ! 思考や雑念は本当の自分ではなかったのか! これは驚いたな」
「マトリックスという映画を見たことがあるか?」
「はい、あります。あの映画はけっこう楽しめたのでシリーズの全作品を見ました」
「一作目で主人公が人工知能にカプセルで培養されてコンピュータで作った夢を見せられている姿を見てどう思った?」
「映画での一幕なので特別どうこう思いませんでしたが、もし現実であれば耐え難い事だと思います」
「あれは迷いの姿を表現したものなのだ。悟りを開いた人以外は皆あの状態なのだ。つまり、エゴを本当の自分だと思い込んで夢を見ているのだよ」
「えっ、という事は私もあの状態なのですか?」
「そうだよ。だから修行して本来の自己を取り戻すのだよ」
「急にはとても信じられないな」
入会してから半年が経ち、次の段階に進む時期だと判断した老師は言った。「数息観に慣れてきたようだから、次の段階である、息を数えずに息そのものに集中する随息観を行う。随息観をしている時、なにか目標を決め、こう深呼吸をして、また吐いて、などと心で、はからいながら集中をやっているのでは、それはエゴが働いてしまっている状態であり、ただ観るになっておらん。息なら息をただ観るだけ、つまり随息観なら息を吸うとき、吸うていると観、吐いている時は、息を吐いているのを観るだけ、息と一体になる、これに集中するのが、随息観だ。最初のうちは吸うている、吐いている、という意識があるのは仕方ない。しかし、修練を続けると状態が深くなり、息と一体になってくるものだ。自分を入れずにただ観るというのは、対象と一体になるということだ。こういう状態が主客未分(主が自分で、客が息)という状態だ。別の言い方で三昧とも言うのだ。エゴが落ちていることにより実現されるのだ。最終的にはこういう状態を目指すのだが、目標を意識するとエゴが働くので注意が必要だ」
望月はさっそく随息観を始めた。瞑想を始めて半年が経ち、だいぶ禅定力がついていたのでとても集中して行えた。もちろん三昧にはまだまだほど遠いのであるが。
仕事が終わった後、望月と岡田は二人で居酒屋で飲んでいた。
「岡田先輩のおかげで会社を辞めずに済みました。ありがとうございました。『一如庵』に通ったおかげで、悩みは自分で作り出していたという事が解った。つまり考えなくてもいい事をくよくよ考えるのがいけなかったんだ。辞めたい気持ちはエゴから出たものだという事も解り、そんな気持ちに負けなくて本当に良かったと思っています」
「止めてくれよ。俺はただ誘っただけなんだから」と岡田は言うとコップのビールを飲んで、更に続けた。「近頃は縁というものを大切にしない人が増えたように思うけど、縁を大切にしないといけないと仏教は教えているんだ。縁を大切にするという事はあるがままの現実を受け入れる悟りの心だと教えられた。あるがままの現実というのは唯一絶対のものなのだよ。あの時にああしておけばとかよく考えがちだけれど、それは全て妄想なんだ。そしてエゴはここよりあっちの方が良さそうだとか誘惑するんだ。エゴに負けて縁をないがしろにすれば、迷いの心を深める事になるから気を付けないとね」
「迷いの心を深めるというと盗みとか悪い事をしたりすると、やっぱり迷いの心が深まるのかな?」
「そうだよ、エゴから生じた欲望に負けて、エゴに突き動かされて行動すると、結果的にエゴが強められて、迷いが深まるんだよ」
「修行と反対の方向に行かないように気を付けないといけないんだな」
「そうだな、お互いに気を付けて行動しないとな。この教えがもっと広まれば世界から犯罪がなくなるかもしれないのにな」
「そうなるように俺達も微力ながら貢献したいな」
「でもお釈迦様がこの教えを説かれてから二千五百年も経ったというのに、この教えを本当に理解している人はごく
「何とかならないものなのかな……」
入会してから七ヶ月が経ち、もうすっかり真冬である。望月が家から外に出ると雪がちらついている。今日は仕事が休みなので、「一如庵」に一時間早く行って掃除をするのだ。掃除も大事な修行の内なのである。
望月は廊下を雑巾がけをしていた。廊下は暖房が入っていないのでとても寒い。
「寒いか?」と望月の様子を見ていた老師が声を掛けた。
「はい、とても寒いです。どうして暖房を入れないのですか?」と望月は聞いた。
「それでは修行にならんからだよ。隣町にある寺では真冬に滝行を行うのだぞ。どうしてか解るか?」
「…………」なんとなく解る気もしたが、とっさに答えられなかった。
「どんな試練にあっても気合で心を動かさない練習だよ」と老師は言うと、木刀を持って来て「気合を入れて掛け声と共に振ってみよ」と言った。
望月は言われたとおり「はー」と掛け声を掛けながら木刀を振った。
「声が小さい! 腹から声を出せ!」
「はああーーーっ!」
「よし! その気合だ!」
入会してから九ヶ月、街のあちこちで桜が咲き始め、春の穏やかな日差しが心地良い天気だ。
「一如庵」に着くと「今日は新しい瞑想を行うので、裏庭に面した縁側に移動する」と老師が言った。老師について裏庭の縁側に移動すると、玄関前の庭が緑がいっぱいでとても風情のある庭であったのとは対照的に、無機質な岩と大粒の砂だけの庭であるが、まるで京都の禅寺にあるような枯山水風の見事な庭園であった。
「今日はこの庭の縁側で瞑想する」と老師が言った。皆は縁側に結跏趺坐して座った。縁側の一段高くなった部分がちょうど二つ折の座布団のかわりになるのだ。岩と大粒の砂だけで出来た無機質な庭園を一瞬だけ見てから目を
「イメージを描けない場合は、また目を一瞬開けて何度でもやってみるように」と老師が言った。
枯山水風の庭園は見事なものだが、塀の外に電柱が見えているのが玉に瑕(きず)だと望月は思った。しかし、次の瞬間には雑念に気付き、「雑念」と心の中でラベリングしてから瞑想に戻った。
瞑想の後は別室に移動して、老師の法話だ。移動した先の部屋には丸い窓と四角い格子の窓があった。
「丸い窓は『悟りの窓』と言い、四角い格子の窓は『迷いの窓』と言う。京都の禅寺の真似をして造ったものだが、少し違う点もあって、京都の寺は『迷いの窓』が障子の窓であるが、『一如庵』ではあえてこれをガラスの格子窓に変えたのだ。どうして『悟りの窓』『迷いの窓』と言うか解るか?」誰も答えないので、老師は説明を続けた。「まわりの世界を認識するのに言語とイメージをもちいるが、通常は言語優位の状態にあるので、物に名前を付ける事で、その物を世界から切り取って、本来全てで一つである世界を、あたかも別々に物が存在する世界だと誤って認識する。これを仏教では分別智と言っておる。つまり四角い格子の『迷いの窓』のように世界を分割して見る認識方法なのだ。一方、イメージ優位の認識は世界を分割せずに認識する。つまり丸い『悟りの窓』のように世界を一つと見る認識方法なのだ。これを無分別智と言う。言語による認識を減らして、イメージによる認識の比率を上げる事で、悟りに近づけるのだ。実際に実践する場合は窓を見て窓だと言語的にとらえるのではなくて、窓の形や色をイメージ的に認識するということだ」
瞑想会が終わり、望月は歩く瞑想をしながら自宅に向かっていた。周りを見るとき普通は道路や建物と言語的に認識しながら見るが、先程の老師の教えの通りに、言語に頼らずに形や色をイメージ的に観ながら歩く瞑想をしていた。
仕事が終わった後、望月と岡田は二人で居酒屋で飲んでいた。
「迷いと悟りというのは小説の一人称視点と三人称視点に似ていると思うんだ。岡田さんはどう思う?」と望月は尋ねた。
「えっ、どういう意味だ?」
「一人称視点というのは主人公の視点でストーリーを書く事で、主人公の主観以外は書いてはいけないんだ。これが迷いの状態。次に、三人称視点というのは小説には登場しない第三者の視点で客観的にストーリーを書く事なんだ。これが悟りに近いような気がするんだが、どう思う?」
「よく解らないけど、ヴィパッサナー瞑想は客観的に観る瞑想だから、いい線いってるのかもな」と言うと岡田はコップのビールを飲み干して「ビールもう一本追加」と店員に言った。
「前に言ってた見性体験ってどんな体験なんだろな? あれからずっとめっちゃ気になってるんだよな」と望月が言った。
「いや、あれは実際に体験してみるしかないと思うぞ」
「悟りが開けるような真理の体験って、いったいどんな体験なのか全く解らないけど、気になってしょうがないんだよな。早く体験したいな」
「俺ももちろん興味あるけど、体験なんだから考えても解るわけないし、真剣に座禅して早く体験できるように頑張るしかないと思うぜ」と岡田は言うと、腕時計を見て「あっ、もうこんな時間か。そろそろ帰らないとな」と言って、伝票を持って立ち上がった。
瞑想道場に通いだしてから十ヶ月が経った。望月が「一如庵」に向かって歩く瞑想をしていると、ツツジの花があちこちで美しい花を咲かせている。
望月は今日は仕事が休みなので、「一如庵」に一時間早く行って廊下の拭き掃除をしている。以前に掃除をしていると老師から気合が足らんと言われたので、気合を入れて雑念を払い、拭き掃除に集中した。
「気合の入った良い動きになってきたな。しかし、丁寧さが足りない。自分の心を拭いているつもりで廊下を拭いてみよ」とそこに通りかかった老師が言った。
座禅が終わると、望月は岡田に話かけた。
「今日、老師から『自分の心を拭いているつもりで廊下を拭いてみよ』って言われたんだけど、それって単に丁寧に掃除しようとする気持ちが心も綺麗にするという意味なんだろうか?」
「あっ、それ俺も言われた。何か深い意味がありそうだって思ったからある先輩に聞いてみたんだが、『自分で気づく事が大事だ』って言って教えてくれなかったんだ」
「やっぱり、深い意味があるんだ」
「そうみたいなんだが俺も解らないんだ」
望月が「一如庵」に通いだしてちょうど一年が経った。「一如庵」に向かって歩く瞑想をしていると、七夕(たなばた)の笹を軒下に飾っている民家があった。望月は子供の頃に七夕をやったなと懐かしく思ったが、直後に「雑念」と心の中でラベリングして歩く瞑想を続けた。
「一如庵」に着くと老師が「今日は枯山水庭園で瞑想するから縁側に集まれ」と言った。枯山水庭園の縁側に皆が集まったので、老師が話し始めた。「今日は瞑想を始める前に一つ問題を出す。この枯山水庭園には全部で十五個の庭石があるが、他の石の陰に隠れて、どこから見ても全ての石を同時に見る事はできないように配置されている。そこで問題だが視界に入っていない石は
誰も答えないので老師は「この問題は宿題にするので、後日答えの解った者は
瞑想が終わると望月は更衣室に移動し、岡田に話かけた「視界に入っていない庭石が在るのか無いのかどう思う?」
「普通に考えると見えていないだけで石は在る。しかし、それではあまりにも普通すぎて、あえて問題にする必要はない。となると、答えは無いだ。でもどうして無いのかさっぱり解らないんだ」
「岡田さんも解らないんだ」
一週間後、望月が「一如庵」に着いて玄関で靴を脱いで歩き出したところに老師がやって来て、「そこに何と書いてある?」と言って玄関の壁を指し示した。そこには墨で「
「すいません」と言って望月は靴を揃えると「照顧脚下、つまり靴を揃えろという事ですね」と答えた。
「照顧脚下には二つの意味があり、一つは今望月君が言ったように履物を揃えろという意味だ。そしてもう一つの意味は悟りや真理というとどこか遠いところを探そうとするが、足元や目の前といったところにこそ真理はあるのだから、自分が何者なのか良く観なさいという意味なのだ」
望月は枯山水庭園の縁側で瞑想していると、先程老師から言われた「照顧脚下」という言葉を思い出した。目の前に真理があるってことは、今目の前にある十四個の石が真理ってことだよなと思った。
瞑想が終わると望月は老師に「照顧脚下のとき老師は真理は目の前にあるとおっしゃったので、今目の前に在る十四個の石が真理です。つまり見えていない十五個目の石は在りません」と言った。
「なるほど。ではどうして本来は十五個在るはずなのにそれは正しくないのだ?」
「それはわかりません」と望月は答えた。
「十五個の庭石があるという真実(だと思っている事)は、今この場で実際には体験していないのだから事実ではないのだ。十五個の庭石があるはずだという思いがあるだけなのだ。これからは思い込みに囚われずに観たままが事実だということに留意するように」
自宅に帰った望月は庭石の問題を考えていた。庭石が全て見えるかどうかなんて、たいして重要だと思えなかったが、わざわざこの問題の為に庭まで造るくらいだから、よほど重要な問題なのだろうと思った。しかし、どうして重要なのかが全く解らなかった。
翌日、望月は「一如庵」に着くと、さっそく老師に質問した。「昨日の庭石の意味がよく解らなかったのですが、どういう意味があるのでしょうか?」
「ではヒントをやろう。見えていない十五個目の庭石は望月君自身なのだよ」
「ええっ? …………」あまりにも予想外の回答に思考がついていけなかった。
自宅に帰った望月は今日の老師とのやりとりを思い起こしていた。つまり、見えない十五個目の石は望月自身とはどういう事なのかと考えていたのだ。目の前に事実としてある事以外は思い込みであり、見えない十五個目の石は在るという思い込みがあるだけだという老師の説明から考えられる事は、望月自身も存在しているという思い込みがあるだけで、実際には存在しないという事なのかと考えていた。「そんな事ある訳ないよな……」と望月は独り言をつぶやいた。
瞑想道場に通いだして一年と一ヶ月が経ち、暑い盛りだ。望月は今日は仕事が休みなので、瞑想教室に一時間早く行って掃除をしようと家を出た。道中は蝉の大合唱を聞きながら、いつものようにヴィパッサナー瞑想の歩く瞑想で行くのだ。
望月は廊下を雑巾がけしていた。廊下は冷房が入っていないので、とても暑い。望月の様子を見ていた老師は「暑いか?」と声をかけた。
「気合で暑くない、暑くないと言い聞かせようとしているのですが、やっぱり暑いですね」
「ばかもの! 誰がそんな事をしろと言った。暑い時は暑いと正しく感じれば良いのだ。ちょっとこっちへ来い」と老師に誘導されて個室に移動した。個室に入ると「この掛け軸を見よ」と言って老師は一幅の掛け軸を見せた。それは墨蹟の掛け軸で「正受にして不受」と書かれていた。「『正受』の意味はありのままを正しく認識する事だ。ありのままの現実を拒否したり抵抗したりしてはいけない。何故なら、ありのままを拒否したり抵抗したりするという事は、ありのままでない現実を妄想しているという事なのだ。ヴィパッサナー瞑想でやったようにただ観るのだ。そして、『不受』とは感じたままにして、それ以上、二念三念に展開させないことである。それをそうせずに二念三念へつなげ、思慮分別に発展させるものだから、次から次へと連想がおこり、雑念の黒雲がはびこってしまうのだ。つまり暑ければ暑いとありのままを正しく感じることだ。暑いのに強がって暑くないと言うのは正しくないのだ。暑いからいやだとか二念三念に展開させなければよいのである。この掛け軸をやろう。座右の銘とするがよい」
「そんな立派な物、頂けません」
「遠慮するな。わしが書いたもの故、原価はそれほどかかっておらんのだ」
「ありがとうございます」と望月は言うと低頭して掛け軸を受け取った。
望月が「一如庵」に通いだして一年二ヶ月が経ち、今は九月だ。
「今日はお月見の日だから月見の瞑想といこう」と老師が言った。皆は老師に誘導されて裏庭に移動した。枯山水風の庭園に面した縁側に皆で座って月見の瞑想をするのだ。
「月を一瞬見てから、目を
月見の瞑想が終わると老師は「この瞑想は真言宗で行われている
望月が「一如庵」に通いだして一年三ヶ月が経った。「月輪観ができるようになると次は阿字観だ。阿字観はこのような月輪の中に蓮華と阿字を描いた掛け軸を見て行う瞑想だ」と老師は言うと阿字観用の掛け軸を見せて、更に説明を続けた。「阿字とは梵語の阿という字であり、真言宗では特別な意味を持つ字である。それは『
老師の説明の通りに皆瞑想している。望月はうまく阿字本尊を心のスクリーンに描けずに苦労しているのか、目を開けたり閉じたりを繰り返していた。
望月が「一如庵」に通いだして一年四ヶ月が経った。「今日は写経を行います」と老師は言って、更に続けた。「般若心経という短いお経を毛筆で書き写します。上手に書く必要はありません。何故なら、我々は上手・下手や善・悪といった相対的な価値の世界を超える事を目指しているからです」
「どうして相対的な価値の世界を超える必要があるのですか?」と望月が質問した。
「上手・下手や善・悪といった相対的な価値感は人が勝手につくったものであり、妄想なのだよ」と老師は答えた。
「えーっ! 価値感は妄想だったのか!」と望月は驚いた。
「相対的な価値観はそのように感じる人が多いという曖昧な根拠で人が勝手に決めたものだからだ。他にも綺麗・汚い、生・死など皆同様だ」
「え~っ! 生・死も相対的な価値観なのですか?」
「生と死に分けて考えるから生や死があるように感じるのだ。禅を極めるとそういうこともいずれ解るようになる」と言うと老師は写経の説明に戻った。「お経の意味を考えるとエゴが働くので、意味は考えずに、ただありがたいお経だと思い、一画一画に集中して雑念を払い、心の目で観て書いて下さい。そう、ただ観るのです」
望月は早速、筆を執って書き始めた。しばらく書き進んで、「色即是空」のところにさしかかると、初めて瞑想道場に来た時以来、墨蹟の掛け軸のこの言葉がずっと気になっていた事を思いだした。
翌日、望月は仕事帰りに岡田と居酒屋で飲んでいた。
「『色即是空』ってどんな意味か知ってるか?」と望月が尋ねた。
「いや、解らない」と岡田は答えた。
「岡田さんでも解らないか」
「それってけっこう難しいような気がするぞ」
「そうかもな。『色即是空』の後に『空即是色』とひっくり返って繰り返すのはどうしてだろう?」
「あっ、それ解るかも。多分、悟りの世界では物質は
数日後、望月は本屋に来ていた。「色即是空」の意味が気になり、般若心経の本を買いに来たのだ。一冊の本を買うと自宅に戻り、早速読んでみた。
本を読んでいて「色即是空」の意味は物質世界は実体ではないと書いてあり、全く理解不能であった。更にもっと読んでいくと、全ての物は因と縁によってたまたま生じたものである。そして、それら全ては孤立して存在するのではなく、相互に依存して存在している為、永遠不滅の実体ではないと説明しているが、納得できないでいた。人はいつか必ず死ぬのだから誰も自らを永遠不滅の実体だとは思っていないからである。命がけで悟りを目指して修行するほどだから、さらに奥にもっと思いもよらない事があるのではないかと望月は思ったのである。
望月はその後、一週間考えたがさっぱり解らないので老師に質問した。「『色即是空』とはどういう意味でしょうか?」
「『空』とは仏教の究極の奥義である。そう簡単に解るものではないぞ」と老師は答えると、更に続けた。「禅宗には『
翌日、望月は岡田に「『色即是空』の意味を老師に質問したら、頭で考えるのではなく、『空』を体験しようと工夫するように言われたのだけれど、どうすればいいのかさっぱり解らないんだ」と相談した。
「先輩が似たような課題を出されて、『空』を体験するにはまず無心にならないといけないと言って、呼吸に合わせて『
「ありがとう。そうしてみるよ」
望月は自宅に帰り、さっそく呼吸に合わせて「無」「無」「無」「無」と心に念じて座禅をしてみた。ひたすら心を空っぽにし、「無」の一念に成り切ろうとした。しばらく座禅していると、ふわりと宙に浮いたような例の感覚になり、このまま無心になり「空」を体験できるかと期待したが、そこから先にいく事はなかった。望月は無心になろうとか「空」を体験しようとか期待した為に無心に成り切れなかったと反省した。
今日は仕事が休みなので、「一如庵」に1時間早く行って掃除をする。動中の工夫といって、掃除しながら「無心」になりきれるようにするのだ。掃除する時、動作の一挙手一投足に集中して決して雑念を起こさないように努めるが、たまに雑念が起こる事もあった。
望月が掃除している様子を見ていた老師は「雑念を起こさないのは良い事だが、それだけでは充分とは言えない」と言って、更に続けた。「『私が拭く』の『私が』を消して、つまり無心になって『ただ拭く』事に徹するのだ。最初は『拭く』という意識があるのは仕方のない事であるが、徐々にできるだけ意識しないようにしてゆき、廊下と自分と雑巾が一体となる事、つまり分別しない事が『ただ拭く』と言う事である。そして『ただ拭く』の一念が決して途切れる事なく一貫して相続する事が重要だ。もうヴィパサナー瞑想のラベリングはしなくても、数息観・随息観で養った気合と禅定力で対処できるだろう」
望月は老師の教えの通りにラベリングなしで廊下を拭く動作に集中しようとした。しかし、廊下と自分と雑巾が一体となる事はそう簡単にできるわけがなかった。
一週間後、望月は今日も「一如庵」に一時間早く来て掃除をしていた。廊下を拭くときは必ず左から右に拭くというように掃除の進行をパターン化して、次はどうしようかと頭で考えないようにした。そうしてエゴが働かないようにしているのだ。
掃除を始めるときだけはどうしても、掃除を始めようと考えてしまうが、しばらくすると掃除しようとか拭こうとか思わずにできるようになってきた。つまり「無心」に近づいてきたのだ。
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