色即是空
@tetsuo468
第1話 入門
まえがき
仏教において究極の目的とは何か? それは悟りを開くことです。では悟りとは何か? 老師の謎かけのような言葉をヒントに推理してみて下さい。
仕事が終わり、帰り支度をしていると「望月、飲みに行かないか?」と一年先輩の岡田が誘ってきた。特に予定もなかったので、「いいっすね! 行きましょう!」と返事をした。会社から十分ほど歩いた所にある居酒屋に二人は入った。
二人の前に瓶ビールとコップ二つが運ばれて来た。お互いにビールを注ぎ合うと「お疲れっす! 乾杯!」と二人は言って乾杯してからビールを飲んだ。
「仕事後のビールは旨いっすね!」コップのビールを一気に飲み干して望月が言った。
「ビールを旨く飲むために仕事をしてるようなもんだからな」と岡田は答えた。二人はスマートフォンの普及により急拡大したネット通販の物流倉庫で商品の出荷の仕事をしていた。夏場はかなり汗をかくので仕事が終わった後のビールが格別に旨く感じるのだった。
その後、しばらく他愛もない会話が続いていた。そして会話が一瞬途切れた時に「何か悩みでもあるんじゃないのか?」と岡田が聞いた。
「実は、…………」
「何だよ。まだ飲み足りないみたいだな。もっと飲めよ」と言って岡田がコップにビールを注いだ。
望月はそれほど酒が強いわけではなかったので、かなり酔いが回ってきた。
「実は、就職して三ヶ月経って、だいぶ仕事には慣れてきたけど、本当にこの仕事で良かったのか? とか、他に進むべき道があったのではないか? とかいろいろ悩んでいるんだよ」
「何だそんな事か。俺もそういう時期あったな。そんな時に瞑想道場に通いだしたんだよ。そしたら何かそんな悩みは自然と無くなってしまったな。どうだ一緒に瞑想道場に通わないか?」
「えっ、瞑想なんかした事ないし」
「皆最初は初心者だよ。だまされたと思って一回来て見ろよ」
「そんなに言うなら試しに行ってみるか」
望月は自宅に帰ると今日飲みに行った時に岡田先輩から誘われた瞑想道場に通う事について考えていた。望月は無神論者であり、瞑想のような宗教的なものには近づきたくないと思っていたからである。先輩からの誘いを無下に断るわけにもいかないと思い、つい行くと言ってしまったが、本当はあまり乗り気ではなかったのだ。「一応一回だけ行ってみて自分には合わなかったと謝ろうか……」と望月はひとり言をつぶやいた。
数日後、望月は塀に囲まれた古民家風のわりと大きな家の前に来ていた。門に木製の看板があり、毛筆で「瞑想道場 一如庵」と書いてあった。インターフォンを押すと返答があり、還暦を少し過ぎたくらいの男性が出て来た。一見してただ者ではないと思わせる雰囲気をまとっていた。
「はじめまして、昨日電話した望月です。よろしくお願いします」
「はじめまして、当瞑想道場を運営している三島です。どうぞ中にお入り下さい」と言って案内した。
門の中に入ると枝ぶりのいい松の木などの植栽が見事な庭があった。庭石が効果的に配置されていて、小さな池もあり、池のほとりにはししおどしがあり、「カコーン」と音が響いた。地面は苔で覆われていて、歩く所だけ丸く平たい御影石が点々と続いている。それほど広くはないが、とても風情のある庭だ。
三島の後に付いて歩いていると、あまりにも美しい歩き方に見えた事にに驚いた。普通に歩いているだけなのに何故かまわりと調和しているように感じられて、それがとても美しく感じられて不思議に思った。
庵は茅葺屋根の木造の古民家だ。昔ばなしに出てきそうな雰囲気である。望月が玄関を入り、廊下を歩いていると囲炉裏のある部屋があり、懐かしさを感じさせる。更に奥に歩いて行くと、ビリヤード台が置いてある部屋があった。こんな純和風の家に不似合いな気がしたが、自宅兼道場なのでこういう事もあるんだなと思った。
和室に案内された望月は座布団に座って待っていた。しばらくして三島がお茶をお盆に載せて持って来た。床の間には墨蹟の掛け軸が掛けてあり、「色即是空」と書いてある。
「マンション暮らしだったので、こういう床の間のある和室にあこがれます。その掛け軸の『色即是空』ってどういう意味ですか?」と望月は尋ねた。
「この意味が本当に解るのは悟りが開けた時だ。今は説明しても解らんだろう。ところで、どのような動機でこの道場に来られたのか?」
「本当にこの仕事で良かったのか? とか、他に進むべき道があったのではないか? とかいろいろ悩んでいるという話を岡田先輩にしたところ、この道場で瞑想する事を勧められました」
「瞑想とは心のクリーニングだ。悩みなんぞすぐに消えていくであろう。ストレスにもとても効果があって、それは脳波を検査する事によって科学的にも証明されておる。長年瞑想を続けると心が驚くほど成長して、ストレスや悩みなどが根本的に起こらない境地にまで至ることが出来るのだよ。瞑想の究極の目的は
「念仏を唱えると極楽浄土に往生できると聞きましたが?」
「あれは方便といって、念仏を極めて念仏三昧になり悟りが開けることを説明してもなかなか解ってもらえなかったから方便として、念仏を唱えると阿弥陀様が救って下さって極楽往生できると言ったのだ。本当は念仏を唱える瞑想によって三昧の境地に至り、悟りが開け、生きているうちに極楽に行けるのだ」
「へー、念仏なんて迷信だと思っていたけど、本当は深い意味があるんだ」
「そうだよ。あの有名な空海(弘法大師)は『ノウボウ アキャシャ ギャラバヤ オン アリ キャマリ ボリ ソワカ』という真言を唱えて悟りを開いたそうだ」
「その真言はどういう意味なのですか?」
「呪文に集中する瞑想は雑念や妄想・思考を無くすためにするのだから、意味を考えたら瞑想にならないのだよ。意味は考えずに、ただ有難い呪文だと思って唱えるものなのだよ」
「へー、そうなんだ」
「また、ヨガのように体を動かす瞑想や歩く瞑想・座る瞑想などいろいろな瞑想があるのだよ」
「ヨガは美容体操だと思っていたら瞑想だったのか」
「確かに美容体操的な教室も多いと聞くが、本来は悟りを目指す本物の瞑想なのだよ。体を動かすヨガはヨガのほんの一部であって、多くのヨガは座ってする瞑想なのだ。そして今日の多くの瞑想の源流はヨガなのだ」
「へー! そうだったのか」
「スポーツ選手が行うイメージトレーニングも瞑想の一種と言えるだろう」
「瞑想をすると、スポーツも上達するのか!」
「まあ、そういう事だ。それと、アメリカのグーグルという会社では社員研修にマインドフルネスという瞑想を取り入れているそうだ」
「グーグルってあのアンドロイドや検索エンジンをやってるグーグルですか?」
「そう、そのグーグルだ」と三島は答えると更に続けた。「瞑想で大事な事は、今している事に集中し、妄想したり雑念を起こしたりしない事だ。これからは日常生活でもなるべく今している事に集中し、妄想したり雑念を起こしたりしない事をお薦めする」
「雑念は多いと思うけど、妄想はあんまりしないな」
「本当にそうか? 例えば過去の事を想ったり未来の事を考えたりするだろう? それも妄想なのだ。本当は今しかないのだ。今、今、今、の連続なのだ」
「過去や未来が妄想とは驚いたな。よく考えてみると確かに今以外の時は在りえないですね」
「それではさっそく瞑想を始めよう」と言って二人は瞑想室に移動する。
「今日教える瞑想は主に東南アジアの仏教徒が行っているヴィパッサナー瞑想です。パーリ語でヴィとは『ありのままに・明瞭に・客観的に』、パッサナーとは『観察する・観る・心の目で見る』という意味なのだ。今この瞬間の自分自身をよく観るということだ。ヴィパッサナー瞑想は『今』という瞬間に完全に注意を集中する瞑想であり、自分を客観的によく観るのです。心地よいことでも不快なことでも、ありのままの体験を価値判断しないで、ただ気付くだけ。それを『ただ観る』と言います。そして、この『ただ観る』ということが瞑想をする上で最も大事なことなので良く覚えておくように」と三島は言うと次の説明に移った。
「次にヴィパッサナー瞑想実践法の三原則について説明する。一、スローモーション。できるだけ詳細な動きを観察する為にゆっくりと動きます。二、ラベリング。体の動きや心の中で起こった事を出来るだけ詳しく、しかも途切れる事なく実況生中継するように言葉で確認します。三、感覚の変化を感じる。できるだけ詳細に感覚の変化を感じ取り、ラベリングと感覚をリンクさせることが大事です。どうして感覚とリンクさせなければならないかというと、今までは主観的に感じていた私という存在を客観的に観察する為なのです。つまり、今まで当たり前に自分だと思っていた私という存在を徹底的に観察して正体を見極めるということなのです」
「自分の正体ってどういうことですか?」
「自分の正体を見極めることを悟りを開くというのです」と三島は答えると更に続けた。「歩く瞑想と立つ瞑想と座る瞑想があるが、まずは歩く瞑想から始めます」と言うと三島は実際にやって見せながら説明を続けた。「まず背筋を伸ばして、手を後ろで組みます。左足から歩くならば、左足に神経を集中させ、『左足』と心の中でラベリング(言葉で確認)し、同じく『上げます』とラベリングしながら左足を上げ、『運びます』とラベリングしながら左足を運び、『降ろします』とラベリングしながら左足を降ろす。次に、右足に神経を集中させて『右足』と確認し、『上げます』とラベリングしながら右足を上げ、『運びます』とラベリングしながら右足を運び、『降ろします』とラベリングしながら右足を降ろす。このようにラベリングを絶やすことなく歩くことを続けるのです。では望月君やってみて下さい」
望月は三島が今した通りにやってみた。瞑想という未体験の事を始めるわけだから少し不安そうな様子だったが、わりとうまくやっていた。
「三島先生、さっきから気になっていたのですが、先生の歩く姿はどうしてそんなに美しいのですか?」
「歩く姿勢を常に心の目で観ているからだよ」
「心の目で観るとそんなに美しく歩けるのか! その歩き方を是非習得したいです」
「ヴィパッサナー瞑想の歩く瞑想を真剣に続けていれば自然に身につくであろう」
「はい、がんばります!」
「最初にヴィパッサナー瞑想の歩く瞑想をするのは、初心者には座る瞑想よりも入り易いという事もあるが、価値判断をしないで、ただ観るという事が瞑想修行ではとても大事な事だからだ。雑念を掃って、今この瞬間に集中し、ただ観るという事に常に留意してもらいたい。瞑想中だけでなく、一日中をそういう心構えで過ごして頂きたい」と三島は最後に締めくくった。
望月は家に帰ってから今日習ったヴィパッサナー瞑想の歩く瞑想を早速復習した。「左足」「上げます」「運びます」「降ろします」とラベリングしながら足の感覚に集中して、ゆっくりと歩く。雑念を掃って、今この瞬間に集中し、客観的にただ観るとういう事に徹するのだ。
望月は真剣に歩く瞑想に取組んだ。今日会った三島の雰囲気がただ者ではないと感じられ、不思議なくらいやる気が出てきたのである。また、悟りに興味を持った事もやる気の源となっていた。
翌日会社に出勤すると岡田が話しかけてきた。「昨日行くって言ってたよな?」
「うん、行って来た。ヴィパッサナー瞑想の歩く瞑想をしてきたよ。一日ではそれぼど特別な効果があるようには感じなかったけど、きっと継続する事で徐々に効果があるんだろうね」
「そりゃあるよ! 悩みなんかなくなったって前に言っただろ?」
「そうだった。それと、なんかすごい雰囲気の先生だね」
「そうだろ、老師のあの雰囲気はただ者ではないなって直感で分かるよな」
「老師?」
「ああ、皆が三島先生のことを老師って呼んでるから俺もそう呼んでるんだ」と岡田は言って更に続けた。「なんでも若い頃から東南アジアで修行して、日本に帰って来てからもお寺で十年以上修行したって話だ。悟りの境地に至った者だけに与えられる印可も受けているそうだ」
「印可?」
「間違いなく悟りの境地に達したという証明書みたいなもんだ」
「へー、そんなのがあるんだ。悟りって今まで考えてみた事もなかったけど、なんか興味がでてきたな。でも、命がけの修行が必要だって言ってたからそんなに簡単じゃないんだろうな。悟りってなんだろう? 岡田さんは知ってる?」
「俺もよく解らないけれど、死を逃れる唯一の方法らしいぞ」
「それって、死んでも魂は不滅とか、そういうことなのか?」
「いや、そんな非科学的な事は言わないんだ。以前、老師に輪廻転生について質問すると『
「そういえば、老師もそんなようなことをおっしゃってたよ」
「そうだろ。また、他の宗教のように何かを信じろとは言わないんだ。仏教は一般的には宗教だということになっているが、俺は宗教というよりは修行体系だと思った方が仏教の本質により合っているように思うんだ。何故なら、信じろとは言わずに実際に体験して確認しろと言っているからなんだ。見性体験と言って、真理を体験して悟りを開く事を重視するんだ。生きているうちに悟りを開くと死の問題も解決できるらしいんだが、どう解決出来るのかは俺もまだよく解らないんだ」
「いったいどんな体験なんだろう? 霊魂が見えるとかそういうオカルト的な体験なのかな?」
「違うよ! 俺も体験したことないからよく解らないけど、霊魂とかオカルトのような非科学的な要素は一切ないらしいんだ。どういうことかと言うと、俺達はまわりの世界を見るときはありのままに見ていると思っているだろうが、実はありのままに観てはいなくて、『ありのままの世界』に価値判断や思考のヴェールをかぶせて見ているんだ。つまり『思いの世界』にいるんだ。でも多くの人は『思いの世界』にいる事に気づいていないんだ。だから瞑想して価値判断や思考を停止して、『思いの世界』から抜け出して『ありのままの世界』を観る事で、真理が観えて悟りが開けるらしいんだ」と岡田は言うと更に続けた。「江戸時代の良寛和尚は『死ぬときは死ぬのがよろしくそうろう』と言ったんだ。つまり、死に直面しても、すがすがしい気持ちでいられるような境地に至ることができるらしいんだ」
「へー、そんなふうになれたらいいなー」
「あっ、そろそろ仕事が始まるから行かないと」
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