探偵ごっこと箱入り娘
はると
探偵ごっこと箱入り娘
日曜日、渋谷、午後五時半。
俺は高村綾音とかいう自称探偵の友人の付き添いで、東京メトロ渋谷駅の地下四階にあるトイレを見張れるような柱の裏で張り込みをする羽目になっていた。かれこれ一時間近く綾音と二人きりで狭い空間に身を潜めているわけだが、いい加減俺の我慢も限界に近づいていた。幸いこのトイレは、副都心線と田園都市線の乗り換え通路から少し外れたとこりにあり、トイレを利用する人以外は通らない、実に人通りの少ないところであったため、俺たち二人が怪しまれることはなかった。が、それは同時に綾音が対象としていた人物がやってくる可能性もかなり低いと言うことを意味していて、いよいよ俺は、綾音にあきらめるように提案しようとした。
「だまって」
柱の陰から顔を覗かせていた綾音は俺を一瞥することもなく制した。
「ついに調査対象が姿を現したようだよ」
綾音は振り返りざま見せつけるような笑顔を浮かべたのだった。
午後三時にまでさかのぼる。
俺は裏通りのこじゃれた喫茶店で心を休めようとしていた。
梅雨時の鬱屈とした空模様にぽっかりと空いた晴れ間から柔らかな日差しが斜めに差し込んで、辺りに満ちた茶葉の香りに包まれた窓辺の席は都会の喧噪とはかけ離れた癒しの空間になっていた。お昼時に雨が降っていたものの、いまはすっかり収まって、じめじめとべたつく感じも落ち着いていた。リラックスできる貴重なひととき。俺はため息をついた。
「なんだい、そんな浮かない顔をして」
テーブルの向かいに座る高村綾音は、指にチェック柄の鹿打帽をひっさげてくるくる回しながら俺の顔をのぞき込んできた。癒しの時間に目障りなものをちらつかせやがって。
「あれかい、日本思想の講義の課題のことでも頭を悩ませているのかい? 確かその本だったよね」
綾音は空いた方の手の指でほおづえついた俺の肘の隣の本を指した。
「いや、まあ、そういうわけでもない。というかそのシャーロックホームズの帽子をくるくるさせるのやめろ、鬱陶しい」
「ああ、そうかい。ごめんごめん」
綾音は悪びれもなく回し続ける。
「これ、僕の癖なんだよね。しばらく飽きないだろうから我慢してよ」
これがお前の癖であることなんて百も承知だ。いつも一緒に出かける度に悩まされているこっちの身にもなってくれよ。
「『近代日本哲学史』、三枝博音の著作だね」
「え、なんだって? この名前なんて読むんだ」
俺は思わず聞き返した。
「さいぐさひろとって読むんだよ。というか著者の名前も読めずに本の内容が頭に入るのかい。今度のレポートは手伝ってあげないよ? まったく。人の名前くらいちゃんと読めるようにしておいてくれよ。ましてやこの僕を目前にしているわけなのだから」
綾音は帽子を机において呆れたようすで肩をすくめた。さいぐさひろと、ね。心の中で復唱した。
「もう一度聞くが、どうしてそんな浮かない顔をしているんだい? どうもレポートのせいではないようだね。あれかい、喫茶店がカップルだらけなのが気にくわないのかい?」
言われて見回してみると、確かに仲むつまじい二人組がちらほらと見受けられる。というか、待てよ、そうではない方が少数派じゃないか。奥に四人組が座っていて、カウンターにお一人さんたちが二人ほど、向こうには女の子二人組が座っている。そうか、いまは日曜の午後か、喫茶店がデートに疲れた恋人たちの憩いの場になることも十分に納得いく。だが、俺は別段気にするつもりもない。
「まあ、安心し給え、僕たちだって傍から見ればなかなかいいカップリングだと思うよ」
いや、それは一体どういう意味だ。その申し出、丁重にお断りさせていただく。
「なんでだい、僕みたいなのは結構その方面では人気があったりもするんだよ。君はもうちょっとその点を意識して光栄に思った方がいい」
俺は聞き流して適当に頷いてやった。
綾音との会話も水面に広がる風紋のように柔らかく喫茶店のざわめきに溶けていく。居心地のいい店だ、そのうち一人で来ることにしようかな。
紅茶をちょっぴりすすって、咳払いをし、綾音は声を潜めてこう言った。
「さて。向こうのテーブルに座っている女の子二人のペア、分かるかい?」
ああ、わかるさ。いまこの店で女の子のペアは一組しかいない。俺は頷いた。そして綾音はいたずらっぽくほくそ笑んだ。
「今日のターゲットは彼らだ、いや失礼。彼女たちだ」
呆れたもんだ。いや、覚悟はしていた。綾音に会って、週末は暇かいと聞かれたときから知っていた、この貴重な日曜の午後が何に費やされるかを。高村綾音、こいつの趣味は、探偵ごっこなのである。
じろじろと眺めるわけにも行かないから横目で何となくようすをうかがってみる。まず目をひくのが長くて真っ直ぐな黒髪をさげた方で、白いワンピースに水色のカーディガンを羽織っている。お嬢様みたいな感じだ。もう一方は髪の色は少し明るめで横顔を隠す程度の内巻きショートヘア。暖色系のよそおいで、ショートパンツにスニーカー。お嬢様とは不釣り合いなくらいにカジュアルだ。でも、まあ友達と出かけるのならこんなものだろう。
「で、なんで彼女たちに狙いを定めるんだ? 女の子二人組なんて別段珍しいものじゃない。たとえこの喫茶店がカップルだらけだとしても別に異常だとは言えないだろう」
「何を言っているんだい。どう見てもおかしいじゃないか。まず、座高の高い黒髪の方。彼女はずっと手元のスマートフォンを握っている。タッチパネルから片時も指を離そうとしない」
例の帽子をまたくるくるさせ始めた。それにしても、その座高という言いぐさ、失礼に当たらないだろうか。相手は女性、お嬢様だぜ。
「それにつけても、もう一方の女の子も変だ。相手がずっとスマホをのぞき込んでいるにもかかわらず、尻込みすることなく話しかけている。そういえば、彼女の方も机にスマホをおいているね。でも彼女の場合は置いているだけ、いじったりはしていないね。おや、背は小さいけれどこっちのほうが胸は大きいのかな」
「おい、待て、最後のは余計だ」
「何を間抜けなことを。身体的特徴というのは犯人を追い詰める上で決定的証拠になりやすいんだ、まずは容姿だ。これは基本だよ」
さいですか。
「残念ながら、席が遠くて会話の内容は聞き取れないが、さっきからしゃべっているのは小さい方の子だけみたいだね。彼女はとびきりの笑顔で話し続けている。大きい子はひと言も発さずスマホをいじっている。しかもかなりの無表情。不気味だ。あ、大小は背丈の話だ、胸の大きさで言うと逆になる」
「しつこい」
「いやー、ごめんごめん。どうだい、彼女たちの会話、聞き取れないかい?」
俺は耳をすましてみる。喫茶店に充満するささやき声が彼女たちの声をかき消す。それでも部分的に聞き取れる。
「どうやら、ここで一休みし終わったら、洋服か何かを見に行くみたいなことを言っているような気がするぜ」
「ふーん、やはり君といると捗るね。僕にはさっぱり聞き取れないよ」
そう、俺がこの綾音に重宝されている理由の一つに耳の良さがあるらしい。綾音の耳が悪いだけかも知れないが俺の方がこいつよりものを聞けるから、綾音が探偵ごっこをしに街に繰り出す度にかり出されているのだ。
そうこうしているうちにターゲットの二人が席を立ちはじめ、会計を済まして出て行ってしまった。
「さ、我々も出るとしようか」
綾音はそう言いながら立ち上がる。俺が精算しているうちにさっさと店を出て行ってしまった。
「見失うといけないから先に外を歩いているよ」
ああ、勝手にすればいいさ。どうせ払いはいつも俺もちなんだ。
俺と綾音の二人は、ターゲットの尾行をしているうちに、百貨店の婦人服売り場に迷い込んでいた。
「おいおい、これはけっこう、精神消耗しそうだぜ」
「はは。君の精神力はせいぜいその程度かい。人にどう思われようが気にしない。これからの日本社会で生きていく上で、大事なことさ」
相変わらず、帽子を指先でくるくる回してもてあそんでいる。かぶればいいのに。
「なんだい? 帽子が目障りだからかぶればいいとでも思っているのかい? あいにくこの帽子、僕には似合わなくてね。かぶっても誰も得しないよ」
かぶらなくても誰も得しないぜ。と反駁したいところだったがぐっと言葉を飲み込んだ。一区画分前を歩く尾行対象に怪しまれてはそれこそ不利益だ。
「それにしてもあの二人組、なかなか見所があるねえ」
綾音が偉そうに言う。ペアの背の低い方を指さす。
「まず、こっちの子。見上げるような姿勢でもう片方に健気にしゃべりかけている。笑顔を顔面いっぱいにたたえているのもまた、ほほえましい。そして、背の高い方。立ってみて気づいたがやはりそれなりに高い。一六五はあるかも知れない。そして相変わらず携帯を握っているし、無表情だし、相方にしゃべりかけることはしていないみたいだ。よく言えば、クールビューティーにカテゴライズされるのかな。にしてもこの身長差、絶妙のコンビだと思わない?」
「身長差ねえ。まあ背の高い女の子と背の小さな女の子が一緒にお洋服を見に行くことだってあるだろうさ」
「ふーん? それはどうかな。たとえば仲のいい女の子なら服の貸し借りとかをするかも知れない。そうなると自然と一緒にお出かけする仲間は身長の近いもの同士で作られるんじゃないのかなあ」
「そうなのか」
「ううん、知らない」
綾音はそっぽを向いた。
すると、二人組に動きがあった。
「おい、綾音。どうやら小さい方が展示の服を物色し始めたぞ」
ハンガーに掛かった洋服を手にとって、それを大きい方にあてがって、「似合うじゃん」とか「これかわいい」とか言いだした。どうも一般的なショッピングの風景だ。
「ふむ。普通のお買い物ねえ。なるほど」
綾音が一人で頷く。
「どうも、黒髪のっぽの方も、洋服選び出してから表情が和らいだようだね」
「え、そうか?」
「ああ、紛れもなくそうだ。鏡を見ながら非常に嬉しそうにしているように見える」
「そうなのか? 俺には依然無表情を保っているようにしか見えないのだが」
綾音は俺の言葉にため息を漏らした。
「これだから君は。探偵の勘というやつをなめてもらっては困る」
俺が改めて背の高い方を凝視していると綾音はこんなことを言い出した。
「仮称をつけよう。いまのままだと二人の観察がしにくい」
「というと?」
「黒髪のっぽのスマホいじりを、クロと名付けよう。背の小さい笑顔の方は、スマイルとでも呼ぼうか」
「おいおい、ペットじゃないんだから」
「いいんだよ、これで。僕の捜査に感情とか理性とかはいらないんだ」
おーい、それ、全部なくなっちまってるぞ。口が裂けてもそんな突っ込み出来なかったが。
クロとスマイルは相変わらずお洋服を見にこのフロアを徘徊していた。スマイルが次々と新しいお洋服に目をつけ、クロにあてがい、鏡をのぞき込んだ彼女が首をかしげると、スマイルは飛んでいってまた次の服を探しに行く。これを延々と繰り返していく。
「なあ。思ったんだが」
「なんだい?」
「さっきから鏡の前で洋服を体と重ねたりしてるんだけど、試着はしないんだな」
「試着ね。まあめんどくさいんじゃない? いちいち着替えるのもやっぱり大変でしょう。これぞというお気に入りが見つかるまではああやって鏡の前で確かめる程度にして、いざ買うと決めようという時に試着するんじゃないかな」
綾音の説もごもっともだ。あと、もう一点気になっていることがある。
「スマイルの方は、自分の買いたい服とかはないのかな? ずっとクロの洋服ばかり選んでいる気がするんだが」
「たしかに。それは僕も気になっていたんだ。そしてそこが怪しい。時には、クロがスマイルの服をさがしてみても良いとは思うんだけど。なぜそれを全くしないのか。無表情キャラというのはそういうもんだったっけなあ。無口だとしても、時に友に見せる優しさというのがあればそれは大きなポイントになるはずなのに。それに相変わらずスマホを持っている。どう考えても異常だ」
綾音は遠くの二人組をにらみつけた。
クロとスマイルのショッピングはしばらく続いた。店内を練り歩き、やがて二人は通りに繰り出した。尾行対象がこじゃれたブティックに入るのを見届けると、綾音は足をぴたりと止めた。
「さて、ここで君に確認しておこう。あの二人のデートの目的はなんだと思うかい?」
「いきなり訊かれても、分からないぜ。第一手がかりが少なすぎる」
綾音はわざとらしく小首をかしげた。
「君はその程度だったってことかい?」
不愉快な挑発であった。一度咳払いをして続けた。
「少ない手がかりから推論を組み立て真実に近づくのが探偵ごっこの醍醐味ではないのかい」
「そんなお前の趣味を勝手に押しつけられても困る。俺は一般的人種であって、広い知識だとか鮮やかなひらめきとかとは無縁なんだよ、お前も分かってるだろ」
「へへ、知ってた」
綾音の笑顔が憎たらしい。
「とりあえず、事実を整理してみよう。僕が思うに、最大のヒントは、クロの動向、特に右手から離さないあのスマホだよ」
俺は素直に頷いた。
「何かを呟いている可能性がないのか試しに寄った店の名前で検索かけてみたりもしてみたが、残念なことになにも引っかからなかった」
そんなストーカーまがいなことをいつの間にやってのけていたのだろう、こいつの手際の良さには時々度肝を抜かれる。
「それでだね、スマイルは、一方的にクロに話しかけ続けていたね、それについては何か思うことはないかい?」
考えてみた。クロは一言もしゃべっていないのである。でも二人は滞りなくショッピングを楽しんでいたように思う。つまり、クロが発言することがないから会話がかみ合っていたかどうかは確認しようがないが、スマイルの一貫の発言は筋が通っていたのだ。
「僕もその通りだと思うね。スマイルが暖色系のワンピースを持ってきたとき、クロは首を振ったが、それ以降スマイルが持ってくる服は寒色系ばかりになった。首一つ振って色の系統を他人に伝えるなんて不可能だろう。あと、ついさっきのこと覚えているかい?」
百貨店を出て、外の通りを歩いていたときの二人のようすを綾音は説明してくれた。俺はなにも考えずに尾行に懸命な綾音の一歩後ろをぼんやりと歩いていただけだから記憶が危ういのだが、綾音曰く、こんなことがあったらしい。信号待ちで距離が縮まっていたからなんとか会話が聞き取れたのだがと前置きして、こう続けた。
スマイルがうっかり水たまりを踏んでしまい、跳ねた水が、クロの白いワンピースを少し濡らしてしまった。スマイルはすぐにクロに謝罪すると、クロは、おそらく気にしていないという意味だろうが、首を振った。そして、スマイルはこう言ったのだそうだ。
「そうだね。ほかの可愛い服を探しに来たんだもんね。でもごめんね」
言われてみればそんなこともあった気がする。スマイルは、「それにしても雨なんていつ降ったのかしら」と自分の濡れたスニーカーを気にしながら愚痴をこぼしていたことを思い出してきた。
「それでだ、この発言、僕には引っかかるんだ。スマイルが許しを請いて、クロは首を振って許した。それに対して『そうだね』なんて言葉がでてくるはずもない。クロはただ首を振っただけではないはずなんだ。二人は紛れもなく会話を交わしていた。スマイルが一方的に話していたのではなかったんだよ」
「なるほど、一理あるなあ。クロは『いいえ、この服は少し汚れても平気。それに今日はこれに替わる新しい服を探しに来たのだから』とか言っていれば会話は成立するな。
CDショップを通りがかったときも、スマイルが、『え、この曲知らないの? この曲は誰々の何々ってゆう歌だよ』とか教えていたけど、この発言もクロがこの曲を知らないという情報をスマイルに発信していた、なんらかの形で会話をしていたと考えるのが自然だ」
「あの喧噪の中で君はそんな会話も聞こえていたのか。ふむ、とにかく、二人が会話をしていたことは間違いないだろう。おそらくスマホを使ってメールするなり呟くなりしてクロはスマイルに自分の言いたいことを伝えていたと考えるのが手っ取り早い」
「スマイルもスマホの画面を頻繁に眺めていたのもそれで説明がつくな」
「そうなるね。で、ここで新しい問題だ。なぜクロはそこまで回りくどい方法を使ってスマイルとコミュニケーションを図っていたのか」
綾音はひっきりなしに指先で鹿討帽を回しているが、したり顔だ。こいつはたぶんもう正解にずいぶん近いところにまでたどり着いているのだろう。俺が悩む姿を見て優越感に浸っているに違いない。
「お前、もうその理由もどうせ分かっているんだろ?」
「いやいや、君にも謎解きの楽しみを味わってもらいたくてね。仮に人類がこの世界の真理に到達してしまえば、文明は瞬く間に消滅するだろうからね」
よく分からない話ではぐらかされた。とにかく俺が仮説を発表しないことにはこいつのいじわるも収まらないのだろう。
「あれだ、クロは会話を人に聞かれたくなかったんだ」
俺はぶっきらぼうに仮説その一を発表した。
「違うね」
却下された。
「それであれば、スマイルもスマホを使わないとおかしい。一方が声を使ってしゃべっている以上、他人に会話の内容は容易に推測されることになる。現に僕らも二人の会話の内容をおおよそ把握しているだろう?」
おっしゃるとおりです、綾音さん。では仮説その二。
「クロさんは実は半径一メートル以内にいるような友人にもリプライだけで会話を済ましてしまうようなツイ廃で、スマイルに対してもツイッターだけでしか話せない」
「それも却下だね。第一ツイ廃なら、ショッピングしている店の名前で検索かければ何かしら引っかかるはずだろう」
「いや、それはどうだろうね、鍵つきアカウントならばどんなツイートをしても検索には引っかからない」
「ツイッター廃人がわざわざ自分のアカウントに鍵をかけるとはとうてい思えない」
これもまたいいくるめられた。
「確かに君の言う、会話を聞かれたくないという理由はそれなりにいい線いっているはずだ」
「どういうことだよ、でも違うんだろう?」
綾音はふふと声を漏らした。
「クロはね、会話をする声を聞かれたくなかったんじゃないかな」
「声か? 風邪でもひいてがらがら声だからしゃべりたくないとかそういうやつか?」
綾音はうつむいた。どうもまだ考え事をしている雰囲気だ。
俺は綾音が口を開くまでのしばらくの間雑踏を行き交う人間共を見回して待った。
「真相は、そのうち分かるよ。しばらくあとをつけていればいずれはっきりすることさ。さあ、尾行を続行しよう」
綾音は気を取り直して捜査の再開を宣言する。そして、俺たち二人は、クロとスマイルがいるはずのブティックの中を覗いて驚愕したのだ。
「やらかしたようだね」
綾音は自嘲気味に言った。
「どうやら僕たちが話し込んでいる間に逃げられてしまったようだ」
「まだそう遠くまでには行っていないはずだ。探すのか?」
「探したいかい? 僕にはその必要は感じられないんだよ」
綾音はおもむろに店に入り、店員になにやら聞き取りを始めた。どうも、クロとスマイルがいつ頃店を出たのか聞いているらしい。そして軽くお辞儀をして店外の俺の元に戻ってきた。
「あの店員が二人を店にかくまっているとも思えなかったし、店員の情報を信じるならば、二人は二、三分ほど前に店を出たそうだ」
「しかしこの人の量だし、店の数も多いし、二人がどこ行ったかなんて分からないじゃねえか、今日のお遊びはここまでだな」
俺は探偵ごっこの終焉を期待していた。さすがの綾音も見失った尾行対象を人が害虫みたいに沸いているこの街から再び見つけ出そうとは思わないだろう。店に背を向け駅に向かって一歩を踏み出そうとしたとき、綾音はこうのたまった。
「こうなったら張り込みだよ、一度やってみたかったんだ」
それで、やけに自信満々の綾音に従って、たどり着いた先は、渋谷駅の地下、地下鉄駅構内のトイレだった。綾音は、二人は帰る前に必ずここに寄るはずだと強く主張するもんだから、俺は半信半疑で付き添ってやることにした。ここから先はお前一人でやれよと突き放して帰るのも一策ではあったけど、綾音を一人置いてけぼりにするのは何となくかわいそうに思えてしまったんだ。
だからこそ、一時間待ったあげくについにクロとスマイルが本当にあらわれたとき、俺は心の底から感動した。綾音の推理が当たったことにはもちろんだが、その綾音を信じて一緒に待っていた俺自身の粘りにもだ。
クロとスマイルは大きな紙袋をいくつか提げていた。買った洋服でも入っているのだろう。
「たしかにいくつかは、買ったものだろうね。でもね、一つは違うはずだよ、見ててごらん」
綾音は俺に柱の向こうを覗くように促す。すると、クロがスマイルから一つだけ紙袋を受け取ってトイレに入っていった。車いすマークのついた、障害者優先のあのトイレにだ。
「おそらくあの紙袋は、買い物中は駅のロッカーかどこかにいれていたものだろう」
ここまで来れば、綾音は訳知り顔である。こいつの張り込みの勘はここまで的確に当たっているのだ。
「さあ、今回の尾行対象について詳しく聞いてやろうじゃないか」
俺の申し出を綾音は一蹴した。
「間抜けだね。もう少し辛抱強く二人を見ていなよ。君にもすぐ分かるさ」
障害者優先のトイレは横開き式の鉄扉で覆われている。いま、クロはそのトイレの中に紙袋を一つ携えて入っているのだが、スマイルはその鉄扉の前で仁王立ち、友人との待ち合わせを演じているつもりなのか時折スマホを覗いている。いや、それともこれは単に、トイレの中にいるクロと会話しているだけなのかもしれない。
「なあ、なんでお前はここに二人が来るって分かっていたんだ」
「正直に言うと、半分は確固たる推理に基づくが、もう半分は探偵の勘というやつだよ。まず、クロとスマイルは渋谷に来るのに地下鉄を使っていた」
いきなりの飛躍だった。
「なぜかって? かんたんだよ。スマイルが水たまりに踏み込んだとき、彼女はこう言ったんだろう? 『それにしても雨なんていつ降ったのかしら』と。じゃあ君に聞くが、雨はいつ降っていた?」
「今日の昼前から昼過ぎにかけてだ。たしか俺が電車に乗った頃に降り始めて渋谷に着く前には収まっていたような」
俺はそこで言葉を飲み込んだ。気づいたのだ。たしかに地下鉄に乗っていれば雨が降ったことを知らないはずだ。
「分かってくれたようだね。JRやバス、私鉄などを利用していれば、『雨なんていつ降ったのかしら』なんて言うまでもなかったはずなんだよ」
「そこまではよくわかった。じゃあ何でトイレなんだ?」
「それも簡単さ。地下鉄渋谷駅の構内には障害者優先のトイレは三箇所しかない。ここでないトイレはいずれも地下二階にあるが、ひとつのトイレの前は副都心線ホームに直接通じる通路だからここのトイレより格段に人通りが多い。もう一個のトイレは半蔵門線の改札付近にあるトイレで、常に窓口の駅員の視界に入るところだ。人目につかない障害者優先トイレはここだけだったんだよ」
「人通りが少ないことを選ぶ根拠は?」
「結果論的に言えば、スマイルがトイレ前に立って見張りをしなければいけないほどの行為をしなければいけないからさ。そもそもクロは声を聞かれたくないほどの事情持ちだ、人通りの少ないところの方が好都合だろう。まあ確かにこれは推理と言うよりは勘だろうけどね」
「で、なぜ障害者優先トイレなんだ?」
「それも見てればすぐ分かるさ」
ますます、わからないぞ、クロとスマイル、一体何がしたかったのだろうか。
そして注視している最中、鉄扉の開く音がした。
俺は思わず目を奪われる。
だが、トイレから出てきた人物を目にして俺は言葉を失った。
「お待たせ、ありがとね」とトイレから出てきた人物はスマイルに言うと、手をさしのべて彼女の抱えていた紙袋を引き取った。
そして何事もなかったかのように二人は副都心線ホームに向かって、歩いていったのである。
「どうしたんだい? まるで一目惚れした女の子が実は女装した男子であったことに気づいてしまった時みたいな顔をしているよ」
綾音はへらへらした表情を見せる。
「ああ、まさしく気づいてしまった時みたいな顔をしているはずさ、お前、いつから気づいていたんだ」
「最初に彼らを、いや失礼、彼女たちを尾行対象に設定したあの喫茶店からかなあ」
「おまえってやつは」
俺は絶句した。こいつ、最初から気づいていながら俺を振り回しやがったな。
「喫茶店にいる時点でうすうす感づいていたのさ、身長やら骨格やら。でも身なりのこなし方だとか表情の出し方とかがかなり女の子らしかったから、いきなり決めつけてかかるのは無礼だと思って半日尾行して確かめようと思ったんだ」
たしかに、半日尾行して、クロの正体は綾音の思った通りだと分かってしまった。トイレのドアから現れた人物は紛れもなく男性であり、ワンピースをまとったクロの面影など一つも残していなかった。あの麗しき黒髪もいまや紙袋の中に収まっているというわけか。
「お前、よく最初から分かっていたな。もう完全にだまされていたよ。クロさんも女の子の格好をあそこまで出来て満足だったはずだ。お前なんかに目をつけられなければ絶対にばれていなかったはずだよ」
「ふふん? すごいだろう。でもね、僕はこういうの分かってしまうんだよね」
綾音は鹿討帽をくるくるさせながら堂々と胸を張って見せた。
「その理由は、俺にも何となく分かるよ。女装男子に同じにおいを感じていたんだろう? お前だって、僕っ娘じゃないか」
そっぽを向いてフンと鼻を鳴らすのは、ミニスカニーソにワイシャツカーデの似非制服ファッションをまとった自称探偵僕っ娘少女、タカムラアヤネなのだった。
探偵ごっこと箱入り娘 はると @HLT
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